Vol.999-3/3 R巻頭-111。歴史(観て歩き)レポ-県都編27(最終)<八栗寺-他1> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.999-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:27(最終)柴野栗山の生誕地・八栗寺

40.柴野栗山生誕地   <撮影:2015.09.30>

江戸時代の儒学者である柴野栗山(しばのりつざん)は、元文元年(1736)三木郡牟礼村字宗時(現:高松市牟礼町)に生まれ、幼くして讃岐国高松藩の儒者・後藤芝山(ごとうしざん)に学んだ後、18歳で江戸において昌平黌(しょうへいこう)の林復軒、後に京都で国学を高橋宗直に学んだ。明和4年(1767)に阿波藩蜂須賀候に招かれ儒臣を務めた後に、天明8年(1788)には幕府の儒員となり、岡田寒泉らとともに聖堂の制を改める等、朱子学を厚く信奉して、古学を排斥した。

いわゆる「寛政異学の禁」は、栗山の建議が松平定信に取り入れられたものである。

古賀精里(こがせいり)・尾藤二洲(びとうじしゅう)とともに「寛政の三博士」と称される朱子学者であり、昌平黌を復興させた中心人物であった。また『神武陵詩』にみえるように勤王の精神による山陵、大内裏の修復・造営についての献策の他、海防など外交の献策にまで亘って、その功績が残る。

学者・教育者であった栗山は、また池大雅、韓天寿、高芙蓉などにも交わり、書画法帖に精通した人物として多くの著書、題跋を残し、文化4年(1807)12月1日、72歳で没した。栗山の死後、100年祭に際し、誕生の地に遺業を顕彰するために栗山の尊像の他、宅趾碑、栗山堂などが建立された。現在の記念館は、平成3年に建てられたもので、多くの遺墨・遺品・著書・書簡が展示されている。平成18年12月1日には、盛大に200年祭が催され、「進学三喩」を刻んだ石碑が、記念館の玄関脇に建てられた。 (高松市HP)

 

<所在地・外観> 

▼柴野栗山の生誕地-高松市牟礼町牟礼3416

▼栗山記念館-寛政の三博士の1人

 

ことでん八栗駅で下車して北東へ、八栗ケーブル八栗登山口駅へ行く途中、八栗寺への参道の左側に、江戸時代の儒学者である「柴野栗山の生誕地」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼栗山記念館-駐車場、外観

 

▼尾藤二洲から古賀精里への手紙、谷文晁の書にも序を書いている(web引用-水彩画風変換)

 

 

1906(明治39)年に顕彰会が結成され、この地に栗山堂を建立して栗山の木像を安置した。

1991(平成3)年に同地に「栗山記念館」が開設された。

 

▼栗山記念館-1

 

▼栗山記念館-2

 

▼栗山記念館-3、柴野栗山の木像(web引用-水彩画風変換)

 

▼柴野栗山-進学三喩、栗山遺徳のお守り(web引用-水彩画風変換)

 

▼柴野栗山-栗山の手書き、栗山の書(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

41.八栗寺  <撮影:2012.09.05 and 2015.111.10>

八栗寺(やくりじ)は、真言宗大覚寺派の寺院。四国八十八箇所霊場の第八十五番札所。本尊は聖観音。寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を収めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、この地が霊地であることを告げた。空海は降ってきた剣を埋め、天長6年(829年)に再訪し開基したという。なお、寺名の由来は二つあり、一つは、空海が唐より栗子を八つ海に投入、漂着した所に仏法が栄えるゆえ、帰国できた時にはその地に寺を建立せんと願をかけたという説と、寺の奥ノ院である五剣山頂上より眺望が良く八つの国(摂津・播磨・淡路・備前・備中・伊予・阿波)が見える、八国(やくに)寺が八栗寺になったという説がある。

歩き遍路は山門から入って正面に本堂、その手前左に納経所、右にずーと進んでいくと大師堂があり、その向こうに多宝塔がある。ケーブルカー利用は、ケーブル山上駅を出て進み左に曲がり道なりに行くと多宝塔、大師堂、さらに参道を行くと正面に聖天堂があり、その左が納経所で、右上に本堂がある。  (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

▼八栗寺-高松市牟礼町牟礼3416

▼八栗寺-中世は修験道の拠点、近世は聖天(しょうてん)信仰

 

 

屋島の東方には、剣のように尖った5つの峰が約70mの断崖をなして聳える「五剣山」(八栗山、375m)が望める。5つの峰は、基盤の花崗岩の上に集塊岩の硬い部分が岩峰となり残ったものだが、東の峰は1707(宝永4)年の大地震で崩れ、やや不完全な形となった。

山の南腹、8合目付近に85番札所「八栗寺」(真言宗)があるため、一般には八栗山という。

 

▼遍路道から見る五剣山、八栗ケーブル登山口駅付近から見る五剣山

 

▼八栗ケーブル山上駅から見る五剣山、本坊から見る五剣山

 

▼本坊付近の裏参道から見る五剣山、裏参道(県道145号線)から見る五剣山

 

▼分岐点からの望む一峰、五峰の望遠景

 

 

<概 要><歴史遺産>

八栗寺へは、表参道や裏参道を登る事も出来るが、八栗登山口駅からケーブルカーを利用すれば、約5分で山上駅(八栗寺の近く)に着く。

 

▼八栗ケーブル乗場、ケーブルカーの線路

 

▼ケーブルカー内の反射鏡にマーキング、山上駅に到着

 

 

別の日に表参道より歩いて登った。

 

▼表参道を進む-1

▼右側はケーブルカーの架線、表参道を進む-2

 

▼左は若宮神社、表参道を進む-3

 

▼表参道を進む-4

 

▼表参道を進む-5

 

▼表参道を進む-6

 

▼お迎え大師が見えて来た、お迎え大師に着いた

 

▼お迎え大師の西南方向-屋島東町から古高松町・その奥が木太町

 

八栗寺は五剣山を中心とする山岳仏教の霊場、中世頃まで修験道の拠点であったと云われる。

その後、1583(天正11)年に長宗我部元親の軍勢が、現在の仁王門から少し下がった所にあった中村宗卜(そうぼく)の守る八栗城を攻めた際、諸堂塔はことごとく焼失した。

江戸時代に入り、初代高松藩松平頼重は、正保年間(1644~48)に本堂を再建し、本尊聖観音像を寄進した。更に、1709(宝永6)年には3代藩主頼豊が、諸堂をほぼ現在の形に改築した。

 

▼八栗寺-二天門へ、二天門への鳥居

 

▼八栗寺-二天門1

 

▼八栗寺-二天門2

 

 

仁王門を潜ると五剣山の岩峰を背に本堂、左手に聖天堂がある。

聖天堂には、空海の自作と伝えられる歓喜天像が祀られており、商売繁盛と子孫繁栄の守り本尊として広く信仰を集めている。

 

▼八栗寺-境内(左に護摩堂)、菩提樹

▼八栗寺-聖天堂(歓喜天)、本堂

 

▼八栗寺-中将坊堂、中将坊の下駄

 

▼八栗寺-磨崖仏、鐘楼

 

▼八栗寺-地蔵堂、十二支守本尊

 

▼八栗寺-大師堂へ、大師堂

 

▼八栗寺-多宝塔、五剣山入山禁止標識

 

▼八栗寺-左階段は四国八十八ケ所石仏霊場、四国八十八ケ所石仏霊場

 

▼八栗寺-本坊へ、寺標と鳥居

 

▼八栗寺-本坊、本坊と五剣山

 

 

▼八栗寺-千手観世音菩薩、歓喜天像(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

 今報で、「さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ」を終え、次報Vol.1000(~1003)で総集編を掲載します。

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀