「新しき人」と常民
かつて或る人が「新しき村は修道院のようになるべきだ」と言った時、実篤は「それは違うと思う」と応えたそうです。その点、私も同感です。実篤は「新しき村は自己完成の道場だ」と言っていますが、それは所謂「出家者の集団」ではないでしょう。
新しき村は魂の糧を求める「垂直の次元」と肉体の糧を得るための「水平の次元」の逆説的統合だと私は考えています。それは言わば人間の聖なる部分と俗なる部分の統合に他なりません。従って聖なる「垂直の次元」にのみ集中する生き方は、たといどんなに純粋な求道であっても、それは人間の本当の生活ではないと思います。勿論その逆に、俗なる「水平の次元」で肉体の糧の充足にばかり追われる生活が人間本来のものでないことは言うまでもありません。
とまれ、私は昨日の便りで、「新しき人」とは言わば「大衆の止揚」だと述べましたが、それは常民の次元を否定することではありません。むしろ、常民が大衆へと頽落してしまうことの拒絶こそ「新しき人」の本質だと言えるでしょう。
「新しき人」と大衆
私の親しい友人から次のような御意見を戴きました。「私が大事ではないかと思ってることは、志を言語化する時には、限りなく目線を下げること、難しいかもしれませんが、より大衆言語に沿って行く、インテリゲンチャの言語を大衆言語に言い換えて行く、そういう必要性ですね。いかがでしょうか?」そこで、この御意見について私の思うところを述べてみたいと思います。
以前から私の文章が生硬で難解だとのご批判を様々な人から戴いており、その点は深く反省しております。「志の言語化」が「誰にでも理解できる、やさしい表現」であるべきだということには全く異論はありません。今後とも、そのような表現ができるように努力を重ねていきたいと思っています。しかし乍ら、それが「限りなく目線を下げること」につながるかどうかについては疑問を感じざるを得ません。
徒に自己卑下するわけではありませんが、私には限りなく目線を下げられるほど高みにいるという実感はありません。また「インテリの言語」と「大衆言語」の区別についても問題を感じます。勿論、一部の専門家にしか理解できぬ哲学的ジャーゴンでまくしたてるディレッタントは論外ですが、「人間が本当に生きる」という究極的問題に関してはインテリも大衆もないと思います。自らの問題意識を誠実に表現していく――それに尽きます。その点、少なくとも私の書いていることに論理の飛躍はないものと自負しています。それにも拘らず、その論理の積み重ねが大衆の理解を超えていると言われるのなら、そうした大衆は私にとって「縁なき衆生」ということになるでしょう。問題は表現の方法ではなく、あくまでも問題意識ではないでしょうか。
おそらくこんな言い方をすれば、「無知な大衆なんか放っとけ!」と主張しているように思われるかもしれません。大衆が無知かどうかはその定義によりますが、もし大衆を「究極的な問題とは無関係に、ただ世間の価値観に流されている非主体的な群れ」だと解するならば、そうした人々は私の言葉になど(それがどのように表現されようとも)端から聞く耳を持たないでしょう。その意味において、私にとって「大衆言語に沿って行く」ことは論理的にあり得ないのではないかと考えています。そもそも「大衆言語」とは一体何でしょうか。私の言葉が「インテリの言語」かどうかはさておき、私の思耕の成果を「大衆言語に言い換えて行く」ことは不可能です。それは「誰にでも理解できる、やさしい表現」とは全く別問題だと思います。
何れにせよ、「新しき人」とは言わば「大衆の止揚」に他なりませんが、さりとてエリートでもありません。何か特別な能力がなければ「新しき人」になれない、ということではないのです。重要なことは「人間として本当に生きようとする意志があるか否か」ということにすぎません。それだけです。勿論、「何が人間にとって本当の生か」は人それぞれ異なるでしょう。「新しき人」は主体的生活者だと私は考えていますが、その具体相を統一するつもりはありません。むしろ様々な主体的生活があるべきだと思っています。「新しき人」は如何なる意味においても特権階級ではありません。(つづく)
永続革命としての新しき村
「新しき村」は未だ実現していません。永久に実現しないかもしれません。しかし「新しき村」の実現を求める人間は絶えることはないでしょう。それは人間として本当に生きる道を求める求道者です。そして求道者は「新しき人」になることを目指します。そうした「新しき人」がいなければ「新しき村」は実現しません。「新しき人」と「新しき村」は相即しているのです。
「新しき人」を目指す求道者の結集する場――それが「新しき村」になると思います。言うまでもなく、それは「ゾルレンとしての新しき村」であり、私は現にある「ザインとしての新しき村」と一応区別して考えています。と言うのも、両者の間には深い溝があるからです。できれば「ザインとしての新しき村」を軸にして「ゾルレンとしての新しき村」を求めていきたいと思います。しかし残念乍ら、現実には様々な問題があり、両者の溝は質的断絶と化しつつあります。
そこで私としては「ザインとしての新しき村」とは無関係に、「ゾルレンとしての新しき村」を求める人々が結集できる道を摸索したいと思っています。勿論、私が求めているのは或る一定の場所で共同生活をするようなものではありません。そうした共同体は「古き村」にすぎないでしょう。主体的生活者としての「新しき人」を目指す人々の共働態――そこに永続革命としての新しき村の原点があると思います。
共働幻想としての幸福
「世界全体が幸福にならなければ個人の幸福もあり得ない」と宮澤賢治は言っていますが、私は始終その意味について考えています。そして未だに「世界全体の幸福を求めることは自己欺瞞ではないか」という疑念を払拭することができないでいます。「自分自身が幸福になりさえすればいいではないか。個人の幸福が確立されていないのに世界全体の幸福を求めることは本末転倒だ。先ずは何をさておき、自分が幸福になることをこそ目指すべきだろう」――そう思うのです。それをエゴイズムだと言うなら、エゴイズムは正しいとさえ考えます。
ただしエゴイズムはそれ自体としてついにその目的を達し得ないでしょう。それは個人幻想がそれ自体では充足し得ないのと同断です。すなわちエゴイズムはその究極において他者との関係を必要とし(そもそも自己も一箇の他者です)、個人幻想は共働幻想においてこそその花を咲かせることができるのです。
言うまでもなく、世界全体の幸福は個人の犠牲によって成立するものではありません。さりとて個人の幸福の集合(総体)が全体の幸福になるわけでもないでしょう。個人は全体のアトムではないのです。「個即全・全即個」のモナド(逆説的統合)が共働幻想としての幸福の基礎だと思います。
孤立する個人から共働する個人へ
引きこもる若者たちがいます。ニートと称される若者たちも、たとい外出はしていても、精神的には一種の引きこもりでしょう。彼等は世界を拒絶し、自らの個人幻想に閉じこもっています。おそらく彼等は怠けているのではないと思います。中には後向きに生きる甘い逃避者もいるでしょうが、多くは人間として本当に生きる道を必死に摸索しているものと推測します。その意味において、個人幻想に閉じこもる若者たちの生き方は純粋に魂の糧を追求する一つの理想を示していると言えるでしょう。
勿論、それは肉体の糧の充足を両親等に依存することで成立する理想にすぎず、真の理想ではありません。しかし、それ以上に問題なのは、たとい如何に純粋な追 求であっても、個人幻想に閉じこもることでは真の魂の糧を得ることはできないということです。そもそも主体的真理としての魂の糧は「見出すもの」ではなく、あくまでも「創造すべきもの」です。言うまでもなく、創造の主体は個人ですが、孤立する個人よりも共働する個人の方がより大きな仕事(創造)ができることは自明でしょう。
個人幻想から共働幻想へ――それは個人幻想を放棄することではありません。むしろ、自らの個人幻想を他者の個人幻想との共働を通じて世界全体の幻想にまで高めることだと思います。共働幻想の核はあくまでも個人幻想です。
共働の本質
確かに人間が共働することの目的は肉体の糧を得ることの合理性にあります。少なくとも独力で肉体の糧を満たそうとするよりも楽しいでしょう。しかし共働の本質はそれに尽きるものではないと私は考えます。それぞれの魂の糧をめぐるドラマの祝祭的展開――ここにこそ我々が共働して生きることの真の喜びがあるのではないでしょうか。それは人間として生きることの真の喜びにも通じています。
人間の生は孤立していては輝きません。と言って、群れても輝かないでしょう。自立 した個人の共働のみが人間の生を輝かせると思います。
小劇場としての「私」、大劇場としての「世界」
共同幻想と共働幻想の差異は何か。前者は水平の次元に限定されるものであり、後者はその射程が垂直の次元にまで及ぶものです。すなわち共同幻想の目的が全ての人間における肉体の糧(ナショナル・ミニマムと言ってもいいでしょう)の充足に止まるのに対し、共働幻想は肉体の糧のみならず各人の魂の糧を満たすことまで目的とするのです。これは先に問題としたアルカディアとユートピアの対比に通底するものです。
おそらく、こうした区別に疑問を感じる方も少なくはないと思います。と言うのも、人間の幻想領域を公的なものと私的なものに分ければ、理想社会というものは公的領域にのみ限定されるべきだと考えるのが一般的だからです。言い換えれば、個々人の私的領域にまで踏み込んでくるユートピアなど大きなお世話だということです。
確かにユートピアは全ての人間が食うに困らぬ社会(肉体の糧が普遍的に満たされた社会)の実現という水平的理想に限定され、魂の糧の追求という個人の垂直的問題 には触れるべきではないのかもしれません。率直に言って、その点、私自身未だ思耕を深めているところです。しかし、公的領域にのみ限定されるユートピアというものは何だか寂しい気がします。勿論、純粋に個人の領域である垂直の次元が公的領域に侵犯されることを私は望みません。ただ魂の糧の追求という個人のドラマが「私」という小劇場に限定されるだけでは面白くないのです。「世界」は決して肉体の糧を満たすことだけを目的とする公的領域ではないと思います。
共働幻想の条件
この便りを最初からお読み戴いている方々には、私が共働幻想と共同幻想の区別で何を言おうとしているのか、凡そお察し戴けるものと思います。そこで、ここでは共働幻想の基本となる人間観について述べることにします。
私は繰り返し主体性について言及していますが、主体的に生きようとする自我など私という人間全体の氷山の一角にすぎないでしょう。ユング的に言えば、意識の中心である自我の深層に無意識をも含めた私の全体を統合する自己がいます。勿論、そうした自己による私の統合は意識的な把握を超えているという意味で神秘的なものに他なりません。ランボーのように、「自己とは一箇の他者だ」と言ってもいいでしょう。彼は「あらゆる感覚の、長期に渡る、途方もない、筋の通った乱用によって、自己を見者(voyant)につくりあげること」が詩人の使命だと言っていますが、その使命こそユートピアを求める人間の条件だと思います。と言うのも、私という人間の氷山の一角にしかすぎぬ意識的な自我だけで理想社会を考えることには限界があるからです。
私は世界を劇場だと見做していますが、「私」という人間の存在もまた一つの劇場だと思っています。言うまでもなく、私はこれといった特性のない凡庸な人間で、その劇場はみすぼらしい限りです。しかし、たといどんなにみすぼらしくても、私はこの劇場で自分の生を輝かせるドラマを展開したいと思います。それが見者になることです。そして、様々な見者のドラマが世界という劇場にマンダラ的に展開していくことを心から願っています。
Courage to Be
昨日は久し振りにコメントを戴き、本当に嬉しく思いました。ともすれば孤立無援の現状に絶望しがちな日々を送っていますが、一人でも私の幻想に共鳴して下さる方がいれば、私は俄然息を吹き返します。やや大袈裟な言い方をすれば、「もう少し頑張って、生きていこう」という気になるのです。そして、この喜びの根を次第に太くしていくことで連帯の輪を広げ、皆と共働幻想の花を咲かせたいと心から願っています。
そもそも「新しき村」は武者小路実篤の個人幻想に発しているものです。それが多くの共鳴者を得て、87年前に日向の地に創立された時、実篤個人の幻想を超越して共同幻想になったと思います。しかし乍ら、共同幻想としての「新しき村」は未だ真のユートピアではないでしょう。厳密に言えば、それは未だ「古き村」にすぎません。共同幻想が共働幻想へと発展する時、真のユートピアとしての「新しき村」が実現するのです。ここに私が求める「ユートピア実現」の核心的問題があります。
幻想に生きるトロツキスト
ユートピアは共働幻想です。ただし、その核は個人幻想に他なりません。その意味において、ユートピアの実現に固執する私はエゴイストだと言えるでしょう。個人幻想を核とした共働幻想としてのユートピアはエゴイストの連帯によってのみ実現します。
勿論、ここで言うエゴイストとはシュティルナーの唯一者に近いものです。あるいはキルケゴールの主体的な単独者と言ってもいいでしょう。それは競争原理に基く我利我利亡者ではなく、むしろ共生原理に基く自立者です。そして、唯一者にせよ単独者にせよ、個人幻想を核として生きる人間が共働幻想を求める逆説にこそユートピアの原点があると思います。