遠くへ行きたい | 新・ユートピア数歩手前からの便り

遠くへ行きたい

知らない街を歩いてみたい

どこか遠くへ行きたい

知らない海を眺めていたい

どこか遠くへ行きたい

遠い街 遠い海

夢はるか 一人旅

周知のように、これは永六輔作詞・中村八大作曲の「遠くへ行きたい」の冒頭だが、私も時にそんな気分になる。殊に、心ある人が次々と戦線離脱していく昨今、「夢はるか 一人旅」という言葉が妙に胸に沁みる。結局、一人旅なのだ。ただし、この曲は更に「愛する人にめぐり会いたい」と続き、一人旅の目的が「運命の人」との出会いであることが明らかになる。そのような出会いを求めないわけではないが、私はもっと単純に一人で遠くへ、水平線の彼方へ行ってみたいと思う。それは若い頃に胸に刻まれた「何でも見てやろう」という或る作家の言葉に触発された思いではあるが、単に自分が未だ訪れていない世界の名所旧跡に行ってみたいという世俗にまみれた気持に尽きるものではない。とは言うものの、老境に入って、あと何年この世にいられるかと心配になると、「これを見ずに死ねるか!」という焦りが生じてくるのは事実だ。同様に、「これを読まずに死ねるか!」とか「これを聴かずに死ねるか!」という思いも生じてくる。しかし、自ずと限界はある。世界中を隈なく旅し、古今東西の芸術作品を味わい尽くすなんてことは到底できない。その意味では絶望的な気分になるが、それは所詮「水平的絶望」にすぎない。尤も、「すぎない」と言い切ってしまうと誤解を招くかもしれないが、水平的欲求(夢)が満たされないのは仕方のないことだと諦めることができる。旅の絶望に関して言えば、私の人生において月世界旅行が不可能でも、それは大した絶望ではない。しかし、どうしても諦め切れない欲望がある。それは垂直的欲望だ。水平線の彼方にある素晴らしい名所旧跡を一目見たいという夢は諦められるが、水平線の彼方に未だない「新しき場」を実現したいという垂直的理想を断念することはできない。何れにせよ、「夢はるか 一人旅」、水平的欲求の夢が破れても、垂直的欲望の理想を求める一人旅は死ぬまで(もしかしたら死んだ後も)続くだろう。