思耕錯誤(3)
「考えるな。感じろ!」とはブルース・リーの言葉だが、目の前で苦しんでいる人の痛みを感じれば、思耕より活動が優先されるべきは当然だ。これは結局、以前に「善きサマリア人への疑念」で問題にしたことの繰り返しになるが、私は善きサマリア人の行為そのものを否定するつもりなどはない。むしろ、私も善きサマリア人のように生きたいと常々思っている。では何故、そこに疑念が生じてくるのか。例えば、学校にも家庭にも居場所のない子供たちが「トー横キッズ」になる。この子たちを救う活動としては然るべき施設に収容させることが考えられる。勿論、施設はあくまでも仮のシェルターであって、子供たちの「本来の居場所」ではない。しかし、「本来の居場所」とは何か。それは「どこにあるか」という問いを拒絶する。どこにもないからだ。いや、そんな筈はない。今ある学校や家庭が「クソみたいな場所」であったとしても、それらを「本来の居場所」にすることが喫緊の課題であり、そこに活動の原点があるのではないか。正論だと思う。何も間違っていない。居場所をなくした「トー横キッズ」たちにも目に見える何らかの居場所が必要だ。それがなければ生きていけない。路上やネットカフェが持続的な居場所にならないのは明らかで、キッズたちは早晩風俗業か反社会的集団に居場所を見出していくだろう。裏社会の方が、クソみたいな表社会に比べればまだ居心地がいいのかもしれない。しかし、裏社会だってやはり「クソみたいな場所」であることに変わりはない。正に八方塞がり。どこにも居場所がない!我々はこの絶望から新しく生き始めるしかないのではないか。新しく?それは現実逃避ではないか。新しき場所の創造――そんなロマン主義が何の役に立つ。結局、目に見える世界は「クソみたいな場所」であっても、そこに居場所を何とかして見出していくしかないのではないか。ある筈のない「本来の居場所」についての思耕など時間の無駄。誰もそんなものは必要としていない。果たして、本当にそうか。