キリーロフの教訓
椎名麟三は「死のうと思うこと」と「実際に自殺すること」との間には絶対的な断絶があると述べていますが、確かにそうだと思います。それは、「論理的な自殺」を豪語したキリーロフでさえ、最後は錯乱としか言いようのない死に方をしたことからも明らかでしょう。そして、昨日の便りで述べたように、その断絶を越えるのは絶望ではありません。むしろ絶望を深めれば深めるほど、自殺は遠ざかるのではないでしょうか。
例えば、実に幼い小中学生が自殺することがあります。また、最近はネットで知り合った若者達が集団で自殺するということもありますが、一体彼等にどんな苦悩があるというのでしょう。失恋、受験の失敗、いじめ、ぼんやりとした不安…自殺の切掛は様々でしょうが、私にはそこに自殺するほどの理由があるとは到底思えません。勿論、自殺者の苦悩は本人にしかわからず、他人の私が客観的にとやかく言っても意味がないでしょう。しかし、傲慢かもしれませんが、自殺者の苦悩が自殺しない私の苦悩以上のものだとは、どうしても思えないのです。殊に小中学生の自殺を報じるニュースに接する時、その感を強くします。
しかし、たといどんなに幼くても、彼等が自殺したということは事実です。そこに何らかの苦悩があったことは間違いありません。ただし、苦悩の果てに彼等が死を選んだとは考えられません。むしろ、苦悩の果てまで歩んでいくことを放棄したが故に、彼等はいとも簡単に死へと赴くことができたのだと私は思います。尤も、「苦悩の果てまで歩む」ということは並大抵のことではなく、誰もがその強さを持っているとは限らないでしょう。かく言う私も、偉そうな事を言っていますが、日々不安の中で揺れながら生きているというのが実情です。だからこそ、連帯を熾烈に求めざるを得ないのです。そして、死への逃避を拒む苦悩者(絶望者)がその連帯によってユートピアを形成していくことを心から望まずにはいられません。