Vol.998-1/3に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-県都編:26<源平合戦場の史跡・六万寺>
<38.源平合戦場の史跡> <撮影:2015.09.30 and 2017.05.26>
一般的に「源平合戦」や「源平の戦い」と呼ばれている「治承・寿永の乱」は、平安時代末期、1180年から1185年の6年間に渡って日本各地で繰り広げられた、源氏と平氏による戦いです。
この戦いは、古代最後、中世最初の内乱で、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)の挙兵を契機に始まりました。当時、平清盛を中心とする平氏が政権を掌握していましたが、以仁王の呼びかけにより各地の武士が打倒平氏のために挙兵。そして、山口県の壇ノ浦で平氏を滅ぼします。
その時に源氏側で指揮を務め、活躍したのが源頼朝や源義経です。
源平合戦の大きな舞台の一つである「屋島の戦い」は、戦いの晩年の1185年に起きました。
一ノ谷の戦いに敗れた平氏は、讃岐国屋島へ逃げて本拠を構え、海からの攻撃に備えて陣を構えます。一方、源義経が率いる源氏軍は軍船を組み、平氏を追って暴風雨の中を出港。
大阪の摂津から徳島の小松島まで、わずか4時間で瀬戸内海を渡ると、そこから陸を伝って屋島へ。
そして2月19日の早朝に義経軍は二手に分かれて奇襲を仕掛けます。海上からの攻撃を想定していた平氏軍は、不意を突かれ、屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ兵を後退させますが、やがて反撃。その際、扇の的や弓流しなどのエピソードが生まれました。
屋島の戦いは、結局、源氏側の梶原景時の大軍が迫り、平氏軍は、屋島を追われることに。
山口県下関市の彦島へ逃げ落ちます。 (高松市HP)
<所在地・外観>
▼源平合戦場の史跡-高松市牟礼町・屋島東町ほか

▼源平合戦場の史跡-屋島壇ノ浦の側と牟礼の側に、物語の世界が

屋島東側の山麓から入江を隔てて五剣山西側の山麓までの狭い地域を舞台にした合戦の様子は、鎌倉幕府の事績を記した歴史書である「吾妻鏡(あずまかがみ)」のほか、「平家物語」「源平盛衰記」などに残されている。
<概 要><歴史遺産>
▼屋島東側の山麓~入江を隔てて~五剣山西側の山麓

▼屋島東側の山麓~入江、入江~五剣山西側の山麓

1180(治承4)年、以仁王と源頼政の挙兵を契機に、関東では源頼朝が、信濃では源(木曽)義仲らが挙兵し、源平合戦が始まった。義仲により1183(寿永2)年に京を追われ、一旦は九州に入った平氏は、幼い安徳天皇を奉じて瀬戸内海の要衝屋島に本拠を移した。
市立屋島東小学校の北約500mの「安徳天皇社」辺りに内裏が出来るまで、六万寺を行在所としたと云う。安徳天皇社は、一ノ谷の戦いで敗れて屋島に逃げ込んだ平家の総大将・平宗盛が建立した、幼帝・安徳天皇の行宮跡。
安徳天皇は、わずか6歳で崩御。その後、同場所は、安徳天皇を祀る霊所になりました。
境内の奥には、屋島の合戦で散った平家方の武士も供養されています。
▼屋島東小学校

▼安徳天皇社へ向かう

▼安徳天皇社-1

▼安徳天皇社-2


▼安徳天皇社-3

1184(元暦元)年1月、平氏は頼朝による義仲追討戦に乗じて摂津国の福原(現、兵庫県神戸市)を奪還したが、翌月の一の谷の合戦で源義経に敗れ、再び屋島に退いた。翌1185年2月、義経ら150騎は平氏追討のため、暴風雨をついて摂津国から阿波国に渡り、在地の豪族を味方に引き入れつつ大坂峠を越えて讃岐国に入り、屋島を目指して進み、2月19日(2月18日の説もある)から3日間にわたる合戦が始まったと云う。
19日早朝に屋島の対岸に到着した義経は、牟礼と高松(古高松)の民家に火を放ち、一挙に総門を占拠すると伴に、浅瀬の赤牛崎(あかばさき)を渡って屋島に上陸し、内裏を攻め込んだと云う。
赤牛崎は、源平合戦が行われた時は島だった屋島。容易に海を渡る事が出来なかったため、安徳帝の内裏を攻め込もうとした源氏軍は、数十頭の赤牛を放ち、浅瀬の場所を知り屋島へ上陸したそうです。その伝説に因んで名付けられました。
海上からの攻撃を予想していた平宗盛以下の平氏は海上へと移ったが、後に軍船を寄せて浜辺に駒を進める源氏方との乱戦となり、源氏方の佐藤継信や平氏方の菊王丸らが戦死した。
20日には、「瓜生ケ丘(うりゅうがおか)」(ことでん八栗駅の東南、西林寺後方の丘)に陣を敷いた源氏と壇ノ浦の船上の平氏との間に激しい戦闘が続き、義経の「弓流し」や那須与一の「扇の的」、景清錣引(かげきよししころび)きなどの場面が展開したと云う。
瓜生ケ丘は、屋島にいる平氏を攻めるために、源氏が本陣を置いた場所。
付近一帯を瓜生が丘と呼び、「宇龍ヶ岡」と刻まれた石碑も建ちます。
21日早朝に平氏は奇襲を掛けるため、庵治半島を廻り志度湾に移動したが、義経の攻撃を受け、援軍の望みを絶たれた上に、伊予国(現、愛媛県)から河野道信らが源氏に加わるとの風聞なども有り、ついに平氏は西に敗走した。平氏が長門国(現、山口県)壇ノ浦で滅亡したのは、同年3月24日の事であった。
▼瓜生ケ丘-北から見る


▼瓜生ケ丘-菜切(なきり)地蔵堂から見る、西から見る
菜切地蔵堂は、合戦時、炊事をする際にまな板が無かったため、弁慶がこちらの地蔵の背中をまな板代わりにして野菜の汁を作ったそう。今なお、その時の刀痕が残っていると言われています。

八栗駅付近や旧庵治街道沿いなどには、初代高松藩主松平頼重による顕彰地や、この地の人びとにより語り伝えられてきた合戦にまつわる伝承地が数多く見られる。
「総門跡」は、八栗駅の北約100mの旧庵治街道の傍らにある。
平氏が内裏の出来るまで六万寺を行在所とした頃、この辺りに門を構えて海辺の防御とした。
その後、源氏が平氏を急襲した際には、源氏の占領する所となった。
総門跡は、平家が安徳天皇を奉じて六万寺を行在所としていた頃、海辺の防衛に備えて守り門を築きました。現在に残る衡門は、合戦の遺構を後世に伝えようと初代の高松藩主・松平頼重が再建したものです。
▼総門跡-1


▼総門跡-2

「佐藤繼信の墓」は、八栗駅から牟礼川に沿って南へ約200m、讃岐国造(くにのみやつこ)の始祖・神櫛王(かんくしおう)の墓として造られた「王墓(おうはか)」の南側にある。
源義経の身代わりとなって倒れた佐藤継信の墓。1643年に初代高松藩主である松平頼重が新しく墓石を築き、継信の忠死を称えました。1931年には、継信の子孫が墓地の大改修を実施。現在の墓地公園に整備しました。
▼神櫛王墓-1

▼神櫛王墓-2

▼佐藤継信・太夫黒の墓所

▼佐藤継信の墓

平教経の強弓から主君源義経を守るため矢面に立ち、討死した佐藤繼信を顕彰するために頼重が標石を立てた。隣には、義経が後白河法皇から賜ったという名馬「太夫黒(たゆうぐろ)の墓」がある。
繼信の菩提を弔うために義経が僧にこの馬を贈り、死後、繼信の墓の近くに埋葬されたと云う。
大夫黒とは、義経が後白河法皇から賜った名馬。一ノ谷の合戦の「鵯越えの逆落とし」で乗馬しました。佐藤継信の供養の礼に志度寺の覚阿上人に贈り、死後は継信のそばに埋葬されたと伝わります。
▼太夫黒の墓

この北方約300mの県道36号線沿いに、繼信が義経をかばい倒れた「射落畠(いおちばた)」がある。
源氏軍の四天王に数えられる佐藤継信が、大将の義経をかばって殉職した激戦地。
継信の子孫が昭和6年に建てた石碑が残り、「胸板をすえて忠義の的に立ち」の文字が刻まれています。
▼射落畠

また、繼信の首を取りに行き、繼信の弟忠信に射倒されたのを主君平教経が憐れんで葬ったという「菊王丸の墓」は、対岸の市立屋島東小学校北隣にある。
教経の強弓に倒れた佐藤継信の首をとりに行くも継信の弟・忠信に射倒された菊王丸。
主君・教経がその死を憐れんでこの地に葬ったと言われています。
▼菊王丸の墓

なお、屋島東町の旧遍路道沿いにも「佐藤繼信の墓(碑)」があるが、頼重が繼信の忠死を世に広く知らせるため建立したと云う。屋島檀ノ浦における平氏との戦いで、源義経の矢面に立ち、身代わりとなって忠死した佐藤継信。武士道の鏡である継信を広く世人に知らせようと、初代高松藩主の松平頼重が1643年に建立しました。
▼佐藤継信の墓(碑)

「弓流しの跡」の石標は、射落畠から更に北方約200mの所にある。
義経が応戦中に海に落とした弓を、命がけで拾った場所だと云う。
合戦当時、遠浅の海岸だった同場所で、両軍が入り交じり激戦を繰り広げているとき、源義経が脇にはさんでいた弓を落としてしまった場所。義経は「源氏の大将は、こんな弱い弓を使っているのか」と平家に笑われないために、危険を承知で必死に落とした弓を拾ったそうです。
▼義経弓流し跡-1

▼義経弓流し跡-2

「祈り岩」の石標は、弓流しの跡から北に約300mの県道36号線沿いの路傍にある。
那須与一が扇の的を射るとき、「南無八幡大菩薩、わけても私の生れた国の神明日光権現、宇都宮那須大明神、願わくばあの扇の真中を射させ給え」と祈りを捧げた場所。那須与一は、ここから駒立岩へと向かいました。
▼那須与一扇の的

▼祈り岩、

その北西約50mの所には「駒立岩」の石標があり、潮が引くと姿をみせる。
那須与一は、海の中にあったこの岩まで馬を進めて足場を定め、波に揺れ動く船上の扇の的を見事に射落としました。
▼駒立岩-1

▼駒立岩-2、満潮で隠れる直前

「景清錣引き」の伝説の標示は、祈り岩の石標から約100m南にある。
平家で一番、豪傑といわれている悪七兵衛景清と源氏の美尾屋十郎が一騎打ちした場所。逃げる十郎の兜を景清が熊手で引っかけ、兜の錣を引きちぎったそうです。景清の腕力と十郎の首の強さを物語るエピソードになっています。
▼景清の錣引きの伝説

「洲崎寺」(真言宗)は、景清錣引きの伝説の標示から南へ約200mの所にあり、義経をかばい倒れた佐藤継信の遺骸を当寺の扉に載せて運んだと伝えられている。
大同年間(806年~810年)に空海が創建したと伝えられる古刹。源平合戦の際は、義経軍が負傷した兵を運んだとされています。戦死した佐藤継信も本堂の扉に乗せられ、運ばれたそうです。
▼洲崎寺-1

▼洲崎寺-2:由緒、本堂

境内には「四国遍路の父」とよばれる真念の墓もある。なお、近年完成した庭園は石とコケで屋島の合戦が表現されており、壁面には源平の戦いの様子が刻まれている。
▼洲崎寺-3:真念の墓

▼洲崎寺-4:源平の庭-説明、源平の庭-1

▼洲崎寺-4:源平の庭-2


▼洲崎寺-5:壁面(源平の戦い)

<文は現地説明板やWebなどより引用した>
引き続き、Vol.998-3/3をご覧ください。