「死に至る病」とユートピア
この便りを目にする人の中には「自殺者が3万人を超える時代に、ユートピアだの祝祭だのと呑気なことを言うな」という感想を抱かれる方がいるかもしれません。しかし私としては、このような時代だからこそ、ユートピアについて真剣に考える必要があると思うのです。
ところで、キルケゴールによれば、「死に至る病」とは絶望のことですが、自殺者は未だ真の絶望に至っていないということを述べています。つまり、自殺者にとっては死が最後の希望になっているのです。確かに、多くの場合、「死ねば、全ての苦悩から解放されて楽になれる」――これが自殺者の求める救いだと言えるでしょう。その意味において、自殺者は真の絶望に至る一歩手前で死へと逃避しているにすぎません。しかし、そうした死への逃避が真の救いをもたらさないことは明白です。むしろ、逆説的に言えば、死への逃避さえ救いにならない境地――それが真の絶望なのですが――に達する時、初めて救いの次元が開けてくるでしょう。
こうしたキルケゴールの絶望論を私なりに解釈すれば、「自殺者は肉体を殺すことはできるが、自らの魂を殺すことはできない」ということになります。言い換えれば、人間は肉体の死を以て苦悩から解放されることはない、ということです。ここで余り哲学的な議論に深入りしても意味はありませんが、自殺者と絶望者を区別することには意味があると思います。すなわち「死に至る病」=絶望における死とは、肉体の死ではなく、魂の死だということです。
何れにせよ、肉体の死へと逃避しようとする自殺志願者が、その逃避さえ救いにはならないというところまで絶望を深める時、ユートピアの実現が不可避の問題として現れてくるでしょう。ユートピアは決して呑気な問題ではありません。自殺志願者ならアルカディアやディズニーランドで救われるかもしれませんが、絶望者を救い得るのはユートピアだけだと私は思っています。