タコ社長の教訓
寅さんの映画に出てくるタコ社長はいつも経営が苦しいと嘆いていますが、或る時「人間、下を見て生きていかなきゃ駄目なんだなあ…」としみじみ呟いて自分を慰めていたことがあります。私はこのシーンを見た時、咄嗟にHappiness consists in contentment.という英語の諺を思い浮かべました。すなわち、「幸福は満足に在り」ということです。勿論、ここで言う「満足」とは所謂「足るを知る心」であり、次々と生じてくる欲望を満たそうとするのではなく、むしろ現状に充足を見出すことにこそ幸福があるというわけです。しかし問題は、如何にして現状に充足を見出すか、ということでしょう。
タコ社長は「下を見て生きていく」ことによって、すなわち自分よりも苦しい境遇で頑張って生きている人が世の中にはたくさんいるという認識によって、自分の現状に幸福を見出そうとします。こうした生き方は、上ばかり見て不満を募らせていくよりも良いですが、やはり本当の幸福をもたらすものだとは言えません。勿論、下を見て、「自分も頑張らなければ!」と思うことは大切なことです。しかし、月並みな意見ながら、自分が真に幸福になるためには、上でも下でもなく、他ならぬ自分自身を見つめる必要があると思います。自分自身の苦悩から逃避する限り、Happiness consists in contentment.は「幸福はアキラメに在り」としか理解できません。その意味において、少なくとも人間は「下を見て」現状に充足すべきではないと言えるでしょう。
では、タコ社長は如何にして自身の苦しい現状から幸福へと至ることができるでしょうか。言うまでもなく、自分の印刷工場の経営が好転することによってでしょう。確かに経営さえ楽になれば、タコ社長は幸福を感じることができます。しかし、私がこの便りで繰り返し問題にしているのは、その幸福からユートピアまでの距離なのです。果して、この問題意識は余計なお世話なのでしょうか。
ニヒリズムとユートピア
ユートピアが理想社会であるならば、そこではあらゆるニヒリズムが克服されなければなりません。言うまでもなく、一口にニヒリズムと言っても様々ですが、以前の便りでも述べたように、私は「欠乏のニヒリズム」と「過剰のニヒリズム」に大別できるのではないかと思っています。すなわち、人間が「生存」するのに必要なもの(主に、肉体の糧)の欠乏に基くニヒリズムと「生活」の充実(主に、魂の糧)を求める自由の過剰に基くニヒリズムです。そして、大略、「欠乏のニヒリズム」は所謂ナショナル・ミニマムが満たされるアルカディアによって克服され、「過剰のニヒリズム」は祝祭的共働を実現するユートピアによって克服されるという図式を示してきました。
問題はアルカディアとユートピアの関係ですが、私はこれまでそれを通時的に、アルカディアが歴史的(弁証法的)にユートピアへと発展するという理解を示してきましたが、最近はむしろ共時的に考えるべきではないかと思っています。すなわち、アルカディアとユートピアが入れ子状に共存するという構造です。この構造であれば、人間のあらゆる苦悩(ニヒリズム)に対応できる理想社会になるのではないでしょうか。
尤も、これはヘーゲルの「あれも-これも」の発想であり、キルケゴールの「あれか-これか」という姿勢で思耕してきた私としては若干疑問に思わざるを得ないところがあります。しかし、ユートピアを余りにもストイックに考えるのは適切ではないと思い始めています。私はユートピアとニヒリズムは密接に関係していると思っていますが、少なくとも「根源的ニヒリストのみがユートピアを求める」という考えは現実的ではないと反省しています。
村の本分
「自分探し」を目的とする大学生が体験入村に来られて数日経ちますが、早くも問題が生じ、「村には居辛くなった」という悩みを訴えています。それは当然予想されたことで、だからこそ私は先の定例会において「体験入村規定」(特に、体験入村者を受け容れることの意味)を確認し、基本的な受容体制を整えておきたかったのです。しかし、先の便りでお知らせしたように、私の提案した「体験入村規定」は保留にされました。私は、今の体制のままでは到底体験入村者を受け容れることなどできないと思っています。
具体的にどんな問題が生じたかということは余りにも下らないので省略しますが、結局それは「その学生が労働力にならない」という事実から発していると言えます。尤も、その学生は当初「田植を手伝いたい」と言っていたにも拘らず、村に来る直前に腰を痛めたとかで、田植はおろか草刈さえできないということになったのが皆に悪い印象を与えたのだと思います。「偉そうなことを言っておいて、実際には軽作業しかできないとは何だ!」というわけです。私は、この論理自体は間違っていないと思います。ただ、この論理で体験入村者を受け容れることはできない、ということを言いたいのです。
誤解のないように断っておきますが、村人がその学生に対して意地悪をしているということではありません。ただ、「自分探し」という目的で体験入村を希望する学生と村で現実に労働している村人とでは、その発想が全く異なるのです。おそらく、その学生が腰を痛めなくても、彼の立居振舞いは「甘い」と見做されたことでしょう。彼は礼儀正しい真面目な青年ですが、だからこそ一種の「青臭さ」が余計に目立つのかもしれません。しかし、それは当然のことです。
或る村人が私に「あの学生がいても、村のためにはならない」と言いましたが、「村のため」とは一体どういうことでしょうか。もしそれが「村の生産活動に対する利益」ということであるなら、その発想は「村の本分」を全く理解していないと思います。少なくとも公益法人としての「村の本分」という発想は、青臭い学生に批判的な村人には全くないでしょう。勿論、私はその学生を大目に見ろと言いたいのではありません。むしろ、体験入村を希望する以上、厳しく接するべきだと思います。ただ、その厳しさに「その学生を育てる」という発想が全く感じられないのが寂しいのです。
何れにせよ、私はその学生に「村に居辛くなった」という思いをするのも体験だから、もう暫く村のありのままの生活を味わってみてはどうかと言いました。尤も、「村に居辛くなった」という思いは他人事ではないのですが…。
キリーロフの教訓
椎名麟三は「死のうと思うこと」と「実際に自殺すること」との間には絶対的な断絶があると述べていますが、確かにそうだと思います。それは、「論理的な自殺」を豪語したキリーロフでさえ、最後は錯乱としか言いようのない死に方をしたことからも明らかでしょう。そして、昨日の便りで述べたように、その断絶を越えるのは絶望ではありません。むしろ絶望を深めれば深めるほど、自殺は遠ざかるのではないでしょうか。
例えば、実に幼い小中学生が自殺することがあります。また、最近はネットで知り合った若者達が集団で自殺するということもありますが、一体彼等にどんな苦悩があるというのでしょう。失恋、受験の失敗、いじめ、ぼんやりとした不安…自殺の切掛は様々でしょうが、私にはそこに自殺するほどの理由があるとは到底思えません。勿論、自殺者の苦悩は本人にしかわからず、他人の私が客観的にとやかく言っても意味がないでしょう。しかし、傲慢かもしれませんが、自殺者の苦悩が自殺しない私の苦悩以上のものだとは、どうしても思えないのです。殊に小中学生の自殺を報じるニュースに接する時、その感を強くします。
しかし、たといどんなに幼くても、彼等が自殺したということは事実です。そこに何らかの苦悩があったことは間違いありません。ただし、苦悩の果てに彼等が死を選んだとは考えられません。むしろ、苦悩の果てまで歩んでいくことを放棄したが故に、彼等はいとも簡単に死へと赴くことができたのだと私は思います。尤も、「苦悩の果てまで歩む」ということは並大抵のことではなく、誰もがその強さを持っているとは限らないでしょう。かく言う私も、偉そうな事を言っていますが、日々不安の中で揺れながら生きているというのが実情です。だからこそ、連帯を熾烈に求めざるを得ないのです。そして、死への逃避を拒む苦悩者(絶望者)がその連帯によってユートピアを形成していくことを心から望まずにはいられません。
「死に至る病」とユートピア
この便りを目にする人の中には「自殺者が3万人を超える時代に、ユートピアだの祝祭だのと呑気なことを言うな」という感想を抱かれる方がいるかもしれません。しかし私としては、このような時代だからこそ、ユートピアについて真剣に考える必要があると思うのです。
ところで、キルケゴールによれば、「死に至る病」とは絶望のことですが、自殺者は未だ真の絶望に至っていないということを述べています。つまり、自殺者にとっては死が最後の希望になっているのです。確かに、多くの場合、「死ねば、全ての苦悩から解放されて楽になれる」――これが自殺者の求める救いだと言えるでしょう。その意味において、自殺者は真の絶望に至る一歩手前で死へと逃避しているにすぎません。しかし、そうした死への逃避が真の救いをもたらさないことは明白です。むしろ、逆説的に言えば、死への逃避さえ救いにならない境地――それが真の絶望なのですが――に達する時、初めて救いの次元が開けてくるでしょう。
こうしたキルケゴールの絶望論を私なりに解釈すれば、「自殺者は肉体を殺すことはできるが、自らの魂を殺すことはできない」ということになります。言い換えれば、人間は肉体の死を以て苦悩から解放されることはない、ということです。ここで余り哲学的な議論に深入りしても意味はありませんが、自殺者と絶望者を区別することには意味があると思います。すなわち「死に至る病」=絶望における死とは、肉体の死ではなく、魂の死だということです。
何れにせよ、肉体の死へと逃避しようとする自殺志願者が、その逃避さえ救いにはならないというところまで絶望を深める時、ユートピアの実現が不可避の問題として現れてくるでしょう。ユートピアは決して呑気な問題ではありません。自殺志願者ならアルカディアやディズニーランドで救われるかもしれませんが、絶望者を救い得るのはユートピアだけだと私は思っています。
遊びのリアリティ
どうも「売れるユートピア」をめぐる先日来の主張は誤解を招きそうなので、少し補足します。
私はディズニーランドに一度も行ったことがありませんし、当面行く必要も感じていませんが、別にディズニーランドを否定するつもりはありません。おそらく親しい友人達と行けば、楽しい時間を過ごすことができるでしょう。ディズニーランドに限らず、「娯楽として遊ぶこと」にはそれなりの意味があると思います。それ故、昨日の便りの最後で、ユートピアにおいては「娯楽として遊ぶこと」が不必要になる、と述べたのは少し言い過ぎだったと反省しております。私の本意は、ユートピアにおける生活の楽しさは「娯楽として遊ぶこと」の楽しさに尽きるものではない(更に言えば、それ以上のものになる)、ということに他なりません。
例えば、宝くじに当選して、一生遊んで暮らせるようになる――それは誰もが夢見る境遇ですが、そこには真のユートピアはないと私は思います。自分だけが一生遊んで暮らせるようになっても仕方がないという倫理的な問題もさること乍ら、所謂「遊んで暮らす」ことには遊びのリアリティがないからです。勿論、全世界の人間が生活上の不安から完全に解放されることは望ましいことです。その意味において、全ての人が一生遊んで暮らせるようになるのは一つのユートピアだと言えるのかもしれません。しかし私は、ユートピアのリアリティはそれ以上のものだと考えています。
ユートピアとエンターテインメント
「売れるユートピア」とは何か。それは、以前の便りで述べた「ディズニーランドよりも楽しい村づくり」という発想に基くものです。尤も、その際にも指摘しましたが、「娯楽の場」であるディズニーランドと「生活の場」である新しき村は次元を異にするものであり、その両者の楽しさを単に比較することには意味がないでしょう。ただ私としては、ディズニーランドにおける非日常的な「娯楽の楽しさ」を超える日常的な「生活の楽しさ」を実現したいと思っています。それは単なる比較の問題ではなく、言わば娯楽の楽しさを生活そのものに奪還する試みだと言えるでしょう。
一般的に考えれば、「娯楽の楽しさ」は息抜きにすぎません。ディズニーランドで遊ぶことが如何に楽しくても、それを人生の目的だと思っている人はいないでしょう。しかし、ディズニーランドはともかくとして、遊ぶことを人生の目的だとする人はいると思います。少なくともHomo ludensとしての人間にとって、遊びは決して否定的なものではありません。ただ、ユートピアとの関連で私が問題にしたいことは、あくまでも「娯楽として遊ぶこと」なのです。
問題を非常に単純化して言えば、「娯楽として遊ぶこと」では遊びの本質を極めることができないでしょう。言い換えれば、「生活-娯楽」という二項対立の構図に基く限り、遊びはついに擬似体験(言わば、遊び=ごっこ)にしかすぎず、真にリアルなものにはならないのです。尤も、「遊びとは元来ごっこではないのか」と言われるかもしれませんが、私はそのように考えておりません。遊びは祝祭と密接に関係していますが、その本質については改めて思耕することにして、ここでは単に「遊ぶために労働する生活ではなく、労働そのものが遊びになる生活、更に言えば生活それ自体が遊びになることにこそ、娯楽の楽しさを超えるユートピアの楽しさがある」とだけ述べておきます。
何れにせよ、「売れるユートピア」とは、そこで日常的に生活することが楽しくてたまらないような場に他なりません。なかなかその楽しさをうまく表現することができないので、色々と誤解が生じるでしょう。しかし、ユートピアにおいては「娯楽として遊ぶこと」が不必要になることだけは確かだと思っています。
Noch-Nicht-Sein
先月末の定例会には、体験入村を希望される大学生の方が出席されました。それに合わせて、先日の便りでお知らせした「体験入村規定」の試案を提出したのですが、その趣旨は殆ど理解されませんでした。尤も、大学生の希望自体は諒承され、1ヶ月の体験入村が決定したので、結果的には良かったと言うべきかもしれません。
しかし、私は今、非常な失望を感じています。殆ど絶望と言っても良いでしょう。私としては「体験入村」の門を広げることで、新しき村を「売れるユートピア」にする第一歩を踏み出したかったのですが、私の言葉は結局「唐人の寝言」にすぎませんでした。勿論、「売れるユートピア」などという刺激的な言葉は口にしませんでしたが、私の問題意識が相変わらず今の村に響かないのは明らかです。
尤も、「村の現実」と「私の理想」の間に質的な断絶があることはすでに了解していたことであり、今更愚痴を言っても仕方がないでしょう。私は全てを承知の上で、敢えて理想を語り、「村の変革」を試みてきました。それは、或る意味で、新しき村に対する未練だと見做されるかもしれません。しかし私は新しき村に固執するつもりのないことを繰り返し明言してきました。その気持に今も変わりはありません。ただ、その一方で、たとい創立時の理念が変質しているとは言え、ここまで存続してきた村の可能性を何とかして活かしたいという思いがあるのも事実です。
確かに新しき村など見限って、一から自分達のユートピアを実現することに集中すべきなのかもしれません。実際、事ここに至って、そうせざるを得ないとも思っています。そもそもユートピアは、アルカディアとは異なり、「未だ-ない-もの」に他なりません。しかし、もし「村の変革」に成功すれば、その実現への道は大きく切り開かれるでしょう。少なくとも、「一から始める」よりも大きな仕事ができるように思われます。果して、これはやはり未練なのでしょうか。
何れにせよ、「村の変革」もさること乍ら、私は自分自身の状況も早急に変革しなければなりません。身動きの取れない今の状態をいつまでも続けているわけにはいかないのです。率直に言って、今の私の精神状態は不安定で、今後については揺れ続けています。しかし、この夏までには結論を出したいと思っています。
ユートピアを売る
ラジオを聴きながら労働している私は、毎日様々な音楽を耳にします。そして特にヒット・チャートなどで「今、売れている曲」が流れるたびに考えることは、そうした曲が「よく売れる意味」についてです。おそらくヒット曲を買っている人の殆どは若者だと思いますが、「売れる」ということは「必要とされている」からでしょう。しかし、それは一体どのような必要なのでしょうか。
予め誤解のないように断っておきますが、私はここで「くだらない曲が売れている」と言いたいのではありません。尤も、私の感覚はもはや若者の流行についていくことができず、「どうしてこんな曲がヒットするのか」と思うことも少なくありません。しかし、たとい私にはその曲の素晴らしさが理解できなくても、それが「売れる」という事実は無視できないと思っています。更に言えば、これまでの私は「売れる」ということに余りにも無頓着だったような気がします。むしろ、軽蔑してきた、と言えるかもしれません。
しかし、どういう心境の変化によるものか、最近は「売れる」ということが非常に気になります。殊に音楽の場合、そこでは何らかの理想が語られているだけに、それが「売れる」ことに無関心ではいられないのです。俗に音楽産業は「夢を売る仕事」だと言われますが、「よく売れる夢」はユートピアと無関係ではないでしょう。
若者が或る曲のCDを買う。それはその曲によって数分間「夢見る必要」のためだと思います。苦しい労働の後で聴けば、その曲がもたらす夢に癒され、楽しいデートの最中に聴けば、夢は更にふくらんでいくでしょう。そうした「夢の創造」にこそ「よく売れる意味」があると私は思っています。
以前の私であれば、ヒット曲による「数分間の夢の創造」に「民衆の阿片」を見て批判したことでしょう。すなわち、「そんな束の間の夢で現実から逃避するな!」と。しかし、「現実逃避ではなく新たな現実の創造を!」という基本姿勢は変わらないものの、今はこれだけ売れているヒット曲の「夢の創造」を一概に否定することはできないと思い始めています。むしろ、その「夢の創造」を何とかして「新たな現実の創造」へと繋げる道はないものか、と考えています。端的に言えば、「売れるユートピア」の提案です。
静かな村
最近、ハイキングなどで村に立ち寄る人が目立ちますが、その殆どの人が口にするのは「ここは静かで良いところねえ」という言葉です。そして大抵、「こんなところに住んでみたいわねえ」と続きます。「だったら、住んでみろ!」と、そうした言葉を耳にするたびに私は心の奥底で叫んでいますが、同時に非常な徒労感を覚えます。
結局、多くの人が求めているのは「静かなアルカディア」であって「活気溢れるユートピア」ではないのではないか――そんなふうに思うのです。もしそうだとすれば、「新しき村の変革」など大きなお世話でしょう。確かに今の村は静かなところであり、そこを訪れる人がやすらぎを感じていることは事実です。私などがその静かな村を掻き回す必要はないのかもしれません。しかし、私はその「静けさ」に疑問を感じざるを得ないのです。
率直に言って、「静かな村」は表面的な印象にすぎません。一歩、内に入れば、村の人間関係は単に静かなだけではないことがわかるでしょう。尤も、昨日の便りに述べたような事情で、人間関係の軋轢は表面化しないようになっています。それが良いことなのか悪いことなのか定かではありませんが、他人を非難するということを抑制しているからです。ただし一人だけ例外がいます。それは私です。どういうわけか、定例会などで公然と非難されるのは私だけです。しかし、私以外の人間が公の場で非難されるということはなく、村は常に「表面的な静けさ」を保っていると言えるでしょう。勿論、私はそんな「表面的な静けさ」など無意味だと思っています。(だからこそ、非難されるのかもしれません。)おそらく、静かな村に住んでみたいと思う人でも、「表面的な静けさ」の裏に潜む村の現実に接すれば、すぐに逃げ出したくなるに違いありません。
しかし乍ら、こうしたことは何も今の新しき村に特有のことではないと私は思います。それはアルカディアの構造そのものに由来する問題に他なりません。すなわち、たといどんなに「静かな村」に憧れても、そこに安住することなどはできない、ということです。その意味において、アルカディアは常に「失楽園」と化す運命にあると言えるでしょう。言い換えれば、アルカディアからユートピアへの移行は不可避だと思わざるを得ないのです。