思耕錯誤(4)
最近始まったドラマの舞台は女装カフェ・バーであった。下らないコメディだと思いながら観ていたが、それなりに色々と考えさせられた。「どうしてこの店を始めたんですか」と問われたオーナーは「みんなの居場所をつくりたかったから」と答える。みんなの居場所?「みんな」とは「女装を楽しむ男性みんな」ということだろう。率直に言って、私などにはよくわからぬ世界だが、女装することで「本来の自分」になれるという男性もいるに違いない。これはLGBTQ全般についても言えることだ。以前に比べれば人間の多様性が尊重される社会になりつつあるとは言え、現実はLGBTQの人たちにとってまだまだ生きづらいものだと思われる。「フツーの社会」が未だ君臨しているからだ。「フツーの社会」から見れば、LGBTQは「ヘンタイ」にすぎない。かく言う私も「ヘンタイ」とは思っていないが、LGBTQの存在を完全に理解しているわけではない。BLもののドラマで男性同士がキスするシーンに遭遇すると、たといそれが美少年同士の清らかなキスであっても正視に耐え難い思いがする。「フツーではない」と思うからだ。それは私が未だネアンデルタール人だからだろうか。そもそも「フツー」とは何か。かつて日本では国際結婚は「フツー」ではなかったが、今ではかなり「フツー」になっている。やがてLGBTQも「フツー」になっていくだろうか。少なくともLGBTQの人たちはそう願っているに違いない。かつて「フツー」でなかったものが「フツー」になっていく。これは「人間社会の進化」であろうか。LGBTQに限らず、この世界には様々な「フツー」があっていいと思う。様々な「フツー」があるのが「フツー」になるべきだと言ってもいい。便利な生活だけが「フツー」ではない。敢えて不便な生活を選択することも「フツー」になる。しかし、そのように「フツー」をどんどん拡大させていくと、異常がなくなってしまうのではないか。「ナンデモアリ」の世界。我らの狂気を生き延びる道を教えよ。それぞれの「フツー」にそれぞれの居場所が乱立する世界に「本来の居場所」はあり得るのか。唯一の「フツー」が君臨する社会は明らかに時代遅れだが、それを望む保守的な人たちもいるだろう。確固たる「フツー」の君臨は安心で安全な社会秩序をもたらすからだ。しかし、それは常にLGBTQのような「ヘンタイ」を排除する全体主義への危険性を孕んでいる。では、どうすべきか。唯一の「フツー」が君臨する全体主義社会に抗するために、多様な「フツー」が乱立する個人主義社会を求めるべきか。私はそれもどうも違うような気がしてならない。全体主義を真に超克し得るものは個人主義ではないと思うからだ。人間の「本来の居場所」は決して個人主義に閉塞するようなものではない。