akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記 -20ページ目

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.991-1/3に続けてご覧ください。

 

▼道の駅源平の里むれの駐車場の側道を進む-2

 

▼道の駅源平の里むれを振り返る、国道11号線の交点を左折

 

▼国道11号線を南方向に進む、次の房前交差点を右折

 

▼房前交差点を東に渡る、県道38号線を西へ進む-1

 

▼県道38号線を西へ進む-2、次の交点を右折

 

 

▼幡羅八幡神社の表参道口(一の鳥居)に着いた、幡羅八幡神社-1

 

▼幡羅八幡神社-2

 

▼幡羅八幡神社-3

 

▼幡羅八幡神社-4

 

▼幡羅八幡神社-5

 

▼後方を振り返る(JR高徳線のワンマンカーが通過)、幡羅八幡神社-6

 

▼幡羅八幡神社-7

 

▼幡羅八幡神社-8

 

▼幡羅八幡神社-9

 

▼幡羅八幡神社-10

 

▼幡羅八幡神社-11

 

▼幡羅八幡神社-12

 

▼幡羅八幡神社-13

 

▼幡羅八幡神社-14

 

 

▼幡羅八幡神社を後にして帰路のことでん塩屋駅へ向かう(約0.5km)、国道11号線の交点へ下る-1

 

▼交点の右は幡羅八幡神社、幡羅八幡神社の境内

 

▼牟礼町原から大町へ入る、幡羅八幡神社の鳥居(裏参道)

 

▼国道11号線の交点へ下る-2

 

▼国道11号線の交点へ下る-3

 

▼北西方向奥に五剣山、国道11号線の交点が見えて来た

 

▼国道11号線の交点を左折(左に幡羅郷八幡神社の石柱-裏参道口)、国道11号線北西方向に進む-1

▼国道11号線北西方向に進む-2、次の交差点を右に渡る

 

▼ことでん塩屋駅へ進む-1

 

▼ことでん塩屋駅へ進む-2、ことでん塩屋駅に着き帰宅の途に就いた

 

 

引き続き、Vol.991-3/3をご覧ください。

Vol.991-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:19<由良山と水神社

29.由良山と清水神社 <撮影:2012.04.15 and 2018.06.22>

由良山(ゆらやま)は標高:120.29m、高松市の郊外、高松平野南部に孤立する小山で、採石によって特に山の北側が山頂付近まで大きく削られることによって露出した岩盤が特徴的な景観を成す。山名の由来は、古の昔、大地震が起こった時この山だけは揺れなかったため「ゆらぬ山」と呼ばれ、それが転化して「由良山」になったという説がある。周囲を人里に囲まれている里山で、室町時代に山頂に由良山城が築城され、江戸時代からは由良石と呼ばれる良質な石材が採掘され、戦時中には比較的大規模な防空壕が掘削されるなど、古くから人との関わりが深い山であった。地質は柱状節理が発達し、第三紀に噴出した岩脈状の黒雲母安山岩からなる岩山である。市街地に近いみどりとして香川のみどり百選に登録されている。(Wikipediaより)

 

清水神社は由良山を背にした社である。祭神は景行(けいこう)天皇の皇子の神櫛王(かんぐしおう)で、社伝では、祭神の後孫が甕(かめ)12口の神酒を奉奠(ほうてん)したとされる。清水神社の別当寺の自性院の記録によれば、承和8年(841)は大旱魃(かんばつ)で、国司の命により空海の弟の真雅(しんが)によって雨乞いを行うことになった。雨乞い神事の際に神櫛王ゆかりの甕を使って祈ったところ大成功したといわれる。

その後、天正年間(1573~92)に長宗我部元親の兵火にあい、神櫛王ゆかりの者が酒を醸していた甕12個のうち3個を残して社殿は焼失した。残った3個の甕を里人たちは大切にお守りしていたが、今度は風水害にあって1個を破損してしまった。残った2個の甕を本殿南側の甕塚に納め、再建した清水神社の本殿床下に破損した甕を埋めた。江戸時代には高松藩の社寺で祈祷をしても雨が降らないときに清水神社で雨乞いをしたとされる。雨乞いの際に、上御盥(みたらい)、中御盥、下御盥から神水を取り、甕を洗えば必ず雨を得たが、甕を洗ったものは必ず亡くなるという伝承がある。平成24年の神事に際し甕を発掘したところ、2区画に分かれた竪穴の石室を検出し、それぞれから甕が出土した。いずれも7世紀の須恵器で、復元できた南側の甕は器高107.6cm、胴部最大径95cmを測る。甕は神事後再び甕塚に埋納されている。

降雨量の少ない香川県ならではの特殊な雨乞い行事を伝える文化財である。 (高松市HP)

 

<所在地・外観>

▼由良山と清水神社-高松市由良町/由良町1050

▼由良山と清水神社-由良石の産地、雨乞いの甕(かめ)洗い神事

 

 

県道156号線の由良バス停から南約400mの所に、清水神社と由良山の登り口がある。

 

▼由良山-南東からの全景、由良山と清水神社への登り口

 

 

由良山」はビュート地形の典型で、山頂から麓まで全山が黒雲母や石英・長石の結晶をもった安山岩からなっていて、見事に柱状節理もみられる。

 

<概 要><歴史遺産>

由良石の産地としても知られ、石灯籠や土台石・石垣・庭石などに幅広く利用され、その石質が風化すると、淡黄色の縞模様を示し、その事で珍重され、皇居の宮殿東庭(一般参賀会場)の敷石にも使用されている。

 

▼由良山-登山口、由良相撲跡

 

▼由良山-石切場跡と柱状節理 、柱状節理

 

▼由良山-石切場跡の睡蓮の池

 

▼由良山-由良石之歴史の説明板、由良石の貌(かお)

▼由良山-アートの丘、川柳さざんかの発表板

 

▼由良山-川柳の発表掲示板、墨彩画の発表板

 

▼由良山-絵の手紙の発表板、投句コーナー

 

▼由良山-西登山口へ300mの位置、由良石

 

▼由良山-由良山防空壕跡、中腹から見た石切場跡

▼由良山-西登山口に到着、登山道

 

▼由良山-山頂が間近、由良山の山頂広場

 

▼由良山-三等三角点、祠と石仏(龍王社と石鎚社)

 

▼由良山-山頂から北方面の標示板(高松市街地から瀬戸内海の眺望) 、高松市街地の風景

 

由良山の東麓には「清水神社」が有り、「由良の甕(かめ)洗い」と呼ばれる雨乞い神事(甕洗い神事)が伝えられている。

 

▼清水神社-全景、境内

 

▼清水神社-社標碑、支える狛犬

 

▼清水神社-社号標、案内図

 

▼清水神社-拝殿、本殿

 

▼清水神社-拝殿の酒呑童子の瓦-1

 

▼清水神社-拝殿の酒呑童子の瓦-2

 

▼清水神社-手洗い石、玉取りの竜

 

▼清水神社-由良大師堂

 

▼清水神社-石佛

 

 

元々、讃岐の国造りに治績の有った神櫛王の子孫が、神酒(みき)をかもす器として使っていた甕(かめ)が12口あったが、長宗我部軍による元亀・天正の兵火で3口だけが残り、そのうち1口を本殿の床下に埋め、2口は拝殿の南側に埋めて塚とし、注連縄で囲んで「甕塚(かめづか)」と呼ぶようになった。

 

▼清水神社-甕塚と上御盥、甕塚と上御盥の説明板

 

▼清水神社-雨乞神事碑、開運碑

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

宮池の北西端を歩道橋入口の日替わり5景。

 

 

宮池の水上展望台の日替わり5景。

 

 

夕陽が懸かる美しい雲を映す宮池の水面。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-102  Orignal掲載日:Vol.196 (2013.07.05)

この瞬間を楽しむ…。

 

いつもいつも、悩み苦しんでいることはない。目標に向かって辛苦努力するのもいいが、花が咲き、風がやわらぎ、気分が高揚する春の季節くらい、酒を飲んで楽しく過ごそうではないか。

そんな一夜を送ることも人生には大事なことである。オマル・ハイヤームは中世ペルシャの科学者にして詩人。

また酒豪としても知られ、今までイランはもちろん、ヨーロッパなどに根強い人気を保っている。

 

今、この瞬間を楽しむ人生の幸福はそこにある。

「酒をのめ、それこそ永遠の生命だ、また青春の唯一のしるしだ。花と酒、君も浮かれる春の季節に、たのしめ一瞬(ひととき)を、それこそ真の人生だ!」

 

彼の詩をもう一つ紹介します。

バグダードでも、バルクでも、命はつきる。酒が甘かろうと、苦かろうと、盃は満ちる。たのしむがいい、おれと君と立ち去ってからも、月は無限に朔望(さくぼう)をかけめぐる!

 

仕事で煮詰まった時などに、海辺を歩きながら、オマル・ハイヤームの「…」を声に出して歌い、ひと晩だけお酒を飲んで楽しく過ごす…なんて、勇気を奮い立たせる言葉ですね。

 

 

<高くがる空間>

JR屋島駅(高松町)から見る屋島の上空。

つくし幼稚園(高松町)の上空。

高松城跡・喜岡寺(高松町)の上空。

高松城跡入口(高松町)の上空。

谷池(高松町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ka宅の畑のヒマワリなど

 

◇ウォーキングコースの山間のヌルデニワトコタラノキ

ヌルデ

 

ニワトコ

 

タラノキ

 

◇ウォーキングコースの畑に咲くラバナ

 

 

 

◇Tu宅の畑のキジカクシの

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<羽間上池・郷屋敷・羽間神社 

羽間上池・中池・下池

道路を挟んで左右に上池と中池・下池がある。

郷屋敷

初代当主柳次郎は、今からおよそ250年前に牟礼の里への移り住み、四代目当主、半三郎義勝は、苗字帯刀を許され、高松藩から「与力」の命を受け、牟礼大町村の行政司法、警察の任に当たり、それ以降は近郷一円を治め高松藩に仕えてきました。以来周辺の人々から「与力屋敷」として親しまれてきました。「与力」とは鎌倉時代には力を与にして加勢する人を意味し、江戸時代には上官を助ける職制として与力制度を設置、各地方を治めた。
又、半三郎義勝は温順にして人望厚く、文化人でもあり、牟礼を訪れる各地の著名な粋人、名人、達人、奇人を持て成し、宴を催し、文化交流の場としても栄えた。(郷屋敷HP)

羽間(はざま)神社

珍しい入口の三連鳥居で、有名な料亭の横に鎮座していて、地域の人たちの憩いの場所でもある。

大正2年、周辺神社(字羽間、熊野神社、字丹僧誕僧神社、同山神社、字中代稲荷神社、同山邊神社)を合祀す。

祭神は、野推神(ノヅチノカミ)。

 

▼所在地、羽間上池

高松市牟礼町大町:〒760-0122

 

▼郷屋敷、羽間神社

 

 

▼ことでん大町駅で下車、国道11号線横断歩道へ進む-1(構内踏切を渡る)

 

▼右方向が大町駅上りのホーム、国道11号線横断歩道へ進む-2

 

▼国道11号線横断歩道に着いた、国道11号線横断歩道を南へ渡る

 

▼JR高徳線の踏切を渡り三差交点を右折、桜ケ丘団地の方向へ進み羽間上池へ向かう(約0.5km)

 

▼牟礼町大町を西南方向へ進む-1、左は牟礼小学校

 

▼牟礼町大町を西南方向へ進む-2、右は中代公民館

 

▼右に「たけま歯科」、牟礼町大町を西南方向へ進む-3

 

▼牟礼町大町を西南方向へ進む-4、次の三叉交点を左折

 

▼左折して大町朝日団地へ入る、大町朝日団地を進む-1

 

▼大町朝日団地を進む-2(次の交点を右折)、羽間上池へ進む

 

 

▼羽間上池の堤防を上がる-1

 

▼羽間上池の堤防を上がる-2、羽間上池に着いた

▼羽間上池の堤防から見る左(南東)方向、右(北西)方向

 

▼羽間上池の堤防から見る後方(北)の牟礼町と奥の五剣山、牟礼小学校・牟礼中学校のズーム景

 

▼羽間上池の堤防から見る東北方向の志度湾と大串岬・小串岬のズーム景、東方向の牟礼中央運動センターのズーム景

 

▼堤防から見る西方向の羽間上池のパノラマ景-1

▼羽間上池の堤防を南方向へ進む-1

 

▼堤防から見る西方向の羽間上池のパノラマ景-2

▼羽間上池の堤防を南方向へ進む-2、羽間池(上・中・下)改修之碑

 

▼石燈籠、羽間上池の堤防道を振り返る

▼羽間上池沿いに南西方向に進む-1

 

▼車道から見る西北方向の羽間上池のパノラマ景-1

▼羽間上池沿いに南西方向に進む-2

 

▼車道から見る西北方向の羽間上池のパノラマ景-2

 

▼郷屋敷へ向かう(約0.4km)、県道272号線の羽間交差点を右折

 

▼羽間交差点の左(東南-志度・三木)方向、県道272号線を西方向へ進む-1

 

▼右(北)方向に羽間上池と奥に五剣山、県道272号線を西方向へ進む-2

▼県道272号線を西方向へ進む-3

 

▼郷屋敷の看板が見えて来た、郷屋敷へ進む

 

(Vol.990-2に続く)

 

 

 <akijii展-(547) 

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03

今報は「無題h」で、所要時間は475Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.990-2/4をご覧ください。

Vol.990-1/4に続けてご覧ください。

 

▼郷屋敷に着いた、郷屋敷-1

▼登録有形文化財、郷屋敷-2

 

▼郷屋敷-3

 

▼郷屋敷-4、Cafe古遊楽

 

▼郷屋敷-5、由来書

 

▼道標「⇦八栗寺・志度寺➡」、郷屋敷-6

 

▼郷屋敷-7

 

▼郷屋敷-8

 

▼郷屋敷-9

▼郷屋敷-10

 

▼郷屋敷-11

 

 

▼郷屋敷を後にして羽間神社へ向かう(約0.1km-次の交点を左折)、正面奥に羽間神社が見えて来た

 

 

▼羽間神社へ進む、羽間神社に着いた

 

▼羽間神社(三連鳥居)-1

 

▼羽間神社(三連鳥居)-2

 

▼羽間神社-3

 

▼羽間神社-4

 

▼羽間神社-5

 

▼羽間神社-6

 

▼羽間神社-7

 

▼羽間神社-8

 

▼羽間神社(羽間公民館)-9

 

 

▼羽間神社を後にして帰路のことでん大町駅へ向かう(約1.3km)、羽間上池の南岸へ進む-1

 

▼羽間上池の南岸へ進む-2

 

▼後方の羽間神社を振り返る、羽間上池の南岸へ進む-3

 

▼羽間上池の南岸へ進む-4、羽間上池の南岸に着いた

 

▼南岸から見る羽間上池のパノラマ景

▼牟礼町大町を西北方向に上る-1

 

▼左(南)方向奥に羽間神社が見える、羽間神社のズーム景

▼牟礼町大町を西北方向に上る-2、次の交点を右折

 

▼右折して桜ケ丘団地を進む、桜ケ丘団地を東北方向に下る-1

 

▼桜ケ丘団地を東北方向に下る-2

 

▼桜ケ丘団地を東北方向に下る-3

 

▼桜ケ丘団地を東北方向に下る-4、桜ケ丘団地案内図(現在地)

 

 

▼羽間上池への三叉交点まで戻った、ことでん大町駅へ進む-1

 

▼ことでん大町駅へ進む-2

 

▼ことでん大町駅へ進む-3

 

▼ことでん大町駅へ進む-4

 

▼国道11号線高架橋を渡る-1

 

▼国道11号線高架橋を渡る-2

 

▼国道11号線高架橋から見る右(東)方向、左(西)方向

 

▼国道11号線高架橋を渡る-3

 

▼国道11号線高架橋を渡る-4

 

▼国道11号線高架橋を渡った、ことでん大町駅へ進む-5

▼ことでん大町駅に着き帰宅の途に就いた、大町駅ホームから見る五剣山のズーム景

 

 

引き続き、Vol.990-3/4をご覧ください。

Vol.990-2/4に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:18<冠纓神社・岩部八幡神社・船山神社

26.冠纓神社 <撮影:2015.09.22>

冠纓(かんえい)神社は別名「かむろ八幡宮」で、香南町の氏神として親しまれ、縁結び神社としても知られる。秋季例祭で披露される夫婦大獅子舞で使用される大獅子は県指定有形民俗文化財で、日本一の大きさともいわれる。讃岐国香東郡井原庄出生説もある安倍晴明が神主をしていたという伝承もある。境内には樹齢800年以上の楠を始め100種以上に及ぶ植物が群生しており、香川県自然記念物に指定されている。

 

861年(貞観3年)、讃岐巡礼中の円珍が井原庄に着いた時、鳩峰大自在王菩薩が現われて井原庄を鎮護すると云った。このため円珍はこの地の里人の力を借りて、宝蔵寺を建てた。1357年、細川頼之(よりゆき)が厚く保護・尊崇し京都石清水八幡宮の冠纓を奉納した。このことから冠尾(かむりお、またはかむろ)八幡宮と呼ばれるようになり、後に冠纓神社となる。現在も地元の人は「かむろ」と呼んでいる。以後も細川氏による信仰・保護を受け、細川氏が衰えた後も由佐氏がこれを引き継いだ。後に讃岐国を支配した生駒親正や松平頼重も社領の寄進をするなど当社を保護している。

 

明治に入ると郷社に列格し、1907年、神饌幣帛料供進神社にも指定されている。1918年には県社に昇格した。1970年、獅子舞に使用される大獅子が県の有形民俗文化財に指定される。1977年、古来よりの自然が残る鎮守の森が香川県自然記念物に指定された。1982年、万葉集天治本が発見され、重要文化財に指定された。

2001年4月、香川郡香南町(後に高松市と合併)が境内を横断する配水管埋設工事を神社に無断で行い、高松地方裁判所は香南町に対し、配水管撤去命令を出した、ということがあった。     (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

▼冠櫻神社-高松市香南町由佐1409

▼冠櫻神社-2頭の大獅子が舞う、細川頼之ゆかりの神社

 

 

由佐城跡から東に戻り、三差交点を右折して県道13号線を西へ約1km行くと、こんもりとした小山と石段が見えてくる。神社下の交点で左(南)に曲がると、「冠纓神社」の表参道口へて進むが、私は由佐天神バス停で降車して、裏参道より参詣した。

 

<概 要><歴史遺産>

▼由佐天神バス停で下車、県道44号線の次の交差点を右折

 

▼県道13号線の北側の一般道を西進、高根通りとの交差点を左折

 

▼高根通りを南下、県道13号線との交差点を直進横断して更に南下

 

▼冠櫻神社の裏参道口に着いた、裏参道の鳥居

 

 

平安・鎌倉時代には宝蔵寺という寺と一体の祠であったものを、室町時代になって守護細川頼之が岡館(天福寺のある丘陵地が遺跡とされる)にいた時、日頃から信仰する京都石清水八幡宮の冠を請うて納め、自ら供奉(ぐぶ)する代わりとした。

 

▼冠櫻神社-裏参道1、境内案内図

 

▼冠櫻神社-裏参道2、随神門

 

▼冠櫻神社-境内

 

▼冠櫻神社-注連柱と拝殿、拝殿1

 

▼冠櫻神社-拝殿2、本殿

 

▼冠櫻神社-大楠、安倍晴明神社

 

▼冠櫻神社-表参道の階段方向、表参道の階段

 

1363(貞治2)年、頼之が将軍足利義詮(よしあきら)の命により伊予(現、愛媛県)の河野(こうの)氏を討った時、冠尾八幡宮に戦勝を祈願して大いに勝ったので、社殿を壮麗にしたと云う。

江戸時代になり、高松石清尾八幡宮の祀官上野刑部の子孫が神主になった事で、田舎にはあっても格の高い神社とされるようになった。戦国時代の冠纓神社を崇敬したのは由佐氏であり、今に伝わる冠纓神社の祭事は、ほとんど由佐氏によって定められたものと言われている。

 

中世においては細川氏との、近世においては高松藩との繋がりが有った事から、冠纓神社には貴重な文化財が伝えられている。

その1つが、1124(天治元)年に書写された「天治本万葉集巻第十五残巻」(国重文)である。

「万葉集」巻15のほぼ4分1にあたる58首分が書かれている。「万葉集」(天治本)は、平安時代書写五大万葉集の1つとして「万葉集」の研究上、価値が高かったが、その一部が新たにこの冠纓神社から発見されたのである。

 

▼天治本万葉集巻第十五残巻(web引用-水彩画風変換)

 

冠纓神社でもう1つ良く知られているのは、秋祭りで繰り広げられる2頭の「大獅子」(県民俗)の競演である。

 

▼大獅子(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

27.岩部八幡神社 <撮影:2015.11.16>

岩部(いわぶ)八幡神社の創始は養老年間(717~724)あるいは天平年間(729~749)と言われている。古くは現社地の北方に鎮座していたが、後に現社地の北西山麓に遷座したと伝わり、その旧跡と考えられる礎石が素婆倶羅社前に見られる。その後、山上に遷座し明徳3年(1392)には細川頼之によって社殿の修築がなされた。イチョウはその頃に植えられたと伝えられている。イチョウは東側を雄木、西側を雌木と呼ぶが、いずれも雌株で、実(ギンナン)をつける。樹高は33mで、幹周は東側が9m、西側が6mである。秋には美しく黄葉し、遠くからもその雄大な姿を見ることができる。なお、幹から多数の気根が垂れ下がっており、乳房に似ていることから産婦の信仰が厚く、乳を授かるよう祈願する者も多い。(高松市HP)

 

<所在地・外観>

▼岩部八幡神社-高松市塩江町安原上692-1

▼岩部八幡神社-2本とも雌株の「おんめんイチョウ」

 

 

冠纓神社から東へ進み、国道193号線を南下して塩江町安原上に入り、岩部橋(香東川)を渡ると岩部バス停がある。バス停から東へ入ると、八幡神社の参道がある。

 

▼ことでん岩部バス停で下車(標示は岩部)、国道193号線を直進(南へ)

 

▼国道193号線を左折、岩部八幡神社の参道を進む

 

▼岩部八幡神社に着いた、石段をのぼる

 

 

岩部八幡神社」の正面に立つと、「岩部八幡神社のイチョウ」(県天然)は、参道の左右に2本肩を並べるように立っている。

 

<概 要><歴史遺産>

▼岩部八幡神社のイチョウの全容

 

 

樹高はどちらも30m以上あり、向かって右側の大きい方は幹囲9m、左側の小さい方は6mである。

 

▼岩部八幡神社のイチョウ-右側の木

 

 

岩部八幡神社は、現在地の西北の山麓に有ったのを現在地に遷したと云うが、その年代ははっきりしない。

 

▼岩部八幡神社-1

 

▼岩部八幡神社-2

 

▼岩部八幡神社-3

 

▼岩部八幡神社-4

 

▼岩部八幡神社-5

 

阿波国麻植郡川田郷(現、徳島県吉野川市山川町川田)から讃岐国香東郡安原山大蔭に来住した川田景安は、岩部八幡神社に阿波の川田八幡神社を1481(文明13)年に合祀したと伝える(香川県神社誌)。大きなイチョウの木は、この川田氏による合祀の時期を示しているのかも知れない。

 

▼川田八幡神社(web引用-水彩画風変換)

 

 

<関連遺産>

木田郡三木町の「熊野神社の二本杉」(県天然)へは、岩部八幡神社から国道193号線を津柳口まで行き、県道263号線を北上する方法でも行く事が出来るが、私は三木町コミバス「奥山・鹿庭コース」で「合戦田(かっせんだ)」という地名の古戦場まで行き、熊野神社を訪れた。(現在はコミバスの運行は無い)

 

▼熊野神社の二本杉-1

 

▼熊野神社の二本杉-2

 

▼熊野神社の二本杉-3

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

引き続き、Vol.990-4/4をご覧ください。

Vol.990-3/4に続けてご覧ください。

 

28.船山神社  <撮影:2016.04.22>

社伝によれば、倭迹迹日百襲姫命、上古、讃岐の東部に来たりたまひ、さらに移りて当地船山に登りたまふ。この地は讃岐の中央にして好き所なりと誉めたまひしにより、祠を立てこれを奉ず。地名百相(倭名抄 毛毛奈美)は、命の御名によって起これりと 創建は天平年間といひ、初め浅野村船岡山に鎮座あり。船岡山は古くは百相郷に属し、船山と称し、当社また船山神社(ふなやまじんじゃ)と称えられ・・・(中略)・・・天正年間、兵火に罹りたるをもって、別当神宮寺の境内に社殿を営み奉還せり。これ現今の鎮座地にして爾来神宮寺大明神と称せらる 明治五年、社号を百相神社と改む

 

<整理すると…>

倭迹迹日百襲姫は讃岐の東部から中央部に移ってきた。船岡山(標高86m)を訪れ、好ましいところだとして山上に小さな御社を建てた。現在の船山神社から南へ700mほどのところである。百襲姫にちなんで百相(もまい)という地名が生まれ、一帯は百相郷(ももなみごう)と呼ばれた。神社は奈良時代の天平年間(729-48年)に創建されたとされる。船岡山は船山とも呼ばれるので「船山神社」と呼ばれた。戦国時代の天正年間(1573-91年)に、土佐の長宗我部氏が四国を席巻した。土佐を統一したあと隣国に兵をすすめ、一時的ながら四国のほぼ全域を制圧した。四国の社寺は多く焼打ちに遭い、船岡山の山上にあった船山神社も社殿を失った。江戸時代に復興されるが、もとの船岡山の山上ではなく、平野部でいま船山神社が建つところへ移された。この場所はかつて神宮寺(神仏習合時代に神社守護のために建てられた寺院)の別当(長官)が住まいするところであるので、神宮寺大明神と呼ばれた。明治期に神仏分離が行われて神宮寺が廃され、社号は百相神社と改められた。もとの船山神社に戻されるのは、第2次世界大戦後である。地元では神宮寺の名で親しまれており、傍らのバス停の名前はいまも神宮寺のままである。

 

<所在地・外観>

▼船山神社-高松市仏生山町甲1149

▼船山神社-600年間神宮寺を守ってきたクスの巨樹

 

 

ことでん仏生山駅から西へ400mの県道280号線を南へ折れて、琴電琴平線の線路を渡って400m行くと、道の西側に「船山神社」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼ことでん仏生山駅、船山神社が見えて来た

 

▼船山神社の社叢とバス停、バス停の名前「神宮寺」

 

▼船山神社-1

 

▼船山神社-2

 

▼船山神社-3

 

▼船山神社-4

 

▼船山神社-5

 

▼船山神社-6

 

 

船山神社の境内には、樹齢600年前後とみられる幹囲約7.3mの「船山神社のクス」(県天然)がある。樹齢から判断して、神宮寺の時代の繁栄を今に伝えるものと云えよう。

 

▼船山神社のクスノキ

 

▼船山神社の社叢-1

 

▼船山神社の社叢-2

 

▼船山神社の社叢-3

 

▼船山神社の社叢-4

 

 

付近からは、神宮寺に使われたとみられる奈良時代から平安時代の古瓦が出土する(百相廃寺とよばれることもある)。文様は香西の勝賀寺跡出土瓦と共通するので、同じ香川郡同士の繋がりを感じさせられる。勝賀寺は香川郡の海への出入口である港を守る寺、百相廃寺は香川郡の平野部の中心を守る寺、という役割分担のあった事も考えられよう。

 

船山神社から県道280号線を約1km南へ行くと、船岡池の横に出る。

池の北側の丘陵地が船山神社の旧地で、「船岡山古墳」がある。

 

<関連遺産>

古墳時代前期前半(3世紀中頃~4世紀前半)の前方後円墳と、もう1つの古墳(形態は不明)からなる。石清尾山古墳群との比較から、古墳時代の始まった時期の香川郡北部と南部の勢力分布が知られる。

 

▼船岡山古墳-位置図、現在の状態(web引用-水彩画風変換)

 

▼船岡山古墳-調査区の位置と墳形復元図、出土した埴輪(web引用-水彩画風変換)

 

▼船岡山古墳-後円部の石列検出状況、盛土検出状況(web引用-水彩画風変換)

 

▼船岡山古墳-西側くびれ部の墳裾、前方部前端の石列(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

楠尾神社への車道から見る宮池。

 

楠尾神社への車道から見る水上展望台、宮池の遊歩道から見る水上展望台

 

宮池の遊歩道から見る鷲ノ山に懸かる雲と宮池の水面。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-101  Orignal掲載日:Vol.195 (2013.06.30)

「個人サバイバルの力」を身につけ…。

 

いまや「安定」という言葉は消え去り、過去の成功体験も常識も通用せず、個としてのスキルを磨いていくしか生き残る道がない時代を迎えている。

一流大学から有名企業に就職し、出世ルートに乗る」「高収入を得たいなら、外資系企業で働く」「サラリーマンでなく個人でやるなら起業する」お決まりのコースから外れた人こそ成功への道が開かれる「個人サバイバルの時代」である。100年に一度と言われる未曾有の大不況に、100年に一度のチャンスを迎えたのだが、このピンチをチャンスに出来るのか。

 

このような大きなうねりから逃げられない以上、エスカレーターではなく、自分の足で階段を上らなければならない。

いや、階段ではなく、山を見つけて道なき道を、しかも一人で登らなければならない時代だ。

道のりは石ころだらけかもしれないし、楽なコースだと思っていたのに、目の前に崖が立ちふさがるかもしれない。

足腰を鍛えなければならないし、急な天候異変に耐える準備と覚悟が必要となる。

また、沢山ある山のうち、どの山に登るのかも自己責任で決めなければならない

 

エスカレーター時代は、自分の希望するものに乗るには学歴などの「切符」が必要であった。

また、一端、一つのエスカレーターに乗ったら「やっぱり向いていない」と思っても、乗り換えは大変であった。

しかし、一人登山であれば、自分が登ると決めれば切符など必要とせず、またいつでも登れる。

違ったと思えば迂回し、別の山に登ってもかまわない。

全員が一つのゴールを目指すエスカレーターと違い、「山の中腹のほうが自分に適した場所だ」と判断すれば、なだらかな草むらを自分のポジションに決めてもいいのだ。

 

企業に依存してしまえば、個人サバイバルのスキルを磨く機会が奪われる危険がある。

一人で泳ぎ抜く力がなければ、「リストラしない代わりに、給料を二十%カットとする」などと一方的に言われても、黙って従わざるを得なくなる。どの船に乗るか乗らないか。今の船に乗り続けるか、別の船に移るか。一人で船を待つか、一人で泳ぎ抜くか。無数の岐路に立つ大きなうねりのなか、個人でサバイバルする力がなければ、選択して行動する自由が奪われ、せいぜいできるのは波を避けようとすることだけとなる。

個人でサバイバルする力さえあれば、大きな波に自分から乗っていくことが出来、予期せぬ事態が訪れたとき、それをチャンスに変えて新たなキャリアをつくることができる

 

米国のある教授の「計画的な偶発のセオリー」という論があるが、その教授が「今のキャリアはどうやってできたか?」の質問に、八十%の人が「予期しない偶然でてきた」と答えているそうだ。安定がない時代、「予期せぬ偶然」は、誰の身にも、何度となくふりかかってくる。

それをチャンスに変える「個人サバイバルの力」を身につけたいものだ

 

 

<高くがる空間>

ウォーキングコースから見るだんご山3兄弟の上空。

久米池の西側の歩行者用道路(新田町)から見る屋島と五剣山の上空。

本覚寺(新田町)の上空。

県道272号線の右(東-高松市東消防署-新田町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースに咲くツルボ(蔓穂)

ツルボはユリ科の多年草で秋の初め頃に山野などに生え、突然茎を伸ばし始め、うす紫色の花を咲かせる。

 

ツルボは昔から皮膚病・神経痛・火傷・切傷などを負った際に、その球根をすりつぶして湿布薬として使用され、驚異の薬効を発揮して重宝されてきた。

今では、医薬品の主成分に使用され、大学で研究が進み、実に様々な症状に効能があることが研究により解ってきているとのことだ。

 

◇ウォーキングコースの畑のオクラ

 

◇ウォーキングコースの山間のクズ

 

◇我家の庭に自生するミヤマキンバイ

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<那須与一と扇の的・イサム・ノグチ庭園美術館・洲崎寺 

那須与一と扇の的(むかし話あれこれ)

もう日は西に傾いて、海がキラキラと夕日に輝き始めていました。すると、平氏方から、女官を乗せた一艘の船が近づいて来ました。見ると、竿の先に、扇が立ててあって、女官がしきりに手招きをしています。この扇の的を、弓で射てみよというのです。それは、平氏の戦占いでした。上手く射落とせば源氏の勝ち。射損なったら平氏の勝ちと云う訳です。

「誰か、あれを射落とせる者は居らぬか」義経は、家来達を振り返って言いました。「殿、それには下野(栃木県)の住人那須与一宗高がよろしゅうございましょう」「なにか、証拠があるか」「はい、与一は、空飛ぶ鳥も、三羽ねらえば、二羽は必ず射落とすほどの名人で御座います」「よし、与一を呼べ」。呼ばれた与一は、まだ二十に成るかならない、若い小柄な侍でした。「与一、あの扇の的を射てみよ」「とても、私などには出来そうも御座いませぬ。

もし、射損なっては、源氏の恥と成りましょう」「なにっ、断るのか。わしの命令が聞けないなら、さっさと鎌倉へ帰るがよいぞ」義経は、厳しく言い渡しました。 与一は、それ以上断る事が出来ませんでした。「もし、射損なったら、二度と誰にも会わず、弓を折って死ぬまでだ」与一は心に決めました。そして、黙って馬に跨り、海に乗り入れました。扇の的は波に揺られて、たえず右に左に揺れ動いています。目を瞑り、しばらく神に祈ってから、狙いを定めて、はっしと矢を放ちました。

扇は、見事に空に舞い上がり、ひらひらと夕日に照らされて、紅葉の葉のように海に散りました。

源氏から、どっと喜びの声が上がりました。平氏たちも、船ばたを叩いて、その見事さを誉めました。

 

イサム・ノグチ庭園美術館

この地が未来の芸術家や研究者、そして広く芸術愛好家のためのインスピレーションの源泉になることを強く望んでいたノグチの遺志を実現したものです。150点あまりの彫刻作品はもとより、自ら選んで移築した展示蔵や住居イサム家、晩年制作した彫刻庭園など、全体がひとつの大きな「地球彫刻」、あるいは環境彫刻となっています。出来うる限り、生前の雰囲気そのままで環境そのものを公開し、専門的な調査・研究のためのアーカイブ(資料研究空間)となっております。ジャンルを超えた宇宙的でコスモポリタンな、開かれたノグチの世界像を心ゆくまで味わっていただきたいと思います。(美術館HP)

 

洲崎寺

高野山真言宗の寺院で山号は眺海山。詳しくは眺海山 円通院 洲崎寺と号する。本尊は聖観世音菩薩で、四国八十八箇所番外札所、さぬき三十三観音霊場第二番札所である。

寺伝によれば、大同年間(806-810年)に空海(弘法大師)により創建されたといわれる。

源平合戦の際に負傷した源氏方の兵士がこの寺に運ばれた。戦いが激しくなると戦災により当寺院は焼亡した。

源義経の身代わりとなり戦死した佐藤継信は本堂の扉に乗せられ、源氏の本陣があった瓜生ヶ丘まで運ばれた。

これが縁で継信の菩提寺となり毎年3月19日には慰霊法要が行われている。義経は焼亡した寺院を再建したと伝えられている。義経の愛馬太夫黒の墓がある。戦国時代に至ると土佐の戦国大名・長宗我部元親軍の侵攻により再び焼亡し荒廃した。その後、江戸時代中期の元禄12年(1699年)に再興され現在に至っている。

境内には江戸時代初期の僧で四国八十八箇所を一般に広め巡拝路を整備し、「遍路の父」と呼ばれた真念の墓がある。

 

▼所在地、那須与一扇の的の絵看板

高松市牟礼町牟礼:〒760-0121

 

▼イサムノグチ庭園美術館、洲崎寺

 

 

▼バス停「祈り岩・与一公園前」で降車、那須与一扇の的の絵看板が見える地点へ向かう(約0.2km)-右(東側)が与一公園

 

▼左側は牟礼町浄化苑、牟礼町牟礼を北方向に進む(次のT交点を右折)

 

▼T交点を右折(右に案内板-正面奥に五剣山)、案内板「むれ源平史跡案内」・「源平の里ガイドマップ」

▼左奥に「那須与一扇の的➡」「イサム ノグチ庭園美術館➡」、牟礼町牟礼を東方向へ進む-1

 

▼右側は与一公園、牟礼町牟礼を東方向へ進む-2

 

▼牟礼町牟礼を東方向へ進む-3(与一橋が見えて来た)、与一橋を渡る

 

▼右に「むれ源平史跡案内碑」、与一橋-1

 

 

▼与一橋-2、那須与一扇の的へ進む-1

▼いのり岩、那須与一扇の的へ進む-2

 

▼那須与一扇の的へ進む-3、那須与一扇の的の絵看板が見える地点に着いた(奥に駒立岩)

 

▼那須与一扇の的の絵看板、那須与一扇の的の絵看板のズーム

 

▼駒立岩、駒立岩の説明板

 

 

▼右奥の久通浜塩釜神社に寄る、久通浜塩釜神社-1

 

▼久通浜塩釜神社-2

 

 

▼那須与一扇の的の絵看板と駒立岩を後にして金刀比羅宮へ向かう(約0.5km)、与一橋まで戻る

 

▼与一橋へ戻った、祈り岩へ寄る

 

▼北から見る与一橋、祈り岩へ進む

 

▼交差点の右角に祈り岩、交差点の右角の祈り岩に着いた

 

▼祈り岩

 

 

▼県道36号線を北方向に進む、県道36号線から右に入り金刀比羅宮へ進む

 

▼牟礼町牟礼を左右の石材店を観察しながら北方向に進む-1

 

▼牟礼町牟礼を左右の石材店を観察しながら北方向に進む-2、右側の石材店の「不動明王」

 

▼牟礼町牟礼を左右の石材店を観察しながら北方向に進む-3

 

▼牟礼町牟礼を左右の石材店を観察しながら北方向に進む-4

 

▼左(西)奥に屋島スカイウェイが見える、左奥に金刀比羅宮の鳥居が見えて来た

 

▼金刀比羅宮に着いた、金刀比羅宮-1

 

▼金刀比羅宮-2

 

▼金刀比羅宮-3

 

▼金刀比羅宮-4

 

 

▼金刀比羅宮を後にしてイサムノグチ庭園美術館入口へ向かう(約0.4km)、牟礼町牟礼を東方向に標高差10mの小径を上がる-1

 

▼牟礼町牟礼を東方向に標高差10mの小径を上がる-2

 

▼牟礼町牟礼を東方向に標高差10mの小径を上がる-3

 

▼牟礼町牟礼を東方向に標高差10mの小径を上がる-4、牟礼町牟礼を東方向に標高12mの地点

 

▼牟礼町牟礼を東方向に小径を進む-1、後方左にイサムノグチ庭園美術館の施設

 

▼牟礼町牟礼を東方向に小径を進む-2、左に溜池と奥に五剣山

 

▼牟礼町牟礼を東方向に小径を進む-3(次のT交点を右折)、T交点の左方向に五剣山

 

▼牟礼町牟礼を南方向に下る、T交点の右にイサムノグチ庭園美術館の施設

 

▼T交点までの小径から見るイサムノグチ庭園美術館-1

▼T交点までの小径から見るイサムノグチ庭園美術館-2

▼T交点-標高9m地点、T交点から見るイサムノグチ庭園美術館-1

 

(Vol.989-2/3に続く)

 

 

<akijii展-(546)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03

今報は「スズメ」で、所要時間は250Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.989-2/3をご覧ください。

Vol.989-1/3に続けてご覧ください。

 

▼T交点から見るイサムノグチ庭園美術館-2、牟礼町牟礼を南西方向に下る-1

 

▼小径から見るイサムノグチ庭園美術館

 

▼牟礼町牟礼を南西方向に下る-2、右側に見えるイサムノグチ庭園美術館-1

 

▼右側に見えるイサムノグチ庭園美術館-2

 

▼牟礼町牟礼を南西方向に下る-3(標高6m地点-左は入江邸)、入江邸

 

 

▼イサムノグチ庭園美術館入口地点に着いた、イサムノグチ庭園美術館-1

▼イサムノグチ庭園美術館-2

 

▼イサムノグチ庭園美術館-3

 

▼イサムノグチ庭園美術館-4

 

▼イサムノグチ庭園美術館-5

 

▼イサムノグチ庭園美術館(web引用)-1

 

▼イサムノグチ庭園美術館(web引用)-2

 

▼イサムノグチ庭園美術館(web引用)-3

 

 

▼イサムノグチ庭園美術館を後にして洲崎寺へ向かう(約.0.9km)、牟礼町牟礼を南方向に進む-1

 

▼牟礼町牟礼を南方向に進む-2、右側の山椒山公園に寄る

 

▼山椒山公園-1

 

▼山椒山公園-2

 

▼牟礼町牟礼を西方向に進む-1

 

▼牟礼町牟礼を西方向に進む-2、右の牟礼源平広場に寄る

 

▼牟礼源平広場-1

 

▼牟礼源平広場-2

 

▼県道36号線交点を左折(右に休憩ベンチ)、休憩ベンチ

 

▼周辺案内図(現在地)、県道36号線を交点の右(北-庵治町)方向

 

 

▼県道36号線を南方向に進む-1

 

▼県道36号線を南方向に進む-2

 

▼道標-源平合戦史跡「⇦祈り岩・景清の錣引-駒立岩」、県道36号線を南方向に進む-3

 

▼県道36号線を南方向に進む-4(左奥に景清の錣引が見えて来た)、景清(かげきよ)の錣引(しころびき)

 

▼県道36号線を南方向に進む-5

 

▼県道36号線を南方向に進む-6

 

▼道標-源平合戦跡「➡射落畠-洲崎寺・菊王丸の墓」、県道36号線を南方向に進む-7

 

 

▼右に洲崎寺が見えて来た、案内板「讃岐観音霊場 第二番 洲崎寺➡」

 

▼洲崎寺-1

 

▼洲崎寺-2

 

▼洲崎寺-3

▼洲崎寺-4

 

▼洲崎寺-5

 

▼洲崎寺-6

 

▼洲崎寺-7

 

▼洲崎寺-8

 

▼洲崎寺-9

 

▼洲崎寺-10

▼洲崎寺-11

 

▼洲崎寺-12

 

▼洲崎寺を後にして帰路のことでん八栗駅へ向かう(約0.6km)、県道36号線に戻る

 

 

▼県道36号線を南方向に進む-8

 

▼道標-源平合戦史跡「⇦義経弓流しの跡」、義経弓流しの跡の方向

 

▼県道36号線を南方向に進む-9

 

▼県道36号線を南方向に進む-10

 

▼県道36号線右側の射落畠に寄る、射落畠-1

 

▼射落畠-2

 

▼ことでん八栗駅へ進む-1

 

▼次の交点を左折(右角の総門跡に寄る)、総門跡-1

 

▼総門跡-2

 

▼総門跡-3

▼総門跡-4、ことでん八栗駅へ進む-2

 

▼ことでん八栗駅へ進む-3

 

▼ことでん八栗駅へ進む-4、ことでん八栗駅に着き帰宅の途に就いた

 

▼八栗駅ホームから見る五剣山、屋島南嶺(ズーム景)

 

 

引き続き、Vol.989-3/3をご覧ください。

Vol.989-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:17<由佐城

25.由佐城跡  <撮影:2013.07.01 and 2015.09.22 and 2019.05.15>

由佐城(ゆさ)は由佐氏の居城で、東は香東川、西に沼地の多い自然を巧みに利用した要塞です。天正11年(1583)長宗我部元親軍が攻め入ったが容易に落城しなかったと伝えられる堅城でした。由佐家にのこる由佐家文書のなかに「由佐城絵図」があり、それによりますと香東川の西岸に柳並木があり、それに接して「下之城」があり、その西に内堀を隔てて「上之城」が設けられていました。上之城を中心に周囲16町ばかりの中を外堀、内掘によって仕切り、各地区は橋で結ばれ、外との連絡も南、北、西に設けられた橋によって行われていたことがわかります。城内には土塁が築かれ、櫓もあったそうです。由佐家の居宅とした屋敷内には内堀、土塁跡を見ることができたそうです。今でも香南歴史民俗郷土館の敷地内、庭園西側には土塁の跡が残されています。周囲には南門という地名も伝えられています。

 

由佐氏は俵藤太藤原秀郷の末裔で、もとは下野国益子(今の栃木県芳賀郡益子町)に住み「益子」を姓としていました。秀郷の子孫に益子下野守顕助というものがいましたが、彼は足利尊氏の部下となり新田義貞と京都東寺で戦い建武3年(1336)討死しました。顕助の子弥次郎秀助は父の手柄により、尊氏から讃岐国に井原郷(今の香南町、香川町川東、香川町川内原)を賜り、ときの讃岐守護細川頼春に従ってこの地に移りました。秀助は由佐に屋敷を構え、地名をとって姓を由佐と改め、今の鮎滝に鳥屋城を築いて守りの要塞としました。これが讃岐由佐氏の始まりです。  (高松市HP)

 

<所在地・外観>

▼由佐城跡-高松市香南町由佐253-1

▼由佐城鳥瞰図(出典元:余湖くんのHP)-戦国武将由佐氏の居館跡、郷土館で歴史を知る

 

高松市内から国道11-193号線を南に向かい、香川町川東下交差点で右(西)に曲がり県道13号線を進み、城渡(しろわたり)橋(香東川)を渡ると、右前方に天守閣を模した建物が見えてくる。

この建物が「高松市香南歴史民俗郷土館」で、敷地が「お城」と呼ばれる「由佐城跡」である。

土塁が保存され、堀は江戸時代初期に埋められた。

 

<概 要><歴史遺産>

▼城渡橋(香東川)の西方向に由佐城跡、県道44号線から北東方向に見る歴史民俗郷土館

 

▼由佐城跡-全景、城址標

 

▼由佐城跡-土塁

 

 

由佐の地は、阿波(現、徳島県)から讃岐に入る道筋にあたり、また讃岐の各地への分岐点でも有るので、この地を押さえる意味が有ったものと考えられる。

 

「由佐家文書」に依れば、1351(観応2)年、讃岐守護細川勝元から「香川郡之(の)内井原庄・安原山・大野村」を領知として安堵されている。

 

▼由佐家文書(web引用-水彩画風変換)

 

1578(天正6)~82年頃、由佐氏は阿波三好氏に従い、1582年には長宗我部氏の配下に入った。

 

郷土館では、由佐氏を始め、香南地方の歴史が解る資料が展示されている。また、香東川の水を利用した水車などの民俗資料や、冠纓(かんえい)神社の大獅子(県民俗)の獅子頭の1つが展示されている。

 

▼高松市香南歴史民俗郷土館-庭園

 

▼高松市香南歴史民俗郷土館-民俗展示室、獅子頭

 

▼高松市香南歴史民俗郷土館-町民ギャラリー、図書室

 

 

郷土館から南へ約1km行った香南町岡(おか)に、天福寺(てんぷくじ)(真言宗御室派)が有る。

 

<関連遺産> 

この天福寺を含む丘陵地が「岡城(岡館やかた)跡」と考えられている。

 

▼ことでんバス停「岡」、天福寺への石段-1

 

▼天福寺への石段-2

 

▼天福寺の赤塀沿いの参道

 

▼天福寺-1、2:説明板

▼天福寺-2:本堂

 

▼天福寺-3:大師堂、鐘楼

 

▼天福寺-4:手水舎、5

 

▼天福寺-5:安倍晴明之墓、6

 

▼天福寺-7、8:山門

 

▼天福寺-9

 

▼天福寺-10

 

▼岡城(館)跡-天福寺の左に土塁状の高まり-ミニ88箇所(web引用-水彩画風変換)

 

▼岡城(館)跡-空堀(web引用-水彩画風変換)

 

▼岡城(館)跡-池、この辺りは水がある(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

新居宮池親水公園と宮池2景。

宮池と夕陽。

 

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-100 Orignal掲載日:Vol.189 (2013.05.30)

働くこと…、「発見」が。

 

人間は、今日と同じ明日に心地よさを感じる。今日と違うと不安になるし、慣れないために面倒だと思うが、昨日と違う今日を迎えない限り、人は新しい景色に出会えない。

日々、新しい風景に出会い続ける事が、生きていて、進歩して行く事になる。

常に変化を求め、新しいものを欲するのは、人間だけに与えられた能力である。

 

仕事でも、これと同じことが言える。

仕事は、人間が自然や世界に作用して、新しい価値を生み出すことで、働くと云う事は、今日とは違う価値を生み出すことで、付加価値という。

懸命に働き、結果を出すと、おのずと今日と違う明日になる。

それを目指さない限り、人間は生産的になれないし、新しい景色も見ることができない。

 

昨日と同じ今日の連続は楽かもしれないが、生きている実感は得られないだろうし、自分の存在理由さえも希薄になる。今日と違う明日は、変化の期間で月単位でも、年単位でも良いと思う。

現状に妥協して、心地いい?毎日を重ねて行くことは、何もしないのと同じである。

流される日々を過ごすだけでは、人を墜落させる。

 

仕事でも人生でも、勇気を持って一日一つ何かを壊すことは、着実な前進と思うのである。

どんな小さなことでも良いが、新しいことをして、昨日の殼を破って行こう。

それをしているか、していないかでは、3~5年度にハッキリとした大きな差が出るだろう。

働くことには、いつも「発見」がなければならない。価値を生み出し、それを他者に提供する。

「発見」のない仕事など、単なる人生の空費に過ぎないと思うのだが…。

 

 

<高くがる空間>

ウォーキングコースから見る袋山の上空。

久米山「やすらぎの里」(東山崎町)の上空。

久米山墓地公園(東山崎町)と奥の久米池と屋島・五剣山の上空。

諏訪神社(東山崎町)の上空。

石清水八幡宮への参道(新田町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇Mi氏の畑のパパイア

世界で広く親しまれている人気のトロピカルフルーツで、果実は年間を通じて収穫することが出来る。

熱帯各地で商業栽培され、家庭果樹としてもよく育てられる。

 

生育が非常に早く、実生から3~5年で高さ7m以上まで生育し、幹はほとんど分枝しないが、先端部の生長点が傷むと新たな新芽が出てくる。

常緑の低木ですが幹は比較的柔らかく、台風などの強風で容易に折れる。

園芸学会の正式呼称は「パパイア」だが、農業界では「パパイヤ」を正式呼称とするため、農薬登録名は「パパイヤ」となる。

熱帯果樹で、食用になる果実は500グラムから1キログラムほどあり、熟すとやわらかく多汁で甘い。果肉は黄肉腫が多いが赤肉腫もある。メキシコ南部から西インド諸島が原産地である。

 

◇ウォーキングコースの空地に咲く屁糞蔓(へくそかずら)

 

<訂正>

Vol.987<2024/09/05>ウォーキングコースの空地に咲く屁糞蔓(へくそかずら)と紹介しましたが、間違いでした。

正しくはガガイモの花」でした。

◇町並巡りで出会ったモミジアオイ

 

◇高松市立中央公園に咲くヒマワリ

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<庵治緑道公園・城岬公園 

庵治緑道公園(やすらぎの道)

庵治支所の前に横たわる臨海幹線沿いに延長600m幅10mの緑道として設置されている。
石の街という事もあり、国内外の作家たちによる石彫作品が15基展示され、石の芸術作品に触れられながら、やすらぎを満喫できる緑道となっており「癒しの散策」コースで、庵治小学校の入学記念の石碑31基も展示している。

 

城岬(しろばな)公園

海の青と樹木の緑が美しいロケーション抜群の臨海公園。特に夕日の美しさはすばらしく、多くのカップルや家族連れでにぎわいます。2004年に大ヒットした純愛映画「世界の中心で、愛をさけぶ」のロケ地に近く、現在でもデートスポットの定番。公園内には、映画のフィルムに見立てて愛のメッセージを刻んだ地元特産の石が並ぶ「純愛ロード」もあり、カップルに人気のスポットとなっています。(香川県観光協会HP)

眼前には源平合戦史跡の屋島をはじめ、男木島・大島・豊島を望み、魚のまち庵治らしく、漁船も設置されているユニークな公園です。源氏丸にはロッキング遊具(ロープ登り)とローラー滑り台も設置し子供たちに大人気です。

瀬戸の金波銀波を背景に国内外の著名な彫刻家の石彫作品も展示され自然と芸術に浸れる公園です。また「純愛ロード」が併設され、ハートの型を取り入れた可愛らしいベンチも設置しており、カップルの思い出の渚となっています。

(5公園オフィシャルサイト)

 

▼所在地、高松市庵治支所

高松市庵治町:〒760-0130

 

▼やすらぎのみちの碑、「潮風の積層」-佐光庸行

 

▼庵治小学校入学記念児童作品広場、純愛ロード

 

▼城岬公園の入口、城岬公園

 

 

▼バス停「庵治支所」で降車、左後方に高松市庵治支所-1

 

▼高松市庵治支所のパノラマ景

▼やすらぎのみちの碑へ向かう(約0.2km)、左後方に高松市庵治支所-2

 

▼庵治町を北東方向へ進む-1

 

▼庵治町を北東方向へ進む-2(前方は庵治漁港)、庵治漁港に寄る

 

▼庵治漁港、前方の御殿山の中腹に皇子神社

 

▼皇子神社のズーム景、やすらぎのみちの碑へ進む-1

 

 

▼やすらぎのみちの碑へ進む-2(前方に見えて来た)、やすらぎのみちの碑に着いた

 

▼やすらぎのみちの碑、やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-1

 

▼「SNAKE」ナグジ・パテル-1

▼「SNAKE」ナグジ・パテル-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-2、「初夏の海、山、白い雲」北島一夫-1

 

▼「初夏の海、山、白い雲」北島一夫-2

▼「初夏の海、山、白い雲」北島一夫-3

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-3

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-4、左前方は歌碑

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-5(右側に庵治支所が見えて来た)、高松市庵治支所-1

 

▼「LANDSCAPE」湯村光-1

 

▼「LANDSCAPE」湯村光-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-6、高松市庵治支所-2

 

▼「石のうた」田中江里-1

▼「石のうた」田中江里-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-7、高松市庵治支所-3

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-8(石碑が見える)、庵治庁舎新築記念碑-1

 

▼庵治庁舎新築記念碑-2、高松市庵治支所-4

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-9(奥に石碑)、八栗ライオンズクラブ結成15周年記念碑

 

▼高松市庵治支所-5、長者川を渡る

 

▼長者川の左(東-上流)方向、右(西-庵治漁港)方向

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)へ入る、やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-9

 

▼「太郎(象)」居上真人-1

 

▼「太郎(象)」居上真人-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-10、「陽の華」長谷川八兄-1

 

▼「陽の華」長谷川八兄-2

 

▼「陽の華」長谷川八兄-3

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-11

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-12

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-13

 

 

▼庵治小学校入学記念児童作品広場-1

 

▼庵治小学校入学記念児童作品広場-2

 

▼庵治小学校入学記念児童作品広場-3

 

▼庵治小学校入学記念児童作品広場-4

 

▼庵治小学校入学記念児童作品広場-5

 

▼庵治小学校入学記念児童作品広場-6

 

▼庵治小学校入学記念児童作品広場-7

 

▼ハオ象チャオ-母子、庵治小学校入学記念児童作品広場を振り返る

 

(Vol/988-2/3に続く)

 

 

<akijii展-(545)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03

今報は「ウサギ3匹」で、所要時間は195Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.988-2/3をご覧ください。