思耕錯誤(7) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

思耕錯誤(7)

「それぞれが好きなように生きればいい」とは私も思っている。しかし、「好きなように生きる」とは何か。最近の若者たちの多くはそれぞれ好きなように生きていると胸を張るかもしれないが、私には奴隷のようにしか見えない。マスコミによって作られる流行に踊らされているだけの奴隷だ。「そうじゃない!全ては自分の意志だ」と一片の迷いもなく反論できる若者がどれだけいるか。勿論、若者たちの「カッコイイ!」という思いに嘘はないだろう。それが好きな生き方であるなら、そうすればいい。他人がとやかく口出しすることではない。かく言う私も若い頃、私の生き方を「ダサイ!」と非難する大人たちに「自分の感性を信じたい」と青臭い反論をしたような記憶がある。しかし、当時の私に「自分の感性」などと誇れるものがあっただろうか。私は所詮「傾向性の奴隷」にすぎなかったのではないか。とは言え、大人たちの感性が絶対的な規範であるわけではない。むしろ、大人が大人として君臨する限り、その感性は必然的に古くなる。そして、それに対する若者たちの反抗から新しき感性は生まれる。ただし、新しき感性を「大人はわかってくれない」としても、それだけで大人の古き感性が死に至ることにはならない。新しき感性もやがて古くなる運命を免れないからだ。さすれば、何が私の「本当の感性」なのか。

大人の古き感性に基づく規範に若者は反抗する。そこに新しき感性があると若者は信じる。しかし、新しき感性は新しき規範を生み出せるのか。それが規範である以上、新しき規範もやがて古くなる。若者もやがて大人になり、大人が築いてきた伝統的な規範に依存するようになる。このディレンマを如何にして超克するか。「大人の全体主義に反抗する若者の個人主義」と問題を単純化すれば、個人主義だけでは全体主義に勝つことはできない。個人の自由主義だけでは明らかに力不足だ。一体、何が足りないのか。