Vol.994-1/2に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-県都編:22<屋島>
<33.屋島> <撮影:2015.05.08 and 2018.06.14>
屋島(やしま)は名前のとおり、古代において島でした。屋島は瀬戸内海の中でも備讃瀬戸の東限に位置し、畿内に抜ける海上ルートにおける要所で、特に、唐・新羅の大船団を迎え撃つには非常に重要な場所だったと言えます。屋嶋城の城壁は山上を全長7kmに渡ってめぐらしていたと考えられていますが、そのほとんどは断崖絶壁で、人工的に城壁が築かれていたのはそのうちの約1割程度です。そのため、自然地形を最大限に活用した古代山城と言えます。屋島は北嶺と南嶺と呼ばれる二つの山から構成されていますが、城壁などの遺構は南嶺のみで確認されています。また、北嶺と南嶺の間の西側には大きな谷があり、標高100m付近に山上の城壁とは別に城壁が築かれています。
唐と新羅の連合軍に攻め滅ぼされた百済を再興するため日本は救援軍を朝鮮半島へ派遣しましたが、663年8月、白村江の戦いで両国連合軍に大敗しました。これを契機として、唐・新羅の侵攻に備えて対馬から太宰府周辺・瀬戸内海沿岸に作られた朝鮮式山城の一つが屋嶋城です。日本書紀の天智天皇6(667)年11月の条に「倭國高安城(やまとのくにたかやすのき)、讃吉國山田郡屋嶋城(さぬきのくにやまだのこおりやしまのき)、對馬國金田城(つしまのくにかなたのき)を築(つ)く」(※倭國→現在の奈良県、對馬國→現在の長崎県対馬市)との記載がありますが、長らくその実体はよく分かりませんでした。平成10年2月に南嶺山上部近くの西南斜面において石積みが発見されたことを契機にして、南嶺北斜面・南斜面で確認されていた土塁と関連することがわかり、東斜面でも同様の地形が確認されたことから、山上部付近の斜面に断続的ながら古代山城屋嶋城の外郭線(防御ライン)が巡っていることが判明しました。 (高松市HP)
<所在地・外観>
▼屋島-高松市屋島西町・屋島中町・屋島東町
▼屋島-山上に朝鮮式山城、幕末には砲台
「屋島」(国天然・国史跡)は、瀬戸内海に突き出した標高292m、南北約5km・東西3kmの屋根状の巨大な溶岩台地で、西に広がる高松市街を抱くように横たわっている。
<概 要><歴史遺産>
▼屋島の全容-1
古くは内海に浮かんだ島で、今の相引(あいびき)川一帯は遠浅の海が大きく入り込み、港も存在していたと云う。
▼屋島の全容-2(石の博物館-体験学習広場から)
屋島ドライブウェイを利用して山上に着くと、屋島寺・水族館・旅館・みやげ物店などが連なる平坦部が以外に広い。
私は山麗のことでん潟元駅から、屋島寺仁王門に至る南嶺の西側をのぼる遍路道を歩いた。
その状況は次報の「屋島寺」で紹介します。
▼山上駐車場、屋島寺の境内
▼屋島水族館、旅館・ホテル案内所
屋島の基盤は花崗岩であり、その上に凝灰岩・集塊岩、更に安山岩が薄く覆っている。
屋島寺宝物殿の西にある「雪の庭」のように、白い凝灰岩が露出している所もあるが、最上部を覆っている安山岩が他の岩石より硬かったため、浸食が進んだ後も残り、頂上部が平らな屋根状の形となり、日本を代表するメサ地形の典型として有名である。
▼屋島寺宝物館の庭、雪の庭(web引用-水彩画風変換)
屋島からの眺めは、瀬戸内海国立公園の中でも随一と言われている。南嶺西側にある「獅子の霊巖」からは瀬戸大橋や瀬戸の島々と夕陽の美しい佇まい、煌めく高松市街地の夜景を眺められる。
▼獅子の霊巖、眺望
▼獅子の霊巖から美しい夕陽の佇まい、高松市街地の夜景(web引用-水彩画風変換)
東嶺東側にある「談古嶺」からは対岸の五剣山を望み、眼下には源平の古戦場を、北嶺の「遊鶴亭」からは小豆島など瀬戸の島々を箱庭のように見渡すことができる。
▼談古嶺 、眺望
▼談古嶺から五剣山、源平の古戦場
▼遊鶴亭、眺望
▼遊鶴亭から瀬戸の島々
屋島は原始・古代からの備讃瀬戸の海上交通の要衝であり、急峻な地形とも相まって、軍事上の要衝としても絶好の条件を備えていた。大陸からの侵攻に備えるため、対馬や北九州などと共に屋島にも朝鮮式山城が築かれたものである。
▼屋島城-約1350年前の東アジアと倭国(パンフ引用)
▼屋島城-古代山城(パンフ引用)
従来から西麓の浦生(うろ)集落の上方にある石塁跡などは知られていたが、地元歴史愛好家の発見に端を発する近年の調査により、南嶺西側の旧屋島ケーブル山上駅から北西約200m、標高約270mの所で城門遺構などが発掘され、「屋島城(やしまのき)」の存在が確実なものになった。
▼屋島城-浦生の石塁、北斜面土塁(パンフ引用)
▼屋島城-南水門、城門地区(パンフ引用)
城門遺構は幅約5.4m・奥行約9m、古代山城としては最大規模であり、城壁石垣や土塁なども見られる。自然の岩盤を巧みに利用しており、階段状の床面や排水溝、さらには懸門(けんもん)と呼ばれる城門前面の石積みなど、類例の少ない構造をもっている。
高松市教育委員会では、整備を進め、2013(平成25)年5月に、城門石垣の積み直しが完了した。
また、律令体制が整備されると、屋島には讃岐国に設置された3軍団のうち、東の山田軍団が置かれたと云う。
▼屋島城-城門跡(パンフ引用)、復元・城門跡の完成
▼屋島城-懸門(けんもん)(パンフ引用)、城壁
▼屋島城跡-1
▼屋島城跡-2
▼屋島城跡-3
屋島北端の「長崎鼻」には、海中に深く突き出した立地から、古くから遠見番所が置かれていた。
江戸時代末期の1863(文久3)年に外国船防御のため、高松藩により築かれた「長崎鼻砲台跡」が残る。
藤川三渓(さんけい)の設計によるもので、上・中・下段からなり、上段は守備兵の屯所、中・下段にそれぞれ3門ずつの大砲を据えていたという。
▼屋島北端の長崎鼻
▼砲台跡への道標、長崎鼻の案内板
▼砲台跡の説明板、砲台跡から長崎鼻を見る
▼砲台跡
▼砲台跡から北嶺を見る、女木島・男木島を見る
なお、付近には、5世紀初頭と推定される全長約45mの前方後円墳の「長崎鼻古墳」がある。
3段からなる墳丘の表面の精緻な葺石は、県内では例をみない。後円部には九州阿蘇山の凝灰岩製の舟形石棺があり、被葬者は海上交通に関係した人物とされる。
▼長崎鼻古墳-1
▼長崎鼻古墳-2
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
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