Vol.992-2/2 R巻頭-104。歴史(観て歩き)レポ-県都編:20<十河城跡・喜岡城跡> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.992-1/2に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:20<十河城・喜岡城跡

30.十河城 <撮影:2018.06.01>

十川東町の「城」といわれる地名の台地上にあり称念寺を中心とする一帯である。四方の眺望にすぐれ、城として恵まれた立地にある。同寺の境内に、本丸があったと考えられている。本丸跡には、将兵の菩提を弔うため称念寺が建立された。北側の空堀は、歴然と名残をとどめ、西側の鷺(さぎ)の池、東側の急傾斜など天然の地形を利用した中世の典型的な城跡として貴重な史跡である。南北朝時代、山田郡の豪族植田景保(かげやす)の第4子吉保(よしやす)が十河城(そごうじょう)に分家し、城主となる。以来、存景(まさかげ)・存春(まさはる)(景滋(かげはる))と続き、足利幕府細川管領家の執事(しつじ)職をつとめた阿波の三好家から一存(かずまさ)、存保(まさやす)と二代にわたって当主を迎え、国内の名族をおさえて讃岐の旗頭となり2万石を領した豪族である。十河城は土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に際し、激戦の城となったことで有名である。  (高松市HP)

 

<所在地・外観>

▼十河城跡-高松市十川東町932

▼十河城跡-鳥瞰図(出典元:余湖くんのHP) 、十河城跡-旧山田郡を中心に勢力を誇った、十河氏の居城

 

 

フジグラン十川バス停から県道30号線を南方向へ約1.2km行くと、道路の右(西)側に称念寺・十河城跡の案内板が見える。そこから西に約200m上ると、旧本丸跡に建立された十河氏の菩提寺「称念寺(しょうねんじ)」(浄土宗)に着く。

 

<概 要><歴史遺産>

▼フジグラン十川バス停、県道10号線との交点「十川東町交差点」

 

▼交差点を直進して県道30号線を南に進む、壇原交差点を直進

 

▼称念寺入口の標示板、称念寺へ坂を上る

 

▼称念寺が見えた、称念寺に着いた

 

 

十河氏は、旧山田郡南部に勢力を持っていた植田氏の一族で、十河城に居を構え、室町時代には東讃岐にまで勢力を伸ばして、在地の国人寒川氏と対立するようになった。

やがて、十河氏は阿波(現、徳島県)の三好氏と関係を深めるようになり、十河景滋の時に、阿波守護三好長慶の末弟を養子にして跡継ぎとした。それが「鬼十河」と恐れられた十河一存(かずまさ)である。

 

一存の跡を継いだ十河存保(まさやす)は、実兄の三好長治(ながはる)が家臣の反逆で自害したため、1578(天正6)年に三好家の家督を継ぎ、阿波勝瑞(しょうずい)城(現、徳島県徳島市藍住町勝瑞)に入った。以後、十河城は三好家の讃岐経営の拠点となり、城代の三好隼人佐(はやとのすけ)が守る事になった。

 

十河城は、「南海通紀」に「三方は深田の谷入にて、南方平野に向ひ大手口とす、土居五重に築きて、堀切ぬれば攻入るべき様もなし」と有り、東には急な斜面、西には約5mの堀切と鷺池、南には大手口、北には空堀と北の郭を配置するなど、要害堅固の城として知られた。

 

▼称念寺の門前・白壁と十河城跡の説明板

 

▼称念寺-本堂、城靈廟

 

▼称念寺-歌碑、石塔群

 

 

十河城跡と思われる所を、十河歴史資料館を目指して進んだ。

 

▼十河歴史資料館へ進む-1

 

▼十河歴史資料館へ進む-2

 

▼十河歴史資料館へ進む-3、北門地蔵・からくり橋跡・空堀跡

 

▼北門地蔵・からくり橋跡・空堀跡の説明板、北門地蔵

 

 

ところが1582年、長宗我部勢の大軍に攻められ、三好隼人佐らはよくこれを防戦したが、翌年の再攻であえなく落城した。その後、1585年の羽柴秀吉の四国攻めで、讃岐国は仙石秀久に、うち山田郡2万石の旧地は十河存保に復される事になった。存保は、1586年の秀吉の九州征討に仙石秀久とともに従軍して、豊後(ふんご)(現、大分県)戸次川(へつぎがわ)の戦いで戦死した。

 

▼十河歴史資料館-入口、館内

 

▼十河歴史資料館-外観、十河一存・存保の墓の説明板

 

▼十河城主の墓の全容、十河一存公・千代丸・十河春存公の墓

 

▼十河城主の墓-碑文、碑文の説明板

 

 

十河歴史資料館から県道30号線へ向かう途中の道脇に、十河氏の家臣で馬医者でもあった池内氏の馬の供養墓がある。

 

▼馬の墓

 

 

十河城跡の北東約500mに、「椙尾(すぎお)神社」がある。

 

<関連遺産>

十河存保は、この神社を城の鬼門の鎮めとして崇敬していたと云われる。

また、当社には、県内最古の鰐口(わにぐち)が伝わっている。

直径19cm・厚さ7cmの表面には、「讃州山田郡十河郷 椙尾大明神 大源主元心 文和三(1354)年甲午 三月十一日」と銘が刻まれており、その使用年号から、この地域が南北朝時代には北朝の勢力下にあった事が解る。

 

▼椙尾神社-境内、狛犬と拝殿

 

▼椙尾神社-拝殿、鰐口の説明板

▼椙尾神社-神棚、神社由来と鰐口・豆太鼓の由来

 

 

<十河コミュニティーセンターHPから引用>

〈鰐口〉

この鰐口にも「大師堂」と書かれていますが、ここには真言宗の神仏混合寺院がありました。古くには神社の北東に護摩堂という地名も残っていたそうです。十河城があった時代には、旦原地区も城下として守りの一隅を担っていました。特に城の鬼門の守りだった椙尾神社は手篤く奉られていたとおもわれます。けれども、長曽我部氏との合戦の時に消失してしまいました。

 

▼椙尾神社-鰐口、豆太鼓(web引用-水彩画風変換)

 

 

〈豆太鼓〉

こんな昔話のある太鼓が伝わっています。昔々、椙尾神社の境内で赤い斑点のある牛が死んでいました。見たことのない牛でしたが、やさしい村人がていねいに葬ったところ、そこから一本の豆の木がはえてきて、みるみるうちに天にもとどく大木になりました。ある夜夢に牛が現れて「豆の木を切って、その幹で太鼓を作って下さい。」と告げたので、村人が切ったところ、切り口には牛そっくりの赤い斑があったということです。この太鼓は『豆太鼓』と呼ばれ、たたくとよく響く太鼓でした。

長曽我部が攻めてきたとき、この太鼓を合図に皆が力を合わせて戦ったので、十河城はなかなか落ちませんでした。これに目を付けた土佐軍は豆太鼓を奪って自軍の合図に使おうとしましたが、どんなに強くたたいても太鼓は鳴りませんでした。土佐の兵士たちは腹を立てて豆太鼓を壊してしまったということです。村の人たちは豆太鼓を惜しみ、後年バベガシの木で同じ形の太鼓を作り豆太鼓の由来を今も伝えています。椙尾神社の9月のお祭りには牛の好物の大豆を煮て供えるそうです。

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

31.喜岡城 <撮影:2015.09.27>

喜岡城(きおかじょう)跡(高松城趾)香川県高松市高松町の住宅街に残っています。鎌倉時代の末期、建武の中興の功臣舟木(高松)頼重が讃岐守護職としてこの地に城をかまえていましたが、建武2年(1335)11月26日、足利尊氏の臣「細川定禅」らの軍勢に攻められ、老父一族14人と郎党30余人討死し、落城しました。その後、ここ高松城にて高松庄を領した高松左馬助頼邑は、天正13年(1585)4月26日、秀吉の四国征伐の一隊(宇喜多秀家ら七将の兵)約2万3千の攻撃をうけ、手兵百余人と、香西氏派遣の唐人弾正、片山志摩の率いる兵、合わせてわずか二百をもって勇敢に戦いましたが衆寡敵しがたく城兵ひとり残らず討死しました。高松町長塚は、当時激戦のあった場所で全将兵を葬ったところと伝えられています。高松頼邑、唐人弾正、片山志摩の墓は、喜岡寺境内にあります。  (高松市・高松観光協会-現地説明板より)

 

<所在地・外観>

喜岡城跡-高松市高松町1756

▼喜岡城跡-南北朝期と戦国期の悲劇、今は寺に

 

 

JR屋島駅の南東(直線距離300m)の小高い丘の上に、「喜岡城跡」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼喜岡城の配置図、高松城跡の石碑

 

 

付近には住宅が立ち、城跡には城と運命を伴にした将兵たちの鎮魂の寺と言われる「喜岡寺」(真言宗)と並んで、東側に喜岡権現社(岡神社)、北側には永之谷児童公園がある。

 

▼高松城跡・喜岡寺の石碑、岡神社(喜岡権現社)-1

 

▼岡神社(喜岡権現社)-2

 

 

喜岡城は、地名から別名高松城とも言い、1335(建武2)年に讃岐の守護となった舟木頼重により築城された。頼重はこの地に居を定めてからは高松氏を名乗り、同年11月に建武の新政に叛旗を翻した細川定禅方の夜襲を受けて敗れたが、喜岡城は代々高松氏の居城となった。

 

戦国時代、高松荘一帯を支配していた高松頼邑(よりむら)は、1583(天正11)年に仙石秀久を将とする羽柴秀吉の四国攻めの先鋒軍を一度は退けたものの、翌々年に城兵が討死にしたと云う。

 

廃城後、城外にあった寺が移り、喜岡寺と称した。

裏の墓地には頼邑以下3将の墓碑が並び、権現社の裏手には戦死した将兵が合祀されている。

 

▼喜岡寺-1

 

▼喜岡寺-2

▼喜岡寺-3

 

▼喜岡寺-4

 

▼喜岡寺-5

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀