カーニヴァルと祝祭
最近、気鋭の若き社会学者である鈴木謙介氏の『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)を読み、その若者を中心とした世界の分析に共感しました。鈴木氏によれば、若者たちの多くは「お祭り化する日常」に生きています。それは、私なりに解すれば、刹那的な生の充実を追いかける生き方に他なりません。尤も、こうした生き方の分析はすでにキルケゴールが「輪作」という作品において展開しているもので、関心(興味)の対象を次から次へと変えていくことで「生の無意味さ」から逃げ続けることです。それが主体性の欠如に由来していることは言うまでもありません。
さて、鈴木氏の言われるカーニヴァルとは「瞬発的な盛り上がり」ですが、確かに今の若者たちは常に「盛り上がれるネタ」を探して生きていると言えるでしょう。サッカー・ワールドカップ、オリンピックなどの所謂スポーツ・イベントから日常のコンパまで、手帳の予定表に何かしら書き込むことがなければ生きていけないような気さえします。このように日常にカーニヴァルを求める生き方からすれば、非常に不謹慎な言い方になりますが、阪神大震災や近頃の脱線事故さえ、一つの「お祭り」と化すでしょう。だからこそ、脱線事故の「お祭り」気分をもう一度味わいたくて、線路に自転車を置くような馬鹿者が現れるのだと思います。勿論、それは一部の異常者にすぎませんが、若者たちが日常生活に潜在的にカーニヴァルを求めているという分析は正しいと言えるでしょう。
しかし乍ら、私には一つだけ異論があります。それはカーニヴァルと祝祭の区別です。鈴木氏は若者たちの「カーニヴァル化する社会」を「日常の祝祭化」とも言われており、カーニヴァルと祝祭を同一のものと見做されているようですが、私はそれらを厳密に区別して考えたいと思います。と言うのも、「カーニヴァル化する社会」とは私の文脈で言えば「ディズニーランド化する社会」にすぎず、私の求める「祝祭的社会」はそれ以上の「生の充実」を実現するものだからです。すなわち、カーニヴァルが「瞬発的な盛り上がり」であるとすれば、祝祭は「永続的な生の充実」だと言えるでしょう。両者の決定的な差異は主体性にあります。