Vol.995-2/3 R巻頭-107。歴史(観て歩き)レポ-県都編:23<屋島寺・屋島神社> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.995-1/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:23屋島寺・屋島神社

34.屋島寺 <撮影:2012.04.24 and 2014.05.27>

屋島寺(やしまじ)は、屋島南嶺山上にある真言宗御室派の寺院。四国八十八箇所霊場の第八十四番札所。律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)朝廷に招かれ奈良に向かう途中、当地を訪れて開創し、その後、弟子の恵雲が堂宇を建立したという。その後、古代山城の屋嶋城が閉鎖されたため、その跡地に寺院を創設したものである。なお、ここから1kmほど北の北嶺山上には屋島寺の前身とされる千間堂(せんかんどう)の遺跡がある。また、815年(弘仁6年)嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、北嶺から南嶺に移し千手観音像を安置し霊場に定めたとも云われている。明徳2年(1391年)の西大寺末寺帳に屋島寺と屋島普賢寺の名があり、当時は奈良・西大寺(真言律宗)の末寺であったことがわかる。高松藩主生駒一正は慶長6年(1601年)に屋島寺の寺領25石を安堵。近世を通じ、当寺は高松藩の保護下にあった。現在も国有林部分を除いて、屋島山上の敷地のほとんどは屋島寺の所有である。 (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

▼屋島寺-高松市屋島東町1808

▼屋島寺-鑑真創建の伝説、北嶺で平安時代の寺跡

 

 

屋島山上にある四国八十八個所霊場84番札所「屋島寺」へは車で屋島ドライブウェイを利用する場合が多いが、山麓の潟元(かたもと)から屋島寺仁王門に至る南嶺の西側を上る遍路道を歩いた。

 

▼ことでん潟元駅、道池の袂にある屋島寺2.0kmの道標

 

▼道池の横にある案内板、屋島小へ通学の児童と一緒に歩く

▼遍路道を行く-1、屋島寺1.5kmの道標前を直進

 

▼遍照院の前を通過、遍路道を行く-2

 

▼同行の杖、遍路道を行く-3

 

▼山上へ30分の看板、遍路道を行く-4

 

 

道沿いには、1丁ごとに石地蔵が並び、弘法大師(空海)ゆかりの加持水(かじすい)や不喰梨(くわずなし)の伝説も残っている。

 

<概 要><歴史遺産>

▼遍路道を行くakijii、加持水-1

 

▼加持水-2

▼不喰梨

 

 

更に上ると、畳を重ねたような板状節理などがある畳石(たたみいし)が目に入る。

 

▼畳石と称す奇石

 

 

屋島寺は、南面山千光院と号する。

 

▼屋島寺-仁王門、仁王門から四天門を見る

 

▼屋島寺-四天門、四天門から本堂・宝物館を見る

 

 

奈良時代に唐から迎えられた高僧鑑真が都に向かう途中、北嶺に一宇を建立し普賢菩薩を安置したと云う。その後、空海が南嶺の現在位置に伽藍を移し、千手院を建立して自作の千手観音を納めたと云う。中世に入り寺は衰退したが、近世には生駒氏や松平氏などの保護を受け、寺運は向上した。

 

「本堂」(国重文)は、5間5面の入母屋造の和様建築で、県内では数少ない鎌倉時代の遺構である。

以前、1618(元和4)年に住持竜厳により再建された桃山様式の建築と言われていたが、1957(昭和32)年からの解体修理で鎌倉時代の古材や様式手法が発見され、本来は鎌倉時代末期の建築と判明したのである。

 

▼屋島寺-本堂1

 

▼屋島寺-本堂2

 

 

本尊の「木造千手観音坐像」(国重文)は、カヤの一木造の坐像で、全ての手が光背と共に当初のまま伝えられているのは珍しい。像容に重厚な安定感があり、衣文には翻波式彫法が見られる。

10世紀初頭の制作と推察され、平安時代初期から中期にかかる過渡的なものとされる。

 

▼屋島寺-木造千手観音坐像(web引用-水彩画風変換)

 

本堂前の鐘楼にある「梵鐘」(国重文)は、讃岐国住人蓮阿弥陀仏の勧進により、1223(貞応2)年に青銅を使い、「鋳繰り」の手法で完成されたものである。

 

▼鐘楼、梵鐘(web引用-水彩画風変換)

 

 

本堂東側の蓑山大明神には、四国狸の大将、または日本三大狸の1つとされる太三郎狸を祀っている。

 

▼蓑山大明神、熊野大権現社

 

▼屋島寺-大師堂、千躰堂・三体堂

 

▼屋島寺-宝物館

 

▼屋島寺-境内1

 

▼屋島寺-境内2、東大門

 

 

北嶺には、千間堂という地名も伝承され、近年の調査により、平安時代の寺院跡が確認されている。

 

▼千間堂跡の道標、千間堂跡

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.995-3/3をご覧ください。