生きる意味 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

生きる意味

或る思想家の言うように、意味を問うことは病であろうか。特に、生きる意味。アリョーシャ・カラマーゾフも「生の意味を問う前に、生を愛さなくちゃなりません」と言っている。確かに、意味と愛の順序を間違えてはならない。意味を問うことから愛に辿り着こうとすると必ず悲劇を生む。しかし、人は往々にして「意味があるから愛する」という理路を辿ってしまう。それは裏を返せば「意味のないものは愛せない」ということに他ならない。そもそも生きる意味とは何か。一般的には「他人から必要とされること」だろう。その場合、最初の他人は親だ。中島みゆきも「誕生」で歌っているように、誰でも「ウエルカム」と言われて生まれてくる。尤も厳密に言えば、全ての人の誕生がウエルカムとは言い切れない。「おんな道」の女性のように、親に必要とされずに棄てられる子もいるだろう。しかし、殆どの場合、人の最初の「生きる意味」は「親からのウエルカム」、すなわち「親から必要とされること」だと思われる。言うまでもなく、これは相互的であり、親の「生きる意味」も「子から必要とされること」になる。ただし、相互の必要が上手く嚙み合っているうちはいいが、やがて「親が必要とする子」と「子が必要とする親」はズレてくる。そして子の「生きる意味」は親子関係から離れ、友人関係、恋人関係、会社関係、自分が親となっての親子関係、家庭、世間、国家などへと「発展」していく。結局、何でもいい、「自分は必要とされている」という意識さえあれば、それが「生きる意味」になる。極端な話、「自分はペットから必要とされている」だっていい。逆に、「自分は誰からも何からも必要とされていない」となれば、「生きる意味」は失われる。そこにパラダイスの過酷な条件がある。