世俗社会の聖化
「イーハトーブ(理想郷)は、今を生きる私らが未来に投影する幸福社会のことではない。逃れることのできない現実に対する切迫した、全面的な批判意識によって想像・創造される、この現在のもう一つの〈場〉のことである」と桜井大造氏は述べているが、私が求めているユートピアもそうした「場」だ。私はそれを垂直の次元と称している。垂直の次元は目に見えない。しかし、「どこにもない場」として在る。目に見えるのは水平の次元であり、人はそこで日常的に生活している。その専らの関心は幸福の追求であろう。福祉の充実した、経済的に豊かで安心安全な社会の実現。幸福に満ちた水平の楽園をパラダイスと称するならば、人はそれ以上の理想を見出すことはできない。しかし、人間は違う。人間は個人の幸福を超える複数性において生きる。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とは賢治の言葉だが、世界全体の幸福を求めることは断じて滅私奉公のようなものではない。そもそも個人の幸福を断念して得られるような全体の幸福など碌なものではないだろう。少なくとも賢治の言う「世界がぜんたい幸福になること」ではない。次元が違うのだ。ただし、それは優劣の問題ではない。「幸福になりたい!」と人は切実に願う。学校や職場でのいじめ、貧困、人と人との愛憎関係の縺れなど、水平の次元には様々な苦しみによる不幸が渦巻いている。そうした不幸から脱したいと願う思いは決して低劣なものではない。ましてやその不幸が垂直の次元においてたちまち解消されるなどということはあり得ない。「垂直の次元=高次元、水平の次元=低次元」ではないのだ。水平の次元は我々が人として現実に生活している極めて重要な場だ。しかし、そこに生じてくる水平的諸問題と格闘するためにはどうしても垂直の次元が必要になる。私は未だその必要性をうまく表現できないが、垂直の次元は決して修行僧だけのものではない。人間として本当に生きようとする全ての者に必要不可欠なものだ。垂直の次元は聖なる次元ではあるが、決して世俗的な水平の次元と別にあるのではない。むしろ、それは世俗社会に受肉していく。俗なるものを排除するのではなく、それに受肉していくことこそ真に現実的な聖化だと私は思っている。その思いを共有できる地平を何とかして切り拓きたいものだ。