思耕錯誤(5) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

思耕錯誤(5)

私は世俗の垢にまみれたゲスな男なので、誰からも称賛されるような生き方がしたいと思ってきた。しかし、これといった才能もない私に国民栄誉賞を拝受するような偉業ができる道理もなく、非凡人を気取ったラスコオリニコフ同様、私も結局は民衆から切り離された絶望を味わうことになる。そもそも国民的ヒーロー、更には世界的ヒーローというものは民衆のために自らの命を懸ける存在であろう。僭越ながら、私も自らの非力をも顧みず民衆のために生きたいと思った。善きサマリア人の如く、私も苦しむ民衆を救いたいと願った。しかし所詮、私には民衆の何たるかが理解できなかった。民俗学の書を繙けば、そこに民衆の姿を垣間見ることができる。しかし、現実の私の目に映るものは民衆の堕落態である大衆ばかりであった。私の「大衆抹殺論」は愛すべき民衆を取り戻すための悪足掻きにすぎないが、未だに回復の兆しは見えない。それでも「人間として本当に生きること」の探究を断念したわけではないが、その思耕を深めれば深めるほど、民衆に感謝される道から遠ざかって行く。私の思耕は根源的に道を踏み外しているのだろうか。民衆は私の思耕など余計なお世話だと歯牙にもかけない。当然のことだと思う。民衆はアルカディアに安らぎを見出し、大衆はパラダイスを求めて血眼になる。私の思耕がアルカディアとパラダイスの間にあるうちは良い。私は大衆を批判して民衆のヒーローになることもできたであろう。しかし、ユートピアを思耕するに至って、「人間として本当に生きること」は民衆を追い越していく。民衆の幸福、そこに人間の究極的な理想はあるのか。このように問う私の思耕を一体誰が理解してくれるのか。神のみぞ知る。