共生原理の幸福
そもそも私自身が幸福でないのに、「世界全体の幸福」を求めることは実におこがましいことです。しかし私個人の幸福は否応なく「世界全体の幸福」と密接に関係しています。これは偽善に聞こえるかもしれませんが、原理的な問題に他なりません。と言うのも、繰り返し述べているように、「世界全体の幸福」は個人の幸福の集合という分子構造ではないからです。言い換えれば、分子構造として「世界全体の幸福」を考える限り、それは不可能な理念と言わざるを得ないでしょう。
また、そうした不可能性は競争原理における「世界全体の幸福」の不可能性にも通じます。何故なら、競争は必然的に勝者と敗者を生み出すからです。勝者が幸福になり、敗者が不幸になることは言うまでもないでしょう。従って、競争原理に基く限り、世界全体が幸福になるということはあり得ません。
しかし世界全体は常に一つの勝負から成り立っているわけではありません。そこには様々なレヴェルの競争があります。一つの勝負で敗者になっても、別の勝負で勝者になることもあるでしょう。また、「鶏口牛後」という諺にも明らかなように、勝者自体にも「次元の違い」があると思われます。すなわち競争原理の世界は勝者と敗者から成っているとはいえ、現実には一人の人間が或る面では勝者であり、別の面では敗者であるという複雑な様相を呈していると言えるでしょう。
さて、「世界全体の幸福」はこうした現実を超克しなければなりません。尤も、それが可能なのか否かは未だ定かではありません。ただ私はユートピアの本質である「世界全体の幸福」の実現に向けて様々な「思耕実験」を試みたいと思っています。確かにそれは「未だないもの」にすぎませんが、その可能性を問うことは無意味ではないと思っています。そして、その可能性は共生原理にこそ見出されるでしょう。
しかし、共生原理とは「競争をやめて、みんな仲良く」ということではありません。昨日の柔道の例で言えば、それは「無差別級の楽しさ」に通じるものです。果して体重60キロの人間が100キロの人間を投げ飛ばすことは可能でしょうか。
無差別級としてのユートピア
「美しい花がある。花の美しさというものはない」と小林秀雄は言いましたが、それに準えて言えば、「楽しい生活がある。生活の楽しさというものはない」ということになるでしょう。どうも私は「生活の楽しさ」を見極めるという理念的追求に懸命で、現実を上滑りしているようです。それは認めざるを得ません。
しかし、現実の「楽しい生活」というものにも様々な次元があるでしょう。例えば、余り適切な例ではありませんが、同じ「野球を楽しむこと」においても草野球とプロ野球では次元が違います。前者を「娯楽の楽しさ」、後者を「生活の楽しさ」だと言い切るつもりはありませんが、「楽しい野球」にも重層構造を見ることができるでしょう。ただし私が構想するユートピアの重層構造は、そのような「それぞれのレヴェルで楽しむ」ということとは少し違うように思います。
その違いをうまく表現することができませんが、それは言わば柔道の体重別制に対する違和感に通じています。私はかねがね「柔よく剛を制す」をモットーとする柔道が体重別制を採用していることに疑問を感じてきました。すなわち、身体の小さな人が大きな人を投げてこそ柔道なのに、同じ位の体格の人を集めて対戦させるのは邪道だと思うのです。同様に、ユートピアにおける「楽しい生活」も「それぞれのレヴェルで楽しむ」という意味での多次元ではないような気がしています。果してユートピアに「無差別級の楽しさ」を求めるのは、観念論の遊戯にしかすぎないのでしょうか。
ゼウスガーデンの対極にあるユートピア
ユートピアは「皆が楽しく生活できる場所」に他なりません。それが大原則だと思っています。しかし問題は「楽しい生活」の質です。それは人それぞれであり、そこには否応なく「次元の違い」を認めざるを得ません。従って、「皆が楽しく生活できる」ということは殆ど不可能な理想だと思われるでしょう。
しかし私はユートピアを一次元的に「皆が楽しく生活できる場所」だとは考えていません。むしろ多次元的に「皆が楽しく生活できる場所」という重層構造のユートピアを求めているのです。ただし多次元的なユートピアと言っても、そこに求められる楽しさはあくまでも生活に密着したものでなければなりません。そこにディズニーランドに見られるような「娯楽の楽しさ」との絶対的な差異があると考えています。
勿論、私は「娯楽の楽しさ」を否定するつもりはありません。ただユートピアの本質は「娯楽の楽しさ」にはなく、「生活の楽しさ」にこそあると主張したいだけです。その意味において、私は「ディズニーランドよりも楽しい村づくり」を自らのライフワークにしているのです。
尤もディズニーランドにおける「娯楽の楽しさ」如きはスケールが小さく、私が構想するユートピアの対極と見做すに値しません。私は小林恭二の「ゼウスガーデン」というヴィジョンに「娯楽の楽しさ」の究極を見ます。すなわち「カイラク」の極としてのゼウスガーデンに対する、「ケラク」の極としてのユートピアということです。
郵政民営化と新しき村の変革
私はここで郵政民営化の是非を問うつもりはありませんが、最近の国会での攻防を見ていると、どうしても新しき村の現状と重ね合わせて考えてしまいます。
おそらく反対派が言うように、民営化されれば今までのようなサービスを維持することはできなくなるでしょう。いくら国がかなりのバック・アップをするとは言え、民営のビジネスが経済的に採算の合わないサービスを続けるとは考えられないからです。しかし、だからと言って、赤字を生み出す現在の体制をこのまま国が維持していくことに問題がないとは言えないでしょう。重要なことは、郵政三事業の赤字体質を克服する「新しき体制」を如何に構築するか、ということだと思います。民営化が駄目なら、別の案を考えなければなりません。民営化反対=現状維持ということでは何も始まらないでしょう。
ところで、新しき村も赤字体質が続いています。最近の定例会で「特別個人費(所謂、ボーナス)をいくらにするか」という低次元の問題が話し合われましたが、その中で一番若いK氏が「ボーナスをいくら減らすか、ということよりも、赤字を出さない体制について考える必要があるのではないか」と発言しました。これは私自身の考えでもあり、毎年同じ事を繰り返し、同じように赤字を出していることの無意味さについては何度も指摘してきました。しかし、今回のK氏の発言に対しても「それは正論である。しかし議論しても無駄だ。実際に黒字になる方法を示してくれないと何も始まらない」という意見が返ってくるだけで、全く話が噛み合いません。
何れにせよ、郵政の場合は「本来の事業をして赤字が出る」という問題ですが、新しき村の場合は「本来の事業をしていないにも拘らず、赤字を出している」という問題です。従って、郵政の場合には、ある程度の赤字を覚悟して国が「本来の事業」を現状維持するという選択もあり得るでしょうが、新しき村の場合には現状維持の選択などあり得ないのです。そこに決定的な差異があります。
ウロボロスの真理
「次元の違い」の克服とは何れか一方の次元に統一することではありません。そこに「段階の違い」との差異があります。例えば、感性的段階と理性的段階の場合なら、前者が後者へと止揚されると考えることもできます。しかし聖なるユートピアと俗なるユートピアの場合には、そういうわけにはいきません。それは「段階の違い」ではなく「次元の違い」だからです。尤も論理的に言えば、低次元の俗なるユートピアが高次元の聖なるユートピアへと弁証法的に発展すると考えることはできるでしょう。しかし、それは現実には殆ど有効性のない論理にすぎません。私はそのことを新しき村の生活で嫌と言うほど味わいました。たとい高次元と低次元という違いがあるにせよ、聖なるユートピアと俗なるユートピアが統一されることはあり得ないと思います。
しかし、詭弁だと思われるかもしれませんが、統一はなくても統合はあり得るでしょう。言うまでもなく、それは一つの逆説であり、言わば「絶対矛盾的自己同一」という宗教的リアリティに他なりません。従って、そのリアリティを論理的に述べることはできませんが、聖なるユートピアと俗なる ユートピアは相即関係にあるとだけは言えると思います。それは自力の根柢に他力があり、他力は自力によって現実化するという逆説と同様です。
難行道と易行道
私の実現したいユートピアは「新しき村」に他なりません。しかしユートピアが新しき社会を意味し、それは反復された「村」であるという逆説的ヴィジョンは、すでに実篤の構想を超えていると言えるでしょう。もとより新しき村の運動は実篤に拘束される必要はなく、様々な人の構想が合流するものだと思います。しかし、再三再四述べているように、村の現状はそうした合流を拒む傾向にあります。もはや村の閉塞状況に対する愚痴を繰り返すことはしませんが、一体どうしたら「ユートピアの実現」に関心を抱く人が結集するような村をつくることができるでしょうか。
結局、「新しき村」に関する基本的なヴィジョンを発信し続け、それに共鳴する人の輪を地道に広げていくしかないでしょう。言うまでもなく、私のヴィジョンは祝祭共働態ですが、その当面の課題は「次元の違い」だと思っています。言い換えれば、祝祭共働態のユートピアとしての必要性を説くためには、ユートピアを求める人々の「次元の違い」を克服しなければならないのです。私はこの問題を聖なるユートピアと俗なるユートピアの関係として思耕してきましたが、難行道(自力聖道門)と易行道(他力浄土門)の関係としても考えられるでしょう。
ユートピアのユーモア
キルケゴールは「信仰のユーモア」ということを言っています。簡単に言えば、自己意識に目覚める前の「素朴な信仰」とそれに対する徹底した懐疑の末に辿り着く「究極的な信仰」とは結局同じものだということです。尤も、現実には質的な差異があり、一般的にはその外見上の同一性にユーモアではなくアイロニーを感じるのが普通でしょう。つまり、「同じであってたまるか!」ということです。
例えば、自分の足で苦労して頂上に辿り着いた登山者とロープウェイで頂上に運ばれて来た観光客の場合、果してそれぞれの目に映る頂上からの光景に違いがあるでしょうか。おそらく登山者は「同じであってたまるか!」と叫ぶでしょう。しかし「頂上にいる」という客観的事実に変わりはありません。違いがあるとすれば、それは主観的なものです。そして客観的には同じであるにも拘らず、主観的には無限の違いがあるというところにユーモアが生じてくると思われます。尤も、登山者自身がそこにユーモアを感じられるかどうかは別問題ですが…。
別の例を挙げます。一杯の水自体に変わりはなくても、スポーツなどで汗を流した人とそうでない人とでは当然その味に違いが生じてくるでしょう。しかし「喉の渇きをいやす」ということにおいて変わりはありません。ただし「渇きをいやす」ことの次元が異なるのです。私は聖なるユートピアと俗なるユートピアの関係も同様に考えています。そこには厳然たる次元の違いがあります。しかし何れもユートピアであることに変わりはありません。私はそこにユーモアを感じたいのです。
ユートピアにおける聖と俗
高次元のユートピアと低次元のユートピアという言葉はやはり誤解を招くかもしれません。それ故、聖なるユートピアと俗なるユートピアと言い換えたいと思います。尤も、いくら言葉を換えても、そこから価値判断を拭い去ることはできないでしょう。しかし聖なるユートピアのみを「真のユートピア」として肯定し、俗なるユートピアを否定もしくは排除するのが私の本意でないことだけは御理解下さい。
確かに「人間として生きることにおける究極的な理想」を求める私は、結果的に聖なるユートピアを摸索していると言えます。しかし、それは俗なるユートピアを否定することではありません。そもそも人間の実存は「聖なる垂直の次元という経糸」と「俗なる水平の次元という緯糸」から織られているので、どちらか一方を否定することなどできないでしょう。すなわち、人間は聖人と俗人に分けられるのではなく、一人の人間の中に聖なる部分と俗なる部分があるということです。従って、「真のユートピア」は聖なるユートピアと俗なるユートピアから成っていると言えるでしょう。
しかし二つのユートピアの関係は如何なるものでしょうか。やはり現実には共存は難しいように見えます。と言うのも、冒頭で述べたように、「聖なるユートピアが高次元のもので、俗なるユートピアは低次元のものにすぎない」という価値判断は不可避だからです。すなわち聖なるユートピアを追求すればするほど俗なるユートピアを無視しがちになるのが現実だと思われます。勿論、その逆の現実も考えられるわけで、俗なるユートピアに没頭している人は聖なるユートピアなどに関心を示さないでしょう。かくして人間は聖なるユートピアを追求する聖人と俗なるユートピアを望む俗人とに大別され、両者は互いに無関係に生活すると言わざるを得ないのかもしれません。しかし私は敢えて、そうした聖と俗の分離にあくまでも反抗したいのです。むしろ聖と俗の「対立の一致」(coincidentia oppositorum)にこそ人間として生きることの「真理」があると思っています。尤も、問題はそうした「対立の一致」のリアリティでしょう。私はそこに「ユートピアのユーモア」を感じています。
ユートピアの重層構造
「ユートピアの実現が私のライフワークだ」などと偉そうなことを言いましたが、そこには根本的な問題があります。それは、私の実現しようとしているユートピアを一体誰が必要としているのか、という問題です。私は決して徒に小難しい理屈をこねているわけではなく、あくまでも「人間として生きることにおける究極的な理想」を摸索しているにすぎません。その意味において、私のユートピア追求は一つの思耕実験だと言えるでしょう。
しかし一口にユートピアと言っても、その形態は様々です。正にピンからキリまであると言えるでしょう。そこには「お金で得られる幸福」によるユートピアを基層とする重層的な構造を見ることができます。私は以前の便りで、その重層構造をアルカディアとユートピアの二つに大別しましたが、ここではもっと単純に考えてみたいと思います。すなわち、低次元のユートピアと高次元のユートピアについてです。ただし今は、何が低次元で何が高次元か、ということは問いません。重要なことは、我々は実に様々な次元でユートピアを追求しているという現実です。そして、昨日の便りで述べたような万人救済のユートピアを求めるならば、そうした多次元のユートピアについて考えることを余儀なくされるでしょう。
例えば宮澤賢治は「世界全体の幸福」ということを言いますが、それをそれぞれの「個人の幸福」の集合だと考えるなら、全く不可能な概念でしかありません。私は「世界全体の幸福」というものを「個人の幸福」というアトムが結合して形成されるような全体だとは考えていません。これは賢治においても同様だと思いますが、「世界全体の幸福」と「個人の幸福」は全体と部分の関係としてではなく、あくまでも相即関係、すなわち「世界全体の幸福」即「個人の幸福」というように理解すべきだと思います。
マルメラードフとイヴァン
ドストエフスキイの『罪と罰』に登場する酔っ払いマルメラードフは全くダメな男です。せっかく職にありついても酒で失敗して辞めさせられるということばかり繰り返しています。当然、家族は生活に困るわけで、挙句の果てに愛する娘ソーニャが身を売ることにまでなります。こうした悲惨な現状を目の当たりしながらマルメラードフは何もすることができず、それどころかソーニャが稼いできた「なけなしのお金」をくすねて、毎晩酒場で呑んだくれている始末です。そんな虫けらの如き人間ではありますが、マルメラードフも一種のユートピアを夢見ています。それは万人救済説とも言うべき宗教的ヴィジョンで、私の曖昧な記憶によれば、大略次のようなものです。
「…やがて最後の審判の時がやってきて、神様は全ての人間を一人一人吟味される。正しい人、立派な人は当然神様に愛されて天国へと送られる。そして最後に俺達の番がきて、神様は言われるのだ。出て来い、豚ども! お前達は全く救いに値しないクズだ。しかし私はお前達も天国へと送ってやる。というのは、お前達は自分がどう仕様もないクズだということを知っており、そのことで死ぬほどの苦しみを味わってきたからだ。――俺達は神様のそうした言葉を聞いて、涙を流しながらついていく…」
そうしたマルメラードフの言葉を周囲で聞いていた酒場の連中は「自分の都合のいいことばかり言うな!」と嗤います。確かに論理だけで言えば、マルメラードフの言葉は自己正当化でしかないでしょう。しかし、ダメな人間も究極的には救われるという万人救済説には「ユートピアの実現」にとって無視できない問題があると思います。
ところで、こうしたマルメラードフのユートピアについて考える時に、いつも私が思い浮かべるのはイヴァンです。彼はドストエフスキイの『カラマーゾフ兄弟』に登場しますが、マルメラードフとは正反対の考えを持っています。すなわち、最終的に全ての人が救われる神の「調和の国」に対する反逆です。彼は言います――「終末において全てが和解するとしても、今虐待されている罪なき子どもたちの苦しみはどうなるのか。また、親の目の前でその子どもを犬に噛み殺させた暴君をどうして許すことができるのか。こうした全ての人間の苦しみが終末において神の国に入るために必要不可欠なものだとしても、その入場料は余りにも高すぎる。たとい神の国への入場券が与えられるとしても、僕はそれを神に謹んでお返しする…」
勿論、マルメラードフとイヴァンとでは文脈が異なり、両者を単純に比較することはできないでしょう。しかし万人救済を夢見るマルメラードフと「調和の国」に反逆するイヴァンとの関係は極めて重要であり、じっくり思耕する必要があると私は思っています。