akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記 -17ページ目

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.1001-4/5に続けてご覧ください。

 

34.田尾茶臼山古墳(947-08)沙弥島・瀬居島(947-09)

▼親鸞聖人の像など、田尾茶臼山古墳

 

▼瀬戸大橋記念館、東山魁夷せとうち美術館

▼ナカンダ浜、沙弥千人塚

 

▼四国八十八個所写し霊場

 

 

35.聖通寺城跡(948-10)聖通寺(948-11)神石神社(948-12)

▼聖通寺城跡

 

▼聖通寺、ゆるぎ岩

 

▼神石神社-堀と亀石、ゴールドタワーと復元塩田

 

▼恋人の聖地のakijii、入浜式復元塩田と釜屋

 

36.宇夫階神社(949-13)

▼宇夫階神社の参道口、拝殿

 

▼巨石と御膳岩、塩竃神社

 

 

37.本妙寺(949-14)郷照寺(949-15)浄泉寺(949-16)聖徳院(949-17)南隆寺(949-18)円通寺(949-19)

▼本妙寺、郷照寺

 

▼浄泉寺、淨願寺(高松)

 

▼聖徳院、南隆寺

 

▼円通寺、多聞寺

 

▼三ツ岩-1、-2

 

 

38.西光寺(950-20)

▼西光寺-北門、船屋形茶室

 

▼徳山家住宅-勇心酒造記念館、全景

 

 

39.宇多津の町家(屋)(951-21)

▼今市・本町・浦町、水主町

 

▼西町東・中、久住家住宅

 

▼三角邸、倉の前

 

 

40.陶窯跡群(十瓶山窯跡群)(952-22)北條池(952-23)八坂神社・大久保神社(952-24)

▼ますえ畑瓦窯跡、綾川町総合運動公園

 

▼綾川町総合運動公園体育館、すべっと窯跡(前方は鷲ノ山)

 

▼北條池、池の宮神社

▼赤天神神社、西村城跡(大堀切)

 

▼八坂神社、大久保神社

 

 

41.琴電滝宮駅本屋、綾川町生涯学習センター(953-25)滝宮天満宮・滝宮神社(953-26)岡の御堂古墳(953-27)

▼滝宮駅舎、綾川町生涯学習センター

 

▼滝宮天満宮、滝宮神社

 

▼岡の御堂古墳、石棺

 

 

42.羽床城跡(954-28)

▼羽床城跡(本丸)への登り口(北口)、本丸跡

▼本法寺、八坂神社(羽床上城跡)

 

 

43.法道寺(955-29)主基斎田跡地(955-30)長柄ダム(955-31)永富池(955-32)

▼法道寺-本堂・境内、水子聖霊石像

 

▼主基斎田跡の全景、御苗洗所之碑

 

▼光貴寺と県立農業経営高校、後藤城跡

 

▼内場ダムの堰堤、長柄ダムの堰堤

▼高山パークセンター、航空神社

 

▼永富池-堤体を上る、貞重神社

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

夕暮れ時に涅槃像(国分台・猪尻山・大平山)を映す宮池の水面。

パーゴラから見る日没前の宮池水上展望台。

曇天の中で一筋の夕陽が射し込む宮池。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-112  Orignal掲載日:Vol.206 (2013.08.25)

忙しがる…。

 

計画性のない人ほど「忙しい」という。

ビジネスの場においては、忙しいというのは、しなくはならない仕事の量が、現在している仕事の量を超える傾向にあることを示している。引く手あまたであって、ビジネスが隆盛である証拠だ。そこで、自分から「忙しい」ことを吹聴(ふいちょう)する人も出てくる。

しかし、忙しいことがよいことであると考えられている状況の下では、それは自慢をすることにほかならない。

 

また、実際は忙しくもないのに忙しがるのは、嘘をついていることであり、虚勢を張っていることでもある。自慢をしたり、嘘をついたり、虚勢を張ったりする姿勢には、品のかけらも見出すことができない。


特に、上司が「忙しい」を連発するのは、あまり感心できない。

部下にとっては、愚痴をこぼしているとしか映らないからである。

忙しいというのは、一歩間違えば、計画性のないことを暴露した結果にもなりかねない。

 

上司には指揮権や裁量権があるので、計画的に仕事を進めていくことができるはずである。

それができなかったら、上司としての資質を疑われても仕方がないのだ。

 

 

<高くがる空間>

だんご山3兄弟の上空。

金毘羅街道(高松街道)(丸の内)の上空。

国道11号線から見る鍛冶屋町の上空。

南新町・丸亀町交差点から見る丸亀町の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースに咲くマルバルコウ

 

◇ウォーキングコースに咲いていたオキザリストライアングラリス

 

◇ウォーキングコース脇の咲くシュウメイギク

  

◇町並巡りで出会ったシコンノボタン

 

◇町並巡りで出会ったニチニチソウ

 

 

 

<akijii展-(557)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03

今報はインコで、所要時間は300Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.1000-2/3をご覧ください。

Vol.1000-1/3に続けてご覧ください。

 

さぬき()フォトレポ<東

Vol.889(2023.04.20)-913(2023.08.20)掲載分です。

 

01.引田城跡(889-01)雨滝城跡(889-02)

▼引田城跡-登山口(案内板)、引田城跡-西の郭の石垣(櫓跡)

▼誉田八幡神社、積善坊-仁王門

 

▼雨滝自然科学館、雨滝山山頂の祠

 

02.森権平の墓(890-03)極楽寺跡(890-04)

▼森権平の墓、森権平庵

 

▼極楽寺廃寺跡、石井廃寺跡

 

 

03.白鳥神社(891-05)猪熊家住宅(891-06)

▼白鳥神社、絵馬堂


▼猪熊家住宅、鹿浦越ランプロファイヤー岩脈

 

 

04.白鳥廃寺跡(892-07)向良神社(892-08)

▼白鳥廃寺跡、高松廃寺

 

▼向良神社、向山周慶翁生誕地の石柱

 

▼白鳥美術館、高松市松島町の向良神社

 

 

05.與田寺(893-09)

▼與田寺、釈王寺

 

 

06.虎丸城跡(894-10)

▼与田川沿いから見る虎丸山、虎丸城跡

 

07.水主神社(895-11)三宝寺(895-12)
▼水主神社、閼伽谷の井戸-水神社

 

▼三宝寺、三宝寺(菩提樹-香川県指定天然記念物)

 

▼石清水八幡神社、若王寺

 

 

08.津田の松原(896-13)南川のふじ(896-14)

▼津田の松原、琴林公園

▼津田八幡宮、実相寺

 

▼南川のふじ、富田神社

 

09.西教寺六面石幢(897-15)

▼西教寺、西教寺奥の院

 

10.富田茶臼山古墳(898-16)

▼富田茶臼山古墳の案内板、古枝古墳

 

 

11.旧恵利家住宅(899-17)吉金窯跡(899-18)

▼旧恵利家住宅、さぬき市民俗資料館

 

 

▼県道140号線の吉金窯跡看板、吉金窯跡

 

 

12.細川家住宅(900-19)

▼細川家住宅、山下家住宅

 

▼道の駅ながお、おへんろ交流サロン・へんろ資料館

 

 

引き続き、Vol.1000-3/3をご覧ください。

Vol.1000-2/3に続けてご覧ください。

 

13.大窪寺(901-20)

▼大窪寺、大窪寺奥の院

 

▼女体山の岩場に立つakijii、矢筈山山頂のakijii

 

▼昼寝城址へ登りのスタート(標高差140m、距離430m)、昼寝城跡西の曲輪の祠

 

 

14.長尾寺(902-21)宝蔵院極楽寺(902-22)

▼長尾寺、静御前剃髪塚

 

▼静薬師庵、蛭子神社のムクの木

 

▼極楽寺、極楽寺-境内

 

 

15.長尾衝上断層(903-23)

▼長尾衝上断層、池内城跡

 

▼宇佐神社、亀鶴公園-亀島

 

 

16.願興寺(904-24)

▼源興寺、鰐河神社

 

 

17.長福寺(905-25)

▼長福寺、志太張神社

 

 

18.平賀源内記念館(906-26)

▼平賀源内記念館、平賀源内旧邸

 

19.志度寺(907-27)

▼志度寺、自性院常楽寺

 

 

20.多和神社(908-28)

▼多和神社、用心堀と石燈籠

 

 

21.津柳の熊野神社(909-29)

▼津柳の熊野神社、二本杉

 

22.蓮成寺(910-30)

▼蓮成寺、串田城跡に鎮座する朝日(串田)神社

 

 

23.高岡城跡(911-31)

▼高岡城跡、石組み橋桁のことでん鉄橋

 

 

24.始覚寺(912-32)

▼始覚寺、塔の心礎石の上に乗る五重塔

 

 

25.西徳寺(913-33)池戸城跡(913-34)池戸公民館(旧-木田郡役所建物)(913-35)

▼西徳寺、池戸八幡神社

 

▼池戸城跡、荒(宗戸)神社

 

▼池戸公民館(旧木田郡役所)の門、ドーマ

 

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

ゾロ目(2桁以上の数列が同じ数字で構成)のVol.999を迎えました。

天使たちからのメッセージではエンジェルナンバー999は次の内容である。

エンジェルナンバー999とは、「ライトワーカーとしての目覚めと与えられた使命を果たすタイミングの訪れ」を意味する数字です。ライトワーカーとは、スピリチュアルなエネルギーによって、人々を癒し導く特別な存在です。9は、慈愛・完成といった意味を持つ数字です。また、物事が一旦終わりを迎え、そして新しい物語が始まっていくという意味もあるのです。

この9という数字が3つ並んでいるということは、とても大きな使命を果たすべき時が来たのだと考えられるでしょう。

999をよく見かけるなら、それは、これからあなたにライトワーカーとしての栄光が降りかかるということ。

そして、何かが終わって何かが新たに展開していくという暗示です。

と、解説されている。

次のゾロ目は「1111」だ、これが最後と成ろうが、何とか到達したいと強く想い999を通過する。

 ⇒⇒⇒                      

                                                 

新居宮池は今

夕陽と輝く雲を映す宮池の水面。

越冬準備に入った宮池の遊歩道の桜たち。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-111  Orignal掲載日:Vol.205 (2013.08.20)

楽せぬ楽。

 

富山の薬売りの「七楽(なならく)の教え」というものがある。

幼少の頃、一年に一度、家にある常備薬を点検し補充をしていく富山の薬売り。

彼たちの苦労に思いを馳せるその歌は、楽すれば 楽が邪魔して 楽ならず 楽せぬ楽が はるか楽楽 というので、「楽」が七つ入っている。

 

家族とも離れ、薬箱を背負ってこの一節を口ずさみながら、歯を食いしばり、日本の各地を回っていたのだろう。

働くということは、常に苦労が伴うものだが、作家の遠藤周作氏は、「小説を書くのは苦楽(くるたの)しい」と表現している。「苦しい」から、やり遂げたときに「楽しい」のだと言っている。どんな仕事も楽なものはないのだ。

 

この世の中は、自分の思い通りにいかないことで満ち溢れている。

「社会が悪いから、自分のやりたいことができない」「どうして、あの人は、解かってくれないのか」「私のことをもっと高く評価して」などと愚痴の一つも言いたいだろう。しかし、「過去と他人は変えられない。未来と自分は変えられる」という言葉があるように、「変えられないもの」に腹を立てても意味がない。自分の人生は有意義に過ごすための方法を考えなければならない。

 

作者不詳だが、「人生七変化」という人生訓がある。素敵な言葉が並んでいる。

よく目にするのは「心が変われば、…」以降だが、前の「自分が変われば、…」の一行がスタートで且つ大事であろうと思うのだ。

自分が変われば、相手が変わる。相手が変われば、心が変わる。
心が変われば、態度が変わる。態度が変われば、行動が変わる。

行動が変われば、習慣が変わる。習慣が変われば、人格が変わる。

人格が変われば、運命が変わる。運命が変われば、人生が変わる。

 

何よりも「自分が変わる」ということが出発点になり、やるべき事はハッキリと見えている。

そのためには、今の自分をしっかりと振り返っておくことが大切ではなかろうか。

 

 

<高くがる空間>

自宅から見る東(だんご山3兄弟)方向の空。

だんご山3兄弟の末っ子「箱狭山」の上空に曇天の隙間から陽光が懸かる、また手前の畑の東南隅の青白い光は何物か?

高松市美術館(紺屋町)の上空。

アルファパークナード高松ザ・タワー(紺屋町)の上空。

㈱穴吹ハウジングサービス西日本本社(紺屋町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコース脇(Ya宅)の畑のパンパスグラス

◇ウォーキングコース脇のAk宅の花壇に咲くダリア

 

◇ウォーキングコース脇のUe宅で手入れされているルコウソウ

◇町並巡りで出会ったキキョウ(桔梗)

 

◇ウォーキングコースに咲くヒメツルソバ

 

◇ウォーキングコースの山間で実を付けるノイバラ

 

◇ウォーキングコースの山間で実を付けるコマツナギ

 

 

藤袴を訪ねてくれたヒメアカタテハ

アサギマダラではなかったが、11/4昼過ぎにヒメアカタテハが飛来しました。

Webで確認すると下記の見出しの記事が掲載されていた。

「チョウが大西洋を横断、おそらく初確認、全長7000kmの超長旅か」

欧州で生まれアフリカを経由して南米まで、花粉も運ぶヒメアカタテハ。(2024.06.28)

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<本門寿院克軍寺西方寺  

天台宗の寺「克軍寺(こくぐんじ)は、天長9年(832)、智証大師・円珍により開基されたと伝わり、当時は医王山延寿院金剛寺(いおうざんえんじゅいんこんごうじ)と号していました。

円珍は、弘法大師・空海の甥(一説には姪の子)といわれ、3歳の円珍を一目見た空海は「智慧童子」と感嘆するほど聡明であったと伝わります。円珍は、最澄や空海と同じく唐に渡り密教を日本にもたらした「入唐八家」の一人。第五代天台座主であり、天台寺門宗の宗祖です。

天正年間(1573~92)には、長宗我部軍の戦火で全焼してしまいましたが、寛永8年(1631)、讃岐高松藩4代藩主である生駒高俊(たかとし)が藤堂高虎の菩提を弔うために再興したと伝わります。高俊は幼くして家督を相続したため、外祖父の高虎が後見役となりました。

高俊は、客殿に高虎の束帯姿の影像を安置し、医王山閑松院克軍寺(いおうざんかんしょういんこくぐんじ)と改称し、寺領四十石を寄進しました。閑松院とは、高虎の諡(いみな)であり、かつて高虎が高俊の父である生駒正俊のために援軍の兵を出して勝利を得たことがあり、それに由来して克軍寺と名付けたということです。

慶安四年(1651)、高松松平家の初代藩主である松平賴重(よりしげ)が本堂などを再建し、寺領百石を寄進しました。また、将軍家歴代の尊牌を納めて、山号を巌松山と改め、蓮門院(れんもんいん)とも呼ばれるようになったということです。

元禄12年(1699)には下野国輪王寺の末寺として、本門寿院の院室を賜ります。寛永21年(1644)には境内の山手に山王社を建立し、徳川家康をまつりますが、文化12年(1815)に八代藩主松平頼儀が屋島神社にこれを移しました。

明治時代には、境内裏山に新四国庵が創設され、大正時代に掛けてミニ四国八十八箇所を開創しました。

しかし、昭和20年(1945)7月4日、高松空襲によって焼かれてしまいます。そこで、失われた本堂は昭和31年(1956)に再建されました。境内には、小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作庭といわれる「亀鶴(きかく)庭」があり、松平家の女人たちが茶会の名目でひそかに信仰していたという「切支丹灯籠(きりしたんどうろう)」がたたずんでいます。

「克軍寺」のご本尊は薬師如来。また、行基の作と伝わる十一面観音菩薩像がまつられています。この菩薩像は、神が宿る神木の中から仏が姿を現したとされる「霊木化現仏」ではないかといわれています。(克軍寺HP)

 

西方寺は、松平頼重創建(延宝元年)の浄土宗の寺で、浄土宗讃岐ニ十五霊場第十ニ番札所で本尊は阿弥陀如来である。参道沿いに石仏が並んでおり山門へと誘ってくれる。1955年に起こった旧国鉄宇高連絡船紫雲丸事故の遭難者慰霊碑が境内にある。春には桜の名勝で讃岐百景に制定されている。また、それから昭和59年に西方寺から発見された釈迦誕生仏は奈良時代に造られた金銅製で高松市指定有形文化財に成っている。

 

▼所在地、本門寿院克軍寺

高松市西宝町:〒760-0004

 

▼花樹海社長が建立した句碑、妙覚教会・高松最上稲荷

 

▼西方寺の境内、西方寺の紫雲丸遭難者慰霊碑

 

 

▼上部はJR高徳線の線路

 

▼JR高徳線の線路を潜る、線路を潜った

 

▼宮脇町から西宝町に入った、本門寿院克軍寺へ向かう(約0.2km)

 

▼左に高松聖ヤコブ幼稚園-1、本門寿院克軍寺へ進む-1

 

▼本門寿院克軍寺へ進む-2

 

▼左に高松聖ヤコブ幼稚園-2、本門寿院克軍寺へ進む-3

 

 

▼本門寿院克軍寺が見えて来た、本門寿院克軍寺に着いた

 

▼本門寿院克軍寺-1

▼本門寿院克軍寺-2

 

▼本門寿院克軍寺-3

▼本門寿院克軍寺-4

 

▼本門寿院克軍寺-5

 

▼本門寿院克軍寺-6

 

▼本門寿院克軍寺-7

 

▼本門寿院克軍寺-8

 

▼本門寿院克軍寺-9

 

 

▼本門寿院克軍寺を後にして西方寺公園へ向かう(約0.6km)、西宝町を北方向に進む-1

 

▼本門寿院克軍寺を振り返る、西宝町を北方向に進む-2(次の交点を左折)

 

▼西宝町を西北方向に進む-1、左は県立斯道学園

 

▼西宝町を西北方向に進む-2

 

▼西宝町を西北方向に進む-3

 

▼西宝町を西北方向に進む-4

 

▼西宝町を西北方向に進む-5、前方奥に花樹海

 

▼交点を右折、次の交点を左折

 

▼西方寺公園へ進む、西方寺公園に着いた

 

(Vol.999-2/3に続く)

 

 

<akijii展-(556)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03

今報は「無題m」で、所要時間は250Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.999-2/3をご覧ください。

Vol.999-1/3に続けてご覧ください。

 

▼西方寺公園で一休み、花樹海社長が建立した句碑へ向かう(約0.4km)

 

▼花樹海の玄関・フロントへ向け坂道を上る-1

 

▼花樹海の玄関・フロントへ向け坂道を上る-2

 

▼右方向に高松シンボルタワー、左上に花樹海

 

▼花樹海の玄関・フロントへ向け坂道を上る-3、「ようこそ喜代美山荘・花樹海へ」の看板

 

▼花樹海の玄関・フロントへ向け坂道を上る-4、「玄関・フロント☞」の案内板-1

 

▼花樹海の玄関・フロントへ向け坂道を上る-5、車輛通行案内板

 

▼「玄関・フロント☞」の案内板-2、花樹海の玄関・フロントへ向け坂道を上る-6

 

▼花樹海社長が建立した句碑に着いた、花樹海社長が建立した句碑

 

▼花樹海社長の句碑説明板、西方寺へ向かう(約0.1km)-妙覚教会・高松最上稲荷へ寄る

 

 

▼妙覚教会・高松最上稲荷へ進む、妙覚教会・高松最上稲荷に着いた

 

▼妙覚教会・高松最上稲荷-1

 

▼妙覚教会・高松最上稲荷-2

 

▼妙覚教会・高松最上稲荷-3

 

▼妙覚教会・高松最上稲荷-4

 

 

▼妙覚教会・高松最上稲荷を後にして西方寺に向かう、西方寺へ山道を進む-1

 

▼西方寺へ山道を進む-2、西方寺の本堂が見えて来た

 

 

▼西方寺の境内に着いた、西方寺-1(境内)

 

▼西方寺-2(境内)、(本堂)

 

▼西方寺-3(宇賀弁財天)、(宇賀弁財天・永代供養塔)

 

▼西方寺-4(永代供養塔)、(さぬき百景)

 

▼さぬき百景の石標、北東方向の景観

 

▼西方寺(紫雲丸遭難者慰霊碑)-1

▼西方寺(紫雲丸遭難者慰霊碑)-2

遭難者慰霊碑には私の遠戚の名前も刻まれていました。

 

▼西方寺(紫雲丸遭難者慰霊碑)-3

 

▼西方寺(紫雲丸遭難者慰霊碑)-4

 

 

▼西方寺を後にして帰路のバス停「西方寺下」に向かう(約0.4km)、西方寺の参道石階段を下りる-1

 

▼西方寺を振り返る、西方寺の参道石階段を下りる-2

 

▼西方寺の参道石階段を下りる-3、西方寺の山門を潜る-1

 

▼西方寺の山門を潜る-2、西方寺の山門を振り返る

 

▼西方寺の参道を下りる-1

 

▼西方寺の参道を下りる-2

 

▼後方(南)に花樹海の案内板が見える、西方寺の参道を下りる-3

 

▼西方寺の参道を下りる-4

 

▼西方寺の参道から県道33号線に入る、県道33号線を東南方向に進む-1

 

▼右上に西方寺の参道と奥に花樹海が見える、県道33号線を東南方向に進む-2

 

▼県道33号線を北へ横断しバス停へ進向かう、バス停「西方寺下」へ進む-1

 

▼バス停「西方寺下」へ進む-2、バス停「西方寺下」に着き帰宅の途に就いた

 

 

引き続き、Vol.999-3/3をご覧ください。

Vol.999-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:27(最終)柴野栗山の生誕地・八栗寺

40.柴野栗山生誕地   <撮影:2015.09.30>

江戸時代の儒学者である柴野栗山(しばのりつざん)は、元文元年(1736)三木郡牟礼村字宗時(現:高松市牟礼町)に生まれ、幼くして讃岐国高松藩の儒者・後藤芝山(ごとうしざん)に学んだ後、18歳で江戸において昌平黌(しょうへいこう)の林復軒、後に京都で国学を高橋宗直に学んだ。明和4年(1767)に阿波藩蜂須賀候に招かれ儒臣を務めた後に、天明8年(1788)には幕府の儒員となり、岡田寒泉らとともに聖堂の制を改める等、朱子学を厚く信奉して、古学を排斥した。

いわゆる「寛政異学の禁」は、栗山の建議が松平定信に取り入れられたものである。

古賀精里(こがせいり)・尾藤二洲(びとうじしゅう)とともに「寛政の三博士」と称される朱子学者であり、昌平黌を復興させた中心人物であった。また『神武陵詩』にみえるように勤王の精神による山陵、大内裏の修復・造営についての献策の他、海防など外交の献策にまで亘って、その功績が残る。

学者・教育者であった栗山は、また池大雅、韓天寿、高芙蓉などにも交わり、書画法帖に精通した人物として多くの著書、題跋を残し、文化4年(1807)12月1日、72歳で没した。栗山の死後、100年祭に際し、誕生の地に遺業を顕彰するために栗山の尊像の他、宅趾碑、栗山堂などが建立された。現在の記念館は、平成3年に建てられたもので、多くの遺墨・遺品・著書・書簡が展示されている。平成18年12月1日には、盛大に200年祭が催され、「進学三喩」を刻んだ石碑が、記念館の玄関脇に建てられた。 (高松市HP)

 

<所在地・外観> 

▼柴野栗山の生誕地-高松市牟礼町牟礼3416

▼栗山記念館-寛政の三博士の1人

 

ことでん八栗駅で下車して北東へ、八栗ケーブル八栗登山口駅へ行く途中、八栗寺への参道の左側に、江戸時代の儒学者である「柴野栗山の生誕地」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼栗山記念館-駐車場、外観

 

▼尾藤二洲から古賀精里への手紙、谷文晁の書にも序を書いている(web引用-水彩画風変換)

 

 

1906(明治39)年に顕彰会が結成され、この地に栗山堂を建立して栗山の木像を安置した。

1991(平成3)年に同地に「栗山記念館」が開設された。

 

▼栗山記念館-1

 

▼栗山記念館-2

 

▼栗山記念館-3、柴野栗山の木像(web引用-水彩画風変換)

 

▼柴野栗山-進学三喩、栗山遺徳のお守り(web引用-水彩画風変換)

 

▼柴野栗山-栗山の手書き、栗山の書(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

41.八栗寺  <撮影:2012.09.05 and 2015.111.10>

八栗寺(やくりじ)は、真言宗大覚寺派の寺院。四国八十八箇所霊場の第八十五番札所。本尊は聖観音。寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を収めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、この地が霊地であることを告げた。空海は降ってきた剣を埋め、天長6年(829年)に再訪し開基したという。なお、寺名の由来は二つあり、一つは、空海が唐より栗子を八つ海に投入、漂着した所に仏法が栄えるゆえ、帰国できた時にはその地に寺を建立せんと願をかけたという説と、寺の奥ノ院である五剣山頂上より眺望が良く八つの国(摂津・播磨・淡路・備前・備中・伊予・阿波)が見える、八国(やくに)寺が八栗寺になったという説がある。

歩き遍路は山門から入って正面に本堂、その手前左に納経所、右にずーと進んでいくと大師堂があり、その向こうに多宝塔がある。ケーブルカー利用は、ケーブル山上駅を出て進み左に曲がり道なりに行くと多宝塔、大師堂、さらに参道を行くと正面に聖天堂があり、その左が納経所で、右上に本堂がある。  (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

▼八栗寺-高松市牟礼町牟礼3416

▼八栗寺-中世は修験道の拠点、近世は聖天(しょうてん)信仰

 

 

屋島の東方には、剣のように尖った5つの峰が約70mの断崖をなして聳える「五剣山」(八栗山、375m)が望める。5つの峰は、基盤の花崗岩の上に集塊岩の硬い部分が岩峰となり残ったものだが、東の峰は1707(宝永4)年の大地震で崩れ、やや不完全な形となった。

山の南腹、8合目付近に85番札所「八栗寺」(真言宗)があるため、一般には八栗山という。

 

▼遍路道から見る五剣山、八栗ケーブル登山口駅付近から見る五剣山

 

▼八栗ケーブル山上駅から見る五剣山、本坊から見る五剣山

 

▼本坊付近の裏参道から見る五剣山、裏参道(県道145号線)から見る五剣山

 

▼分岐点からの望む一峰、五峰の望遠景

 

 

<概 要><歴史遺産>

八栗寺へは、表参道や裏参道を登る事も出来るが、八栗登山口駅からケーブルカーを利用すれば、約5分で山上駅(八栗寺の近く)に着く。

 

▼八栗ケーブル乗場、ケーブルカーの線路

 

▼ケーブルカー内の反射鏡にマーキング、山上駅に到着

 

 

別の日に表参道より歩いて登った。

 

▼表参道を進む-1

▼右側はケーブルカーの架線、表参道を進む-2

 

▼左は若宮神社、表参道を進む-3

 

▼表参道を進む-4

 

▼表参道を進む-5

 

▼表参道を進む-6

 

▼お迎え大師が見えて来た、お迎え大師に着いた

 

▼お迎え大師の西南方向-屋島東町から古高松町・その奥が木太町

 

八栗寺は五剣山を中心とする山岳仏教の霊場、中世頃まで修験道の拠点であったと云われる。

その後、1583(天正11)年に長宗我部元親の軍勢が、現在の仁王門から少し下がった所にあった中村宗卜(そうぼく)の守る八栗城を攻めた際、諸堂塔はことごとく焼失した。

江戸時代に入り、初代高松藩松平頼重は、正保年間(1644~48)に本堂を再建し、本尊聖観音像を寄進した。更に、1709(宝永6)年には3代藩主頼豊が、諸堂をほぼ現在の形に改築した。

 

▼八栗寺-二天門へ、二天門への鳥居

 

▼八栗寺-二天門1

 

▼八栗寺-二天門2

 

 

仁王門を潜ると五剣山の岩峰を背に本堂、左手に聖天堂がある。

聖天堂には、空海の自作と伝えられる歓喜天像が祀られており、商売繁盛と子孫繁栄の守り本尊として広く信仰を集めている。

 

▼八栗寺-境内(左に護摩堂)、菩提樹

▼八栗寺-聖天堂(歓喜天)、本堂

 

▼八栗寺-中将坊堂、中将坊の下駄

 

▼八栗寺-磨崖仏、鐘楼

 

▼八栗寺-地蔵堂、十二支守本尊

 

▼八栗寺-大師堂へ、大師堂

 

▼八栗寺-多宝塔、五剣山入山禁止標識

 

▼八栗寺-左階段は四国八十八ケ所石仏霊場、四国八十八ケ所石仏霊場

 

▼八栗寺-本坊へ、寺標と鳥居

 

▼八栗寺-本坊、本坊と五剣山

 

 

▼八栗寺-千手観世音菩薩、歓喜天像(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

 今報で、「さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ」を終え、次報Vol.1000(~1003)で総集編を掲載します。

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

夕焼け空と宮池の水面。

宮池のパーゴラと夕焼け空。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-110  Orignal掲載日:Vol.204 (2013.08.15)

ピンチで、良い想像を

 

人はピンチになると、「冷静になれ!」とアドバイスをする。だが、頭に血が昇っている時は、この忠告はあまり役には立たない。なぜなら冷静に判断するのは理性だが、理性と感情がぶつかったとき理性に勝ち目がないからなのだ。

 

人がピンチに陥ると「この先どこまでひどくなるのか」と、悪い方へ悪い方へと想像が働く。

誰も経験があろうが、特に夜、これにとりつかれると眠れなくなる。

まして、人間の想像は無限大だから、悪い想像も無限大にどんどん広がっていくが、現実は自分が想像していたほどには、どん底まで落ち込まないものである。ピンチになった時どうしたらいいか。

それは「悪い想像を止めて兎に角、良い想像に切り替える」ことである。

 

しかし、ピンチの時に良い想像をするのは難しい注文だ。そこで、普段から心掛けておくべきことが二つある。

一つは、「どんなピンチも絶対に切り抜けられる」と思うことである。

なぜ切り抜けられるのか。

その人に降りかかってくる問題は、いかなる問題であれ、その人自身によって解決できる問題だからである。

言葉を換えれば、「その人に解決できない問題は、その人にはやってこない」のである。

 

二つ目は、「問題の解決は思いがけない形で訪れる」ということである。

すごいピンチで、自分では到底、解決不可能と思える時がある。その種の問題はどう考えても「お手上げ状態」であるかも知れない。しかし、解決策は思いがけない形でやってくる。

思いがけないのだから、その時は思い及ばなくて当然だ。でも必ずやってくる。

 

この二つのことをしっかり頭に入れておけば、ピンチでも良い想像ができるようになる。

このように思うのだ…は、理解できましたか。

 

 

<高くがる空間>

磨屋町の上空。

ココマチ高松アルファレジデンシア(磨屋町)の上空。

高松スクエアビル・東明ビル(古新町)の上空。

ロイヤルガーデン古新町弐番館(古新町)の上空。

右のカルチベートビルと左のダイヤパレス(古新町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースの田圃道に咲くヒメジョオン

 

◇ウォーキングコース脇の畑に咲いていたルコウソウ

 

◇ウォーキングコースの山間に咲くナワシログミ

 

◇近所のYo宅に咲くジュランタ

 

◇新居宮池の遊歩道に咲くランタナ

 

◇アサギマダラの訪れが無かった24/10/29のフジバカマ

 

 

Akijiiままniフォトsketch<石尾八幡宮蜂穴神社 

石清尾八幡宮は、延喜18年(西暦918年)、八幡大神様が亀命山(現在の石清尾山)山上に現れたので、当時の国司が山上に祠を建ててお祀りしたと伝わっています。石清尾(いわせを)八幡宮の社名の由来は、当時社殿があった赤塔山が亀ノ尾山塊の山裾にあたり、石清水八幡宮の「石清水」と「亀の尾」を一つにあわせて「石清尾」になったと言われています。
古来、この周辺は現在の八幡宮近くまで海であり、亀がたくさん這い上がって来ていたことから「亀命山」や「亀阜」など、亀とつく地名が多く見られます。
南北朝時代には、ここ讃岐を治めていた右馬頭(うまのかみ)細川頼之公が当宮への崇敬の念篤く、戦勝祈願を行います。従兄弟の細川清氏を破り、伊予の河野氏征伐が成就したことにより、当宮の社殿を改修し、様々な武具を奉納されました。この時(1364年)に右馬頭市(うまのかみいち)が始まり、現在の市立祭へと繋がります。

天正16年(1588年)は讃岐守、生駒親正公が高松城を造営し城下町を整えた際、当宮を府城の鎮護、高松の産土神と定めました。二代目の生駒一正公も当宮社殿を改築し、社領を寄進されました。

江戸時代に入り、寛永19年(1642年)高松藩主となった松平頼重公も当宮を氏神と篤く崇拝し、寛文6年(1666年)社殿を造営し、社領と多数の宝物を寄進されました。第二代藩主松平頼常公も頼重公の社領寄進を追認し、以後、歴代藩主は代替わりごとに当宮を参拝することになりました。明治5年には「懸社」に列せられました。

不幸にも、創建後320年に及ぶ本殿をはじめ、幣殿、上拝殿の3殿は昭和61年に焼失しましたが、平成元年に氏子崇敬者の浄財により復興されました。また平成6年に神輿舎を新築し、平成8年には拝殿前の石段の傾斜緩和、石畳の修復など大規模な境内改修工事を行いました。以来、高松総鎮守・高松の護り神として多くの人に親しまれ現在に至ります。

(石清尾八幡宮HP)

 

蜂穴(はちあな)神社は、石清尾八幡宮の場外末社。

貞治元年、細川頼之公が伊予の河野氏と戦ったおり、神夢があり戦勝したので、伊予三島大明神を祭ったと言われております。(石清尾八幡宮HP)

 

▼所在地、石清尾八幡宮の鳥居と随神門・下拝殿・上拝殿・本殿

高松市宮脇町:〒760-0005

 

▼石清尾八幡宮の下拝殿、本殿

 

▼蜂穴神社、髪授神詞

 

 

▼バス停「八幡前」で降車、石清尾八幡宮へ向かう(約0.4km)

 

▼次の宮脇町一丁目交差点を左折、宮脇町一丁目交差点の右(東-八幡通り)方向

 

 

▼八幡通りを西方向に進む、石清尾八幡宮の鳥居前に着いた

 

▼石清尾八幡宮の鳥居と随神門・下拝殿・上拝殿・本殿の屋根、石清尾八幡宮-1

 

▼石清尾八幡宮-2

 

▼石清尾八幡宮-3

▼石清尾八幡宮-4

 

▼随神門、石清尾八幡宮-5

 

▼石清尾八幡宮-6

 

▼石清尾八幡宮-7、北門

 

▼石清尾八幡宮-8

 

▼石清尾八幡宮-9、詩情吟魂

 

▼香川県神社庁、恩頼堂

 

▼神馬、随神門を振り返る

 

▼石清尾八幡宮-10

 

▼石清尾八幡宮-11(社務所の方向)、石清尾八幡宮-12(絵馬殿の方向)

 

▼石清尾八幡宮-13(下拝殿)、石清尾八幡宮-14(奥に上拝殿)

 

▼社務所、絵馬殿

 

▼石清尾八幡宮-15

 

▼境内末社-1、境内末社-2

 

▼石清尾八幡宮-16

 

▼境内末社-3、境内末社-4

 

▼石清尾八幡宮-17

 

▼石清尾八幡宮-18

 

▼石清尾八幡宮-19

 

▼石清尾八幡宮-20、絵馬殿-1

 

▼絵馬殿-2

 

▼石清尾八幡宮-21

 

 

▼蜂穴神社・髪授神詞へ向かう(約0.3km)、蜂穴神社・髪授神詞へ進む-1(左上に石碑)

 

▼石碑、蜂穴神社・髪授神詞へ進む-2

 

▼左上に石清尾八幡宮、蜂穴神社・髪授神詞へ進む-3

 

▼右下に高松中心部の景観(中央に香川県庁舎)、蜂穴神社・髪授神詞へ進む-4

 

▼石清尾八幡宮を振り返る、蜂穴神社・髪授神詞へ進む-5

 

▼蜂穴神社・髪授神詞へ進む-6

 

 

▼蜂穴神社・髪授神詞の入口に着いた、蜂穴神社・髪授神詞へ進む-7

 

▼蜂穴神社・髪授神詞が見えて来た、蜂穴神社・髪授神詞に着いた

 

▼蜂穴神社-1、白龍大神

 

▼蜂穴神社-2

▼蜂穴神社-3

 

▼髪授神詞-1

 

▼髪授神詞-2

 

▼蜂穴神社・髪授神詞、蜂穴神社・髪授神詞を後にして西宝町境へ向かう(約0.3km)

 

▼蜂穴神社・髪授神詞の参道を引き返す-1

 

▼蜂穴神社・髪授神詞の参道を引き返す-2、蜂穴神社・髪授神詞の参道口に戻った

 

 

▼西宝町境へ進む-1、擂鉢谷川沿いに蜂穴神社・髪授神詞の案内板

 

▼擂鉢谷川を渡る、宮脇町を西北方向に進む-1

 

▼宮脇町を西北方向に進む-2(前方にJR高徳線路が見えて来た)、JR高徳線路を潜って西宝町へ入る

 

(次報Vol.999に続く)

 

 

<akijii展-(555)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03

今報は「アヒル」で、所要時間は330Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.998-2/3をご覧ください。

Vol.998-1/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:26<源平合場の史跡六万寺

38.源平合戦場の史跡 <撮影:2015.09.30 and 2017.05.26>

一般的に「源平合戦」や「源平の戦い」と呼ばれている「治承・寿永の乱」は、平安時代末期、1180年から1185年の6年間に渡って日本各地で繰り広げられた、源氏と平氏による戦いです。

この戦いは、古代最後、中世最初の内乱で、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)の挙兵を契機に始まりました。当時、平清盛を中心とする平氏が政権を掌握していましたが、以仁王の呼びかけにより各地の武士が打倒平氏のために挙兵。そして、山口県の壇ノ浦で平氏を滅ぼします。

その時に源氏側で指揮を務め、活躍したのが源頼朝や源義経です。

 

源平合戦の大きな舞台の一つである「屋島の戦い」は、戦いの晩年の1185年に起きました。

一ノ谷の戦いに敗れた平氏は、讃岐国屋島へ逃げて本拠を構え、海からの攻撃に備えて陣を構えます。一方、源義経が率いる源氏軍は軍船を組み、平氏を追って暴風雨の中を出港。

大阪の摂津から徳島の小松島まで、わずか4時間で瀬戸内海を渡ると、そこから陸を伝って屋島へ。

そして2月19日の早朝に義経軍は二手に分かれて奇襲を仕掛けます。海上からの攻撃を想定していた平氏軍は、不意を突かれ、屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ兵を後退させますが、やがて反撃。その際、扇の的や弓流しなどのエピソードが生まれました。

屋島の戦いは、結局、源氏側の梶原景時の大軍が迫り、平氏軍は、屋島を追われることに。

山口県下関市の彦島へ逃げ落ちます。 (高松市HP)

 

<所在地・外観>

源平合戦場の史跡-高松市牟礼町・屋島東町ほか

▼源平合戦場の史跡-屋島壇ノ浦の側と牟礼の側に、物語の世界が

 

屋島東側の山麓から入江を隔てて五剣山西側の山麓までの狭い地域を舞台にした合戦の様子は、鎌倉幕府の事績を記した歴史書である「吾妻鏡(あずまかがみ)」のほか、「平家物語」「源平盛衰記」などに残されている。

 

<概 要><歴史遺産>

▼屋島東側の山麓~入江を隔てて~五剣山西側の山麓

▼屋島東側の山麓~入江、入江~五剣山西側の山麓

 

 

1180(治承4)年、以仁王と源頼政の挙兵を契機に、関東では源頼朝が、信濃では源(木曽)義仲らが挙兵し、源平合戦が始まった。義仲により1183(寿永2)年に京を追われ、一旦は九州に入った平氏は、幼い安徳天皇を奉じて瀬戸内海の要衝屋島に本拠を移した。

 

市立屋島東小学校の北約500mの「安徳天皇社」辺りに内裏が出来るまで、六万寺を行在所としたと云う。安徳天皇社は、一ノ谷の戦いで敗れて屋島に逃げ込んだ平家の総大将・平宗盛が建立した、幼帝・安徳天皇の行宮跡。

安徳天皇は、わずか6歳で崩御。その後、同場所は、安徳天皇を祀る霊所になりました。

境内の奥には、屋島の合戦で散った平家方の武士も供養されています。

 

▼屋島東小学校

 

▼安徳天皇社へ向かう

 

▼安徳天皇社-1

 

▼安徳天皇社-2

▼安徳天皇社-3

 

 

1184(元暦元)年1月、平氏は頼朝による義仲追討戦に乗じて摂津国の福原(現、兵庫県神戸市)を奪還したが、翌月の一の谷の合戦で源義経に敗れ、再び屋島に退いた。翌1185年2月、義経ら150騎は平氏追討のため、暴風雨をついて摂津国から阿波国に渡り、在地の豪族を味方に引き入れつつ大坂峠を越えて讃岐国に入り、屋島を目指して進み、2月19日(2月18日の説もある)から3日間にわたる合戦が始まったと云う。

 

19日早朝に屋島の対岸に到着した義経は、牟礼と高松(古高松)の民家に火を放ち、一挙に総門を占拠すると伴に、浅瀬の赤牛崎(あかばさき)を渡って屋島に上陸し、内裏を攻め込んだと云う。

赤牛崎は、源平合戦が行われた時は島だった屋島。容易に海を渡る事が出来なかったため、安徳帝の内裏を攻め込もうとした源氏軍は、数十頭の赤牛を放ち、浅瀬の場所を知り屋島へ上陸したそうです。その伝説に因んで名付けられました。

 

海上からの攻撃を予想していた平宗盛以下の平氏は海上へと移ったが、後に軍船を寄せて浜辺に駒を進める源氏方との乱戦となり、源氏方の佐藤継信や平氏方の菊王丸らが戦死した。

 

20日には、「瓜生ケ丘(うりゅうがおか)」(ことでん八栗駅の東南、西林寺後方の丘)に陣を敷いた源氏と壇ノ浦の船上の平氏との間に激しい戦闘が続き、義経の「弓流し」や那須与一の「扇の的」、景清錣引(かげきよししころび)きなどの場面が展開したと云う。

瓜生ケ丘は、屋島にいる平氏を攻めるために、源氏が本陣を置いた場所。

付近一帯を瓜生が丘と呼び、「宇龍ヶ岡」と刻まれた石碑も建ちます。

 

21日早朝に平氏は奇襲を掛けるため、庵治半島を廻り志度湾に移動したが、義経の攻撃を受け、援軍の望みを絶たれた上に、伊予国(現、愛媛県)から河野道信らが源氏に加わるとの風聞なども有り、ついに平氏は西に敗走した。平氏が長門国(現、山口県)壇ノ浦で滅亡したのは、同年3月24日の事であった。

 

▼瓜生ケ丘-北から見る

▼瓜生ケ丘-菜切(なきり)地蔵堂から見る、西から見る

菜切地蔵堂は、合戦時、炊事をする際にまな板が無かったため、弁慶がこちらの地蔵の背中をまな板代わりにして野菜の汁を作ったそう。今なお、その時の刀痕が残っていると言われています。

 

 

八栗駅付近や旧庵治街道沿いなどには、初代高松藩主松平頼重による顕彰地や、この地の人びとにより語り伝えられてきた合戦にまつわる伝承地が数多く見られる。

 

「総門跡」は、八栗駅の北約100mの旧庵治街道の傍らにある。

平氏が内裏の出来るまで六万寺を行在所とした頃、この辺りに門を構えて海辺の防御とした。

その後、源氏が平氏を急襲した際には、源氏の占領する所となった。

総門跡は、平家が安徳天皇を奉じて六万寺を行在所としていた頃、海辺の防衛に備えて守り門を築きました。現在に残る衡門は、合戦の遺構を後世に伝えようと初代の高松藩主・松平頼重が再建したものです。

 

▼総門跡-1

▼総門跡-2

 

 

「佐藤繼信の墓」は、八栗駅から牟礼川に沿って南へ約200m、讃岐国造(くにのみやつこ)の始祖・神櫛王(かんくしおう)の墓として造られた「王墓(おうはか)」の南側にある。

源義経の身代わりとなって倒れた佐藤継信の墓。1643年に初代高松藩主である松平頼重が新しく墓石を築き、継信の忠死を称えました。1931年には、継信の子孫が墓地の大改修を実施。現在の墓地公園に整備しました。

 

▼神櫛王墓-1

 

▼神櫛王墓-2

 

▼佐藤継信・太夫黒の墓所

 

▼佐藤継信の墓

 

平教経の強弓から主君源義経を守るため矢面に立ち、討死した佐藤繼信を顕彰するために頼重が標石を立てた。隣には、義経が後白河法皇から賜ったという名馬「太夫黒(たゆうぐろ)の墓」がある。

繼信の菩提を弔うために義経が僧にこの馬を贈り、死後、繼信の墓の近くに埋葬されたと云う。

大夫黒とは、義経が後白河法皇から賜った名馬。一ノ谷の合戦の「鵯越えの逆落とし」で乗馬しました。佐藤継信の供養の礼に志度寺の覚阿上人に贈り、死後は継信のそばに埋葬されたと伝わります。

 

▼太夫黒の墓

 

この北方約300mの県道36号線沿いに、繼信が義経をかばい倒れた「射落畠(いおちばた)」がある。

源氏軍の四天王に数えられる佐藤継信が、大将の義経をかばって殉職した激戦地。

継信の子孫が昭和6年に建てた石碑が残り、「胸板をすえて忠義の的に立ち」の文字が刻まれています。

 

▼射落畠

 

 

また、繼信の首を取りに行き、繼信の弟忠信に射倒されたのを主君平教経が憐れんで葬ったという「菊王丸の墓」は、対岸の市立屋島東小学校北隣にある。

教経の強弓に倒れた佐藤継信の首をとりに行くも継信の弟・忠信に射倒された菊王丸。

主君・教経がその死を憐れんでこの地に葬ったと言われています。

 

▼菊王丸の墓

 

 

なお、屋島東町の旧遍路道沿いにも「佐藤繼信の墓(碑)」があるが、頼重が繼信の忠死を世に広く知らせるため建立したと云う。屋島檀ノ浦における平氏との戦いで、源義経の矢面に立ち、身代わりとなって忠死した佐藤継信。武士道の鏡である継信を広く世人に知らせようと、初代高松藩主の松平頼重が1643年に建立しました。

 

▼佐藤継信の墓(碑)

 

 

「弓流しの跡」の石標は、射落畠から更に北方約200mの所にある。

義経が応戦中に海に落とした弓を、命がけで拾った場所だと云う。

合戦当時、遠浅の海岸だった同場所で、両軍が入り交じり激戦を繰り広げているとき、源義経が脇にはさんでいた弓を落としてしまった場所。義経は「源氏の大将は、こんな弱い弓を使っているのか」と平家に笑われないために、危険を承知で必死に落とした弓を拾ったそうです。

 

▼義経弓流し跡-1

 

▼義経弓流し跡-2

 

 

「祈り岩」の石標は、弓流しの跡から北に約300mの県道36号線沿いの路傍にある。

那須与一が扇の的を射るとき、「南無八幡大菩薩、わけても私の生れた国の神明日光権現、宇都宮那須大明神、願わくばあの扇の真中を射させ給え」と祈りを捧げた場所。那須与一は、ここから駒立岩へと向かいました。

 

▼那須与一扇の的

 

▼祈り岩、

 

その北西約50mの所には「駒立岩」の石標があり、潮が引くと姿をみせる。

那須与一は、海の中にあったこの岩まで馬を進めて足場を定め、波に揺れ動く船上の扇の的を見事に射落としました。

 

▼駒立岩-1

▼駒立岩-2、満潮で隠れる直前

 

 

「景清錣引き」の伝説の標示は、祈り岩の石標から約100m南にある。

平家で一番、豪傑といわれている悪七兵衛景清と源氏の美尾屋十郎が一騎打ちした場所。逃げる十郎の兜を景清が熊手で引っかけ、兜の錣を引きちぎったそうです。景清の腕力と十郎の首の強さを物語るエピソードになっています。

 

▼景清の錣引きの伝説

 

 

「洲崎寺」(真言宗)は、景清錣引きの伝説の標示から南へ約200mの所にあり、義経をかばい倒れた佐藤継信の遺骸を当寺の扉に載せて運んだと伝えられている。

大同年間(806年~810年)に空海が創建したと伝えられる古刹。源平合戦の際は、義経軍が負傷した兵を運んだとされています。戦死した佐藤継信も本堂の扉に乗せられ、運ばれたそうです。

 

▼洲崎寺-1

 

▼洲崎寺-2:由緒、本堂

 

 

境内には「四国遍路の父」とよばれる真念の墓もある。なお、近年完成した庭園は石とコケで屋島の合戦が表現されており、壁面には源平の戦いの様子が刻まれている。

 

▼洲崎寺-3:真念の墓

 

▼洲崎寺-4:源平の庭-説明、源平の庭-1

 

▼洲崎寺-4:源平の庭-2

▼洲崎寺-5:壁面(源平の戦い)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.998-3/3をご覧ください。

Vol.998-2/3に続けてご覧ください。

 

39.六万寺  <撮影:2015.09.30>

寺伝によれば、天平年間(729~749)に聖武(しょうむ)天皇の命により、行基(ぎょうき)が創建したとある。初め国豊寺(こくほうじ)とよんだが、宝亀(ほうき)年間(770~780)の疫病流行のおりに、6万体の薬師如来坐像を安置したことから六万寺と改称したという。その後、おおいに隆盛し、寺域も広く、牟礼から大町にかけて多くの子院(しいん)をもっていた。源平合戦では、まず当寺が安徳天皇の行在所とされ、「嬉しくも遠山寺に尋ね来て、後のうき世をもらしつるかな」(中納言平重衝しげひら)を始め、平氏の公卿(くぎょう)がこのときに詠んだ歌が3首伝えられている。

中世には、高松頼重や細川頼之らの保護により栄えていたが、1583(天正11)年の長宗我部元親の八栗城攻めの際に、兵士の失火により諸堂塔のほとんどを焼失した。その後、1679(延宝7)年に、もとの鎮守社の地に再建された。

 

<所在地・外観>

▼六万寺(ろくまんじ)-高松市牟礼町牟礼1450

▼六万寺-安徳天皇の行在所(あんざいしょ)

 

 

ことでん六万寺駅から北に続く緩やかな坂道を上って行くと、五剣山(八栗山)の南側に続く山腹に六万寺」(真言宗)がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼ことでん六万寺駅、六万寺-外観

 

▼六万寺-石階段、説明板

 

▼六万寺-境内へ、外塀

 

▼六万寺-大然黒殿1、扁額

 

▼六万寺-大然黒殿2

 

▼六万寺-境内1

▼六万寺-境内2

 

▼六万寺-鐘楼、大師堂

 

▼六万寺-愛宕大権現1

 

▼六万寺-愛宕大権現2、勝軍地蔵誌

 

▼六万寺-田井の子供神相撲、愛宕大権現3

 

▼六万寺-夢幻桜、子供相撲場

 

 

▼六万寺-安徳天皇の行在所旧蹟石柱

▼六万寺-平氏の公卿が詠んだ歌3首(web引用-水彩画風変換)

 

六万寺駅から線路沿いを南東へ1kmほど行った丘の上には、「開法寺(かいほうじ)」(真言宗)がある。

 

<関連遺産>

開法寺には、縦13.6cm・横12.6cm・厚さ5.5mmのマユミの板の中央に定印(じょういん)の阿弥陀如来の坐像、その周囲の八方にやや小さく八菩薩の坐像を配置する「板彫阿弥陀曼荼羅」(国重文)がある。

 

▼開法寺-1

 

▼開法寺-2

 

▼開法寺-3

 

▼開法寺-4

 

 

▼板彫阿弥陀曼荼羅(web引用-水彩画風変換)

 

中国唐代後期の作と考えられ、もと白羽八幡神社(六万寺の南西約800m)の別当寺である最勝寺(さいしょうじ)(廃寺、白羽八幡神社の社務所の地が寺跡)にあったものを、明治時代初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により本寺の八栗寺に移され、その後は開法寺の所蔵になったと云う。

 

▼白羽八幡神社-1

 

▼白羽八幡神社-2

 

▼白羽八幡神社-3

 

▼白羽八幡神社-4

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀