無差別級としてのユートピア | 新・ユートピア数歩手前からの便り

無差別級としてのユートピア

「美しい花がある。花の美しさというものはない」と小林秀雄は言いましたが、それに準えて言えば、「楽しい生活がある。生活の楽しさというものはない」ということになるでしょう。どうも私は「生活の楽しさ」を見極めるという理念的追求に懸命で、現実を上滑りしているようです。それは認めざるを得ません。


しかし、現実の「楽しい生活」というものにも様々な次元があるでしょう。例えば、余り適切な例ではありませんが、同じ「野球を楽しむこと」においても草野球とプロ野球では次元が違います。前者を「娯楽の楽しさ」、後者を「生活の楽しさ」だと言い切るつもりはありませんが、「楽しい野球」にも重層構造を見ることができるでしょう。ただし私が構想するユートピアの重層構造は、そのような「それぞれのレヴェルで楽しむ」ということとは少し違うように思います。


その違いをうまく表現することができませんが、それは言わば柔道の体重別制に対する違和感に通じています。私はかねがね「柔よく剛を制す」をモットーとする柔道が体重別制を採用していることに疑問を感じてきました。すなわち、身体の小さな人が大きな人を投げてこそ柔道なのに、同じ位の体格の人を集めて対戦させるのは邪道だと思うのです。同様に、ユートピアにおける「楽しい生活」も「それぞれのレヴェルで楽しむ」という意味での多次元ではないような気がしています。果してユートピアに「無差別級の楽しさ」を求めるのは、観念論の遊戯にしかすぎないのでしょうか。