どん底
私はどちらかと言えば貧しい家庭に育ちましたが、地道に働く両親の御蔭で「明日の米にも困る」というような窮境を味わうことはありませんでした。しかし、どういう影響によるものか――おそらく「生きよ、堕ちよ!」という安吾の叫びや哲学教師でありながらルノーの自動車工場で働こうとしたシモーヌ・ヴェイユの生き方などからの影響だと思われますが――どん底の生活を知らなければ、「人間として本当に生きること」はわからないのではないか、という思いに駆られてきました。それで例えば「山谷のドヤ街での生活をしなければならぬ」などと思ったりして、実際に実行もしたのですが、よく考えてみれば、意識的に堕ちようとして辿り着く場所がどん底である筈はありません。どん底は自分で堕ちることのできるものではなく、否応なく堕とされてしまうギリギリの場所でしょう。今更ながら、自分の甘さを痛感する次第です。
何れにせよ、現実にどん底で生活している人は私の極めて観念的なユートピアなど歯牙にもかけないと思われま す。そしてどん底では、イエスのように生きることよりも、キリストに救いを求めることの方にリアリティがあるでしょう。しかし私はその現実を無視しているわけではありません。むしろ、そうしたどん底の現実から生まれるユートピアこそ「真のユートピア」だと思っています。私は甘い人間ですが、その原点から目を逸らすことなく、「真のユートピア」をめぐる思耕を続けていくつもりです。
リーダーの否定にあらず!
幸徳秋水に『基督抹殺論』という作品があります。これは当時出始めた実証主義的な新約聖書学に基いて所謂「偶像破壊」を試みたものですが、その根柢にフォイエルバッハの「神は人間の願望の投影である」という考えを見て取ることができるかもしれません。しかし、神もキリストも人間の空想の産物だと言ったところで、余り現実的な意味はないでしょう。むしろ、「人間は結局、何かを拝まずには生きていけない存在だ。神を否定すると、今度は偶像を拝み出す」というドストエフスキイの言葉の方にリアリティがあると思います。
では、人間は自分達を導く超越者の存在を否定できないのでしょうか。この問題に関して思い出されるのは、ブルトマンの「歴史上のイエス」と「信仰のキリスト」の区別です。言うまでもなく、その両者の間には質的な断絶があります。2000年ほど前にイエスという類稀なリーダーが存在したことは歴史的に間違いありません。それが宗教的なリーダーだったのか、それとも政治的なリーダーであったのかは議論の分れるところですが、とにかく多くの人を魅了するリーダーがいたことは否定できないでしょう。問題は、そのイエスが教団(もしくは聖典)の形成過程において「キリスト」という超越者と化したことにあります。それは我々の精神において不可避の運命であっても、「ユートピアの実現」に関しては克服すべき課題であると思っています。
土曜会について
土曜会は、私が三年前新しき村に来た当初につくったものです。その際に発表した趣旨は次の通りです。
村には現在「諸問題の会」と「仕事の会」という二つの定例会がありますが、何れも一つの問題に絞って集中的に討議する場ではありません。そこで「新しき村の実現」という根本問題に照準を定め、それを達成するための現実的かつ具体的な方策について自由に話し合う会を新たに設けることにしました。雰囲気としては東京支部の木曜会を理想としますが、木曜会が特にテーマを定めず参加者それぞれの自由な心情の披瀝を旨とするのに対し、本会は予めテーマを決め、それについて話し合うという形をとりたいと思います。従って、一つの大きなテーマをめぐり何週にもわたって連続的に話し合う場合もあり得るでしょう。いずれにせよ、木曜会が「歓談の場」であるとすれば、本会はあくまでも「討議の場」に徹したいのです。とは言え、「会議」というような堅苦しい雰囲気は極力排し、和気藹々と自由に意見交換できる会にしたいと思います。また村外からの積極的な参加を歓迎し、村内と村外の接点になることも併せて期待します。そのために、村外会員が時によっては一泊することも出来るように会を土曜日に行うことにしました。本会を「土曜会」と称する理由はそこにあります。
最初は村の若い人も参加してくれて毎週開いていましたが、そのうちに一人減り、二人減り、という具合で、私自身も何だか面倒くさくなって「開店休業」状態に陥りました。しかし、昨年頃から強力な賛同者が参加してくださるようになり、会も俄然息を吹き返して、「新生会」の結成にまで至りました。ところが、その「新生会」の提案も結局村には受け容れられず、今後の活動について再び途方に暮れているのが現状です。
問題の一つは、今後も「新しき村」を前提に活動していくか否か、ということですが、当面それとは無関係に「討議の場」としての土曜会を再開したいと思います。すなわち、上記の趣旨では新しき村の会員を対象にしていますが、再開される土曜会ではもっと自由に、新しき村とは直接関係のない方の参加も歓迎したいのです。とは言え、私自身が未だ村で生活している以上、どうしても村で会を開かざるを得ず、遠方の方はなかなか参加しにくいでしょう。それが課題ですが、それでも参加を希望される方は下記にご連絡ください。
取り敢えず、今度の土曜日(10月1日)の夜に会を開く予定です。多くの方々の参加をお待ちしております。
マンダラ共働態
この便りの主たる目的は、「祝祭共働態としてのユートピア」を実現するために、それに共鳴する人々の連帯の輪を広げていくことにあります。勿論、連帯の「輪」と言う以上、そこに中心ができることは否定できず、実質的に「この指とまれ」と言っているのと大差ないと思われるかもしれません。しかし、私はその中心を担う責任を回避するつもりはありませんが、中心は一つだけであってはならぬと思っています。そこに「共同体」との根源的な差異があります。
繰り返し申し上げているように、祝祭共働態は同心円的広がりの連帯に基くものではなく、個々の円の統合としての連帯=マンダラに他なりません。従って、個々の円の確立こそが先決問題になります。しかし、それは決して孤立する個人の問題ではなく、あくまでも共働する個人の課題なのです。さもなければ、個々の円はマンダラを形成することができず、個々バラバラな状態に止まることになるでしょう。
言うまでもなく、このような「祝祭共働態」を実現することは至難の業です。しかし、いつまでも足踏みを続けているわけにはいきません。「新生会」の挫折以降、私は主に理念的な問題についてばかり思耕していますが、再び具体的な活動を始めなければならぬという思いに駆られています。と言うより、「理念の思耕」と「具体的な活動の試行」は恰も車の両輪の如く進めていくべきでしょう。その意味において、取り敢えず「土曜会」を本格的に復活させようと思っている次第です。
大衆の止揚、再び
様々なコメントを戴き、ありがとうございます。私が「この指とまれ」に基く連帯に抱いている不安は杞憂なのかもしれません。しかし先の総選挙の結果にも見られるように、多くの人が何となく強烈なリーダーの登場を待望しているような雰囲気には違和感を禁じ得ないのです。確かに強烈なリーダーの力によって幸福な社会が築かれることを大衆は望んでいるでしょう。しかし、たといそのリーダーが真に有能で人格的にも立派な人であっても、前衛が大衆を導いていくという図式は「人間として本当に生きること」とは程遠いものだと思います。それは強烈なリーダーの否定というよりも、あくまでも「大衆の止揚」の問題です。
尤も「堅いことを言うな。皆が幸福になれれば、それでいいじゃないか」と言われる方も少なくないでしょう。しかし私の思い描く「ユートピア」はそうした「幸福社会」ではないのです。それは大審問官による「幸福社会」にすぎません。私はおかしいのでしょうか。
何れにせよ、個々の究極的関心の表明が先決問題です。例えば、「新しき村」は実篤によって創立されたものですが、「実篤の新しき村」と見做されている限り、それは真の「新しき村」だとは言えないでしょう。私は以前に「殺仏殺祖」ということを言いましたが、「実篤のディコンストラクション」が不可欠だと思っています。勿論、それは「実篤の新しき村」を否定して「私の新しき村」に取って替えることではありません。そこが難しいところです。
「この指とまれ」を超えて
昨日は思わず「ユートピア実現」に対する関心の輪が今一つ広がっていかないという愚痴をこぼしてしまいましたが、それに対して「それは具体的な行動/仕事内容についての言及がないからだ」との御意見を戴きました。それはその通りですが、何か違うような気もします。
確かに「ユートピア実現に向けて、こういうプロジェクトを起こしたいので、共働してくれる人はいませんか」という具体的な 提案をした方が現実的でしょう。しかし、うまく言えませんが、そのように言わば「この指とまれ」式に広がっていく連帯の輪は、「共同体」にはなっても「共働態」にまで発展していかないと思うのです。これは言葉の遊戯のように思われるかもしれませんが、私にとっては極めて重要な問題を孕んでいます。
私は以前に「割り算の共同」と「掛け算の共働」ということを言いました。すなわち、先ず共同のプロジェクトを提示して、それを賛同者に割り振っていくということではなく、あくまでも個々の究極的関心に基いたプロジェクトが掛け合わされていくような共働を夢見ているのです。勿論、これは極めて困難な道であり、殆ど妄想に近いかもしれません。そんな理想ばかり追っていては、いつまで経っても現実的な活動が始められないのではないかとも思っています。しかし私としては、やはり個々の人から「自分はこういう活動がしたい」という声が出てくるのを待ちたいのです。そういう個々の声が出てきて、初めて「具体的な仕事」についての議論が可能になるのではないでしょうか。
祝祭的地平の創造
「地平の融合」を発展的に解釈すれば、それは一方が他方の目線に合わせることではなく、むしろ互いの究極的関心に基いて新たな地平を創造することになると思います。もし「相対性理論」に関心があるのがインテリのみであるなら、それに関心のない大衆との間に「地平の融合」は生じないでしょう。その場合には、インテリが大衆の目線に合わせても意味がありません。しかし「世界(宇宙)を理解したい!」という関心が人間にとって究極的なものであれば、インテリとか大衆といった区別を超えて、世界の解釈における「地平の融合」への可能性が生まれてくるのではないでしょうか。
同様に、ユートピアの解釈においても「地平の融合」が生まれてくるのを期待しています。とは言え、私は「ユートピアの実現」に向けての思耕を続けていますが、その関心の輪が今一つ広がっていかないのが現状です。勿論、それは私の書き方に問題があるわけですが、ユートピアそのものに対する関心は人間にとって根源的なものであることを確信しています。そして各人がそれぞれの地平でユートピアを求めていけば、きっと共働=共生の地平が開けてくるものと思います。私はそれを祝祭的地平として理解しています。
地平の融合
かつてアインシュタインの「相対性理論」が日本で翻訳・出版された時、「男女が相対する性の理論」だと誤解する人が少なからずいて、比較的よく売れたという話を聞いたことがあります。その真偽のほどは定かではありませんが、大衆の関心がアインシュタインとはズレていたことは間違いないでしょう。
言うまでもなく、殆どの人は「相対性理論」など知らなくても生活に困ることはありません。かく言う私も例外ではなく、「相対性理論」という言葉は知っていても、その詳しい内容は全く理解していません。また理解しなければならぬ必要も感じていません。では、そうした「無知な大衆」に「相対性理論」を理解させるにはどうすればいいのでしょうか。言い換えれば、物理学の知識に乏しい人にでも「相対性理論」が理解できる言葉とは如何なるものでしょうか。
率直に言って、私にはそのような言葉があるのかどうか、よくわかりません。しかし、マンガなどでわかりやすく解説するものがあったとしても、それを読む方に関心がなければ理解はできないでしょう。「重要なことは表現方法(言葉)よりも問題意識(関心)だ」と思う所以です。逆に言えば、「相対性理論」に対する関心があれば、その人はそれを簡単に説明する言葉よりも更に深く解明する物理学の言葉を求める筈です。従って、「相対性理論」を大衆の目線まで下げることには余り意味がないように思われます。むしろ大衆の目線を「相対性理論」にまで引き上げることの方が大切なのではないでしょうか。尤も、その必要性があれば、の話ですが…。
ところで、ユートピアに対する関心は人間にとって究極的なものだと私は考えています。全ての人間にとって究極的なものかどうかはわかりませんが、少なくとも人間として本当に生きようとしている人にとってはそうだと思います。そこに「相対性理論」に対する関心との根源的な差異があります。勿論、ユートピアに対する関心と言っても、人それぞれです。個人主義的なユートピアを求めている人もいれば、全体主義的なユートピアを望んでいる人もいるでしょう。しかし、それにも拘らず、対話は可能だと思います。ガダマーという哲学者は解釈における「地平の融合」ということを言っていますが、私が求めているのもそれです。楽観的だと嗤われるかもしれませんが、「人間が本当に人間らしく生きられる場」としてのユートピアに対する究極的な関心があれば、「地平の融合」は必ず生じるものと信じています。
常民とアルカディア
昨日、何気なく新聞を読んでいたら、次のような言葉に目が止まりました。
「ただ心を無にして、おまいりするだけ。そうせにゃ、おみゃあさん、バチが当たるでぇ。あれもかなえてほしい、これもして欲しい……それじゃいかんがね。仏さんと向きあったときは、心をからっぽにして手を合わせにゃいかんねぇ。そうすりゃ自然と感謝の心がわいてくるがね。こうやって生きてること、それが有難いことやと身にしみるがな、それが大切と違うやろか」
これは「名古屋の百歳姉妹」として人気者だった「きんさん、ぎんさん」のぎんさんの言葉だそうですが、これこそ常民の神髄だと思います。ここには自らの人生を主体的に切り開いていこうとする賢しらは全くありません。言うまでもなく、生における主体性を是とする人生観は近代に始まるものですが、その近代主義が様々な弊害をもたらしていることを考えれば、ぎんさんのような常民の生き方が一つの理想になることは間違いないでしょう。それは近代の競争原理に対する共生原理の理想だと言えます。
では、ユートピアは常民の世界にこそ見出されるのでしょうか。私は、 そうは思いません。常民の世界が一つの理想社会であることを否定するつもりはありませんが、それはアルカディアと言うべきであって、ユートピアではないと私は考えます。常民のアルカディアから(近代人のニヒリズムを経て)「新しき人」のユートピアへ――私が「誰にでも理解できる、やさしい表現」で語りたいのは、正にその過程なのです。
「新しき人」とインテリ
私は「弁証法」とか「止揚」といった言葉を好んで用いますが、確かに常民はそうした語彙とは無縁の世界で生活しているでしょう。では、そうした観念的な言葉を多用して人間の究極的な理想を語り出そうとしている私は、常民を無視してインテリのみを対象としているのでしょうか。現状ではそのように思われても仕方ありませんが、それが私の本意でないことだけは御理解戴きたいと思います。
私の本意はあくまでも「人間として本当に生きようとする意志」をもつ人々との共働(連帯)にあります。おそらく常民はそのような意志を持つ必要がない(少なくとも自覚的ではない)と思われますが、それでも私は常民を無視するつもりはありません。と言うのも、私の「人間として」という条件は、例えば見田宗介氏の次のような人間観に基いているからです。
生命体としての第一層
人間としての第二層
文明人(ムラ人的存在)としての第三層
近代人としての第四層
現代人としての第五層
見田氏はこのような重層体として人間を捉えていますが、私も同様の人間観を持っています。そして私の求める「新しき人」は第六層としての人間なのです。従って、それは常民(第三層)のみならず、インテリ(第四もしくは五層)に限定されるものではありません。ただし言葉に関して、「パロール」(話し言葉)の世界に生きる常民と「エクリチュール」(書き言葉)の世界に生きる近・現代人という対比で言えば、私は後者により重点を置いて「新しき人」について語っていることは認めざるを得ません。そこに私の課題があると思っています。