akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記 -18ページ目

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

新居宮池は今

蓮光寺山に沈む夕日の陽光を映す宮池の水面2景。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-109  Orignal掲載日:Vol.203 (2013.08.10)

一歩先んじる…。

 

成功するものとそうでない者との差は、タイミングである。チャンスとみたら、脇目もふらず行動しなければならない。

たとえ一歩の差でも、成功と失敗を分けるのだ。タイミングを知るのは、まず知識や情報を分析する見識が必要だが、それだけあればうまくいくものではない。知っていながら逡巡して行動に移せず、機を逸してしまうことが少なくない。

また行断と行動は素早いのだが、勇み足で失敗することもある。そこには注意深さと慎重さも求められるのだ。

成功するには思い切りのよい行動力と、慎重な判断力との両輪を兼ね備える必要がある。

 

日本の小説家で、1913年(大正2年)生まれ、通称「織田作(おださく)」で呼ばれていた織田作之助(おだ さくのすけ)氏の成功へ導く言葉を紹介します。

(およ)そ成功の岐(わか)るる所は僅かに一歩の差である。一歩先んじて進む者は成功し、後(おく)るる者は不遇を嘆(かこ)つ。故に人は常に機を見るに敏(びん)なることを要す。

 

<附則>マイクロ・ソフト創業者:ビル・ゲイツ

その頃、パソコン業界はリーダー不在だった。チャンスだ。僕らが行かなくてどうすると思いましたね。

 

一歩先んじる、これが成功の秘訣だ。

 

 

<高くがる空間>

朝焼けに覆われただんご山3兄弟の上空。

瀬戸大橋通りの交差点(県庁前通りの北詰め)の上空。

高松兵庫町商店街の西口の上空。

東側の高松兵庫町商店街の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースに咲くセイタカアワダチソウ

日本の侵略的外来種ワースト100(日本生態学会が定めた外来種の中でも生態系や人間活動への影響が大きい生物のリスト)指定種で、侵入年代は1900年頃導入され戦後に分布拡大し国内進入分布はほぼ全国である。北アメリカ原産で、日本では切り花用の観賞植物として導入された帰化植物であり、ススキなどの在来種と競合する。河原や空き地などに群生し、高さは1.0~2.5m、良く肥えた土地では3.5~4.5m程度にもなる。茎は下の方ではほとんど枝分かれがなく、先の方で花を付ける枝を多数出す。花期は秋で11月頃まで開花している。濃黄色の小さな花を多く付け、種子だけでなく地下茎でも増える。

繁殖を始めた場所では日本の在来植物の姿はほとんど見えなくなり、何年もしないうちにセイタカアワダチソウだけが繁茂すると言われています。所有地などに繁茂しているセイタカアワダチソウをできるだけ駆除してください。(新潟県長岡市HP)

ウォーキングコースで群生している地点別に掲載します。

・コースa地点

 

・コースb地点

 

・コースc地点

 

・コースd地点

 

・コースe地点

 

・コースf地点

 

・コースg地点

 

 

・コースh地点

 

 

 

・コースi地点

 

・コースj地点

 

・コースk地点

 

・コースl地点

 

・コースm地点

 

◇ウォーキングコース脇のⅠ宅の玄関に咲トレニア

 

◇高松市立中央公園のニチニチソウ

◇我家の庭に咲く藤袴

アサギマダラ訪問は未だである。

 

 

◇我家の庭に咲く秋明菊(シュウメイギク)

 

 

Akijiiままniフォトsketch<厄除不動明王院峰山公園 

厄除不動明王院(西宝町)

昭和30年(1955年)5月11日、濃霧の瀬戸内海で修学旅行生を乗せた宇高連絡船の紫雲丸が車両渡船の第三宇高丸と衝突・沈没して168人の犠牲者が出ました(紫雲丸事故)。その供養のためとして、善通寺法主亀谷宥英大僧正と同志が創建し、同院主が開眼した。四国最大の、高さ8mの金色の波切不動尊が立ち、その胎内には犠牲者のための写経が納められています。

 

峰山公園(峰山町丸山地区)

白い雲を浮かべた真っ青な空と鮮やかなコントラストを見せる7850㎡の芝生広場は、みんなのオープンスペースです。お弁当を広げてピクニック気分を味わったり、寝転がってひなたぼっこを楽しんだり、誰もが思い思いのスタイルでくつろげる癒しの場です。

ちびっこ広場わんぱく広場の遊具が平成23年4月にリニューアルオープンしました。

新しく設置された遊具は次のとおりです。
ちびっこ広場はコンビネーション遊具1基、ローラースライダー、スイング遊具(きりん・しまうま)、その他ブランコ・スプリング遊具(各種)・アニマル・アリ地獄・タイヤ渡りなどがあります。

わんぱく広場はコンビネーション遊具2基、ロープウェイ、ロックブロックです。

 

▼所在地、厄除不動明王院

高松市峰山町:〒760-0009

 

▼峰山公園芝生広場、峰山公園ちびっこ広場

 

▼峰山公園わんぱく広場、擂鉢谷滝不動堂

 

 

▼バス停「峰山」で降車(標高16m)、厄除不動明王院へ向かう(約0.5km)

 

▼宮脇町を西方向に上がって行く-1(左に碑)、「皇太子殿下御降誕記念」の碑

 

▼右奥に市営旭ケ丘団地、市営旭ケ丘団地案内図

 

▼宮脇町を西方向に上がって行く-2(正面奥に厄除不動明王院が見える-1)、厄除不動明王院のズーム-1

 

▼宮脇町を西方向に上がって行く-3(右に擂鉢谷墓地)、擂鉢谷墓地

 

▼宮脇町を西方向に上がって行く-4(正面奥に厄除不動明王院が見える-2)、厄除不動明王院のズーム-2

 

▼宮脇町を西方向に上がって行く-5(右に案内板)、峰山公園の案内板

 

▼宮脇町を西方向に上がって行く-6(正面は社会福祉法人さぬき)、社会福祉法人さぬき(標高24m)

 

▼宮脇町を西南方向に上がって行く-1

 

▼右に延命地蔵尊

 

▼宮脇町を西南方向に上がって行く-2(厄除不動明王院への上り口に着いた-標高37m)、厄除不動明王院への上り口(西宝町に入った)

 

 

▼厄除不動明王院へ石階段を上る-1

 

▼右に後藤芝山墓所、厄除不動明王院へ石階段を上る-2

後藤芝山(ごとうしざん)は、讃岐高松藩の生まれ。父は高松藩に仕えていたが、財政難により領内の芝山の麓に移住した。この帰農の時期に芝山は育てられた。儒学を志し、守屋義門及び菊池黄山の弟子となった。19歳の時に江戸に遊学し、林榴岡の弟子となり、昌平黌で学ぶ。33歳の時に帰国し、高松藩主松平頼恭の侍読となる。安永9年(1780年)松平頼真によって藩校講道館が設立され、初代総裁に就任した。芝山が創始した四書五経の訓点は後藤点と呼ばれ、広く世間に知れ渡った。門人には柴野栗山らがいた。

 

▼厄除不動明王院へ石階段を上る-3、後方を振り返る

 

▼厄除不動明王院へ石階段を上る-4、厄除不動明王院へ石階段を上り切った

 

▼石階段を振り返る、厄除不動明王院へ進む-1

 

▼厄除不動明王院へ進む-2

 

▼厄除不動明王院へ進む-3、厄除不動明王院に着いた(標高69m)

▼厄除不動明王院-1

 

▼厄除不動明王院-2

 

▼厄除不動明王院から下りる

 

▼厄除不動明王院から見る高松市内の景観(中央に香川県庁舎)、厄除不動明王院の参道を南西に進む-1

 

▼厄除不動明王院の参道を南西に進む-2、右上に44.厄除不動明王院

 

▼右に「西宝山厄除不動明王院集会所再建」の記念碑、右上の厄除不動明王のズーム

 

▼厄除不動明王院の参道を南西に進む-3、左側は墓地への下り石段-1

 

▼厄除不動明王院の参道を南西に進む-4、左側は墓地への下り石段-2

 

▼厄除不動明王院の西南の参道口に着いた(標高76m)、「厄除不動明王院☞」の石標

 

▼薬師堂・大師堂参道(峰山公園)口へ向かう(約0.6km)、西宝町の車道を西南方向に上る-1

 

▼西宝町の車道を西南方向に上る-2

 

▼西宝町の車道を東南方向に上る-1、後方を振り返る(高松市中心部と奥に屋島)

 

▼西宝町の車道を東南方向に上る-2、西宝町の車道を東南方向に上る

 

▼左方向の景観(高松シンボルタワーが見える)、左方向のズーム景観

 

▼西宝町の車道を南方向に上る-1

 

▼西宝町の車道を南方向に上る-2(左に滝不動尊参道口)、滝不動尊参道口

 

▼西宝町の車道を南方向に上る-3(薬師堂・大師堂参道口が見えて来た)、薬師堂・大師堂参道(峰山公園)口に着いた(標高122m)

 

 

▼峰山公園芝生広場へ向かう(約0.6km)、山道を南方向に進む-1

 

▼山道を南方向に進む-2

 

▼「薬師堂・大師堂➡」「⇦芝生広場」交点(標高143m)、右(北-薬師堂・大師堂)方向

 

▼山道を南方向に進む-3(峰山町に入った)、山道を南方向に進む-4(車道が見えて来た)

 

(Vol.997-2に続く)

 

 

<akijii展-(554)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03

今報は「無題l」で、所要時間は180Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.997-2/3をご覧ください。

Vol.997-1/3に続けてご覧ください。

 

▼車道に入る(標高146m)、峰山町を南東方向に上る-1

 

▼峰山町を南東方向に上る-2、峰山町を南東から南方向に上る

 

▼峰山町を南方向に上る-1(標高154m)、峰山町を南方向に上る-2

 

▼左に第二駐車場、峰山町を南から南西方向に上る

 

▼右は峰山公園芝生広場の出口専用口、峰山公園芝生広場の入口へ進む-1(右は公園管理事務所)(標高161m)

 

▼峰山公園芝生広場の入口へ進む-2

 

 

▼峰山公園芝生広場の入口に着いた(標高170m)、峰山公園芝生広場の駐車場広場

 

▼峰山公園案内板、石清尾山古墳群の案内説明板

 

▼峰山公園の碑(高松市市政施行90周年記念事業)、翔(はばたき)-高松市民のねがい

「高松市民のねがい」は、高松市の市制施行90周年という節目の年をきっかけに、いっそう豊かで明るく住みよい高松を築きあげようと、市民総ぐるみのまちづくり運動の共同目標・合い言葉として、昭和55年9月25日に制定されたものです。

▼峰山公園芝生広場-1(標高172m)、峰山公園芝生広場-2

 

▼峰山公園芝生広場パノラマ景

▼峰山公園芝生広場を左廻りで周回-1

 

▼右に公園管理事務所、峰山公園芝生広場を左廻りで周回-2

 

▼峰山公園芝生広場パノラマ景-2

▼峰山公園芝生広場を左廻りで周回-3、「少年の記憶」像

 

▼峰山公園芝生広場を左廻りで周回-4、峰山公園芝生広場を左廻りで一周

 

 

▼峰山公園ちびっこ広場-1

 

▼峰山公園ちびっこ広場-2

 

▼峰山公園ちびっこ広場-3(標高168m)、峰山公園ちびっこ広場-4

 

▼峰山公園ちびっこ広場-5

 

 

▼峰山公園わんぱく広場へ進む、峰山公園わんぱく広場-1(標高173m)

 

▼峰山公園わんぱく広場-2

 

▼峰山公園わんぱく広場-3

 

▼峰山公園わんぱく広場-4

 

 

▼峰山公園芝生広場の入口に戻る-1

 

▼峰山公園芝生広場の入口に戻る-2、峰山公園芝生広場の入口に戻った

 

 

▼滝不動尊参道口へ向かう(約0.6km)、峰山公園の駐車場を東に進む

 

▼峰山公園の駐車場出口専用口を左折、峰山町(往路)を引き返す-1(右に遊歩道入口)

 

▼「遊歩道休憩所・石船塚第4駐車場➡」の標識、峰山町(往路)を引き返す-2

 

▼峰山町(往路)を引き返す-3、右(東)奥に遊歩道が見える

 

▼峰山町(往路)を引き返す-4

 

▼峰山町(往路)を引き返す-5、山道へ入る

 

▼峰山町(往路)を引き返す-6(山道を進む)

 

▼峰山町(往路)を引き返す-7(山道を進む)、「薬師堂・大師堂➡」「⇦芝生広場」交点(西宝町に戻った)

 

▼滝不動尊参道口へ進む-1

 

▼滝不動尊参道口へ進む-2、薬師堂・大師堂参道(峰山公園)口

 

▼滝不動尊参道口へ進む-3、滝不動尊参道口に着いた(標高119m)

 

 

▼擂鉢谷滝不動堂へ下る-1、右下に擂鉢谷滝不動堂

 

▼擂鉢谷滝不動堂へ下る-2、右に擂鉢谷滝不動堂

 

▼擂鉢谷滝不動堂へ下る-3

 

▼擂鉢谷滝不動堂に着いた(標高102m)、擂鉢谷滝不動堂-1

 

▼擂鉢谷滝不動堂-2

 

▼擂鉢谷滝不動堂-3

 

 

▼帰路のバス停「峰山」へ向かう(約1.0km)、擂鉢谷川沿いに滝不動尊参道を下る-1

 

▼擂鉢谷川沿いに滝不動尊参道を下る-2

 

▼擂鉢谷川沿いに滝不動尊参道を下る-3

 

▼擂鉢谷川沿いに滝不動尊参道を下る-4(左に祠)、祠

 

▼擂鉢谷川沿いに滝不動尊参道を下る-5、滝不動尊参道の石碑

 

 

▼車道との交点を右に進む(標高61m)、西宝町を東北方向に進む-1

 

▼西宝町を東北方向に進む-2

 

▼西宝町を東北方向に進む-3、前方左は厄除不動明王院への上り口

 

▼厄除不動明王院の方向、厄除不動明王院のズーム景

▼宮脇町に戻った、バス停「峰山」へ進む-1

 

▼バス停「峰山」へ進む-2

 

▼バス停「峰山」が見えて来た、バス停「峰山」に着き帰宅の途に就いた

 

 

引き続き、Vol.997-3/3をご覧ください。

Vol.997-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:25<高松市茶臼山古墳>

37.高松市茶臼山古墳 <撮影:2016.04.09 and 2018.06.17>

高松平野の東部、茶臼山(ちゃうすやま)の山頂部を利用して築かれた全長75mの前方後円墳である。昭和44年(1969)の発掘調査により、後円部中央に2つの石室が発見された。大きな方の石室からは、鍬形石と呼ばれる腕輪の一種が2個、鏡(画文帯重列式神獣鏡)が1面等、副葬品が発見された。鍬形石は県内唯一の事例で、四国でも他に徳島市の巽(たつみ)山古墳の例があるのみである。大和の勢力者から分配を受けたものと考えられ、茶臼山古墳の被葬者が近畿地方と密接な関係にあった証拠とされている。石室も近畿地方にみられる構造をしていることが知られている。約6km西方の石清尾山古墳群との関係で語られることも多く、被葬者が大和勢力によって高松平野に打ち込まれた楔(くさび)のような政治的な役目を持っていたといわれる。しかし、石室が東西に築かれる等、地元色もうかがわれる。 (高松市HP)

 

<所在地・外観>

▼高松市茶臼山古墳-高松市東山崎町・新田町

▼高松市茶臼山古墳-畿内との強い結びつき

 

 

春日川・新川を見下ろす高松平野東方の丘陵地には、数多くの古墳が分布している。

 

▼高松平野東方の古墳群図(web引用-水彩画風変換)

 

JR屋島駅の西側を南北に走る県道30号線を3kmほど南に行くと、右手に久米池が見える。

 

▼県道30号線、久米池

 

 

久米池南方の2つの丘陵のうち、東側丘陵上の標高約40mに、南西の平野部に向けて後円部を配した前方後円墳の「高松市茶臼山古墳」(県史跡)がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼久米池南方の2つの丘陵

▼久米石清尾八幡宮の御旅所前を左折(南方向) 、一心院に向かって進む

 

▼次の三叉路を左折、茶臼山の登り口(一心院)に着いた

 

▼茶臼山へ上る-1、一心院を通る-1

 

▼一心院を通る-2 、茶臼山へ上る-2

 

▼高松市朝日町の方向、茶臼山へ上る-3

 

▼茶臼山へ上る-4、高松市茶臼山古墳に着いた

 

 

花崗岩の地山(じやま)を整形して築造された墳丘は、前方部が鏡の柄のように狭くて長くなっている。

後円部には安山岩の板岩を整然と小口積みし、床面には粘土が敷き詰められた竪穴式石室が有り、碧玉(へきぎょく)製の鍬形石(くわがたいし)2個、画文帯(がもんたい)神獣鏡1面などが出土した。

後円部にもう1基の竪穴式石室が有る他、前方部付近にも6基の埋葬施設を持つ。

 

▼説明板

 

▼第1主体部-全景、石室

▼第1主体部-石室の壁と天井

 

▼第1主体部-石室の天井、石室から開口部

 

▼第2主体部-全景、石室の開口部

 

▼第2主体部-石室の壁、石室の天井

 

 

高松市茶臼山古墳の出土展示品の代表は次である。(web引用-水彩画風変換)

 

▼ガラス小玉、円筒埴輪

 

▼画文帯同向式神獣鏡、出土品展示台

 

▼鍬形石、土師器壺

 

▼鉄刀・鉄剣、鉄鏃(てつぞく)

 

 

茶臼山から県道30号線を北へ約500m行き、右折して丘陵への道を200mほど入ると「久本(ひさもと)古墳」がある。

 

<関連遺産>

▼久本古墳へ進む-1

 

▼久本古墳へ進む-2、久本古墳に着いた

 

 

南向きに開口している全長10.8mの横穴式石室が有るが、この石室の奥壁には県内で唯一の石棚が見られる。棚の下には陶棺が置かれ、その横からは須恵器や鉄器などと共に、仏教的性格の強い承台付銅鋺が県内で初めて出土している。

 

▼全景、説明板

 

▼巨石の開口部と羨道、羨道

 

▼羨道の壁と天井

 

▼玄室、玄室の棚

 

▼玄室の壁と棚

 

▼玄室の壁と棚と天井

 

▼玄室の壁と天井

 

▼玄室から開口部を見る

 

 

久本古墳の出土展示品は次である。(web引用-水彩画風変換)

 

▼久本古墳出土品-陳列台、須恵器や鉄器

 

▼久本古墳出土品-承台付銅鋺

 

▼久本古墳-石棚の下部に土師質亀甲型陶棺が安置されていた、展示品

 

 

久本古墳の北方向約700mの岡山公民館の近くに、民家に囲まれた巨大な一枚岩の天井を持つ「山下古墳」がある。墳丘の大半は失われているが、長さ9mを超える石室が現存している。

 

▼岡山公民館の前の標示板、山下古墳に到着

 

▼開口部、石室-1

 

▼石室-2

 

▼天井石-1

 

▼天井石-2 、石室から開口部

 

 

巨石を用いた久本古墳と山下古墳は、古墳時代後期の6世紀後半から末頃に築造され、被葬者はこの地域の盟主的な存在で有ったであろう。

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

宮池の水面と空の雲2景。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-108  Orignal掲載日:Vol.202 (2013.08.05)

萬燈行。

 

一つの国が滅びるのは戦争によってではない。天変地異でもなければ、経済的破綻によってでもない。国民の道徳心が失われた時、その国は滅びる

イギリスの歴史学者アーノルド・トインビーが国家興亡の原理を衝いて、こういう趣旨の言葉があるというが、鋭い。

 

三十年を一世代と言うそうだが、一世代前には想像だにできなかったような事件のオンパレードだ。まさに日本は崩壊の危機に瀕している、と思わざるを得ない。

 

安岡正篤(まさひろ)著「一日一言」にある「萬燈行(まんとうぎょう)」と題する一文を記する。

内外の状況を深思しましょう。このままで往けば、日本は自滅するしかありません。我々は、これをどうすることも出来ないのでしょうか。我々が、何もしなければ、誰がどうしてくれましょうか。我々が、何とかするほか無いのです。

我々は、日本を易(か)えることが出来ます。暗黒を嘆くより、一燈を點(つ)けましょう。我々は、まず我々の周囲の闇を照らす一燈になりましょう。手のとどく限り、至る所に燈明を供えましょう。一人一燈なれば、萬人萬燈です。日本はたちまち明るくなりましょう。これ我々の萬燈行であります。互に真剣にこの世直し行を励もうではありませんか。

 

まず一人ひとりが一燈を点じなければならないと思うのである。

 

 

<高くがる空間>

自宅前から夕暮れ時の西方向上空。

司法書士会会館(西内町)の上空。

高松センタービル(寿町)の上空。

国道30号線沿い(寿町)の上空。

日本銀行高松支店(寿町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコース(脇)に咲く金木犀(きんもくせい)

花の見頃は9月中旬~0月下旬で、開花は夏の気温の影響を受けるため、残暑が厳しい年は開花が少し遅れる傾向にある。茹だるような暑さが少し落ち着いた頃に秋を知らせる甘い香りが、どこからともなく漂ってくる。また、暑さが厳しい年は、一度咲き終えた後にもう一度新しい蕾が開いて、二度咲きする事もある。

花が咲く期間はとても短く、開花から3〜7日ほどで散ってしまうが、木の下に無数の花が散った様子はまた見事で、まるでオレンジ色の絨毯が敷き詰められているかのようだ。

花言葉には、可憐な花の様を表した「謙虚」「謙遜」「気高い人」、またその魅惑的な香りを象徴する「真実」「陶酔」「初恋」などがある。

金木犀(キンモクセイ)は、季節の訪れを教えてくれる風物詩として、古くから日本で愛されてきた三大香木(日本で愛されている、とても強くよい香りを持つ3つの花木)の一つで、春先に咲く沈丁花(ジンチョウゲ)、夏に甘い香りを漂わせる梔子(クチナシ)との3つである。

国分寺北部幼稚園

 

新居宮池親水公園a

 

新居宮池親水公園b

 

新居宮池遊歩道

 

◇ウォーキングコース(脇)のAk宅に咲くチロリアンランプ

 

◇ウォーキングコース(脇)の溜池の岸に咲くサクラダテ

 

◇我が家の庭で咲き始めた藤袴

アサギマダラを呼ぶ植物「フジバカマ」が咲き始めました。

旅する蝶と呼ばれるアサギマダラは海を越えて1,000kmほど移動することもあるそうだ。

アサギ(浅葱)とは青緑色の事で、新撰組の羽織の色を思い浮かべて貰うと解り易いと思います。

大人気マンガ・アニメの「鬼滅の刃」。
アサギマダラは、物語に登場するキャラクター「胡蝶しのぶ」のモチーフとも言われている。
アニメではオープニングなどで何度かアサギマダラ自体が登場している。

 

そのアサギマダラが昨年は10/22と10/23の両日に我家の藤袴を訪ねてくれましたが、今年は如何なものが…。

 

 

Akijiiままniフォトsketch<慈恩寺廣昌寺  

慈恩寺(ジオンジ)は、御本尊は聖観世音菩薩(通称、逆流観音)、寛永九年(1632)生駒藩四代高俊のとき、僧空厳が開いた寺である。初めは、阿野郡新居村(現高松市国分寺町新居)にあった。寛永の末年、高松城下寺町(四番丁)に移り、三代藩主松平頼豊のとき、住僧月潭が、寺領百石を与えられ、大いに繁栄したと、いわれる。明治二十五年(1892)四月、市立四番丁小学校開校のさい、寺域1.150坪(約3.795平方m)を、市に貸し付けた(後売却)結果境内は縮小された。昭和の戦災で仏殿を失い、三番丁に移転した後、今の寺町に移した。

ここ慈恩寺と北隣の廣昌寺は戦国時代には香西氏の家臣、藤井氏の城(館)が築かれていたと云われているが、現在全く遺構はなく高松大空襲を受け戦後区画整理されて面影はない。

 

廣昌寺の縁起は、​寛文元年(1661年)に創建、高松藩主となった松平頼重公の生母「久子の方」の菩提寺。

​久子の方が生前は<法華経>を信仰しており、亡くなった時に頼重公が実弟の水戸光圀公と相談をして建立した歴史がある。第二次大戦中の空襲で本堂などことごとく焼失。​戦後、仮本堂から再スタートし今に至る。

 

▼所在地、グランディス高松ザ・タワー

高松市中央町:〒760-0007

 

▼慈恩寺、廣昌寺

 

 

▼交差点を右折して中野町から中央町に入る、中央町を東へ進む-1

 

▼中央町を東へ進む-2

 

▼右奥はサムティ栗林公園北、サムティ栗林公園北

 

▼中央町を東へ進む-3(国道11号線交点を左折)、国道11号線交点の右(南)方向

 

▼国道11号線を北に進む-1、前方にグランディス高松ザ・タワー

 

▼国道11号線を北に進む-2(次の中央町交差点を左折し八幡通りに入る)、八幡通りを西方向に進む

 

▼グランディス高松ザ・タワー

 

 

▼「⇦八幡通り」の標識、八幡通りの界隈-1

 

▼八幡通りの界隈-2

 

▼八幡通りの界隈-3

 

▼八幡通りの界隈-4、南側に高松八本松郵便局

 

▼八幡通りの界隈-5、南側の八幡平

 

▼休業中?の八幡平

 

▼八幡通りの界隈-6、八幡通りと県道173号線交差点を右折し慈恩寺へ進む

 

 

▼県道173号線を北へ進む-1

 

▼左(西)に英明高校-1、県道173号線を北へ進む-2

 

▼県道173号線を北へ進む-3(右奥に山門が見えて来た)、左(西)に英明高校-2

 

 

▼慈恩寺に着いた、慈恩寺-1

 

▼慈恩寺-2

 

▼慈恩寺-3

 

▼慈恩寺-4

 

▼慈恩寺-5

 

▼慈恩寺-6、慈恩寺を後にして北隣の廣昌寺へ進む

 

 

▼廣昌寺に着いた、廣昌寺-1

 

▼廣昌寺-2

 

▼廣昌寺-3

 

▼廣昌寺-4

 

▼廣昌寺-5

 

▼廣昌寺-6

 

 

▼廣昌寺を後にして帰路のバス停「八本松」へ向かう(約0.3km)、県道173号線交点を右折

 

▼県道173号線を北へ進む-1、廣昌寺を振り返る

 

▼県道173号線を北へ進む-2、県道33号線(高松市天神前交差点)を北へ横断

 

▼県道33号線を西方向に進む、バス停「八本松」に着き帰宅の途に就いた

 

 

 

<akijii展- (553) 

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03

今報は「プドルで、所要時間は185Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.996-2/3をご覧ください。

Vol.996-1/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:24<四村ミウゼアム(民家博物館)

36.四国村ミウゼアム(四国民家博物館) <撮影:2017.05.28>

源平合戦の地として名高い香川県高松市屋島の麓にある野外博物館です。約5万㎡の敷地に四国地方を中心とする伝統的な古民家や歴史的建造物33棟を移築復元しています。その中には河野家住宅や砂糖しめ小屋など、国指定の文化財も含まれています。四季折々の花々や自然に囲まれた施設で、古建築と合わせて多くの民具も展示することで昔の暮らしに思いを巡らせ、先人たちの知恵や工夫に触れることができます。

さらに、二十四節気のある生活の中で育まれた節句飾りや正月飾りなどの風習や文化の紹介もしています。

また、建築家安藤忠雄氏設計により2002年に建てられた「四国村ギャラリー」にはピカソやボナールなどの絵画や彫刻、オリエントの美術品などを所蔵しています。村の入口には、茅葺きの古民家で味わう讃岐うどんの有名店「ざいごうどん本家 わら家」や、神戸北野から移築した異人館を活用した「四国村カフェ」も併設しています。  (香川県HP)

 

<所在地・外観> 

▼四国村ミウゼアム(四国民家博物館)-高松市屋島中町91

▼四国村ミウゼアム(四国民家博物館)-四国の古民家が集合、ギャラリーも

 

 

屋島南嶺の麓にある屋島神社の東隣には、「四国村ミウゼアム(四国民家博物館)」がある。

通称は「四国村(しこくむら)」と言い、周辺の自然環境をうまく取り入れたユニークな屋外博物館である。

 

<概 要><歴史遺産>

▼駐車場、入り口

 

▼石柱、チケット売り場

 

 

村内に入ると、小豆島産の巨石を使った「ながれ坂」と呼ばれる彫刻家流政之(ながれまさゆき)の創作によるメインストリートがある。

 

▼ながれ坂

 

 

それを少し上り、左に折れ、かずら橋を渡り順路に沿ってしばらく歩くと、珍しい円形の建物などが見える。これは「砂糖しめ小屋・釜屋」で、内部には「讃岐及び周辺地域の砂糖製造用具」(砂糖しめ小屋・釜屋と一括して国民俗)を展示している。

 

▼砂糖しめ小屋・釜屋-説明板、円形1

 

▼砂糖しめ小屋・釜屋-円形1

 

▼砂糖しめ小屋・釜屋-方形

 

▼砂糖しめ小屋・釜屋-釜屋

 

▼砂糖しめ小屋・釜屋-円形2-1

▼砂糖しめ小屋・釜屋-円形2-2

 

 

近くには、「旧河野家住宅」(国重文、愛媛県内から移築)、「旧下木(しもき)家住宅」(国重文、徳島県内から移築)、「讃岐及び周辺地域の醤油醸造用具」を備えた「醤油蔵・麹室」(醸造用具と一括して国民俗)などが見える。

 

▼旧河野家住宅-1

 

▼旧河野家住宅-2

▼旧河野家住宅-3

 

 

▼旧下木家住宅-1

 

▼旧下木家住宅-2

 

▼旧下木家住宅-3

 

 

▼醤油蔵・麹室-1

 

▼醤油蔵・麹室-2

 

▼醤油蔵・麹室-3

▼醤油蔵・麹室-4

 

 

引き続き、Vol.996-3/3をご覧ください。

Vol.996-2/3に続けてご覧ください。

 

「旧山下家住宅、旧黒瀬家丸亀藩御用屋敷、旧丸亀藩番所」(いずれも県文化)など、貴重なものがある。

▼旧山下家住宅-1

 

▼旧山下家住宅-2

 

▼旧山下家住宅-3

 

 

▼旧黒瀬家丸亀藩御用屋敷-1

▼旧黒瀬家丸亀藩御用屋敷-2

 

▼旧黒瀬家丸亀藩御用屋敷-3

 

 

▼旧丸亀藩番所

 

 

このように、四国各地から地方色豊かな建物を移築・再現しており、建物内部には庶民生活を知る道具や什器など、多数の民具が往時を再現する形で展示されている。

 

▼小豆島農村歌舞伎舞台、南予の茶堂

 

▼大久野島燈台、江崎燈台退息所

 

▼鍋島燈台退息所、クダコ島燈台退息所

 

▼楮蒸し小屋、添水唐臼(そうずからうす)

 

▼久米通賢宅、中石家住宅

 

▼福井家石蔵、アーチ橋

 

▼小豆島の石蔵・消防屯所、前田家土蔵

 

▼吉野家住宅、祖谷のかずら橋

 

また、失われつつある伝統行事や年中行事の復元にも努め、各種の催しを実施している。

なお、建築家安藤忠雄設計の四国村ギャラリーが2002(平成14)年に開設され、絵画・彫刻・仏像などが展示されている。

 

▼四国村ギャラリー-1

 

▼四国村ギャラリー-2

 

▼四国村ギャラリー-3

 

▼四国村ギャラリー-4

 

 

村の出口付近には、明治時代の洋館を移築した喫茶店や茅葺きの農家を移築したうどん店がある。

 

▼洋館の喫茶店「異人館」-1

 

▼洋館の喫茶店「異人館」-2

 

▼茅葺きのうどん店「わら家」-1

 

▼茅葺きのうどん店「わら家」-2

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

落下防止柵を水面に映す穏やかな宮池。

 

爽やかな夕陽を浴びる宮池。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-107  Orignal掲載日:Vol.201 (2013.07.30)

生きることば…。

瀬戸内 寂聴さんの著書より抜粋して紹介します。

 

▼人は生まれた時、定命(じょうみょう)というものを与えられています。

この定命が尽きるまではこの世で生きていなくてはなりません。生きることは楽しいことばかりではありません。お釈迦さまはこの世は苦しみの世の中だと教えていらっしゃいます。

▼人は何処(いずこ)より来て、何処へ行くのか。

わかっていることは、自分は自分の意志でこの世に生まれてきたのではないということ、この世にいる時間を自分の都合で調節できないことだけです。

▼「時」はその人とともに生きつづけます。

肉親よりも、夫婦よりも、空気や太陽よりも、人は自分の時と永遠につきあわなければならないのです。そして時をふり返るというのは、よほど幸福な時か、ほんとうに孤独に打ちひがれた時であるようです。

▼人間にはさまざまな運命があります。

神さまは公平で、一人の人間にだけいいことばかりは与えません。長い一生を観れば、どんな人も、いいことや悪いことにくり返し見舞われています。雨の日が一ヶ月もつづくということはないのです。同じ状態がつづかないことを仏教では無常(むじょう)といいます。

▼仏教では、縁(えん)ということを、大切にします。

わたしたちが生きていることのすべては、この縁によって行われているのです。原因があって、縁の作用が加わって、結果となる。仏教ではこれを因果(いんが)の法則といい、世の中のすべてを説明できるのです。

▼釈尊(しゃくそん)の教えは、あくまでも自分の心のなかからの声を聴けというものです。

自分こそ自分の主人、どうして他人が主人であろう、自分をよくととのえたなら、自分こそ得がたい、主人になるだろう。

▼やっばり生きているという事は、ああ、いい天気だとか、今夜は風が出そうだとか、今年のさんまはおいしいとか、そんなつまらないことを何の警戒心もなくふっと口にして、それを聞いてもらえる相手がいる、ということかも知れません。

▼幸福な人のそばに寄ると、幸福のほてりを受けてこちらも温かくなります。

 

貴方は、読まれてどのように感じましたか。

 

 

<高くがる空間>

朝日を受け爽やかなだんご山3兄弟の上空。

冠纓神社(香南町由佐)の表参道入口の上空。

冠纓神社の表参道の上空。

冠纓神社の神門の上空。

冠纓神社の境内社・厳島神社から見る裏参道の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇盆栽園のケイトウ

 

  

◇ウォーキングコースに咲くイタドリ

 

◇Ka宅の玄関の寄せ植え

◇Ya宅の畑の中の鉢に咲くホテイアオイ

 

◇ウォーキングコースで色付き始めたセイタカアワダチソウ

 

◇Hi宅のフェンスのツルムラサキ

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<中野荷神社・渋柿  

中野稲荷神社は、JR高徳線の高架が参道の上を通っています、稲荷社なので赤い鳥居の列が並んでいます、境内からは栗林公園の借景となっている紫雲山への登山道が通じています

1743年、高松藩5代藩主・松平頼恭が創建。創建当時は、石清尾八幡宮の境内に鎮座していたそうです。しかし1744年に中野天満神社に遷座。その後、現在地に遷座。現在は石清尾八幡宮の境外末社です。

境内入口にはサイズが全然違う神明鳥居が2基。手前の鳥居には転びがあって、奥の鳥居には転びがありませんでした。
ちなみに転びとは鳥居の柱の傾斜のことです。石灯籠のテッペンには・・・フクロウ?鷽?

不ぞろいの鳥居をくぐるとガード下の参道に突入。駅と神社のコラボレーション。これはなかなかの珍光景ですね。

本殿は1934年改築、瓦葺入母屋造、稲荷大明神を祀る。

社殿の周りにはたくさんの幟旗が立っていました。まるで戦のようだね。

 

渋柿寺は、浄土宗真宗興正寺派で御本尊:阿弥陀如来、創建は不詳。

戦国時代は香西氏の臣下吉田玄蕃の中ノ村城(館)で有り、天正十年(1582年)に土佐の長曽我部元親軍の侵攻にて香西氏が敗れた時に中ノ村城も落ちたと思われる。
吉田玄蕃が何年のどこで亡くなったかは不明だが、後に当寺に吉田玄蕃の墓所であったと伝わっている。
この辺りは生駒高俊時代に家臣西嶋八兵衛が、香川町大野から二方向に流れていた香東川と郷東川を一方向(郷東川)にするまでは仏生山街道や中央通りを含めた幅の本流香東川だったそうだ。
当時の香東川は暴れ川で度々洪水を起こし村人を苦しめた。村人は氾濫を起きないように願いを込め、また亡くなった人々を弔う為、自然災害の平穏、住民や旅人無事(その昔は渡し舟があり、この辺りが西の渡しだったようです)を祈願し供養の為に地蔵菩薩を建立したのが渋柿寺の始まりと伝えられている。享保年間(1716〜1735年)高松藩主松平頼重公より仏飯料として三石寄進したとある。境内の北東隅には石が置かれていて「キリシタン灯籠」と云われている。以前は聖徒と十字架の陰刻が見えていたそうだが風化により分かり難くなって居る。色々の説のある灯籠である。

 

▼所在地、六角堂

高松市中野町:〒760-0007

 

▼中野稲荷神社、渋柿寺

 

 

▼宮脇中野町緑地の北西方向、宮脇中野町緑地を南東方向に進む-1

 

▼宮脇中野町緑地を南東方向に進む-2

 

▼六角堂に寄る、左前方に六角堂

 

 

▼六角堂に着いた、六角堂-1

▼六角堂-2

 

▼六角堂-3

 

▼六角堂-4

 

▼六角堂-5

 

▼六角堂-6

 

 

▼六角堂を後にして中野稲荷神社へ進む(約0.15km)、宮脇中野町緑地を南東方向に進む-3

 

▼宮脇中野町緑地を南東方向に進む-4

▼「心かよう ふれあい通り」の案内板、中野稲荷神社へ進む-1

 

▼中野稲荷神社へ進む-2(右側はJR栗林公園北口駅)、JR栗林公園北口駅

 

 

▼中野稲荷神社に着いた、中野稲荷神社-1

 

▼中野稲荷神社-2

 

▼中野稲荷神社-3

 

▼中野稲荷神社-4

 

▼中野稲荷神社-5

 

▼中野稲荷神社-6

 

中野稲荷神社-7

 

▼稲荷山へのコース-1、右はJR栗林公園北口駅のホーム

 

▼稲荷山へのコース-2

 

▼稲荷山へのコース-3、中野稲荷神社境内へ引き返す-1

 

▼中野稲荷神社境内へ引き返す-2

 

▼中野稲荷神社境内に戻った、中野稲荷神社-8

 

▼中野稲荷神社-9

 

▼中野稲荷神社-10

 

▼中野稲荷神社-11、中野稲荷神社を後にして渋柿寺へ向かう(約0.5km)

 

 

▼中野町を東方向へ進む、中野町を東方向へ進み次の県道173号線交点を左折

 

▼県道173号線交点から中野稲荷神社を振り返る、県道173号線の交点の右(南)方向

▼県道173号線を北に進む、次の交点を右折

 

▼中野町を東へ進む-1

 

▼中野町を東へ進む-2

 

▼次の交差点を左折、中野町を西北へ進む(左奥に渋柿寺が見えて来た)

 

 

▼渋柿寺に着いた、渋柿寺-1

 

▼渋柿寺-2

 

▼渋柿寺-3

 

▼渋柿寺-4

 

▼渋柿寺-5

 

▼渋柿寺を後にして中央町へ進む、中野町を北西方向に進む-1

 

▼中野町を北西方向に進む-2(左は松下製麺所)、次の交差点を右折して中央町に入る

 

(次報Vol.996に続く)

 

 

<akijii展-(552)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03

今報は「女の子」で、所要時間は405Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.995-2/3をご覧ください。

Vol.995-1/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:23屋島寺・屋島神社

34.屋島寺 <撮影:2012.04.24 and 2014.05.27>

屋島寺(やしまじ)は、屋島南嶺山上にある真言宗御室派の寺院。四国八十八箇所霊場の第八十四番札所。律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)朝廷に招かれ奈良に向かう途中、当地を訪れて開創し、その後、弟子の恵雲が堂宇を建立したという。その後、古代山城の屋嶋城が閉鎖されたため、その跡地に寺院を創設したものである。なお、ここから1kmほど北の北嶺山上には屋島寺の前身とされる千間堂(せんかんどう)の遺跡がある。また、815年(弘仁6年)嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、北嶺から南嶺に移し千手観音像を安置し霊場に定めたとも云われている。明徳2年(1391年)の西大寺末寺帳に屋島寺と屋島普賢寺の名があり、当時は奈良・西大寺(真言律宗)の末寺であったことがわかる。高松藩主生駒一正は慶長6年(1601年)に屋島寺の寺領25石を安堵。近世を通じ、当寺は高松藩の保護下にあった。現在も国有林部分を除いて、屋島山上の敷地のほとんどは屋島寺の所有である。 (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

▼屋島寺-高松市屋島東町1808

▼屋島寺-鑑真創建の伝説、北嶺で平安時代の寺跡

 

 

屋島山上にある四国八十八個所霊場84番札所「屋島寺」へは車で屋島ドライブウェイを利用する場合が多いが、山麓の潟元(かたもと)から屋島寺仁王門に至る南嶺の西側を上る遍路道を歩いた。

 

▼ことでん潟元駅、道池の袂にある屋島寺2.0kmの道標

 

▼道池の横にある案内板、屋島小へ通学の児童と一緒に歩く

▼遍路道を行く-1、屋島寺1.5kmの道標前を直進

 

▼遍照院の前を通過、遍路道を行く-2

 

▼同行の杖、遍路道を行く-3

 

▼山上へ30分の看板、遍路道を行く-4

 

 

道沿いには、1丁ごとに石地蔵が並び、弘法大師(空海)ゆかりの加持水(かじすい)や不喰梨(くわずなし)の伝説も残っている。

 

<概 要><歴史遺産>

▼遍路道を行くakijii、加持水-1

 

▼加持水-2

▼不喰梨

 

 

更に上ると、畳を重ねたような板状節理などがある畳石(たたみいし)が目に入る。

 

▼畳石と称す奇石

 

 

屋島寺は、南面山千光院と号する。

 

▼屋島寺-仁王門、仁王門から四天門を見る

 

▼屋島寺-四天門、四天門から本堂・宝物館を見る

 

 

奈良時代に唐から迎えられた高僧鑑真が都に向かう途中、北嶺に一宇を建立し普賢菩薩を安置したと云う。その後、空海が南嶺の現在位置に伽藍を移し、千手院を建立して自作の千手観音を納めたと云う。中世に入り寺は衰退したが、近世には生駒氏や松平氏などの保護を受け、寺運は向上した。

 

「本堂」(国重文)は、5間5面の入母屋造の和様建築で、県内では数少ない鎌倉時代の遺構である。

以前、1618(元和4)年に住持竜厳により再建された桃山様式の建築と言われていたが、1957(昭和32)年からの解体修理で鎌倉時代の古材や様式手法が発見され、本来は鎌倉時代末期の建築と判明したのである。

 

▼屋島寺-本堂1

 

▼屋島寺-本堂2

 

 

本尊の「木造千手観音坐像」(国重文)は、カヤの一木造の坐像で、全ての手が光背と共に当初のまま伝えられているのは珍しい。像容に重厚な安定感があり、衣文には翻波式彫法が見られる。

10世紀初頭の制作と推察され、平安時代初期から中期にかかる過渡的なものとされる。

 

▼屋島寺-木造千手観音坐像(web引用-水彩画風変換)

 

本堂前の鐘楼にある「梵鐘」(国重文)は、讃岐国住人蓮阿弥陀仏の勧進により、1223(貞応2)年に青銅を使い、「鋳繰り」の手法で完成されたものである。

 

▼鐘楼、梵鐘(web引用-水彩画風変換)

 

 

本堂東側の蓑山大明神には、四国狸の大将、または日本三大狸の1つとされる太三郎狸を祀っている。

 

▼蓑山大明神、熊野大権現社

 

▼屋島寺-大師堂、千躰堂・三体堂

 

▼屋島寺-宝物館

 

▼屋島寺-境内1

 

▼屋島寺-境内2、東大門

 

 

北嶺には、千間堂という地名も伝承され、近年の調査により、平安時代の寺院跡が確認されている。

 

▼千間堂跡の道標、千間堂跡

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.995-3/3をご覧ください。

Vol.995-2/3に続けてご覧ください。

 

<35.屋島神社 <撮影:2015.09.27 and 2017.05.28>

当神社は慶安四年(1651)初代高松藩主松平頼重公が、香川郡宮脇村の本門寿院境内に東照大神(徳川家康公)の神廟を建立し、崇敬したのにはじまる。以来、山王社として歴代藩主により奉斎されてきたが、文化元年(1804)当時の高松藩主第八代松平頼儀公は、この風光明媚な屋島山麓において社殿の造営に着手する。左甚五郎の六世、五代目の左利平忠能が、松平家の客分棟梁となり、文化十二年(1815)に完成した。その後、明治四年には冠獄神社と改め、さらに明治七年屋島神社と改称、同年県社に列せられる。明治十五年藩祖松平頼重公を合祀する。昭和四十八年二月不慮の火災にあい、本殿、拝殿等を全焼したが、辛うじて神門(正面上部には鳳凰、両側の柱には上り龍 下り龍の彫刻)は無事であった。社殿は翌年十一月に再建され現在に至っている。  (境内由緒書より)

 

<所在地・外観>

屋島神社-高松市屋島中町山畑140

▼屋島神社-高松松平氏の氏神、讃岐東照宮

 

 

ことでん屋島駅から東に行き、参道を北に進んだ石段の上に、旧県社の「屋島神社」がある。

讃岐東照宮ともいう。

 

<概 要><歴史遺産>

▼琴電屋島駅から東進、参道を北に進む

 

▼社号標、一の鳥居が見えてきた

 

 

1652(慶安4)年、初代高松藩主松平頼重が祖父徳川家康を祀るため、石清尾山麓の旧本門寿院克軍寺境内に山王社を建立したのが始まりである。

 

▼説明板、由緒・案内板

 

▼鳥居と石段、石段-1

 

 

1815(文化12)年、8代藩主頼儀(よりのり)の時、現在の地に日光廟を模したとする社殿を造営、屋島東照宮と称し、松平氏の氏神として代々の藩主に神奉された。

 

▼石段-2 、葵亭

 

▼石段-3

 

▼石段-4、注連柱

 

▼石段-5

 

▼神庫、石段-6

 

▼石段-7

 

▼石段-8

 

 

その後、1874(明治7)年に屋島神社と改め、1882年には初代藩主頼重を合祀した。

1973(昭和48)年に失火で社殿を全焼し、現在の建物は翌年に再建されたものである。

 

▼神門、葵紋

▼神門の彫刻-1

 

▼神門の彫刻-2

 

▼築塀-東側、西側

 

▼拝殿、拝殿と神饌殿

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

水上展望台と奥の新居東児童館を映す夕暮れ時の宮池の水面。

夕陽を浴びる雲を映す宮池の水面。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-106  Orignal掲載日:Vol.200 (2013.07.25)

必要とされる年寄りに…。

 

賢いネコは年老いると、飼い主に厄介を掛けたく無いと考えて、死が近づくと家を出て行くという。しかし我々はネコでない以上、ミズミを取らなく成ったからといって、老人ホームへ姿を隠す必要は少しも無いのである。老人は年老いた事によって、果たして無用の長物となるのであろうか…。

 

ひと昔前の老人は必要以上に威張り過ぎていた。その反動か、今は必要以上に遠慮し過ぎている。「もう若い人たちの邪魔はしませんよ。若い人達には若い人達のやり方があるから…。見かねる事は無いではないけれどもねェ…。」と言う声には、心から喜んで隠退したのではなく、寂しいあきらめが滲み出ているのである。

 

大切な事は、若い者にとって、年寄りの存在が必要であることを感じさせる老人に成る事だ。

必要といっても、ただ守りとか留守番などというような日常の便利屋ではない。

人生の先輩、経験者としてイザという時に、良い知恵を貸して貰えるという信頼を若者に与える老人に成る事である。

 

普段はうるさい頑固な爺さんでも、信頼と尊敬を持てる人間であれば若い者は一目おくし、その存在を必要とするものなのだ。これからも精進を続ける必要であるなぁ~、と大きな息を吐く。

 

 

<高くがる空間>

高松空港送迎デッキ(香南町岡)の上空。

高根トンネル(高松空港滑走路の下部)(香南町由佐)。

東第2駐車場から見る高松空港(香南町岡)の上空。

離陸寸前のJAL476(東京羽田行)(香南町岡)の上空。

専妙寺(香南町岡)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇町並巡りで出会ったダンギク

 

◇ウォーキングコース脇に咲いていたアワプヒ

 

◇町並巡りで出会ったオキザリス

 

◇町並巡りで出会ったコエビソウ

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<道祖神社・亀岡公園・霊源寺 

道祖(どうそ)神社は、石清尾八幡宮の境外末社である。

寛文6年(1666年)11月11日松平初代藩主、松平頼重公によって創祀され、参勤交代の道中の守護神として崇敬せられ、毎年一回の参詣がありました。昭和20年7月の高松空襲により焼失し、長くそのままになっていましたが、創祀330年目に当たる平成8年、氏子・崇敬者の浄財により再建されました。(石清尾八幡宮HP)

 

亀岡公園は、大名庭園「栗林公園」の裏山、稲荷山の北麓にある公園で、市営の亀岡庭球場に併設された児童公園だ。

遊具は、華やかではないものの一通りは揃っている。シーソーは新開東・西公園にあったもの似ているが、支柱の形状に違いがある。滑り台は開放デッキ型、樹脂成形滑り。ヒューム管を使った遊具がいくつも置かれているが、中に入って遊びたいな、と思わせるような遊具ではない。

 

霊源寺は、寺記:初め香川郡坂田郷(紫雲山の東麓)にあって、千光寺といった。松平頼重が娘婿菩提のため延宝四年(1676)現地に移し霊源寺と改称した。元禄十年(1697)綾歌郡長炭村佐岡寺山より観音像が出土したので、高松二代藩主松平頼常は生母親量院(水戸藩主徳川光圀の側室)の発願により、元禄十二年(1699)堂を建て安置した。

これがいわゆる子安観音である。同十四年(1701)頼常から親量院の号と、寺領百石を与えられた。

その後、正徳四年(1714)十一月十二日死去した前藩主頼常の生母、玉井氏(水戸藩主徳川光圀の側室、法号親量院)の遺体が当寺に葬られた。このほか、養賢院、実性院など、松平家ゆかりの墓が寺内にあった。

 

▼所在地、道祖神社

高松市亀岡町:〒760-0006

 

▼亀岡公園、霊源寺

 

 

▼バス停「亀岡町香川県薬剤師会館前」で降車、祖神社へ向かう(約0.2km)

 

▼県道33号線を東に進み次の交点を右折、亀岡町を南に進む-1

 

▼亀岡町を南に進む-2、次の交差点を左折(右奥に亀岡庭球場)

 

▼亀岡町を西に進みT交点を右折(正面は英明高校)、亀岡町を南に進む(右奥に注連柱が見えて来た-正面奥は稲荷山)

 

 

▼道祖神社に着いた、道祖神社-1

▼道祖神社-2

 

▼道祖神社-3

 

▼道祖神社-4

 

▼道祖神社-5

 

▼道祖神社-6

 

▼道祖神社-7

 

▼道祖神社-8

 

▼道祖神社-9、道祖神社を後にして亀岡公園へ向かう(約0.1km)

 

 

▼亀岡町を南に進み次の交点を右折、亀岡公園へ進む-1

 

▼後方に英明高校、亀岡公園へ進む-2

 

▼正面に亀岡庭球場(左折)、亀岡公園へ進む-3

 

▼亀岡公園へ進む-4(左に石清尾八幡宮の御旅所と駐車場)、石清尾八幡宮の御旅所

 

 

▼亀岡公園に着いた、亀岡公園-1

 

▼亀岡公園-2

 

▼亀岡公園-3

 

▼亀岡公園-4

▼亀岡公園-5

 

▼亀岡公園-6

▼亀岡公園-7

 

 

▼石清尾八幡宮の御旅所へ進む

 

▼石清尾八幡宮の御旅所と駐車場に着いた、石清尾八幡宮の御旅所と駐車場-1

 

▼石清尾八幡宮の御旅所と駐車場-2、石清尾八幡宮の御旅所と駐車場の奥に香川県庁舎と右に英明高校

 

 

▼霊源寺へ向かう(約0.2km)、八幡通りを横断

 

▼霊源寺へ進む、霊源寺が見えて来た

 

 

▼霊源寺に着いた、霊源寺-1

 

▼霊源寺-2

 

▼霊源寺-3

▼霊源寺-4

 

▼霊源寺-5

 

 

▼霊源寺を後にして宮脇中野町緑地へ向かう(約0.1km)、霊源寺の白壁沿いに宮脇中野町緑地へ進む

 

▼霊源寺を振り返る、宮脇中野町緑地へ進む(正面に見えて来た)

 

▼宮脇中野町緑地(中野町)に着いた、宮脇中野町緑地の上をJR高徳線の列車が通過

 

(次報Vol.995に続く)

 

 

<akijii展-(551)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03

今報は「無題k」で、所要時間は160Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.994-2/2をご覧ください。