生きる意味(9)
プレッシャーのない、ストレスのない平穏無事な人生。それを理想とする人がいる。本当にそうだろうか。それは現実の人生がプレッシャーとストレスに満ちていることへの束の間の反動にすぎないのではないか。確かに、今ウクライナで戦禍の真只中にいる人たちや毎日陰湿ないじめにあっている子供たちのプレッシャーやストレスは私などの想像を絶するものだろう。そのような悲惨な現実から一刻も早く解放されたいと願うのは当然であり、それは人間の条件でもある。しかし、そのこととプレッシャーもストレスもない平穏無事な人生を理想とすることとは別問題だ。こんなことを言えば、「所詮お前には、今プレッシャーとストレスと必死に戦っている人の苦しみがわからないのだ」と非難されるに違いない。私とて戦争やいじめがこの世界からなくなることを心から願っている。単に願うだけではなく、現実にそれを実現する運動にも参加したいと思っている。ただ、戦争やいじめが一掃されても、それだけでは未だ「理想社会」は実現しない。むしろ、プレッシャーのない、ストレスのない平穏無事な社会は人間にとって新たな脅威になる。これは理不尽なことだろうか。戦争は悲惨だ。その悲惨な現実には一刻も早く終止符を打たねばならない。しかし、本当に恐ろしい問題はその後にやって来る。戦争には「生きる意味」があった。たとい虚妄であっても、曲がりなりにも「生きる意味」があった。やがて戦争は終わり、平和が訪れる。焼け野原に新たな家が再建され始める。その「トカトントン」という平和の響きに戦時中の爆撃音以上のニヒリズムを感じ取るのは果たして太宰治だけであろうか。