新・ユートピア数歩手前からの便り -57ページ目

「自由への物語」のための参考資料

中国に返還される直前の香港を日本語教師として訪れたことがある。その際、現地で働く人たちと「返還後に、香港は中国化するか、それとも中国が香港化するか」という話をした。当然、後者を望む声が大勢を占めたが、現実は甘くなかった。雨傘革命などの抵抗運動にも拘わらず、今のところ香港は中国共産党に呑み込まれようとしている。香港における「自由への物語」は大きな壁に直面しているが、台湾はどうか。香港と台湾では状況がかなり異なるが、一つの参考資料として以下を引用する。

「これまで、台湾問題のプレーヤーは、中国の政府、台湾の政府、台湾の民衆の三者だった。そこに中国の民衆は関わる方法を持たなかった。それが次第に変わってきている。台湾への旅行が解禁され、台湾を生で体験した中国の一般大衆が増えるに従って、台湾問題について、伝統的な中国人の思考方法からはみ出す人々が現れてきている。これは、中国にとっても、いささか計算外だったかもしれない。

(中略)

中国は文化大革命で伝統文化を大きく破壊し、中国人のなかの「文化的価値観」まで損なわれた。中国人には「文化の失われた国」に暮らしているという、まるで失楽園にいるような罪悪感がある。そんな中国人は、台湾に来ると、こんな気持ちになるのだという。「台湾は『民国風』に満ちているいいところだ。台湾は伝統的中国文化を守っている」

(中略)

台湾に優良な中華文化が維持されているというのは正しい理解でもある。蔣介石は台湾に逃げてくるときに、中国の文学、演劇、映画、学者など、一流の文化人をこぞって連れてきた。彼らは共産中国で活躍の場がないと考え、国民党と一緒に台湾に渡り、そのまま大陸に帰ることなく、台湾で文芸の道を極めた。多くの弟子をとって、文化の種を台湾に撒いた。その結果、台湾には、高いクオリティの中華文化が育つことになった。

(中略)

失われた中国が台湾にある。そんな思いを、台湾を訪れた中国人は大陸に持って帰っている。そのことが、中国そのものや中台関係にどのような変化をもたらしていくのか。それはこれからもなお見つめ続けるべきテーマだ。」(野嶋剛『台湾とは何か』)

大きな勇気を与えてくれる文章だ。香港、台湾、中国本土――それぞれの民衆が連帯して一つの「自由への物語」を完成する。香港の解放は中国それ自体の解放でもなければならぬ。万国の民衆よ、連帯せよ。そこに祝祭共働がある。不可視のコミューンがある。

自由の彼方

椎名麟三に「自由の彼方で」という作品があるが、彼もまたツァラトゥストラの「大いなる正午」以後を問題にしている。つまり、「自由の彼方」の問題だ。一般大衆はそれを知らない。専ら「自由への物語」、すなわち人が様々な抑圧状況から解放される物語に熱い関心を寄せるだけだ。それは更に人がそれぞれの夢を自由に追求する物語として展開するが、自らの夢が実現してもしなくても、それで一般大衆は満足する。勿論、現実はそのような満足に程遠い。人は未だ抑圧状況から解放されておらず、抑圧者と被抑圧者の戦いの物語は進行中だ。このような現状において、「自由の彼方」が無視されるのは当然であろう。「自由への物語」には熱くなっても、「自由からの物語」には見向きもしない。それもその筈、「自由からの物語」は未だないからだ。それは「自由の彼方」に究極的関心を抱く人たちの共働によって新たにつくっていくしかない。抑圧状況からの解放を求める「自由への物語」にも共働はあるが、「自由の彼方」での共働は質的に異なる。両者を区別するために、後者を祝祭共働と称したい。祝祭共働は今のところ画餅にすぎない。殆ど誰も問題にしない。けれど、ゼロじゃない。私はすでに一人旅を覚悟しているものの、そう信じたい。何れにせよ、喫緊の課題は「自由への物語」の完成であり、それに伴う水平のコミューンの実現が急がれるとしても、私の究極的関心はその先にある。そもそも「自由の彼方」への関心なくして「自由への物語」も完成しないだろう。「自由の彼方」を無視する一般大衆はやがて「自由から逃走」する。

偽善者の夢

私には夢がある。困っている人を助けて、多くの人から感謝されることだ。だから、大きな災害が起きるとワクワクする。ボランティアになって、多くの困った人たちを助けることができるからだ。実に不謹慎なことだと分かっているが、そこには確かな生の充実がある。平穏無事な日常生活では、何の取柄もない私など誰も助けることなんかできないが、災害の非常時では全てが一変する。私のような下らない者でも人の役に立つことができる。本当にささいなことをしただけで人に感謝される。皆、優しい人ばかりだ。災害ユートピア、と言うのだろうか。人と人とが互いに助け合って生きる優しさに満ちた世界。できることなら、そんな世界がずっと続けばいい。しかし、幸か不幸か、災害はやがて復興に向かう。そして、平穏無事な日常が戻って来る。私は自らの夢を実現するチャンスを失い、再び退屈な毎日にウンザリする。こんなことを何度繰り返せばいいのか。災害を待ち望むなんて流石にマズイと思うけれど、平穏無事な日常において私の夢は実現するだろうか。私にそれなりの能力があれば、例えば医者の能力があれば、私は病や怪我に苦しむ多くの人たちを助けることができるだろう。私の夢は叶う。しかし、私にはそんな能力はない。他人様を助けられる能力などはない。むしろ、私は誰かに助けられる側の情けない存在だ。災害でも起こらないと、私が誰かを助けられる存在になることはあり得ない。――しかし、本当にそうか。ユートピアは災害にしか実現しないのか。この問いを以て偽善者の夢は人間の理想に接続する。

遠くへ行きたい

知らない街を歩いてみたい

どこか遠くへ行きたい

知らない海を眺めていたい

どこか遠くへ行きたい

遠い街 遠い海

夢はるか 一人旅

周知のように、これは永六輔作詞・中村八大作曲の「遠くへ行きたい」の冒頭だが、私も時にそんな気分になる。殊に、心ある人が次々と戦線離脱していく昨今、「夢はるか 一人旅」という言葉が妙に胸に沁みる。結局、一人旅なのだ。ただし、この曲は更に「愛する人にめぐり会いたい」と続き、一人旅の目的が「運命の人」との出会いであることが明らかになる。そのような出会いを求めないわけではないが、私はもっと単純に一人で遠くへ、水平線の彼方へ行ってみたいと思う。それは若い頃に胸に刻まれた「何でも見てやろう」という或る作家の言葉に触発された思いではあるが、単に自分が未だ訪れていない世界の名所旧跡に行ってみたいという世俗にまみれた気持に尽きるものではない。とは言うものの、老境に入って、あと何年この世にいられるかと心配になると、「これを見ずに死ねるか!」という焦りが生じてくるのは事実だ。同様に、「これを読まずに死ねるか!」とか「これを聴かずに死ねるか!」という思いも生じてくる。しかし、自ずと限界はある。世界中を隈なく旅し、古今東西の芸術作品を味わい尽くすなんてことは到底できない。その意味では絶望的な気分になるが、それは所詮「水平的絶望」にすぎない。尤も、「すぎない」と言い切ってしまうと誤解を招くかもしれないが、水平的欲求(夢)が満たされないのは仕方のないことだと諦めることができる。旅の絶望に関して言えば、私の人生において月世界旅行が不可能でも、それは大した絶望ではない。しかし、どうしても諦め切れない欲望がある。それは垂直的欲望だ。水平線の彼方にある素晴らしい名所旧跡を一目見たいという夢は諦められるが、水平線の彼方に未だない「新しき場」を実現したいという垂直的理想を断念することはできない。何れにせよ、「夢はるか 一人旅」、水平的欲求の夢が破れても、垂直的欲望の理想を求める一人旅は死ぬまで(もしかしたら死んだ後も)続くだろう。

補足:反論へのトルストイの援用

トルストイは「人生論」において「動物的自我の幸福を否定することこそ人間的幸福の法則である」として次のように述べている。「生活とは幸福への願いである。幸福への願いが生活である。全ての人々が生活というものをこう理解してきたし、現に理解しているし、また常にこう理解するだろう。だから人間の生活とは人間的幸福への願いであり、人間的幸福の願いこそまた人間的生活なのである。ところが思慮のない一般大衆は人間の幸福は動物的自我の幸福の中にあると思っている。」ここで言う「動物的自我の幸福」とは剥き出しの生(ゾーエー)の充足に伴う快楽だと思われる。トルストイはその否定について述べているが正確ではない。と言うより、人間もイキモノである以上、動物的自我の全き否定などあり得ない。従って、トルストイは「必要なのは自我の否定ではなく、それを理性的意識に従わせることだ」と言い直している。更に「愛の感情とは理性的意識に従う自我の働きの現れである」として「真の愛は個人的幸福を否定した結果である」とも述べている。これを私なりに解釈すると、「個人的幸福を欲求する動物的自我を理性的意識に従わせることで世界全体の幸福を求める愛が生まれる」ということになる。しかし、このように理解された愛は未だ抽象的なものでしかない。飢餓の極限状況において、一個のおにぎりを他者と分かち合うことができるとすれば、そこには理性以上の何かが要請されるだろう。それは一体何か。

反論(10)

毎日ドラマを観ていると、時に俳優の迫真の演技に感動することがある。かつては河原乞食などと蔑まれていたが、今や誰もが尊敬する存在となった。しかし、私は「俳優は演じることが虚しくならないか」といつも心配になる。果たして俳優は「リア充」だろうか。俳優に対する私の懸念はプラトンの「詩人追放論」にも通じるが、あくまでも俳優本人の実存的意味に関するものだ。確かに、名優の演技は素晴らしく、並大抵の精進で得られるものではない。その努力は尊敬に値する。しかし、迫真の演技は「真に迫るもの」であって「真そのもの」ではない。端的に言えば、真のフリをしているにすぎない。殊に子役の名演技に接するたび、私は「こんな幼い頃から本当のフリをすることに慣れていいのか」と思ってしまう。余計なお世話かもしれないが、様々な役をほぼ完璧に演じる姿に感動しながらも、俳優はいつ自分自身の生を本当に生き始めるのかと問わずにはいられない。どんなに立派な人物を完璧に演じても、俳優本人はその立派な人物ではない。スーパーマンを演じる俳優はスーパーマンではない。当然のことだ。その演技が立派だとどんなに称賛されても、いや演技の素晴らしさを称賛されればされるほど、俳優は虚しくならないだろうか。俳優の実存は永久に真なるものへの近似値にとどまる。その意味において、どんなに華やかであっても、俳優は「リア充」から最も遠い存在だと言わざるを得ない。では一体、誰が「リア充」なのか。演じることが人を「リア充」から遠ざけるとすれば、誰が演じることなしで生きているのか。そんな人は皆無だ。「落丁の多い書物」だとしても、人は誰しも自己を演じながら一部を成す人生を形成している。

さて、長々と御託を並べてきたが、人がどんな生き方(演じ方)をしようと、私はそれを批判するつもりはない。私はただ、「人間として本当に生きること」について、できるだけ多くの人と熟議したいだけだ。そのための前段階として、「何が人間として本当なのかなどと余計なことは考えず、自然のまま、在りのままに生きるだけで十分だ」という人生観にささやかな反論を試みているにすぎない。鄙見によれば、「自然のまま、在りのままに生きる」ことはすでに一つのロマンスに他ならない。自覚的かどうかは別にして、人は皆、物語を生きる。世界は劇場であり、人は演じることを避けられない。かくなる上は、皆で「最高の物語」をつくろうではないか。私の願いはただその一言に尽きる。

反論(9)

インターネットの普及によって、「世界のお祭り化」の手段は飛躍的に増えた。殊に若者を中心に、多くの人が自らのSNSのフォロワーや「いいね!」の数を増やすことに血道を上げている。インフルエンサーと称される域に達すれば、「世界のお祭り化」の一翼を担うプロヂューサーだと言ってもいいだろう。確かに、それは退屈な日常を華やかなものにしてくれる。メタヴァースなどのヴァーチャル空間(ゲームの世界)も含めれば、ネットの世界はロマンスと化し、それは生の充実となる。もはやオタクなどと蔑んでいられる時代ではなく、サブカルチャーは国も認める主流になりつつある。しかしながら、これに対して「リア充」なる言葉がある。その立場からすれば、「ヴァーチャル充」は所詮ニセモノにすぎない。任侠映画を観て、自分が高倉健になったような気分になって肩で風切るのと五十歩百歩ではないか。映画館は夢を見る場所だが、映画館を出ればリアルな世界に生きなければならない。ネットの世界も同様であり、私はあくまでも「リア充」を求めたい。とは言え、この世界でリアルに充実している人がどれだけいるだろうか。そもそも「リア充」とは何か。例えば、大谷翔平選手は「リア充」の最たるものだと思われているが、本当にそうか。私は何も大谷選手の活躍にケチをつけるつもりはない。ただ、大谷選手の超人的な活躍が野球という一つの物語(ドラマ)に基づいているとすれば、オンラインゲームの世界で超人的な活躍をするゲーマーと質的な違いはないと思うだけだ。大谷選手は頭と身体をフル活用しているのに対し、ゲーマーは脳と指先だけしか使っていないと言うなら、将棋の藤井聡太氏はどうか。ゲーマーは「ヴァーチャル充」で、藤井棋士は「リア充」だという区別は成立するのか。どうも私には「ヴァーチャル充」と「リア充」の差異がよくわからなくなってきた。「世界のお祭り化」は「ヴァーチャル充」で、「世界の祝祭化」は「リア充」だと言いたいのだが…。「リア充」不可解。

反論(8)

「世界の祝祭化」とは美しい言葉だが、同時に危険な言葉でもある。それは「犯罪はロマンスです」という怪盗の言葉と紙一重だ。尤も、大衆の生きている意味に自覚的なロマンスとしての犯罪は極めて稀であるものの、日々タレ流されている通俗的な犯罪で十分用が足りている。不謹慎な言い方を許して戴ければ、ワイドショーで報じられる犯罪や事故、あるいは芸能人や政治家のスキャンダルがあるからこそ、大衆は退屈な毎日に耐えて生きていけるのだ。勿論、その犯罪や事故などが自分の身に降りかからぬことが条件だが、他人の不幸は蜜の味、「対岸の火事」は常に人をワクワクさせる。実際、大きな事件が起きるたび、世界はお祭り騒ぎとなる。戦争も災害も一種のお祭りと見做すことは可能であり、実に悲惨な現実ではあるけれども、そこには生の充実がある。更に言えば、それは「対岸の火事」を傍観する娯楽以上の充実をもたらすこともある。「ああ戦争、この偉大なる破壊、奇妙奇天烈な公平さでみんな裁かれ日本中が石屑だらけの野原になり泥人形がバタバタ倒れ、それは虚無のなんという切ない巨大な愛情だろうか。破壊の神の腕の中で彼は眠りこけたくなり、そして彼は警報がなると生き生きしてゲートルをまくのであった。生命の不安と遊ぶことだけが毎日の生きがいだった。警報が解除になるとガッカリして、絶望的な感情の喪失が又はじまるのであった」とは安吾の言葉だが、私は深く共感する。決して戦争や災害を望むわけではないが、三島が「真夏の死」で描いているように、生の充実には残酷な一面があることは否定できない。しかしながら、戦争や災害、犯罪や事故などによる「世界のお祭り化」は私の求める「世界の祝祭化」とは質的に異なる。一体何がどう違うのか。果たして「世界の祝祭化」はファシズムの危険性を超克できるのか。

反論(7)

「この世界で幸福になろうとは思わない」と私は述べた。まるで幸福になどいとも簡単になれるかのような言い草だ。しかし、それは私の本意ではない。私はただ、この現状の腐敗した世界で幸福になることの意味を問い質したいだけだ。幸福になること自体を否定するつもりはない。皆、世界がどうであれ、必死に少しでも幸福になろうと頑張って生きている。その幸福の意味は人それぞれであっても、そこには共通の自然本性がある。人は水分を欲求するように幸福を欲望する。私も例外ではあり得ない。ただし、私は「個人の幸福」の更に先へと行こうとする。その先に何があるか。「世界全体の幸福」か。しかし、私は「世界全体の幸福」のために「個人の幸福」を犠牲にするつもりはない。それは本末転倒だ。そもそも「世界全体の幸福」とは何か。幸福な個人が世界全体に満ちることか。私は違うと思う。そのような量的なことが問題なのではない。問題はあくまでも質的なものだ。結論だけを先取りすれば、私にとって「世界全体の幸福」とは祝祭共働態に他ならない。それは「個人の幸福」の総計などではない。多数性と複数性が異なるように、人が多く集まれば人間になるというわけではないのだ。共働する人間が世界を祝祭化する。

反論(6)

「私は生きている意味を民衆に与えているんですよ。犯罪はロマンスです」と嘯く怪盗に対して、名探偵・白井三郎は叫ぶ。「生きている意味なんていらねぇ!生きているだけで十分だ。」今やお笑い芸人の大御所となった明石家さんま師匠もかつて「生きてるだけで丸儲け」と言っていた。私のユートピア論はさんま師匠をバカにし、白井三郎ではなく怪盗に拍手するものだと思われるかもしれない。自然本性よりも人間の意志を重視する理想主義は気取ったキレイゴトだと見做されても仕方がない。「生きよ堕ちよ」と説く安吾もまた、理想主義の虚妄性を嗤い、崇高な特攻隊の若者が闇屋になり、清純な乙女がパンパンになる現実を凝視するに違いない。私はこうした現実主義に反論できるのか。なかなか反論に値する言葉が見出せないが、私は決して現実から目を逸らして理想に飛躍しようとするつもりはない。むしろ、私の求める理想主義はあくまでも現実への凝視に立脚していると言いたい。ただし、その現実は自然本性などというものを更に深く突き抜けていく。「下部へ、下部へ、根へ、根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちる所へ、そこに万有の母がある。存在の原点がある」(谷川雁)理想主義は「初発のエネルギイ」を孕んだ現実主義であるべきだ。