新・ユートピア数歩手前からの便り -201ページ目

何故ユートピアの実現に固執するのか

最近はどうも憂鬱で、気分がすぐれません。将来への展望が開けず、生きていく情熱が湧いてこないからでしょう。キルケゴール的に言えば、可能性の欠乏による絶望です。私は一体何がしたいのか。何ができるのか。最初から思耕し直してみます。


先ず、私の究極的関心について。それは生を輝かせること、すなわち生の完全燃焼です。これは所謂「燃え尽きたい症候群」に他なりませんが、私は幼い頃からずっとこの思いに憑かれています。そして、生の完全燃焼のためには絶対的なものが不可欠だと思っています。ただし、もはや絶対的なものを実体として考えることはできません。それはあくまでも主体的なプロジェクトとしてしかあり得ないでしょう。言わば、私がそのために生きかつ死ぬことができるような主体的真理です。それは一体何か。


ユートピアの実現、と一応言っておきます。個人幻想の実現としての作品創造もさること乍ら、やはり共働幻想の実現としての作品創造に賭けてみたいのです。と言うのは、個人幻想だけでは生を完全燃焼させることは不可能だからです。私は共働幻想のみが絶対的なもの足り得ると思います。


尤も、「共働幻想のみが絶対的なもの足り得る」とは言え、核となるのはあくまでも個人幻想です。それが原点です。しかし個人幻想だけでは絶対的なものになりません。それが共働幻想と化して初めて絶対的なものになるのです。では、個人幻想が核である共働幻想とは如何なるものでしょうか。私自身の個人幻想が普遍的な共感を得るということでしょうか。私はそれ以上のものだと思っています。


個即全・全即個の祝祭的生の充実。かつて絶対的なものが実体であった時―言い換えれば、未だ神が生きていた時―であれば、絶対的なものに殉じるという生き方(死に方)によって、そのような生の充実が得られたかもしれません。しかし、それはもはや不可能です。神はすでに死に、従ってそれに殉じることもできなくなりました。そこに現代の根源的な絶望があるように思います。我々には全く新しい道が必要です。

新しき村のディコンストラクション

世界には今、構造改革という大きな波が打ち寄せています。それは大量生産・大量消費の都市生活から大地に根ざした持続可能な田園生活への転換に他なりません。後者のことを最近は「グリーンライフ」と称するようですが、その提唱者の一人である佐藤誠氏は「百人一様のハピネス」を目指す工的社会から「百人百様のしあわせ」を目指す農的社会への移行を主張されています。要するに、競争社会から共生社会へのパラダイム・チェインジ――これが世界的規模で進行しつつある構造改革の波だと言えるでしょう。


勿論、日本でも「グリーンライフ」を実現するための様々な試みが行なわれています。その点において、新しき村は決定的に遅れていると言わざるを得ません。実に残念なことです。と言うのも、自他共生を根本精神とする新しき村こそ「グリーンライフ」への構造改革を率先すべきだからです。正にそこにこそ公益法人としての新しき村の使命があるとさえ私は思っています。


ところで、世界の構造改革は若者や定年を迎える団塊の世代の帰農という形で進行していますが、たとい武者小路実篤とは無関係でも、それは「新しき村」を実現する試みだと私は考えています。「新しき村」は実篤とその心酔者たちだけの専売特許ではありません。おそらく、そのように狭く限定することは実篤自身の本意でもないでしょう。むしろ新しき村の運動は真に普遍的なものであるべきです。その意味において、たとい「新しき村」を名乗らなくても、理想社会を求める全ての試みは「匿名の新しき村」への道だと言えるでしょう。実際、脱工業化(巨大化・分業化・平均化という近代主義の克服)という構造改革を果し得るのは「新しき-村」でしかないと思われます。すなわち「ポスト・モダンの帰農」とは近代以前の古き村へと後向きに戻ることではなく、あくまでも前向きに「新しき-村」を実現(と言うより創造)することに他ならないのです。


できることなら小泉首相のように、私も新しき村を解散して、その本来の使命を根源から問い直せれば、と思います。言うまでもなく、私にそのような権限はありませんが、最後の力を振り絞って、現に在る新しき村の解体-再構築を試みるつもりです。

主体的生活者の覚悟

周知のように郵政民営化法案が参議院で否決され、衆議院解散・総選挙の運びとなりました。直後の記者会見で小泉首相は「国会では否決されたが、選挙で民意を問いたい」と述べました。すなわち小泉首相の掲げる構造改革の是非を問うというわけです。しかし、その構造改革の本質とは何でしょうか。


大きな政府から小さな政府へ――それは中央政府の権限を地方へと分権していくことでもありますが、今問題になっているのは官の仕事をできるだけ民へと移行させていくということでしょう。その意味において民営化は真の民主化への第一歩だと言えるかもしれません。つまり大きな権力を持つ中央政府への依存からの自立――これが構造改革の本質だと(幾分の期待を込めて)私は思っています。


さて、こうした私の理解が正しければ、小泉首相の進めようとしている構造改革はユートピアへの第一歩だとさえ言えるでしょう。それは主体的生活者への第一歩でもあるからです。しかし、それは容易なことではありません。大きな政府への依存からの自立とは、言わば親からの子の自立に等しく、これまでは親の庇護のもとで安心して暮らせていたのが今後はすべて子の責任によって生活していかなければなりません。当然、失敗もあるでしょう。郵政民営化に関して言えば、これまで政府の庇護のもとで維持されていたサービスが今後受けられなくなることも考えられます。従って、自立などせず、今まで通り大きな政府に依存して生活していた方が良いという選択も当然あると思われます。しかしもはや財政的にそのような依存を維持することは不可能でしょうし、またそうした依存から汚職など様々な問題が生じていることを考えれば、大きな政府からの自立は不可避だと考えられます。


何れにせよ、主体的生活者は一つの覚悟を余儀なくされるでしょう。郵政民営化程度であれば未だいいですが、これが国防の問題になったらどうでしょうか。今はアメリカの庇護のもとで我々は国内の平和を享受していられますが、そのような依存状況から自立して「自分の国は自分達で守る」という主体性を回復しようとすれば、当然徴兵制の復活ということにもなるでしょう。正直言って、私は軍隊になど行きたくはありませんが、それが主体的生活者の義務になることは否定できません。果して我々はその義務の痛みを共有する覚悟があるでしょうか。


主体的生活者の覚悟について最後に言っておきたいことは、ユートピアとは決して「楽に生活できるところ」ではないということです。言い換えれば、全てを大きな政府にゆだねることで安楽な日常生活が保障されても、それはユートピアではないのです。少なくとも私が求めているユートピアは主体的生活者の共生=祝祭の場に他なりません。今はそれが結果的に「弱者の切捨て」にならぬ道を摸索しているところです。

アルカディアの拠点

私は農文協の雑誌「現代農業」の愛読者で、殊にその増刊号のテーマにはいつも刺激を受けています。例えば、「定年帰農」、「青年帰農」、「自給ルネッサンス」、「なつかしい未来へ」などというものです。また最近発売された8月増刊号のテーマは「戦後60年の再出発:若者はなぜ、農山村に向かうのか」というもので、色々と啓発させられました。


現代の若者たちが、都市の価値観に背を向け(あるいは、背を向けることを余儀なくされ)、一見時代遅れと思われる農山村の価値観に目を向け始めていることには私も注目してきました。と言うより、私がその問題についてあれこれ考えてばかりいるうちに、若者たちの多くはすでに現実的な一歩を踏み出していることに驚いているのが正直なところです。もはや私の出る幕などないでしょう。


尤も彼等の求めているのはアルカディアであって未だユートピアではありません。勿論、それは当然の順序であり、世界中にアルカディアの拠点が生まれていくことは喜ぶべきことだと思います。そして「ゾルレンとしての新しき村」の具体相もそのような拠点たることにあるでしょう。しかし私はやはり、アルカディアからユートピアへの必然性について考えざるを得ません。それは決してアルカディアを否定することではなく、今農山村に向かっている若者たちが真に「新しき価値観」を生み出すためには不可避の問題だと思うのです。


「帰農-自給ルネッサンス-なつかしい未来へ」――それは断じて後向きの運動であってはなりません。と言うより、後向きに戻ろうとするアルカディアはついに画餅にしかすぎないでしょう。現代の競争社会の価値観を超克する「新しき価値観」は前向きに反復されたアルカディア、すなわちユートピアにこそ生まれると思います。

ゾルレンとしての新しき村

私の実現したいユートピアは「新しき村」です。しかし、それは現にある「ザインとしての新しき村」ではありません。尤もこの数年間、私は「ザインとしての新しき村」を何とかして「ゾルレンとしての新しき村」へと移行させる道を摸索してきました。しかし今は、そうした移行の可能性は殆どないと判断しています。


そもそも私にとって「新しき村」とは武者小路実篤が始めた運動に限定されるものではなく、古今東西のユートピアをめぐるヴィジョン(理念)の集大成に他なりません。勿論、「新しき村」という言葉は一般的には実篤の言わば専売特許なのかもしれませんが、私はそこに究極的なユートピアのヴィジョンを見たいのです。


そんなわけで、私は今後、「ザインとしての新しき村」を前提とすることなく、一から「ゾルレンとしての新しき村」の実現を目指していきたいと思っています。しかし、それは何も「ザインとしての新しき村」を否定することを意味しません。それはそれとして存在意義があるでしょうし、私も「ゾルレンとしての新しき村」の実現に向けて活用できるところは大いに活用するつもりです。


何れにせよ、真に重要なことは、「このままでは駄目だ」と思っている人が結集できる場をつくることでしょう。それが「ゾルレンとしての新しき村」への第一歩になると思います。私は無力なので、なかなか思うように事が運びませんが、主体的な共働者との出会いによって何とか将来を切り開きたいと考えている次第です。

このままでいいのか!

「このままでは駄目だ!」――この叫びがユートピア運動の原点だと思っています。言い換えれば、「このままでいい」と言う人はユートピアの実現などに関心を持たないでしょう。しかし、今の世の中で一体誰が「このままでは駄目だ!」と叫ぶのでしょうか。


現在の競争社会においては必然的に勝ち組と負け組が生じてきます。そこには当然努力の差もあります。すなわち努力をした者が勝ち、努力を怠った者は負ける――これは自明の論理です。しかし現実にはいくら真面目な努力を積み重ねても勝てないということがあります。それが単に才能だけの問題であれば仕方ありませんが、私はむしろシステムの問題だと思っています。言い換えれば、真面目な人がいくら努力をしても勝てない社会体制――ここに問題の核心があるのです。


単純に考えれば、勝ち組は「このままでいい」と思い、負け組は「このままでは駄目だ」と呟くでしょう。しかし負け組もいつか勝ち組に転ずることに成功すれば、「このままでいい」と思うに違いありません。それでは駄目なのです。確かに「このままでは駄目だ」という力の中心は負け組にあります。しかし、それがルサンチマンにすぎないのなら、問題の根源的な解決にはつながらないでしょう。


討つべきは勝ち組と負け組を必然的に生じさせる競争社会のシステムそれ自体だと思います。

三つのR

私は新しき村で生活しながら、新しき村を批判しています。それを村に対する「忘恩的行為」だと見做す向きもあるようですが、私はそうは思いません。そのことについて少し述べます。


以前にも述べたかと思いますが、私は新しき村を「ザイン(Sein)としての新しき村」と「ゾルレン(Sollen)としての新しき村」に区別して考えています。簡単に言えば、前者は「現にある村」であり、後者は「あるべき理想の村」です。そして私の批判は前者に対するものであり、その目的は「現にある村」を「あるべき理想の村」へと移行させることに他なりません。その意味において、村の現状に対する批判は不可避だと私は思っています。


しかし乍ら、村内・村外を問わず、殆どの人は村に対する批判を極力無視しようとしているような気がします。そして、一応「村はこのままでは駄目だ」という声に耳を傾けるものの、結果として「現にある村」の変革には消極的で、全てがなし崩しにされているのが現状です。率直に言って、「あるべき理想の村」について議論する前提さえ整っていません。


さて、こうした現状において村の批判を続けることに一体如何なる意味があるでしょうか。「全くの無意味!」と半ば思いながらも、私は次の三つのRに何らかの可能性を見出そうとしています。


1. Renascence 
2. Reformation
3. Revolution


「ゾルレン」の現実化に向けて、三つのRの方法に学びたいと思います。

村の批判について


暫く「死んだ振り」をして今後の活動に向けての勉強をしている間に、村の稲作担当のO氏が離村を表明するなど、図らずも大きな転機が訪れつつあるような気がします。と言うのも、稲作に限らず、これからは村内だけでは対処できない状況になると思われ、否応なく外からの新しい血の導入が必要になると予想されるからです。しかし村の閉塞状況の根は深く、なかなか直ちに改革の開始というわけにはいきません。


例えば最近、村のHPに対する批判があることを或る人から耳にしました。それは私の書いたものに対するもので、「村のHPに村を批判するような文章があるのはおかしい」というものだそうです。私はそのことを聞いた時、実に情けなくて全身から力が抜けていく感じがしました。殊にそれが先月体験入村に来ていた大学生の意見であるということを知って、全く失望しました。古い人ならともかく、比較的若い人が村のHPをどこかの党の機関誌のように考えていることは実に嘆かわしいことです。


私は以前にも村のHPの方向性について書きましたが、そこでは様々な意見が自由に述べられるべきだと考えています。たとい村に批判的な意見であっても、それが村の理想実現に向けてのものであるならば、むしろ歓迎すべきだと思います。勿論、下らぬ中傷は論外ですが、村に対する自由な批判を排除するような検閲的姿勢はおよそ村らしくないと言うべきでしょう。しかし現実には、どうも「村の批判をすることは村らしくない」という短絡的な意見が支配的なようで、村について自由に意見を書き込める「掲示板」の存在さえ「村らしくない」と見做される始末です。こうした雰囲気を打破することは容易なことではありません。

祝祭という幸福

「世界全体の幸福」を求めることは私のエゴイズムだと思われるかもしれません。確かに私の「生の充実」が「世界全体の幸福」の実現にかかっているという意味ではそうでしょう。しかし私はその実現を自分の個人幻想として考えていません。あくまでも共働幻想として目指しているのです。これはやはり大きなお世話なのでしょうか。


しかし私としては、他者がそれに共鳴してくれるかどうかは別にして、共生原理に基く「世界全体の幸福」というヴィジョン(共働幻想)を示しておきたいと思います。勿論、それは未だ完成しておらず、依然として摸索の段階にすぎません。しかし、たとい断片的であっても、少しずつ積み重ねていきたいと思っています。現時点では、以下のことを確認しておきます。


1. 共生原理は競争を否定しない。
2. 「競争原理における競争」と「共生原理における競争」は質的に異なっている。
3. 「競争原理における競争」は勝者と敗者を峻別し、前者のみに幸福をもたらす。
4. 「共生原理における競争」も勝者と敗者を生み出すが、両者は一つのドラマを織り成し、そこでそれぞれの「生の充実」を得ることになる。
5. 勝者の「生の充実」と敗者の「生の充実」は質的に異なるが、そのドラマは世界を劇場と化し、そこに祝祭空間が生まれる。


言うまでもなく、これは実に杜撰な論理にすぎませんが、暫くこの方向で虚妄の闇に身を沈めたいと思います。

幸福をめぐる思耕

思いつくまま勝手なことを書き散らしてきたので、ここで少し問題を整理したいと思います。


1. ユートピアは「皆が幸福に生活できる場所」であり、「世界全体の幸福」の実現を目指す。
2. 果して「世界全体の幸福」は可能か。
3. 競争社会においては不可能だと思われる。
4. 可能だとすれば、共生社会においてしか考えられない。
5. 共生社会における「世界全体の幸福」とは如何なるものか。


さて、「世界全体の幸福」とは全ての人間が勝者になることではありません。それは全ての人間が敗者になることと同様、あり得ないことです。しかし、それはあくまでも競争社会を前提にしたことにすぎません。従って我々は、そうした競争原理に基く「世界全体の幸福」という不可能な理念を超えていく必要があります。


では、競争原理を超える共生原理に基く「世界全体の幸福」とは如何なるものでしょうか。私は先ず、それは個々の人間の主観による自己正当化ではないことを明確にしておきたいと思います。例えば、よく言われることですが、「コップ半分の水」を「半分しかない」と見るか「半分もある」と見るかは人それぞれの主観によります。すなわち同じ状況でも、悲観と楽観によって幸福感は変わってくるということです。確かに、客観的に不幸な状況にいる人でも、主観的に(気持の持ちようによって)幸福になることはできるでしょう。そして、そのような意識の制御によって「世界全体の幸福」を目指すことも可能だと思われます。しかし、それは三流宗教家の説く慰め、もしくはタコ社長の幸福観にすぎません。共生原理に基く「世界全体の幸福」とは、そうした姑息な手段によるものではないと思います。