便りの復活と新たな思い
別に「ユートピア一歩手前」にまで事態が進展したわけではありませんが、便りを再開することにしました。と言うのも、如何に荒唐無稽だと嗤われようとも、「ユートピアの実現」は私の言わばライフワークであり、その摸索を断念することはできないからです。
尤も便りを終わりにしようと思ったのは「ユートピアの実現」を断念したからではなく、あくまでも新しき村において「新たな一歩」を踏み出すことが困難になったと判断したからに他なりません。その判断は私自身の力不足と、それに伴って他者の力に期待もしくは依存しようとする自分の他力本願的傾向に嫌気がさしたことによるものでした。言うまでもなく、いくら共働態を目指しているとは言え、その理想以前の現段階では個々それぞれの孤独な戦いに堪えなければなりません。私はそのことを孤立無援の寂しさゆえに忘れていたような気がします。また、それに加えて、生来のせっかちな性格から私は結果を出すことに焦りすぎていたとも言えるでしょう。
結局、私はもはや新しき村において自分のなすべきことは何もないと判断したものの、冷静に現状を改めて見直してみると、未だなすべきことはたくさんあると思い直しました。もとより私の当面の課題は「ユートピア実現のための拠点づくり」ですが、その点に関して「新しき村」に固執するつもりは全くありません。しかし今は、新しき村の現状が如何に閉塞的であっても、それを私の望む拠点へと変革していく努力を続けていくべきだと思っています。
率直に言って、理想の歌を忘れたカナリアである今の村など見限って、最初から始めることの自由には常に誘惑されています。しかし今の私にはその自由を充分に活かせるだけの力がありません。むしろ自由に溺れて何もできないでしょう。それが厳然たる事実です。将来、新しき村に代わる「新たな拠点」をつくるにしても、それは新しき村を変革する努力を続けていくことによって自ずと実現していくものだと思います。今は勉強の時です。
ところで私はかつて、村の或る会合の席上で、「村から追放されるまで自分から離村することはしない」と宣言したことがあります。しかし追放以前の段階で村の現状にウンザリしてしまいました。全ては私の忍耐不足によるものです。今後はかつての宣言通り、「追放されるまで」新しき村で様々な実験を試みていくつもりです。
何れにせよ、こうした思いから、再び「ユートピアの実現」をめぐる私の拙い思耕の便りを送ることにします。皆さんの忌憚のない御批判を期待しています。
便りの終焉と御礼
理想社会の実現を求めることにおいては、二つの系列があると思います。一つは、「生存-肉体の糧-欠乏のニヒリズム-水平の次元」であり、もう一つは「生活-魂の糧-過剰のニヒリズム-垂直の次元」です。そして、前者の系列において求められる理想社会をアルカディア、後者の系列のそれをユートピアと私は理解しています。
おそらく一般的に理想社会と言えば、アルカディアを意味するでしょう。すなわち、パンの問題が根源的に解決されて、もはや生存に困らぬ社会です。しかし、そうした理想社会は水平の次元だけでは実現できず、否応なく垂直の次元を必要とすると私は考えます。言い換えれば、パンの問題はパン以上の問題と相即しており、両者を切り離して考えることはできないということです。少なくとも、アルカディア以上のユートピアを求めることは不可避であり、そこに「真の新しさ」があると思われます。
尤も、アルカディア以上のユートピアと言っても、それはアルカディアを否定することではありません。むしろ、実在する理想社会の形態としては、アルカディア以外にはないでしょう。ユートピアは実在するものではありません。ユートピアの「場」とは、言わば「絶対無の場」であり、具体的にはアルカディアを真に実現させる「存在の力」に他なりません。
さて私は、上記のような考えに基いて、自分が「ユートピア数歩手前」にあると判断した新しき村で理想社会の実現を摸索してきました。しかし、これまでの便りで明らかなように、私の摸索は依然として「ユートピア数歩手前」のままで足踏み状態が続いています。実に情けなく、醜悪なことだと思います。そして、今後も新しき村において「新たな一歩」を踏み出すことが期待できず、また「新生会」も実質上の解消が確認された今、この便りを続けることにも意味がなくなったと思うに至りました。もう一度、最初から勉強し直して、次回は「ユートピア一歩手前」くらいから真に実践的な便りを送ることができるようにしたいと思っています。わずか半年足らずの間でしたが、私の拙い便りをお読み下さった皆さんには心から御礼申し上げます。どうもありがとうございました。
カーニヴァルと祝祭
最近、気鋭の若き社会学者である鈴木謙介氏の『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)を読み、その若者を中心とした世界の分析に共感しました。鈴木氏によれば、若者たちの多くは「お祭り化する日常」に生きています。それは、私なりに解すれば、刹那的な生の充実を追いかける生き方に他なりません。尤も、こうした生き方の分析はすでにキルケゴールが「輪作」という作品において展開しているもので、関心(興味)の対象を次から次へと変えていくことで「生の無意味さ」から逃げ続けることです。それが主体性の欠如に由来していることは言うまでもありません。
さて、鈴木氏の言われるカーニヴァルとは「瞬発的な盛り上がり」ですが、確かに今の若者たちは常に「盛り上がれるネタ」を探して生きていると言えるでしょう。サッカー・ワールドカップ、オリンピックなどの所謂スポーツ・イベントから日常のコンパまで、手帳の予定表に何かしら書き込むことがなければ生きていけないような気さえします。このように日常にカーニヴァルを求める生き方からすれば、非常に不謹慎な言い方になりますが、阪神大震災や近頃の脱線事故さえ、一つの「お祭り」と化すでしょう。だからこそ、脱線事故の「お祭り」気分をもう一度味わいたくて、線路に自転車を置くような馬鹿者が現れるのだと思います。勿論、それは一部の異常者にすぎませんが、若者たちが日常生活に潜在的にカーニヴァルを求めているという分析は正しいと言えるでしょう。
しかし乍ら、私には一つだけ異論があります。それはカーニヴァルと祝祭の区別です。鈴木氏は若者たちの「カーニヴァル化する社会」を「日常の祝祭化」とも言われており、カーニヴァルと祝祭を同一のものと見做されているようですが、私はそれらを厳密に区別して考えたいと思います。と言うのも、「カーニヴァル化する社会」とは私の文脈で言えば「ディズニーランド化する社会」にすぎず、私の求める「祝祭的社会」はそれ以上の「生の充実」を実現するものだからです。すなわち、カーニヴァルが「瞬発的な盛り上がり」であるとすれば、祝祭は「永続的な生の充実」だと言えるでしょう。両者の決定的な差異は主体性にあります。
次元の違い
私が新しき村で為すべきことはもはや何もないのではないか――つくづくそう思います。というのも、私の提案する「ユートピアの実現」が他の村人達に殆ど理解されないからです。それは私の説明不足とか彼等の理解不足ということではなく、根源的に次元がズレているような気がします。譬えて言えば、サッカーに関心のある人達ばかりの中で、一人野球について語っているような感じです。しかし、こうした次元の違いとは一体何でしょうか。
いやしくも新しき村への入村を決意した人間の集団ですから、そこには何らかの共通項がある筈です。私はそれを「理想社会への希求」だと理解しています。しかし、その希求の次元が異なっていると思うのです。非常に大雑把に言えば、村人の殆どが求めている理想社会は水平の次元に重点が置かれています。それに対して私は、あくまでも垂直の次元に重点を置いた理想社会を構想しているのです。勿論、真の理想社会は垂直的理想と水平的理想の統合に他なりませんが、現状においては重点の置き方に差異が生じてくるでしょう。水平の次元に求められる理想社会をアルカディア、垂直の次元に求められる理想社会をユートピアと単純化できるかもしれません。
何れにせよ、こうした次元の違いにおいて、あくまでも村内での活動に固執するならば、私には二つの道しかないでしょう。冒頭に述べた譬えに即して言えば、私がサッカーファンに転向するか、逆に彼等を野球ファンに転向させるか、です。言うまでもなく、何れも現実的ではありません。となれば、新たに野球ファンの村をつくるしかないと思っています。
堪忍袋の緒が…
昨日の昼休みに、Sさんの入村についての話し合いがありました。Sさんが年金未納であることなどが問題になりましたが、結局予想した通りSさんの仮入村は諒承されました。その中で、私は大略、次のような発言をしました。
私はSさんの入村に基本的に賛成です。しかし、「入村を認めるかどうか」ということは、Sさんの問題と言うよりも、村自体の問題だと思います。私は原則的に「来る者、拒まず」という姿勢をとりたいですが、最近の入村希望者の傾向を見ると、失業や借金苦など、言わば一般社会では生活が困難になった人が村に最後の希望を見出そうとする場合が殆どです。そうした際に、いつも出されるのが「村は駆け込み寺ではない」という意見です。Sさんの場合がこれに相当するものなのかわかりませんが、たといそうだとしても、私は村は駆け込み寺でもいいと思っています。Sさんに限らず、例えば生きる希望を失ったホームレスの人達の救いになるような村こそ理想でしょう。しかし問題は、今の村にそれだけの経済的体力があるか、ということです。率直に言って、今の村は言わば定員10名の船に12名乗っているようなものです。勿論、村は人手不足で、労働力は必要でしょう。しかし今の村の体制では、その新たな労働力を経済的に活かすことはできません。結局、客観的な事実だけを言えば、現在の村は新しい入村者を迎え入れられるだけの経済的な体力はない、ということです。しかし乍ら、そうした客観的事実によって、新しい入村者を拒否するのは得策ではないと考えます。むしろ重要なことは、新しい人を迎えられるだけの経済的基盤のしっかりした「新しき体制」を早急につくることです。そして、先の評議員会で提案した「新生会」の活動こそ、正にそうした「新しき体制」を準備していくものに他なりません。私は新しい人の入村を歓迎しますが、それ以上に「新しき体制」の実現が必要であることを改めて強調しておきたいと思います。
以上のようなことを一気にまくしたてたのですが、皆の反応は殆どありませんでした。唯一の例外はY氏で、いつもの調子で「なにもしないくせに、偉そうなことを言うな」というような反応があっただけです。再び大きな脱力感に見舞われたことは言うまでもありません。
結局、昨日の便りの終わりでも述べましたが、今の体制内で「新しき体制」を準備していくのは不可能なのかもしれません。Sさんの仮入村が認められたのを機に、私の現在の仕事をSさんに引き継いでいこうかと思っています。
なしくずしの入村
昨夜の定例会には入村を希望されるSさんが出席され、その思いを述べられました。それは、大略、「今の社会は一部の人達だけが豊かに暮らせる不平等なもので、憤りを感じている。それ故、新しき村の活動を通じて、自分としてできることをやっていきたいと思う」という主旨でした。そうしたSさんの入村希望に対して、「村の生活は理想通りにはいかない」というような聞き厭きた意見が出されたものの、さしたる反対意見はなく、「じゃあ、仮入村ということで…」とスンナリ事が運びそうに思われました。しかし、村内理事の一人であるH氏が「待った」をかけたのです。
尤も、H氏はSさんの入村に反対したのではなく、「入村を決定するに当っては、もっと慎重になるべきだ」と主張されたのです。そして、「実に嫌なことを言いますが」と前置きして、先日私が述べたような村の苦しい経済状況を指摘されました。すなわち、「村では一人あたり130万円かかるが、Sさんが村に入られて130万円収入が増えるという保証はない」ということです。それに対して、同じく村内理事のW氏は「そんな経済的なことばかり言っていては駄目だ。確かに新しい人が来て、すぐに村の収入が増えるということはないだろうが、我々は新しい人の将来性に期待すべきだ」と反論しました。その後、色々と意見が出されましたが、結局結論は出ず、翌日の昼休みに(つまり、今日これから)、もう一度話し合うことになりました。しかし、議論の流れからして、おそらくSさんの仮入村は認められるのではないかと予想されます。
さて、会の間中、私は敢えて沈黙を守っていました。それは皆が「入村」ということを如何に考えているかを客観的に見極めたかったからです。その結果、了解したことは、「入村」ということの意味の重大性を真剣に考えているのはH氏以外にはいない、ということです。確かに、上に述べたようなH氏とW氏との意見の違いに関して言えば、経済的なことをうるさく言うH氏よりも新しい人の将来性に期待するW氏の方が「新しき村的」だと言えるでしょう。しかし、率直に言って、W氏の期待は全く無責任なものでしかありません。おそらくH氏とて、新しい人の将来性に期待したいという気持に変わりはないでしょう。ただ、そういう期待をするためには、先ず経済的なものの前提が必要になると思われているに違いありません。その点、私は基本的にH氏と同意見です。Sさんに限らず、新しい人の入村は村の発展には不可欠です。しかし、今の体制のまま、なしくずしに入村者を増やしても意味がないでしょう。とは言え、矛盾しているように思われるかもしれませんが、私はSさんの入村に必ずしも反対ではないのです。要は、Sさんが「新しき体制」を実現するために共働してくれる人でさえあればいいのです。
何れにせよ、「Sさんの入村希望はスンナリ諒承されることはないだろう」という私の予想は半ば外れました。私の予想は、村ではH氏のような意見が支配的だろう、という思いによるものでしたが、それは全くの誤算でした。村人の殆どは、経済の在り方を含めた現体制の問題点に無頓着で、一人入村者が増えれば、それだけ自分の労働が楽になるという程度のことしか考えていないような気がします。やはり、こうした雰囲気の中では、「新しき体制」を実現することは難しいのかもしれません。
入村の条件
この夏にも離村を考えている私が「入村の条件」について語るのは笑止千万ですが、その条件は何も新しき村に限ったことではありません。そこにはユートピアをめぐる不可避の問題があると思います。
最近の「入村希望者」に関する私の考えに対して、「それは新しき村を一種のエリート集団化するものではないか」という疑念を抱かれる方がいるかもしれません。すなわち、新しき村とは本来、あらゆる人に開かれた場所であるべきで、入村に当って細かい条件をつけるのはおかしいということです。私も原則的には「来る者、拒まず」という姿勢が理想だと思います。しかし私は敢えて、「今は入村の条件を厳しくすべきだ」と考えています。それは、例えばディズニーランドでは誰でも遊べるが、その遊びの装置をつくる人は限定されるのと同様です。つまり、「ディズニーランドで遊ぶ人」と「ディズニーランドをつくる人」は厳密に区別する必要があると思うのです。
ところで、先日戴いたコメントの中に、「新しき村」を「教会」と見做すという言葉がありましたが、終末論的に言えば、何れも「すでに」と「いまだ」の間にあると言えるでしょう。すなわち、キリスト教の教会がイエスの十字架上の死において「すでに」始まっている救済のリアリティとその究極的な成就であるキリストの復活が「いまだ」到来していないという現実の間にあるように、新しき村も「すでに」埼玉に実在しているということとその理想は「いまだ」実現されていないということとの間にあるのです。ユートピアを求めることにおける「すでにあるもの」と「いまだないもの」――それはカントの言う「見える教会」と「見えざる教会」に他なりません。
私の言う「厳しい入村条件」とは、あくまでも「いまだないもの=未存在」(Noch-Nicht-Sein)としてのユートピアに関するものです。多くの人が「すでにあるもの」としての新しき村にユートピアを求めることは歓迎すべきでしょう。しかし、それは常に「いまだないもの」としてのユートピアを前提にしていなければなりません。その前提を失って、「すでにあるもの」に閉じこもってしまうことほど醜悪なことはないと私は思っています。
「自分探し」の若者はもとより、生きる意味を見失って彷徨している全ての人の集う場所――それが理想ですが、そのような場所をつくるためには、その理想に主体的に関係する人の力の結集が不可欠です。それはユートピアの門を狭くすることではありますが、真に開かれたユートピアを実現するためには不可避の過程ではないでしょうか。
村の現状
Sさんの「入村希望」をめぐる今一つの問題は村の経済状況です。或る人の計算によれば、村人が一年間生活するのにかかる費用は約130万円です。従って、単純に考えれば、Sさんの入村によって村の支出は130万円増えることになります。しかし、今の村の(生産)体制では、Sさんの労働力が加わって収入が130万円増えることはないでしょう。勿論、村は慢性的な人手不足なので、草刈や田圃の草取りなど、色々とやるべき仕事はあると思います。しかし、新たな収入につながる仕事は殆どありません。こうした現状において、Sさんの入村が歓迎されるとは私には到底考えられないのです。
尤も、こんなことを言っていては、新しい人を村に迎えることなど永久にできないでしょう。だからこそ我々は、「新生会」という組織を設立して、それによって新しい人を受け容れられる経済的な体制を準備していくことを提案したのです。結局それが認められなかった今となっては愚痴にしか過ぎませんが、「新しき体制の確立なくして、新しき人の受容はあり得ない」ということは厳然たる事実だと思います。ただし、「新しき体制の確立」と「新しき人の受容」は相即しており、何れを優先させるかということには議論の余地があるでしょう。すなわち、「新しき人の受容」を優先させて、その新しき力によって「新しき体制の確立」を目指していくということも可能だと思います。私もそうした希望を全く棄てたわけではありませんが、村の現状ではなかなか難しいと言わざるを得ません。また、新しく入村する人が果して「新しき体制の確立」に真に意欲的な「新しき人」足り得るかどうか、ということも問題でしょう。
何れにせよ、Sさんの入村は厳しいと思います。私個人の意見としても、今の体制のままでSさんを村に迎えることには困難を感じざるを得ません。尤も、Sさんが「新しき体制の確立」に自覚的な「新しき人」であるなら話は別です。しかし、その場合には、他の村人がSさんの入村を認めないでしょう。村の閉塞状況は実に根が深く、私の絶望は深まるばかりです。
入村希望者
二年ほど前に村外会員になられたSさんという男性の方がいます。時々農作業の手伝いのために来村されていましたが、次回の定例会に「入村希望」ということで出席されるとのことです。Sさんは三十代の後半で、年齢的には問題ありません。人柄も良い方で、できればSさんには入村して欲しいと思います。しかし、おそらくSさんの希望はスンナリと諒承されることはないでしょう。問題は二つあります。
一つは、Sさんの「入村希望」の理由です。言うまでもなく、本当の理由など私に分かる道理はありませんが、村外会員になられた時には失業中で、その後職を転々とされていた経緯から察するに、やはり「思うような仕事が見つからない」というのが入村を希望される直接の理由ではないかと思われます。勿論、その根柢には「新しき村の精神」に対する基本的な共鳴があるでしょう。そして、これまでの紆余曲折の経験を通じて、自分の「思うような仕事」は新しき村の仕事だと確認されたのだと思います。しかし、率直に申し上げて、Sさんの場合、村の外に「思うような仕事が見つからない」ことがSさんを村に追い詰めているにすぎないような気がしてなりません。少し苛酷な言い方をすれば、村の外の現実ではどうにも生活できなくなったが故に、「新しき村の生活」に最後の希望を賭けようとしている、ということです。
もしこうした私の推測が正しいのなら、そこにどんな問題があるでしょうか。一般社会では生活できなくなったという一種の絶望が「入村希望」を導いているとすれば、それはむしろ私の観点からすれば「正当な理由」だと言えるでしょう。しかし、私はSさんの絶望が単なる経済的な問題であることを危惧しています。と言うのも、一年ほど前に入村した四十代の男性も、「仕事がなくて自殺未遂までしたけれど、最後に新しき村の実現に賭けてみたい」と言って村に来られたのですが、いつのまにか個人の生活に閉じこもってしまった、ということがあるからです。少なくとも外見的には、最初に熱く語られた「新しき村の実現」という情熱など忘れてしまったかのように見受けられます。私はSさんがこの男性と同じ轍を踏むのではないか、と心から心配しているのです。
村の生活は経済的に決して豊かなものではありませんが、さりとてそれほど貧しいものでもありません。むしろ村の外の競争社会に疲れた人にとっては、それなりの「やすらぎ」を感じることができるでしょう。以前にも述べましたが、村ではビジネスということにそれほど神経をつかう必要がないからです。尤も、この呑気な状態をいつまで続けられるのかは定かではありません。しかし、当面、農作業が肉体的には多少苦しくても、精神的には比較的のんびりできると思います。件の男性も、義務労働の後ではナイター中継などのテレビを楽しみ、休日はパチンコで遊ぶという生活に満足を感じているようです。
どうも他人の批判に流れてしまいがちですが、それが私の本意ではありません。一般社会の競争に疲れた人が「新しき村の生活」にやすらぎを求めることは悪いことではないでしょう。しかし私は、村内会員はそこで立ち止まってはならない、と考えます。すなわち、自身がやすらぎを得ることを超えて、真の意味での「やすらぎの場」の完成にまで進んでいくべきだと思うのです。私にとって入村とは、単に「新しき村の住人」になることではなく、あくまでも「新しき村の建設者」になることに他なりません。
繰り返しになりますが、「一般社会に対する絶望」が「新しき村への希望」につながることは歓迎すべきことです。しかし問題は、その希望がアルカディアを経て「ユートピアの実現」にまで達するかどうか、ということにあるでしょう。果してSさんの「入村希望」がそこまでの射程をもっているかどうか――それをじっくりと見極める必要があると思います。
さて、もう一つの問題についてですが、それは明日述べることにします。
幸福からユートピアへ
一般的にユートピアと言えば、「全ての人が幸福に暮らせる世界」のことなので、「幸福からユートピアへ」という発想は理解し難いかもしれません。しかし私は「幸福な人はユートピアを求めることはない」と考えています。本日は、この点について述べたいと思います。
以前の便りで、私は個人幻想・対幻想・共同幻想という三領域について考えました。これらは人間実存の三層構造を成していますが、理想としてはあくまでも三位一体のものとして理解すべきでしょう。しかし現実には、それぞれの幻想領域に基いて様々な情念の葛藤が生じるものと思われます。例えば、幸福という情念に関して言えば、個人の幸福・愛する人との家庭の幸福・社会全体の幸福という三つの次元に分かれます。勿論、いみじくも宮澤賢治が「世界全体が幸福にならなければ、個人の幸福はあり得ない」と言っているように、三つの幸福は本来一つに統合されなければなりません。(蛇足ながら、その統合は個人の幸福を犠牲にして社会全体の幸福に尽くす、というものではありません。)しかし、個人の幸福だけで、もしくはせいぜい家庭の幸福だけで満足してしまうのが現実ではないでしょうか。
もはや明らかだと思いますが、「幸福な人はユートピアを求めることはない」という場合の「幸福な人」とは「自らの幸福を個人幻想もしくは対幻想の領域のみに限定している人」に他なりません。誤解のないように断っておきますが、私はそうした「幸福な人」を非難するつもりはありません。ただ、そうした人達は「ユートピアの実現」というプロジェクトとは無縁だということを明確にしておきたいだけです。言い換えれば、個人の幸福や家庭の幸福という次元だけでは「人間として本当に生きることの幸福」が得られないという人のみがユートピアを求めざるを得ないと思うのです。それが、最近の便りで、自殺者や絶望者のニヒリズムという暗い問題について述べた理由でもあります。
繰り返しになりますが、私は社会全体の幸福を最優先して、それに個人の幸福と家庭の幸福を従属させようと主張しているのではありません。むしろ、最優先すべきは個人としての私自身の幸福だと思っています。ただし、個人の幸福は個人主義では成就することができず、家庭の幸福と社会全体の幸福との三位一体においてのみ実現するものと私は考えています。正にそうした三位一体の実現こそ私の求めるユートピアなのです。