ゾロ目(2桁以上の数列が同じ数字で構成)のVol.999を迎えました。
天使たちからのメッセージではエンジェルナンバー999は次の内容である。
エンジェルナンバー999とは、「ライトワーカーとしての目覚めと与えられた使命を果たすタイミングの訪れ」を意味する数字です。ライトワーカーとは、スピリチュアルなエネルギーによって、人々を癒し導く特別な存在です。9は、慈愛・完成といった意味を持つ数字です。また、物事が一旦終わりを迎え、そして新しい物語が始まっていくという意味もあるのです。
この9という数字が3つ並んでいるということは、とても大きな使命を果たすべき時が来たのだと考えられるでしょう。
999をよく見かけるなら、それは、これからあなたにライトワーカーとしての栄光が降りかかるということ。
そして、何かが終わって何かが新たに展開していくという暗示です。
と、解説されている。
次のゾロ目は「1111」だ、これが最後と成ろうが、何とか到達したいと強く想い999を通過する。
新居宮池は今
夕陽と輝く雲を映す宮池の水面。
越冬準備に入った宮池の遊歩道の桜たち。
Akijii-blog巻頭言Repeat-111 Orignal掲載日:Vol.205 (2013.08.20)
楽せぬ楽。
富山の薬売りの「七楽(なならく)の教え」というものがある。
幼少の頃、一年に一度、家にある常備薬を点検し補充をしていく富山の薬売り。
彼たちの苦労に思いを馳せるその歌は、楽すれば 楽が邪魔して 楽ならず 楽せぬ楽が はるか楽楽 というので、「楽」が七つ入っている。
家族とも離れ、薬箱を背負ってこの一節を口ずさみながら、歯を食いしばり、日本の各地を回っていたのだろう。
働くということは、常に苦労が伴うものだが、作家の遠藤周作氏は、「小説を書くのは苦楽(くるたの)しい」と表現している。「苦しい」から、やり遂げたときに「楽しい」のだと言っている。どんな仕事も楽なものはないのだ。
この世の中は、自分の思い通りにいかないことで満ち溢れている。
「社会が悪いから、自分のやりたいことができない」「どうして、あの人は、解かってくれないのか」「私のことをもっと高く評価して」などと愚痴の一つも言いたいだろう。しかし、「過去と他人は変えられない。未来と自分は変えられる」という言葉があるように、「変えられないもの」に腹を立てても意味がない。自分の人生は有意義に過ごすための方法を考えなければならない。
作者不詳だが、「人生七変化」という人生訓がある。素敵な言葉が並んでいる。
よく目にするのは「心が変われば、…」以降だが、前の「自分が変われば、…」の一行がスタートで且つ大事であろうと思うのだ。
自分が変われば、相手が変わる。相手が変われば、心が変わる。
心が変われば、態度が変わる。態度が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる。運命が変われば、人生が変わる。
何よりも「自分が変わる」ということが出発点になり、やるべき事はハッキリと見えている。
そのためには、今の自分をしっかりと振り返っておくことが大切ではなかろうか。
<高く広がる空間>
自宅から見る東(だんご山3兄弟)方向の空。
だんご山3兄弟の末っ子「箱狭山」の上空に曇天の隙間から陽光が懸かる、また手前の畑の東南隅の青白い光は何物か?
高松市美術館(紺屋町)の上空。
アルファパークナード高松ザ・タワー(紺屋町)の上空。
㈱穴吹ハウジングサービス西日本本社(紺屋町)の上空。
A seasonal flower
◇ウォーキングコース脇(Ya宅)の畑のパンパスグラス
◇ウォーキングコース脇のAk宅の花壇に咲くダリア
◇ウォーキングコース脇のUe宅で手入れされているルコウソウ
◇町並巡りで出会ったキキョウ(桔梗)
◇ウォーキングコースに咲くヒメツルソバ
◇ウォーキングコースの山間で実を付けるノイバラ
◇ウォーキングコースの山間で実を付けるコマツナギ
◇藤袴を訪ねてくれたヒメアカタテハ
アサギマダラではなかったが、11/4昼過ぎにヒメアカタテハが飛来しました。
Webで確認すると下記の見出しの記事が掲載されていた。
「チョウが大西洋を横断、おそらく初確認、全長7000kmの超長旅か」
欧州で生まれアフリカを経由して南米まで、花粉も運ぶヒメアカタテハ。(2024.06.28)
Akijii気ままniフォトsketch<本門寿院克軍寺・西方寺>
天台宗の寺「克軍寺(こくぐんじ)」は、天長9年(832)、智証大師・円珍により開基されたと伝わり、当時は医王山延寿院金剛寺(いおうざんえんじゅいんこんごうじ)と号していました。
円珍は、弘法大師・空海の甥(一説には姪の子)といわれ、3歳の円珍を一目見た空海は「智慧童子」と感嘆するほど聡明であったと伝わります。円珍は、最澄や空海と同じく唐に渡り密教を日本にもたらした「入唐八家」の一人。第五代天台座主であり、天台寺門宗の宗祖です。
天正年間(1573~92)には、長宗我部軍の戦火で全焼してしまいましたが、寛永8年(1631)、讃岐高松藩4代藩主である生駒高俊(たかとし)が藤堂高虎の菩提を弔うために再興したと伝わります。高俊は幼くして家督を相続したため、外祖父の高虎が後見役となりました。
高俊は、客殿に高虎の束帯姿の影像を安置し、医王山閑松院克軍寺(いおうざんかんしょういんこくぐんじ)と改称し、寺領四十石を寄進しました。閑松院とは、高虎の諡(いみな)であり、かつて高虎が高俊の父である生駒正俊のために援軍の兵を出して勝利を得たことがあり、それに由来して克軍寺と名付けたということです。
慶安四年(1651)、高松松平家の初代藩主である松平賴重(よりしげ)が本堂などを再建し、寺領百石を寄進しました。また、将軍家歴代の尊牌を納めて、山号を巌松山と改め、蓮門院(れんもんいん)とも呼ばれるようになったということです。
元禄12年(1699)には下野国輪王寺の末寺として、本門寿院の院室を賜ります。寛永21年(1644)には境内の山手に山王社を建立し、徳川家康をまつりますが、文化12年(1815)に八代藩主松平頼儀が屋島神社にこれを移しました。
明治時代には、境内裏山に新四国庵が創設され、大正時代に掛けてミニ四国八十八箇所を開創しました。
しかし、昭和20年(1945)7月4日、高松空襲によって焼かれてしまいます。そこで、失われた本堂は昭和31年(1956)に再建されました。境内には、小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作庭といわれる「亀鶴(きかく)庭」があり、松平家の女人たちが茶会の名目でひそかに信仰していたという「切支丹灯籠(きりしたんどうろう)」がたたずんでいます。
「克軍寺」のご本尊は薬師如来。また、行基の作と伝わる十一面観音菩薩像がまつられています。この菩薩像は、神が宿る神木の中から仏が姿を現したとされる「霊木化現仏」ではないかといわれています。(克軍寺HP)
西方寺は、松平頼重創建(延宝元年)の浄土宗の寺で、浄土宗讃岐ニ十五霊場第十ニ番札所で本尊は阿弥陀如来である。参道沿いに石仏が並んでおり山門へと誘ってくれる。1955年に起こった旧国鉄宇高連絡船紫雲丸事故の遭難者慰霊碑が境内にある。春には桜の名勝で讃岐百景に制定されている。また、それから昭和59年に西方寺から発見された釈迦誕生仏は奈良時代に造られた金銅製で高松市指定有形文化財に成っている。
▼所在地、本門寿院克軍寺
高松市西宝町:〒760-0004
▼花樹海社長が建立した句碑、妙覚教会・高松最上稲荷
▼西方寺の境内、西方寺の紫雲丸遭難者慰霊碑
▼上部はJR高徳線の線路
▼JR高徳線の線路を潜る、線路を潜った
▼宮脇町から西宝町に入った、本門寿院克軍寺へ向かう(約0.2km)
▼左に高松聖ヤコブ幼稚園-1、本門寿院克軍寺へ進む-1
▼本門寿院克軍寺へ進む-2
▼左に高松聖ヤコブ幼稚園-2、本門寿院克軍寺へ進む-3
▼本門寿院克軍寺が見えて来た、本門寿院克軍寺に着いた
▼本門寿院克軍寺-1
▼本門寿院克軍寺-2
▼本門寿院克軍寺-3
▼本門寿院克軍寺-4
▼本門寿院克軍寺-5
▼本門寿院克軍寺-6
▼本門寿院克軍寺-7
▼本門寿院克軍寺-8
▼本門寿院克軍寺-9
▼本門寿院克軍寺を後にして西方寺公園へ向かう(約0.6km)、西宝町を北方向に進む-1
▼本門寿院克軍寺を振り返る、西宝町を北方向に進む-2(次の交点を左折)
▼西宝町を西北方向に進む-1、左は県立斯道学園
▼西宝町を西北方向に進む-2
▼西宝町を西北方向に進む-3
▼西宝町を西北方向に進む-4
▼西宝町を西北方向に進む-5、前方奥に花樹海
▼交点を右折、次の交点を左折
▼西方寺公園へ進む、西方寺公園に着いた
(Vol.999-2/3に続く)
<akijii展-(556)>
美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03
今報は「無題m」で、所要時間は250Mでした。
◇完成作品
引き続き、Vol.999-2/3をご覧ください。