生きる意味(3)
一般的には、幸福が生きる意味になる。玉虫の生きる意味は弁慶と小玉虫と親子三人水入らずで平穏無事に暮らす「家庭の幸福」にある。玉虫に限らず、殆どの人は幸福になるために生きている。私とてそれを否定するつもりはない。むしろ、私もまた幸福になりたいと願っている。しかし 、幸福は人間の生きる意味にはなり得ない。これは一般的な理解を超える非常識であろうか。人が幸福を求めるのは常識だが、人間は違う。時に幸福を犠牲にしてまで生きる意味を求めることがある。愚かなことだと人は言う。とても正気の沙汰とは思えない。人間は狂っているのか。「家庭の幸福は諸悪の本」とは太宰治の言葉だが、これなども常識人には狂人の戯言でしかないだろう。しかし人間にとっては、家庭の幸福のために生きる意味を求めないことこそが悪なのだ。ここには明らかに「次元の転換」がある。幸福を求める「人の次元」と生きる意味を求める「人間の次元」は質的に異なっている。これをどのように理解するか。もし前者を俗なる次元、後者を聖なる次元などと二元論的に理解するならば、全ては台無しになる。「次元の転換」は出家のみを要請するものではない。