akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記 -19ページ目

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.995-1/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:23屋島寺・屋島神社

34.屋島寺 <撮影:2012.04.24 and 2014.05.27>

屋島寺(やしまじ)は、屋島南嶺山上にある真言宗御室派の寺院。四国八十八箇所霊場の第八十四番札所。律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)朝廷に招かれ奈良に向かう途中、当地を訪れて開創し、その後、弟子の恵雲が堂宇を建立したという。その後、古代山城の屋嶋城が閉鎖されたため、その跡地に寺院を創設したものである。なお、ここから1kmほど北の北嶺山上には屋島寺の前身とされる千間堂(せんかんどう)の遺跡がある。また、815年(弘仁6年)嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、北嶺から南嶺に移し千手観音像を安置し霊場に定めたとも云われている。明徳2年(1391年)の西大寺末寺帳に屋島寺と屋島普賢寺の名があり、当時は奈良・西大寺(真言律宗)の末寺であったことがわかる。高松藩主生駒一正は慶長6年(1601年)に屋島寺の寺領25石を安堵。近世を通じ、当寺は高松藩の保護下にあった。現在も国有林部分を除いて、屋島山上の敷地のほとんどは屋島寺の所有である。 (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

▼屋島寺-高松市屋島東町1808

▼屋島寺-鑑真創建の伝説、北嶺で平安時代の寺跡

 

 

屋島山上にある四国八十八個所霊場84番札所「屋島寺」へは車で屋島ドライブウェイを利用する場合が多いが、山麓の潟元(かたもと)から屋島寺仁王門に至る南嶺の西側を上る遍路道を歩いた。

 

▼ことでん潟元駅、道池の袂にある屋島寺2.0kmの道標

 

▼道池の横にある案内板、屋島小へ通学の児童と一緒に歩く

▼遍路道を行く-1、屋島寺1.5kmの道標前を直進

 

▼遍照院の前を通過、遍路道を行く-2

 

▼同行の杖、遍路道を行く-3

 

▼山上へ30分の看板、遍路道を行く-4

 

 

道沿いには、1丁ごとに石地蔵が並び、弘法大師(空海)ゆかりの加持水(かじすい)や不喰梨(くわずなし)の伝説も残っている。

 

<概 要><歴史遺産>

▼遍路道を行くakijii、加持水-1

 

▼加持水-2

▼不喰梨

 

 

更に上ると、畳を重ねたような板状節理などがある畳石(たたみいし)が目に入る。

 

▼畳石と称す奇石

 

 

屋島寺は、南面山千光院と号する。

 

▼屋島寺-仁王門、仁王門から四天門を見る

 

▼屋島寺-四天門、四天門から本堂・宝物館を見る

 

 

奈良時代に唐から迎えられた高僧鑑真が都に向かう途中、北嶺に一宇を建立し普賢菩薩を安置したと云う。その後、空海が南嶺の現在位置に伽藍を移し、千手院を建立して自作の千手観音を納めたと云う。中世に入り寺は衰退したが、近世には生駒氏や松平氏などの保護を受け、寺運は向上した。

 

「本堂」(国重文)は、5間5面の入母屋造の和様建築で、県内では数少ない鎌倉時代の遺構である。

以前、1618(元和4)年に住持竜厳により再建された桃山様式の建築と言われていたが、1957(昭和32)年からの解体修理で鎌倉時代の古材や様式手法が発見され、本来は鎌倉時代末期の建築と判明したのである。

 

▼屋島寺-本堂1

 

▼屋島寺-本堂2

 

 

本尊の「木造千手観音坐像」(国重文)は、カヤの一木造の坐像で、全ての手が光背と共に当初のまま伝えられているのは珍しい。像容に重厚な安定感があり、衣文には翻波式彫法が見られる。

10世紀初頭の制作と推察され、平安時代初期から中期にかかる過渡的なものとされる。

 

▼屋島寺-木造千手観音坐像(web引用-水彩画風変換)

 

本堂前の鐘楼にある「梵鐘」(国重文)は、讃岐国住人蓮阿弥陀仏の勧進により、1223(貞応2)年に青銅を使い、「鋳繰り」の手法で完成されたものである。

 

▼鐘楼、梵鐘(web引用-水彩画風変換)

 

 

本堂東側の蓑山大明神には、四国狸の大将、または日本三大狸の1つとされる太三郎狸を祀っている。

 

▼蓑山大明神、熊野大権現社

 

▼屋島寺-大師堂、千躰堂・三体堂

 

▼屋島寺-宝物館

 

▼屋島寺-境内1

 

▼屋島寺-境内2、東大門

 

 

北嶺には、千間堂という地名も伝承され、近年の調査により、平安時代の寺院跡が確認されている。

 

▼千間堂跡の道標、千間堂跡

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.995-3/3をご覧ください。

Vol.995-2/3に続けてご覧ください。

 

<35.屋島神社 <撮影:2015.09.27 and 2017.05.28>

当神社は慶安四年(1651)初代高松藩主松平頼重公が、香川郡宮脇村の本門寿院境内に東照大神(徳川家康公)の神廟を建立し、崇敬したのにはじまる。以来、山王社として歴代藩主により奉斎されてきたが、文化元年(1804)当時の高松藩主第八代松平頼儀公は、この風光明媚な屋島山麓において社殿の造営に着手する。左甚五郎の六世、五代目の左利平忠能が、松平家の客分棟梁となり、文化十二年(1815)に完成した。その後、明治四年には冠獄神社と改め、さらに明治七年屋島神社と改称、同年県社に列せられる。明治十五年藩祖松平頼重公を合祀する。昭和四十八年二月不慮の火災にあい、本殿、拝殿等を全焼したが、辛うじて神門(正面上部には鳳凰、両側の柱には上り龍 下り龍の彫刻)は無事であった。社殿は翌年十一月に再建され現在に至っている。  (境内由緒書より)

 

<所在地・外観>

屋島神社-高松市屋島中町山畑140

▼屋島神社-高松松平氏の氏神、讃岐東照宮

 

 

ことでん屋島駅から東に行き、参道を北に進んだ石段の上に、旧県社の「屋島神社」がある。

讃岐東照宮ともいう。

 

<概 要><歴史遺産>

▼琴電屋島駅から東進、参道を北に進む

 

▼社号標、一の鳥居が見えてきた

 

 

1652(慶安4)年、初代高松藩主松平頼重が祖父徳川家康を祀るため、石清尾山麓の旧本門寿院克軍寺境内に山王社を建立したのが始まりである。

 

▼説明板、由緒・案内板

 

▼鳥居と石段、石段-1

 

 

1815(文化12)年、8代藩主頼儀(よりのり)の時、現在の地に日光廟を模したとする社殿を造営、屋島東照宮と称し、松平氏の氏神として代々の藩主に神奉された。

 

▼石段-2 、葵亭

 

▼石段-3

 

▼石段-4、注連柱

 

▼石段-5

 

▼神庫、石段-6

 

▼石段-7

 

▼石段-8

 

 

その後、1874(明治7)年に屋島神社と改め、1882年には初代藩主頼重を合祀した。

1973(昭和48)年に失火で社殿を全焼し、現在の建物は翌年に再建されたものである。

 

▼神門、葵紋

▼神門の彫刻-1

 

▼神門の彫刻-2

 

▼築塀-東側、西側

 

▼拝殿、拝殿と神饌殿

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

水上展望台と奥の新居東児童館を映す夕暮れ時の宮池の水面。

夕陽を浴びる雲を映す宮池の水面。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-106  Orignal掲載日:Vol.200 (2013.07.25)

必要とされる年寄りに…。

 

賢いネコは年老いると、飼い主に厄介を掛けたく無いと考えて、死が近づくと家を出て行くという。しかし我々はネコでない以上、ミズミを取らなく成ったからといって、老人ホームへ姿を隠す必要は少しも無いのである。老人は年老いた事によって、果たして無用の長物となるのであろうか…。

 

ひと昔前の老人は必要以上に威張り過ぎていた。その反動か、今は必要以上に遠慮し過ぎている。「もう若い人たちの邪魔はしませんよ。若い人達には若い人達のやり方があるから…。見かねる事は無いではないけれどもねェ…。」と言う声には、心から喜んで隠退したのではなく、寂しいあきらめが滲み出ているのである。

 

大切な事は、若い者にとって、年寄りの存在が必要であることを感じさせる老人に成る事だ。

必要といっても、ただ守りとか留守番などというような日常の便利屋ではない。

人生の先輩、経験者としてイザという時に、良い知恵を貸して貰えるという信頼を若者に与える老人に成る事である。

 

普段はうるさい頑固な爺さんでも、信頼と尊敬を持てる人間であれば若い者は一目おくし、その存在を必要とするものなのだ。これからも精進を続ける必要であるなぁ~、と大きな息を吐く。

 

 

<高くがる空間>

高松空港送迎デッキ(香南町岡)の上空。

高根トンネル(高松空港滑走路の下部)(香南町由佐)。

東第2駐車場から見る高松空港(香南町岡)の上空。

離陸寸前のJAL476(東京羽田行)(香南町岡)の上空。

専妙寺(香南町岡)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇町並巡りで出会ったダンギク

 

◇ウォーキングコース脇に咲いていたアワプヒ

 

◇町並巡りで出会ったオキザリス

 

◇町並巡りで出会ったコエビソウ

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<道祖神社・亀岡公園・霊源寺 

道祖(どうそ)神社は、石清尾八幡宮の境外末社である。

寛文6年(1666年)11月11日松平初代藩主、松平頼重公によって創祀され、参勤交代の道中の守護神として崇敬せられ、毎年一回の参詣がありました。昭和20年7月の高松空襲により焼失し、長くそのままになっていましたが、創祀330年目に当たる平成8年、氏子・崇敬者の浄財により再建されました。(石清尾八幡宮HP)

 

亀岡公園は、大名庭園「栗林公園」の裏山、稲荷山の北麓にある公園で、市営の亀岡庭球場に併設された児童公園だ。

遊具は、華やかではないものの一通りは揃っている。シーソーは新開東・西公園にあったもの似ているが、支柱の形状に違いがある。滑り台は開放デッキ型、樹脂成形滑り。ヒューム管を使った遊具がいくつも置かれているが、中に入って遊びたいな、と思わせるような遊具ではない。

 

霊源寺は、寺記:初め香川郡坂田郷(紫雲山の東麓)にあって、千光寺といった。松平頼重が娘婿菩提のため延宝四年(1676)現地に移し霊源寺と改称した。元禄十年(1697)綾歌郡長炭村佐岡寺山より観音像が出土したので、高松二代藩主松平頼常は生母親量院(水戸藩主徳川光圀の側室)の発願により、元禄十二年(1699)堂を建て安置した。

これがいわゆる子安観音である。同十四年(1701)頼常から親量院の号と、寺領百石を与えられた。

その後、正徳四年(1714)十一月十二日死去した前藩主頼常の生母、玉井氏(水戸藩主徳川光圀の側室、法号親量院)の遺体が当寺に葬られた。このほか、養賢院、実性院など、松平家ゆかりの墓が寺内にあった。

 

▼所在地、道祖神社

高松市亀岡町:〒760-0006

 

▼亀岡公園、霊源寺

 

 

▼バス停「亀岡町香川県薬剤師会館前」で降車、祖神社へ向かう(約0.2km)

 

▼県道33号線を東に進み次の交点を右折、亀岡町を南に進む-1

 

▼亀岡町を南に進む-2、次の交差点を左折(右奥に亀岡庭球場)

 

▼亀岡町を西に進みT交点を右折(正面は英明高校)、亀岡町を南に進む(右奥に注連柱が見えて来た-正面奥は稲荷山)

 

 

▼道祖神社に着いた、道祖神社-1

▼道祖神社-2

 

▼道祖神社-3

 

▼道祖神社-4

 

▼道祖神社-5

 

▼道祖神社-6

 

▼道祖神社-7

 

▼道祖神社-8

 

▼道祖神社-9、道祖神社を後にして亀岡公園へ向かう(約0.1km)

 

 

▼亀岡町を南に進み次の交点を右折、亀岡公園へ進む-1

 

▼後方に英明高校、亀岡公園へ進む-2

 

▼正面に亀岡庭球場(左折)、亀岡公園へ進む-3

 

▼亀岡公園へ進む-4(左に石清尾八幡宮の御旅所と駐車場)、石清尾八幡宮の御旅所

 

 

▼亀岡公園に着いた、亀岡公園-1

 

▼亀岡公園-2

 

▼亀岡公園-3

 

▼亀岡公園-4

▼亀岡公園-5

 

▼亀岡公園-6

▼亀岡公園-7

 

 

▼石清尾八幡宮の御旅所へ進む

 

▼石清尾八幡宮の御旅所と駐車場に着いた、石清尾八幡宮の御旅所と駐車場-1

 

▼石清尾八幡宮の御旅所と駐車場-2、石清尾八幡宮の御旅所と駐車場の奥に香川県庁舎と右に英明高校

 

 

▼霊源寺へ向かう(約0.2km)、八幡通りを横断

 

▼霊源寺へ進む、霊源寺が見えて来た

 

 

▼霊源寺に着いた、霊源寺-1

 

▼霊源寺-2

 

▼霊源寺-3

▼霊源寺-4

 

▼霊源寺-5

 

 

▼霊源寺を後にして宮脇中野町緑地へ向かう(約0.1km)、霊源寺の白壁沿いに宮脇中野町緑地へ進む

 

▼霊源寺を振り返る、宮脇中野町緑地へ進む(正面に見えて来た)

 

▼宮脇中野町緑地(中野町)に着いた、宮脇中野町緑地の上をJR高徳線の列車が通過

 

(次報Vol.995に続く)

 

 

<akijii展-(551)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03

今報は「無題k」で、所要時間は160Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.994-2/2をご覧ください。

Vol.994-1/2に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:22<屋島>

33.屋島 <撮影:2015.05.08 and 2018.06.14>

屋島(やしま)は名前のとおり、古代において島でした。屋島は瀬戸内海の中でも備讃瀬戸の東限に位置し、畿内に抜ける海上ルートにおける要所で、特に、唐・新羅の大船団を迎え撃つには非常に重要な場所だったと言えます。屋嶋城の城壁は山上を全長7kmに渡ってめぐらしていたと考えられていますが、そのほとんどは断崖絶壁で、人工的に城壁が築かれていたのはそのうちの約1割程度です。そのため、自然地形を最大限に活用した古代山城と言えます。屋島は北嶺と南嶺と呼ばれる二つの山から構成されていますが、城壁などの遺構は南嶺のみで確認されています。また、北嶺と南嶺の間の西側には大きな谷があり、標高100m付近に山上の城壁とは別に城壁が築かれています。

 

唐と新羅の連合軍に攻め滅ぼされた百済を再興するため日本は救援軍を朝鮮半島へ派遣しましたが、663年8月、白村江の戦いで両国連合軍に大敗しました。これを契機として、唐・新羅の侵攻に備えて対馬から太宰府周辺・瀬戸内海沿岸に作られた朝鮮式山城の一つが屋嶋城です。日本書紀の天智天皇6(667)年11月の条に「倭國高安城(やまとのくにたかやすのき)、讃吉國山田郡屋嶋城(さぬきのくにやまだのこおりやしまのき)、對馬國金田城(つしまのくにかなたのき)を築(つ)く」(※倭國→現在の奈良県、對馬國→現在の長崎県対馬市)との記載がありますが、長らくその実体はよく分かりませんでした。平成10年2月に南嶺山上部近くの西南斜面において石積みが発見されたことを契機にして、南嶺北斜面・南斜面で確認されていた土塁と関連することがわかり、東斜面でも同様の地形が確認されたことから、山上部付近の斜面に断続的ながら古代山城屋嶋城の外郭線(防御ライン)が巡っていることが判明しました。  (高松市HP)

 

<所在地・外観>

▼屋島-高松市屋島西町・屋島中町・屋島東町

▼屋島-山上に朝鮮式山城、幕末には砲台

 

 

屋島」(国天然・国史跡)は、瀬戸内海に突き出した標高292m、南北約5km・東西3kmの屋根状の巨大な溶岩台地で、西に広がる高松市街を抱くように横たわっている。

 

<概 要>歴史遺産>

▼屋島の全容-1

 

 

古くは内海に浮かんだ島で、今の相引(あいびき)川一帯は遠浅の海が大きく入り込み、港も存在していたと云う。

 

▼屋島の全容-2(石の博物館-体験学習広場から)

 

 

屋島ドライブウェイを利用して山上に着くと、屋島寺・水族館・旅館・みやげ物店などが連なる平坦部が以外に広い。

私は山麗のことでん潟元駅から、屋島寺仁王門に至る南嶺の西側をのぼる遍路道を歩いた。

その状況は次報の「屋島寺」で紹介します。

 

▼山上駐車場、屋島寺の境内

 

▼屋島水族館、旅館・ホテル案内所

 

 

屋島の基盤は花崗岩であり、その上に凝灰岩・集塊岩、更に安山岩が薄く覆っている。

屋島寺宝物殿の西にある「雪の庭」のように、白い凝灰岩が露出している所もあるが、最上部を覆っている安山岩が他の岩石より硬かったため、浸食が進んだ後も残り、頂上部が平らな屋根状の形となり、日本を代表するメサ地形の典型として有名である。

 

▼屋島寺宝物館の庭、雪の庭(web引用-水彩画風変換)

 

 

屋島からの眺めは、瀬戸内海国立公園の中でも随一と言われている。南嶺西側にある「獅子の霊巖」からは瀬戸大橋や瀬戸の島々と夕陽の美しい佇まい、煌めく高松市街地の夜景を眺められる。

 

▼獅子の霊巖、眺望

 

▼獅子の霊巖から美しい夕陽の佇まい、高松市街地の夜景(web引用-水彩画風変換)

 

 

東嶺東側にある「談古嶺」からは対岸の五剣山を望み、眼下には源平の古戦場を、北嶺の「遊鶴亭」からは小豆島など瀬戸の島々を箱庭のように見渡すことができる。

 

▼談古嶺 、眺望

 

▼談古嶺から五剣山、源平の古戦場

 

▼遊鶴亭、眺望

 

▼遊鶴亭から瀬戸の島々

 

屋島は原始・古代からの備讃瀬戸の海上交通の要衝であり、急峻な地形とも相まって、軍事上の要衝としても絶好の条件を備えていた。大陸からの侵攻に備えるため、対馬や北九州などと共に屋島にも朝鮮式山城が築かれたものである。

 

▼屋島城-約1350年前の東アジアと倭国(パンフ引用)

 

▼屋島城-古代山城(パンフ引用)

 

従来から西麓の浦生(うろ)集落の上方にある石塁跡などは知られていたが、地元歴史愛好家の発見に端を発する近年の調査により、南嶺西側の旧屋島ケーブル山上駅から北西約200m、標高約270mの所で城門遺構などが発掘され、「屋島城(やしまのき)」の存在が確実なものになった。

 

▼屋島城-浦生の石塁、北斜面土塁(パンフ引用)

 

▼屋島城-南水門、城門地区(パンフ引用)

 

 

城門遺構は幅約5.4m・奥行約9m、古代山城としては最大規模であり、城壁石垣や土塁なども見られる。自然の岩盤を巧みに利用しており、階段状の床面や排水溝、さらには懸門(けんもん)と呼ばれる城門前面の石積みなど、類例の少ない構造をもっている。

高松市教育委員会では、整備を進め、2013(平成25)年5月に、城門石垣の積み直しが完了した。

また、律令体制が整備されると、屋島には讃岐国に設置された3軍団のうち、東の山田軍団が置かれたと云う。

 

▼屋島城-城門跡(パンフ引用)、復元・城門跡の完成

 

▼屋島城-懸門(けんもん)(パンフ引用)、城壁

 

▼屋島城跡-1

▼屋島城跡-2

 

▼屋島城跡-3

 

 

屋島北端の「長崎鼻」には、海中に深く突き出した立地から、古くから遠見番所が置かれていた。

江戸時代末期の1863(文久3)年に外国船防御のため、高松藩により築かれた「長崎鼻砲台跡」が残る。

藤川三渓(さんけい)の設計によるもので、上・中・下段からなり、上段は守備兵の屯所、中・下段にそれぞれ3門ずつの大砲を据えていたという。

 

▼屋島北端の長崎鼻

 

▼砲台跡への道標、長崎鼻の案内板

 

▼砲台跡の説明板、砲台跡から長崎鼻を見る

▼砲台跡

 

▼砲台跡から北嶺を見る、女木島・男木島を見る

 

 

なお、付近には、5世紀初頭と推定される全長約45mの前方後円墳の「長崎鼻古墳」がある。

3段からなる墳丘の表面の精緻な葺石は、県内では例をみない。後円部には九州阿蘇山の凝灰岩製の舟形石棺があり、被葬者は海上交通に関係した人物とされる。

 

▼長崎鼻古墳-1

 

▼長崎鼻古墳-2

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

宮池のパーゴラと地蔵堂の日替わり5景。

 

 

宮池のパーゴラと地蔵堂。

 

陽光を映す宮池の水面。

曇天の空を映す宮池の水面。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-105  Orignal掲載日:Vol.199 (2013.07.20)

真楽(しんらく)を味わう…。

 

パナソニックの社名が松下電器産業の時期、昭和52年に先輩24人を飛び越えて社長になった山下俊彦氏は時の人として話題になった。この山下氏が色紙を頼まれると、好んで書かれたのが「知好楽(ちこうらく)であったと聴く。

何の説明もなく渡されると、依頼した人々はその意味を取りかねたという。

 

この出典は「論語」で、子曰(いわ)く、これを知る者は、これを好む者に如(し)かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず。(これを知っているだけの者は、これを愛好する者に及ばない。これを愛好する者は、これを真に楽しむ者には及ばない)極めてシンプルな真理で、仕事でも人生でも、それを楽しむ境地に至って初めて真の妙味が出て来る、ということであろう。

 

この知好楽、人生に及ばす影響が、いかに大きいかを示す範例がある書籍に紹介されていた。

それは京セラ創業者で、経営破綻に陥ったJALを僅か3年弱で再上場に導いた、稲盛和夫氏である。

稲盛氏が新卒入社した会社はスト続きで給料は遅配し、嫌気がさし自衛隊に転職しようとするが、実兄の反対でそのまま会社に止まった。鬱々(うつうつ)とした日が続き、会社から療への帰り道、「故郷(ふるさと)」を歌うと思わず涙がこぼれた。こぼれた涙を拭(ぬぐ)って、こんな生活をしていても仕方がないと思い、自分は素晴らしい会社に勤めているのだ、素晴らしい仕事をしているのだ、と無理矢理そう思い込み、仕事に励んだ。

 

すると不思議なもので、あれほど嫌だった会社が好きになり、仕事が面白くなってきた。通勤時間が惜しくなり、布団や鍋釜を工場に持ち込み、寝泊まりして仕事に打ち込むようになった。仕事が楽しくてならなくなった。

そのうちに一つの部署のリーダーを任され、赤字続きの会社で唯一黒字を出す部門にまで成長させた。

稲盛氏は、会社を好きになったこと、仕事が好きになったこと、そのことによって今日の私があると言っている。

 

ここでいう「楽」は、趣味や娯楽に興じる楽しさとは趣を異にする。

その違い明確にするために、昔の優れた思想家(先哲せんてつ)の多くは「真楽(しんらく)」という言い方をしている。

何事であれ対象と一体になった時に生命の深奥(しんおう)から湧き上がってくる楽しみが「真楽」であるのだと…。

物事に無我夢中、真剣に打ち込んでいる、まさにその時に味わう楽しさを云うのだ。

人生の醍醐味とは、この真楽を味わうことに他ならない。

 

松下幸之助氏の言葉を2つ紹介します。

1.人間は自らの一念が後退する時、前に立ちはだかる障害がもの凄く大きく見える。それは動かすことができない現実だと思う。そう思うところに敗北の要因がある。

2.困難に直面すると却(かえ)って心が躍り、敢然と戦いを挑んでこれを打破していく。そんな人間でありたい。

困難に直面して一念が後退することなく、むしろ心が躍るというのは、その困難と一体になることである。

一体となって困難を乗り越える。そこに言い尽くせない人生の深い楽しみがある。

 

そういう楽しみを味わえる人になりたいものである。

 

 

<高くがる空間>

曇天のだんご山3兄弟の上空。

政所池(香南町横井)から見る高松空港の上空。

小田池(香南町吉光)のソーラーネル群の上空。

小田池の堤頂(川部町)から見る高松自動車道と奥の勝賀山と石清尾山の上空。

県道44号線(川部町)から見る堂山と六ツ目山の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコース脇の畑のハイビスカスロゼル

 

◇ウォーキングコースに咲くバンドレアジャスミノイデスサザンベル

◇ウォーキングコースに咲くヤマブキ

 

◇町並巡りで出会ったメガネツユクサ

 

◇宮池への田圃道で見頃を迎えた彼岸花

 

◇田圃道から見る畑に咲く彼岸花

 

 

 

Akijii気ままniフォトsketch<出雲大社高松分祀大手前高松中高校 

出雲大社高松分祀は、島根県出雲大社に鎮まります大国主大神様の御分霊をお祀りしております。

讃岐の出雲さんと親しまれ、香川県内での崇敬を集め、日々様々なご祈祷をご奉仕しております。

どうぞ当分祠へお気軽に御参拝いただき、お幸せな日々をお過ごし下さい。

ご祈祷-安産・初宮詣・七五三詣・厄除開運・出雲屋敷八方除・新車祓・良縁結び・病気平癒・学業成就・他
出張祭典-地鎮祭・出雲屋敷地鎮祭・上棟祭・竣工祭・神前結婚式・家清祓・神上・他
その他-方角や年回り・新築や既設建物購入時・神事などお気軽にご相談ください。(HP)

 

大手前高松中学高校は、昭和32年、大手前丸亀の高松分校として開校しました。以来、大学への進学を前提とした中高6年一貫教育、そして高校から入学する3年制の二つの体制を柱に数多くの卒業生を世に送り出してきました。
開校当初は、長屋式木造校舎であり、自転車置場も山土とゴロ石の上に立てられていました。当時から授業は7時間授業でした。運動場、体育館などの練習場所が不十分ななか、部活動も盛んで優秀な成績を残しています。
昭和37年、初めて鉄筋の校舎(現3号館)が完成します。そして次第に運動場、体育館が整備されていきます。校舎も更に二つが建築されます。 昭和48年、ついに丸亀校から独立して、香川県大手前高松中学・高等学校となりました。以後、図書館やピロティ―や塩江の向学寮なども整備され、また優秀な進学成績を上げて来ましたが現在では、コース制に分かれ、より多くのニーズに対応します。(HP)

 

▼所在地、出雲大社高松分祀

高松市室新町:〒761-8062

 

▼大手前高松中学高校、奥の池

 

 

▼金毘羅(高松)街道を西南方向に進む-1

 

▼金毘羅(高松)街道を西南方向に進む-2、県道266号線交差点に合流

 

▼県道266号線を西南方向に進む-1

 

▼左側に高松鷺田郵便局、県道266号線を西南方向に進む-2

 

 

▼県道266号線を西南方向に進む-3(次の交点を右折)、室新町を西方向に進み出雲大社高松分祀へ向かう(約0.7km)

 

▼室山の南嶺の車道を進む-1

 

▼室山の南嶺の車道を進む-2

 

▼室山の南嶺の車道を進む-3、奥ノ池の南東端に着いた

 

▼奥の池のパノラマ景

▼出雲大社高松分祀へ進む-1、左側は奥の池の余水吐

 

▼出雲大社高松分祀へ進む-2、右側に「奥の池由来碑」

 

▼奥の池由来碑、左の奥の池

 

▼出雲大社高松分祀へ進む-3、出雲大社高松分祀に着いた

 

 

▼出雲大社高松分祀-1

 

▼出雲大社高松分祀-2

 

▼出雲大社高松分祀-3

 

▼出雲大社高松分祀-4

 

▼出雲大社高松分祀-5

 

▼出雲大社高松分祀-6

 

▼出雲大社高松分祀-7

 

▼出雲大社高松分祀-8

 

 

▼出雲大社高松分祀を後にして大手前高松中学高校へ向かう(約0.3km)、大手前高松中学高校へ進む-1

 

▼大手前高松中学高校へ進む-2、大手前高松中学高校の南門に着いた

 

 

▼大手前高松中学高校の南門

 

▼大手前高松中学高校の駐車場

 

▼大手前高松中学高校の駐車場の「精子発見のイチョウ」、「精子発見のイチョウ」の説明板

 

▼大手前高松中学高校の正門へ進む-1

 

▼左側に奥の池-1、大手前高松中学高校の正門へ進む-2

 

▼大手前高松中学高校の正門へ進む-3、左側に奥の池-2

 

▼右上は大手前高松中学高校の駐車場、大手前高松中学高校の正門へ進む-4

 

▼左奥にマンション「サンシャイン栗林」、大手前高松中学高校の正門前に着いた

 

▼正門前から見る大手前高松中学高校-1

 

▼大手前高松中学校校(web引用)-1

 

▼大手前高松中学校校(web引用)-2

 

▼正門前から見る大手前高松中学高校-2、大手前高松中学高校を後にして奥の池の西側沿いを南に進み県道172号線「奥の池南交差点」へ向かう(約0.6km)

 

 

▼奥の池の西側沿いを南に進む-1(西春日町へ入る)、大手前高松中学高校を振り返る

 

▼奥の池の西側沿いを南に進む-2

 

▼後方の大手前高松中学高校-1、奥の池の西側沿いを南に進む-3

 

▼右後方に宗教法人「香川イエス之御霊教会」、後方の大手前高松中学高校-2

 

▼奥の池・室山と大手前高松中学高校のパノラマ景

▼奥の池の西側沿いを南に進む-4、大手前高松中学高校の校名板を振り返る

 

▼左奥に出雲大社高松分祀が見える、出雲大社高松分祀のズーム景

 

▼奥の池の西側沿いを南に進む-5(県道172号線へ入る)、県道172号線を南方向に進む-1

 

(Vol.993-2/3に続く)

 

 

<akijii展-(550)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03

今報は「無題j」で、所要時間は220Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.993-2/3をご覧ください。

Vol.993-1/3に続けてご覧ください。

 

▼県道172号線を南方向に進む-2、左に室山と奥の池

▼前方に奥の池南交差点が見えて来た、奥の池の西南角の「奥の池」と「室山城跡」の説明板

 

▼左奥(奥の池の南側)に鶴尾神社創紀1200年記念の鳥居(250m先に御旅所)、右奥(県道172号線の西側)に鶴尾神社

 

▼奥の池南交差点へ進む(西ハゼ町に入った)、奥の池南交差点に着いた(左折しバス停「大手前高松中学高校」へ進む)

 

▼西ハゼ町を東南方向に進む-1、バス停「大手前高松中学高校」に着いた(バス待ち時間が多いため次のバス停「土居宮」へ進む)

 

 

▼西ハゼ町を東南方向に進む-2

 

▼西ハゼ町を東南方向に進む-3、交差点を右折して2寺院に寄る

 

▼南側へ横断(左側に案内板)、西ハゼ土居遺跡(坂田城址)の案内板

 

▼西ハゼ町を南に進む、円通寺が見えて来た

 

 

▼円通寺に着いた、円通寺-1

 

▼円通寺-2

▼円通寺-3

 

▼大乗寺へ進む、大乗寺に着いた

 

▼大乗寺-1

 

▼大乗寺-2

 

▼大乗寺-3

 

 

▼西ハゼ町の2寺院を跡にして帰路のバス停「土居宮」へ進む、バス停「土居宮」へ進む-1

 

▼バス停「土居宮」へ進む-2、県道266号線交差点(バス時間待ち多し、電車に切り替える)

 

 

▼ことでん電車「三条駅」へ向かう(約1.5km)、西ハゼ町を東南方向に進む-4

 

▼北奥にマルナカ栗林南店、マルナカ栗林南店の東隣に前田病院

 

▼金毘羅(高松)街道を横断して東ハゼ町に入る、東ハゼ町を東方向に進む-1

 

▼東ハゼ町を東方向に進む-2、国道11号線の地下道へ下りる

 

▼国道11号線の地下道を進む-1

 

▼国道11号線の地下道を進む-2、国道11号線の地下道から上がる

 

▼東ハゼ町を東方向に進む-3、佃橋北交差点を渡る-上之町へ入る

 

▼上之町を御坊川沿いに東南方向に進む、県道280号線を直進横断

 

▼上之町を御坊川沿いに東方向に進む-1(アレ~見たことが有る)、上之町を御坊川沿いに東方向に進む-2

 

▼上之町を御坊川沿いに東方向に進む-3(エェ~2台目だ)、上之町を東北方向に進む-1

 

▼上之町を東北方向に進む-2、次の交点を左折

 

▼ことでん三条駅へ進む

 

▼ことでん三条駅が見えて来た、ことでん三条駅に着き帰宅の途に就いた

 

引き続き、Vol.993-3/3をご覧ください。

Vol.993-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:21<光泉寺山遺跡と下司寺塔跡>

32.下司廃寺塔跡と光泉寺山遺跡 <撮影:2018.06.12>

下司廃寺(げしはいじ)塔跡には、塔跡とみられる方形基壇と5個の礎石が残っており、白鳳期のものと考えられる八葉複弁蓮華文軒丸瓦や重弧文軒平瓦も出土している。また、縦5cm・横8cm・厚さ2.2cmの塼仏片も発見されており、この地域に白鳳文化が栄えていた事が解る。現在、この塼仏片などは、坂出市府中町の香川県埋蔵文化財センターに保管されている。

 

光泉寺山(こうせんじやま)遺跡は、上佐山(うわさやま)(256m)の東麓に位置する円形状の丘陵裾で、弥生時代前期末の土器包含層と丘陵高所を取り巻く環溝の存在が確認されている。土器は、いずれも弥生時代前期に属するもので、壺形土器・甕形土器ともに平行沈線文様が施文されている。丘陵名は室町時代にあったと伝えられる光専寺に由来しているが、海岸線から約12kmも内陸部に入った所の前期集落として、高松平野における弥生文化の展開を知るためにも貴重な遺跡である。

 

<所在地・外観> 

光泉寺山遺跡と下司廃寺塔跡-高松市池田町市場/高松市東植田町2196

▼光泉寺山遺跡と下司廃寺塔跡-高松市南部の弥生文化から、白鳳文化への展開

 

 

ことでん西植田線のバス停「大亀」から、朝倉川に沿いながら東南に約1.5km行くと清光神社に着く。清光神社と小道を挟んだ東南の位置に「下司廃寺塔跡」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼バス停「大亀」で降車、川北橋(春日川)を渡る

 

▼朝倉川沿いに東進、朝倉川(新あんこう橋)を南に渡る

 

▼一般道を南に進む、次の交点を左折

 

▼左に清光神社・右に下司廃寺塔跡、清光神社(高松市名木-ムクノキ)

 

▼下司廃寺塔跡へ右折、下司廃寺塔跡-1

 

▼下司廃寺塔跡-2

 

▼下司廃寺塔跡-3

 

▼下司廃寺塔跡-4

 

▼下司廃寺塔跡-5

 

▼下司廃寺塔跡-6

 

▼下司廃寺塔跡-7

 

▼下司廃寺塔跡-8

 

 

塼仏片などは坂出市府中町の香川県埋蔵文化財センターに保管されている。

 

▼香川県埋蔵文化財センター外観、入口ホール

 

▼香川県埋蔵文化財センター第一展示室

 

 

ことでん西植田線のバス停「大亀」に戻り、県道156号線を北へ約2kmのバス停「市場」から南300mの道路東側に「光泉寺山遺跡」がある。

 

<関連遺産>

▼市場バス停、光泉寺山

 

▼光専寺山古墳-調査地位置図、遺物実測図(web引用)

 

▼光泉寺山遺跡-1

 

▼光泉寺山遺跡-2

 

▼光泉寺山遺跡-3

 

▼光泉寺山遺跡-4

 

▼光泉寺山遺跡-5

 

▼光泉寺山遺跡-6

 

▼光泉寺山遺跡-7

 

▼光泉寺山遺跡-8

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

宮池とフヨウ。

夕陽を映す宮池。

夕陽を映す宮池のパノラマ景。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-104  Orignal掲載日:Vol.198 (2013.07.15)

みずみずしさ…。

 

会社でも役所でもオフィスは、リーダーと部下の机の配置が固定されているのが一般的であろう。

全体を見渡せると云う理由からだろうが、初めてその会社に行った顧客でも、大抵は机の配置を見ただけで序列が解るが、その固定化が不利益をもたらすことがあるのだ

一般的に、仕事には慣れや経験が大切だと思われているが、現実はそう単純ではない。

むしろ、不慣れなリーダー一年目が以外に爆発力があったりする。

それはおそらく、喋っている時の羞恥心が有るか無いかが部下に伝わるからだろう。

 

はじめのときが以外によかった。慣れて来てダメになった」というケースは少なくない。

経験は少なくても、フレッシュさが風通しを良くし、思わぬ力になることがある。与え続けていると、全部わかっている気になって、心にたこができ、新鮮さが失われる。硬く凝り固まった状態はどこかで回復しなくてはいけない。

 

そのためには、関係を組み替えてしまうというのも一つの手だ

例えば、自分が生徒や部下になってみる。立場を逆転させてみせるのである。

教えることを仕事にしていたり、仕事でまとめ役を求められている人ほど、与える一方では疲れてしまう。

司会役なども、同じ人が祭り上げられる傾向にあるが、会議などでもテーマごとや曜日ごとにリーダーを組み替え、当番式にしていくと、違う緊張感が生じて空気が変わるのだ。

弛緩したムードの会議も、あるターム(意味や解説)ごとに区切りがつく。

席替えもいい。坐っている場所の組み合わせを換えるだけで、ずいぶん雰囲気は違ってくるはずだ。

上司は大概、フロアの端のお誕生日席みたいなところに追いやれ、孤独を味わわされていると思うが、ためしにブレンストーミングがしやすい三角形に坐ってみてはどうだろう。

 

新鮮さがリーダの生命だ。リほどみずみずしさを忘れるな、である。

 

 

<高くがる空間>

県道173号線沿い(西の丸町)の上空。

県道173号線交差点(西の丸町)とJR高松駅の上空。

西の丸町の北側の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇宮池への田圃道とウォーキングコース脇で咲く彼岸花

田圃道

 

 

ウォーキングコース脇

 

 

◇ウォーキングコース脇の畑に咲くヒマワリたち

◇町並巡りで出会ったフヨウと宮池とya宅のフヨウ

町並巡り

 

宮池

 

ya宅

 

 

Akijiiままniフォトsketch<興寺願聖寺  

観興寺(かんこうじ)は、山院寺号は法照山明星院観興寺で、真言宗御室派。御本尊は不動明王(伝興教大師作)である。
紫雲山の東、栗林公園の南側に位置し、西国三十三所巡礼が設置されていたり守護社の熊野神社が有ったり見所の多い寺院である。
寺伝によると昌泰二年(899年)に僧観賢(かんけん)が父親道興の菩提を弔うため、この地に清泉寺を伯父専興の冥福を祈って、付近の坂田郷万蔵村(三条町)に専興寺を建立したが、両寺とも衰微して廃寺と成った。
江戸時代、延宝初年頃(1673〜1680年)、僧観海が専興寺の旧地に寺を建て法照山明星院観興寺と名付けました。

清泉寺跡にも悉地院(しっちいん)を建て名僧観賢の事績を世に伝えた。悉地院は五代住職観瑞の時、高松藩主三代松平頼豊の命で観興寺と合併し廃寺と成った。宝永年間(1704〜1710年)の事と伝えられている。
十数年前には立派な山門が有ったが現在は無くなっている。

願聖寺(がんしょうじ)は、真宗大谷派の寺院。

 

▼所在地、観興寺

高松市室町:〒761-8061

 

▼熊野神社、源聖寺

 

 

▼バス停「室北口」で降車、観興寺へ向かう(約0.5km)

 

▼国道11号線東沿いに北東へ進み西に横断する、室町交差点を西に渡る

 

▼国道11号線の左(南西)方向、右(北東)方向

▼国道11号線西沿いに北東へ進み左折、室町を西方向に進む-1

 

▼正面奥は室山、室町を西方向に進む-2

 

▼室町を西方向に進む-3

 

▼室町を西方向に進む-4

 

 

▼観興寺に着いた、観興寺-1(入口右側の石槌山と劔山の祠)

 

▼観興寺-2

 

▼観興寺-3

 

観興寺-4

 

▼観興寺-5

 

 

▼熊野神社-1

 

▼熊野神社-2

 

▼熊野神社-3

 

▼熊野神社-4

 

▼熊野神社-5

 

▼熊野神社-6

 

▼熊野神社-7、観興寺-6

 

 

▼観興寺-7(⇦西国丗三番霊場巡拝路)、観興寺-8

▼観興寺-9

 

▼観興寺-10

 

▼観興寺-11(第31番-長命寺)

 

▼眞屋象南翁碑、観興寺-12

眞屋象南は、日本三筆の第一人者、日本の書聖とも言うべき、或は中国の書聖王義之にも比せられる弘法大師の書はその代表的作品として風信帖を初めとして幾多のものがある。その中の菅家流には「大師正傳震旦書道」「大師正傳震旦 書道筆法』(昭和四年九月十七日、象南真屋卯吉著)が大阪府立図書館等で所蔵されており、菅家書法として大師流を中心にして述べられ、四国にその流儀が細々とでは有ったが継承されていた事がこの真屋象南の「大師正傳震旦書道」で解るのである。真屋象南は菅家三十一世讃岐伊舎那院安藤大心僧正より伝えられたので三十二世という事になろう。

 

▼観興寺-13(第33番-本尊十一面観世音-美濃国 華厳寺)

 

▼観興寺-14

 

▼観興寺-15(如来塔-無縁墓)

 

▼観興寺-16

 

▼観興寺-17

 

▼観興寺-18(第1番-本尊如意輪観世音 紀伊国 青岸渡寺)

▼観興寺-19(太閤権現)、観興寺-20(左側-太閤秀吉公・右側-北政所ねね様)

▼観興寺-20、観興寺を後にして源聖寺へ向かう(約0.5km)

 

 

▼室町の往路を引き返す、次の交点を右折

 

▼室町を南方向に進む-1

 

▼右奥(室山の東麓)にグロービート松本㈲、室町を南方向に進む-2(次の交点を左折)

 

▼室町を東南方向に進み次の交点を右折、室町を西南方向に進む-1

 

▼室町を西南方向に進む-2、次の三叉交点を右折

 

 

▼源聖寺へ進む、源聖寺に着いた

 

▼源聖寺-1

 

▼源聖寺-2

 

▼源聖寺-3

 

▼源聖寺-4

 

▼源聖寺-5

 

▼源聖寺-6

 

▼源聖寺-7

 

 

▼源聖寺を後にして室新町へ向かう、金毘羅(高松)街道へ進む-1

 

▼金毘羅(高松)街道へ進む-2

 

▼金毘羅(高松)街道に合流、室町を振り返る

 

(次報Vol.993に続く)

 

 

<akijii展-(549)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03

今報は「無題i」で、所要時間は175Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.992-2/2をご覧ください。

Vol.992-1/2に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:20<十河城・喜岡城跡

30.十河城 <撮影:2018.06.01>

十川東町の「城」といわれる地名の台地上にあり称念寺を中心とする一帯である。四方の眺望にすぐれ、城として恵まれた立地にある。同寺の境内に、本丸があったと考えられている。本丸跡には、将兵の菩提を弔うため称念寺が建立された。北側の空堀は、歴然と名残をとどめ、西側の鷺(さぎ)の池、東側の急傾斜など天然の地形を利用した中世の典型的な城跡として貴重な史跡である。南北朝時代、山田郡の豪族植田景保(かげやす)の第4子吉保(よしやす)が十河城(そごうじょう)に分家し、城主となる。以来、存景(まさかげ)・存春(まさはる)(景滋(かげはる))と続き、足利幕府細川管領家の執事(しつじ)職をつとめた阿波の三好家から一存(かずまさ)、存保(まさやす)と二代にわたって当主を迎え、国内の名族をおさえて讃岐の旗頭となり2万石を領した豪族である。十河城は土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に際し、激戦の城となったことで有名である。  (高松市HP)

 

<所在地・外観>

▼十河城跡-高松市十川東町932

▼十河城跡-鳥瞰図(出典元:余湖くんのHP) 、十河城跡-旧山田郡を中心に勢力を誇った、十河氏の居城

 

 

フジグラン十川バス停から県道30号線を南方向へ約1.2km行くと、道路の右(西)側に称念寺・十河城跡の案内板が見える。そこから西に約200m上ると、旧本丸跡に建立された十河氏の菩提寺「称念寺(しょうねんじ)」(浄土宗)に着く。

 

<概 要><歴史遺産>

▼フジグラン十川バス停、県道10号線との交点「十川東町交差点」

 

▼交差点を直進して県道30号線を南に進む、壇原交差点を直進

 

▼称念寺入口の標示板、称念寺へ坂を上る

 

▼称念寺が見えた、称念寺に着いた

 

 

十河氏は、旧山田郡南部に勢力を持っていた植田氏の一族で、十河城に居を構え、室町時代には東讃岐にまで勢力を伸ばして、在地の国人寒川氏と対立するようになった。

やがて、十河氏は阿波(現、徳島県)の三好氏と関係を深めるようになり、十河景滋の時に、阿波守護三好長慶の末弟を養子にして跡継ぎとした。それが「鬼十河」と恐れられた十河一存(かずまさ)である。

 

一存の跡を継いだ十河存保(まさやす)は、実兄の三好長治(ながはる)が家臣の反逆で自害したため、1578(天正6)年に三好家の家督を継ぎ、阿波勝瑞(しょうずい)城(現、徳島県徳島市藍住町勝瑞)に入った。以後、十河城は三好家の讃岐経営の拠点となり、城代の三好隼人佐(はやとのすけ)が守る事になった。

 

十河城は、「南海通紀」に「三方は深田の谷入にて、南方平野に向ひ大手口とす、土居五重に築きて、堀切ぬれば攻入るべき様もなし」と有り、東には急な斜面、西には約5mの堀切と鷺池、南には大手口、北には空堀と北の郭を配置するなど、要害堅固の城として知られた。

 

▼称念寺の門前・白壁と十河城跡の説明板

 

▼称念寺-本堂、城靈廟

 

▼称念寺-歌碑、石塔群

 

 

十河城跡と思われる所を、十河歴史資料館を目指して進んだ。

 

▼十河歴史資料館へ進む-1

 

▼十河歴史資料館へ進む-2

 

▼十河歴史資料館へ進む-3、北門地蔵・からくり橋跡・空堀跡

 

▼北門地蔵・からくり橋跡・空堀跡の説明板、北門地蔵

 

 

ところが1582年、長宗我部勢の大軍に攻められ、三好隼人佐らはよくこれを防戦したが、翌年の再攻であえなく落城した。その後、1585年の羽柴秀吉の四国攻めで、讃岐国は仙石秀久に、うち山田郡2万石の旧地は十河存保に復される事になった。存保は、1586年の秀吉の九州征討に仙石秀久とともに従軍して、豊後(ふんご)(現、大分県)戸次川(へつぎがわ)の戦いで戦死した。

 

▼十河歴史資料館-入口、館内

 

▼十河歴史資料館-外観、十河一存・存保の墓の説明板

 

▼十河城主の墓の全容、十河一存公・千代丸・十河春存公の墓

 

▼十河城主の墓-碑文、碑文の説明板

 

 

十河歴史資料館から県道30号線へ向かう途中の道脇に、十河氏の家臣で馬医者でもあった池内氏の馬の供養墓がある。

 

▼馬の墓

 

 

十河城跡の北東約500mに、「椙尾(すぎお)神社」がある。

 

<関連遺産>

十河存保は、この神社を城の鬼門の鎮めとして崇敬していたと云われる。

また、当社には、県内最古の鰐口(わにぐち)が伝わっている。

直径19cm・厚さ7cmの表面には、「讃州山田郡十河郷 椙尾大明神 大源主元心 文和三(1354)年甲午 三月十一日」と銘が刻まれており、その使用年号から、この地域が南北朝時代には北朝の勢力下にあった事が解る。

 

▼椙尾神社-境内、狛犬と拝殿

 

▼椙尾神社-拝殿、鰐口の説明板

▼椙尾神社-神棚、神社由来と鰐口・豆太鼓の由来

 

 

<十河コミュニティーセンターHPから引用>

〈鰐口〉

この鰐口にも「大師堂」と書かれていますが、ここには真言宗の神仏混合寺院がありました。古くには神社の北東に護摩堂という地名も残っていたそうです。十河城があった時代には、旦原地区も城下として守りの一隅を担っていました。特に城の鬼門の守りだった椙尾神社は手篤く奉られていたとおもわれます。けれども、長曽我部氏との合戦の時に消失してしまいました。

 

▼椙尾神社-鰐口、豆太鼓(web引用-水彩画風変換)

 

 

〈豆太鼓〉

こんな昔話のある太鼓が伝わっています。昔々、椙尾神社の境内で赤い斑点のある牛が死んでいました。見たことのない牛でしたが、やさしい村人がていねいに葬ったところ、そこから一本の豆の木がはえてきて、みるみるうちに天にもとどく大木になりました。ある夜夢に牛が現れて「豆の木を切って、その幹で太鼓を作って下さい。」と告げたので、村人が切ったところ、切り口には牛そっくりの赤い斑があったということです。この太鼓は『豆太鼓』と呼ばれ、たたくとよく響く太鼓でした。

長曽我部が攻めてきたとき、この太鼓を合図に皆が力を合わせて戦ったので、十河城はなかなか落ちませんでした。これに目を付けた土佐軍は豆太鼓を奪って自軍の合図に使おうとしましたが、どんなに強くたたいても太鼓は鳴りませんでした。土佐の兵士たちは腹を立てて豆太鼓を壊してしまったということです。村の人たちは豆太鼓を惜しみ、後年バベガシの木で同じ形の太鼓を作り豆太鼓の由来を今も伝えています。椙尾神社の9月のお祭りには牛の好物の大豆を煮て供えるそうです。

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

31.喜岡城 <撮影:2015.09.27>

喜岡城(きおかじょう)跡(高松城趾)香川県高松市高松町の住宅街に残っています。鎌倉時代の末期、建武の中興の功臣舟木(高松)頼重が讃岐守護職としてこの地に城をかまえていましたが、建武2年(1335)11月26日、足利尊氏の臣「細川定禅」らの軍勢に攻められ、老父一族14人と郎党30余人討死し、落城しました。その後、ここ高松城にて高松庄を領した高松左馬助頼邑は、天正13年(1585)4月26日、秀吉の四国征伐の一隊(宇喜多秀家ら七将の兵)約2万3千の攻撃をうけ、手兵百余人と、香西氏派遣の唐人弾正、片山志摩の率いる兵、合わせてわずか二百をもって勇敢に戦いましたが衆寡敵しがたく城兵ひとり残らず討死しました。高松町長塚は、当時激戦のあった場所で全将兵を葬ったところと伝えられています。高松頼邑、唐人弾正、片山志摩の墓は、喜岡寺境内にあります。  (高松市・高松観光協会-現地説明板より)

 

<所在地・外観>

喜岡城跡-高松市高松町1756

▼喜岡城跡-南北朝期と戦国期の悲劇、今は寺に

 

 

JR屋島駅の南東(直線距離300m)の小高い丘の上に、「喜岡城跡」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼喜岡城の配置図、高松城跡の石碑

 

 

付近には住宅が立ち、城跡には城と運命を伴にした将兵たちの鎮魂の寺と言われる「喜岡寺」(真言宗)と並んで、東側に喜岡権現社(岡神社)、北側には永之谷児童公園がある。

 

▼高松城跡・喜岡寺の石碑、岡神社(喜岡権現社)-1

 

▼岡神社(喜岡権現社)-2

 

 

喜岡城は、地名から別名高松城とも言い、1335(建武2)年に讃岐の守護となった舟木頼重により築城された。頼重はこの地に居を定めてからは高松氏を名乗り、同年11月に建武の新政に叛旗を翻した細川定禅方の夜襲を受けて敗れたが、喜岡城は代々高松氏の居城となった。

 

戦国時代、高松荘一帯を支配していた高松頼邑(よりむら)は、1583(天正11)年に仙石秀久を将とする羽柴秀吉の四国攻めの先鋒軍を一度は退けたものの、翌々年に城兵が討死にしたと云う。

 

廃城後、城外にあった寺が移り、喜岡寺と称した。

裏の墓地には頼邑以下3将の墓碑が並び、権現社の裏手には戦死した将兵が合祀されている。

 

▼喜岡寺-1

 

▼喜岡寺-2

▼喜岡寺-3

 

▼喜岡寺-4

 

▼喜岡寺-5

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

夕暮れ時の宮池2景。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-103  Orignal掲載日:Vol.197 (2013.07.10)

歩歩(ほほ)…。

 

禅の言葉に「歩歩是道場(ほほこれどうじょう)」がある。日常の一挙手一投足、その全てが自己を鍛える道場だ、と云う意味で「歩歩とはいま、ここのこと」だ。道場は静謐(せいひつ)な山中にだけあるのではなく、いま、自分が置かれている立場、状況はそのまま自己を磨く道場である。

 

歴史に鮮やかな軌跡を残した人々は、一様に歩歩是道場を体現した人である。

西郷隆盛を例にすると、西郷は島津久光の逆麟(げきりん)に触れ、36歳で徳之島へ、さらに沖永良部(おきのえらぶ)島に遠島となる。沖永良部島は鹿児島から536kmで、今でもフェリーで17~18時間はかかる。西郷の時代は船頭が人力で漕いでいったのだ。当時、この島に流されるのは死刑に次ぐ重刑であった。西郷はその島で戸も壁もない獣の檻のような吹きさらしの獄舎に幽閉された。同時に一族郎党を含め、西郷家の財産は全て没収されていた。

常人なら絶望に打ちひしがれて不思議はないが、この状況の中で800冊の本を詰めた行李(こうり)3つを獄舎に持ち込み、猛烈な勉強を始めるのである。

 

西郷が友人の桂右衛門(かつらうえもん)に送った手紙には、「徳之島より当島へ引き移り候処、直様牢中に召し入れられ却って身の為には有難く、余念なく一筋に志操を研き候事にて、(中略)益々志は堅固に突き立て申す事にて、御一笑成し下さるべく候」とあり、西郷は遠島流罪という悲運の場を、自己研鑽に励むことで最高の修養の場と化したのだ。

 

曹洞宗を開いた道元にも、一つの言葉ある。

「設(たと)ひ発病して死すべくとも、猶只是(なおただこ)れを修すべし。病ひ無ふして修せず、此の身をいたはり用ひて何の用ぞ。病ひして死せば本意なり」

たとえ病気になって死のうと、仏道修業をやり抜くべきである。まして病気でもないのに修業もせず、自分自身の体をいたわり、その体を何の用に役立てようというのか。仏道修業を続ける中で病気になって死んでも、それはそれで本望ではないか、と云って事実、この言葉のような人生を生きたという。

道元は死の床で「法華経」の「如来神力品(にょらいじんりきほん)」の言葉を柱に書き、それを唱えながら亡くなったという。その言葉とは是の処は即ち是れ道場、いまわの際にあるこの場所も、自分を高めていく道場なのだ、と道に徹した人の死を賭した究極の教えである。

 

いつであれ、どんな所であれ、心がけ次第で自分を高める修業の場になる。

そういう生き方をしなければならないと私たちに教えているのだ。

 

 

<高くがる空間>

ウオーキングコース(標高m73地点)から見るだんご山3兄弟の上空。

川東小学校と香川総合センター(香川町川東上)の上空。

竜桜公園(香川町川東下上)の上空。

竜桜公園(香川町川東下上)から見る川東八幡神社の随神門の上空。

川東八幡神社(香川町川東下)の社殿の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇我家の庭で咲き始めたシュウメイギク(秋明菊)

 

 

◇ウォーキングコースのMi氏の畑に実を付けたバナナの木の現状

24/08/30<Vol.986>でaを紹介した後、新たにbとcの房が付きました。

収穫は9月中旬頃との事でしたが、収穫にはもう少しの時間が必要な感じである。

バナナの実abc(撮影:24.09.24)

・a房

撮影:24.08.25(Vol.986掲載)、24.09.04

 

撮影:24.09.13、24.09.19

 

撮影:24.09.24

・b房

撮影:24.09.13、24.09.19

 

撮影:24.09.24

・c房

撮影:24.09.24

 

 

◇我家の庭で咲ギボウシ(擬宝殊)

 

 

Akijiiままniフォトsketch<源平の里むれ房前公園幡羅八幡神社 

道の駅・源平の里むれ

国道11号線の道の駅で、国土交通省と高松市によって整備を役割分担しており、高松市立房前公園が道の駅に隣接している。2007年(平成19年)8月4日に開駅。四国では防災機能を備えた初めての道の駅として整備。そのため、自家発電装置や防災用品を備蓄する倉庫も併設されている。(Wikipedia)

源平屋島合戦の古戦場として有名な場所に位置する道の駅。セルフ形式で新鮮な魚料理が食べられる「海鮮食堂じゃこや」、さぬきうどん・銘菓・酒類・伝統工芸品などを展示販売している「物産品コーナー」、地元の農家で栽培された新鮮なお野菜・果物が並ぶ「源平やさい市」を併設しています。(香川県観光協会HP)

高松市立房前(ふさざき)公園

道の駅源平の里むれに隣接している高松市立公園は18,000平方mの広さを持ち、展望台、彫刻作品展示や芝生広場、ランニングコース、遊具などが整備されている。災害発生時には、ヘリコプターの離着陸場として使用される。

1926年(大正15年)に製造、琴平線・志度線・長尾線と活躍の場を移しながら2006年12月まで80年間に渡って運用された高松琴平電気鉄道3000形335号が屋外に上屋・プラットホーム付きで静態保存されている。この車両は2007年に高松市に寄贈されたもので、車内に入ることもできる。(Wikipedia)

展望台からは東に志度湾、正面は小豆島、西は五剣山を望み素敵な景観が広がっています。琴電志度線を間近で見られると共に、園内には大正15年製造の琴電車両展示の他、アスレチック遊具等が配置されています。道の駅「源平の里むれ」「物産展示場」も隣接されている上、防災拠点として一体整備された施設です。(高松市観光サイト)

幡羅八幡神社

古くは、三木郡幡羅郷の氏神である。当社は奈良時代の藤前大明神に始まり、全国二百社の1つの大社であった。

長尾極楽寺因由記によれば、天暦5年に4度目の遷宮をしたと伝えられる。

三代物語には八幡宮の森に雌雄の白鳥が棲んでおり、里人は浅間鳥と呼び神の使いとして敬っていたと記されている。

又、源義経が戦勝を祈願して、社殿で夜を明かしたと伝えられる。(牟礼町教育委員会)

 

▼所在地、道の駅源平の里むれ

高松市牟礼町原:〒760-0123

 

▼房前公園、幡羅八幡神社

 

 

▼ことでん塩屋駅で下車、塩屋踏切を渡る(牟礼町大町)

 

▼「道の駅源平の里むれ」へ向かう(約0.4km)、国道11号線沿いの小径へ進む-1

 

▼国道11号線沿いの小径へ進む-2

 

▼国道11号線沿いの小径に着いた、国道11号線沿いの小径を南方向に進む-1

 

▼国道11号線の東側に幡羅郷八幡神社の石柱(裏参道口)、国道11号線沿いの小径を南方向に進む-2

▼国道11号線沿いの小径を南方向に進む-3、「道の駅源平の里むれ」の駐車場に入る(牟礼町原に入る)

 

 

▼道の駅源平の里むれ-1

 

▼道の駅源平の里むれ-2

 

▼道の駅源平の里むれ-3

 

▼道の駅源平の里むれ-4

 

▼道の駅源平の里むれ-5

 

▼道の駅源平の里むれ-6、房前公園へ進む-1

 

 

▼房前公園へ進む-2、房前公園に着いた(牟礼町原&大町)

 

▼房前公園-1(ことでん335号-1)

 

▼房前公園-2(ことでん335号-2)

 

▼房前公園-3(ことでん335号-3)、房前公園-4

 

▼房前公園のパノラマ景-1

▼房前公園-5、UNITY(和泉俊昭)

 

▼房前公園-6、風を呼ぶ(佐藤幸子)

 

▼誕生(Ⅱ)(源敏彦)、房前公園-7

 

▼門-MUSE LOVE(川島猛)、房前公園-8

 

▼房前公園から見る東(小串岬方向)方向のパノラマ景

▼房前公園のパノラマ景-2

▼房前公園から見る北西(五剣山)方向、五剣山のズーム景

 

▼房前公園から見る琴電志度線の電車、房前公園から見る電車通過後の風景

 

▼房前公園-9、天壌「循環2009」(斎藤徹)

 

▼The door of the wind(田中等)、瀬戸の都(長沼克己)

 

▼房前公園-10、Animal2012(三沢厚彦)

 

▼房前公園のパノラマ景-3

▼房前公園-11

 

▼房前公園のパノラマ景-4

▼道の駅源平の里むれに戻る

 

▼道の駅源平の里むれに戻った、道の駅源平の里むれ-7

 

▼道の駅源平の里むれ-8、真念堂-1

 

▼真念堂-2

 

▼道の駅源平の里むれを後にして幡羅八幡神社表参道口へ向かう(約0.5km)、道の駅源平の里むれの駐車場の側道を進む-1

 

(Vol.991-2/に続く)

 

 

<akijii展-(548)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03

今報は「白鳥」で、所要時間は230Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.991-2/3をご覧ください。