Vol.990-3/4に続けてご覧ください。
<28.船山神社> <撮影:2016.04.22>
社伝によれば、倭迹迹日百襲姫命、上古、讃岐の東部に来たりたまひ、さらに移りて当地船山に登りたまふ。この地は讃岐の中央にして好き所なりと誉めたまひしにより、祠を立てこれを奉ず。地名百相(倭名抄 毛毛奈美)は、命の御名によって起これりと 創建は天平年間といひ、初め浅野村船岡山に鎮座あり。船岡山は古くは百相郷に属し、船山と称し、当社また船山神社(ふなやまじんじゃ)と称えられ・・・(中略)・・・天正年間、兵火に罹りたるをもって、別当神宮寺の境内に社殿を営み奉還せり。これ現今の鎮座地にして爾来神宮寺大明神と称せらる 明治五年、社号を百相神社と改む
<整理すると…>
倭迹迹日百襲姫は讃岐の東部から中央部に移ってきた。船岡山(標高86m)を訪れ、好ましいところだとして山上に小さな御社を建てた。現在の船山神社から南へ700mほどのところである。百襲姫にちなんで百相(もまい)という地名が生まれ、一帯は百相郷(ももなみごう)と呼ばれた。神社は奈良時代の天平年間(729-48年)に創建されたとされる。船岡山は船山とも呼ばれるので「船山神社」と呼ばれた。戦国時代の天正年間(1573-91年)に、土佐の長宗我部氏が四国を席巻した。土佐を統一したあと隣国に兵をすすめ、一時的ながら四国のほぼ全域を制圧した。四国の社寺は多く焼打ちに遭い、船岡山の山上にあった船山神社も社殿を失った。江戸時代に復興されるが、もとの船岡山の山上ではなく、平野部でいま船山神社が建つところへ移された。この場所はかつて神宮寺(神仏習合時代に神社守護のために建てられた寺院)の別当(長官)が住まいするところであるので、神宮寺大明神と呼ばれた。明治期に神仏分離が行われて神宮寺が廃され、社号は百相神社と改められた。もとの船山神社に戻されるのは、第2次世界大戦後である。地元では神宮寺の名で親しまれており、傍らのバス停の名前はいまも神宮寺のままである。
<所在地・外観>
▼船山神社-高松市仏生山町甲1149
▼船山神社-600年間神宮寺を守ってきたクスの巨樹
ことでん仏生山駅から西へ400mの県道280号線を南へ折れて、琴電琴平線の線路を渡って400m行くと、道の西側に「船山神社」がある。
<概 要><歴史遺産>
▼ことでん仏生山駅、船山神社が見えて来た
▼船山神社の社叢とバス停、バス停の名前「神宮寺」
▼船山神社-1
▼船山神社-2
▼船山神社-3
▼船山神社-4
▼船山神社-5
▼船山神社-6
船山神社の境内には、樹齢600年前後とみられる幹囲約7.3mの「船山神社のクス」(県天然)がある。樹齢から判断して、神宮寺の時代の繁栄を今に伝えるものと云えよう。
▼船山神社のクスノキ
▼船山神社の社叢-1
▼船山神社の社叢-2
▼船山神社の社叢-3
▼船山神社の社叢-4
付近からは、神宮寺に使われたとみられる奈良時代から平安時代の古瓦が出土する(百相廃寺とよばれることもある)。文様は香西の勝賀寺跡出土瓦と共通するので、同じ香川郡同士の繋がりを感じさせられる。勝賀寺は香川郡の海への出入口である港を守る寺、百相廃寺は香川郡の平野部の中心を守る寺、という役割分担のあった事も考えられよう。
船山神社から県道280号線を約1km南へ行くと、船岡池の横に出る。
池の北側の丘陵地が船山神社の旧地で、「船岡山古墳」がある。
<関連遺産>
古墳時代前期前半(3世紀中頃~4世紀前半)の前方後円墳と、もう1つの古墳(形態は不明)からなる。石清尾山古墳群との比較から、古墳時代の始まった時期の香川郡北部と南部の勢力分布が知られる。
▼船岡山古墳-位置図、現在の状態(web引用-水彩画風変換)
▼船岡山古墳-調査区の位置と墳形復元図、出土した埴輪(web引用-水彩画風変換)
▼船岡山古墳-後円部の石列検出状況、盛土検出状況(web引用-水彩画風変換)
▼船岡山古墳-西側くびれ部の墳裾、前方部前端の石列(web引用-水彩画風変換)
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
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