Vol.990-3/4 R巻頭-102。歴史(観て歩き)レポ-県都編:18<冠纓神社-他2神社> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.990-2/4に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:18<冠纓神社・岩部八幡神社・船山神社

26.冠纓神社 <撮影:2015.09.22>

冠纓(かんえい)神社は別名「かむろ八幡宮」で、香南町の氏神として親しまれ、縁結び神社としても知られる。秋季例祭で披露される夫婦大獅子舞で使用される大獅子は県指定有形民俗文化財で、日本一の大きさともいわれる。讃岐国香東郡井原庄出生説もある安倍晴明が神主をしていたという伝承もある。境内には樹齢800年以上の楠を始め100種以上に及ぶ植物が群生しており、香川県自然記念物に指定されている。

 

861年(貞観3年)、讃岐巡礼中の円珍が井原庄に着いた時、鳩峰大自在王菩薩が現われて井原庄を鎮護すると云った。このため円珍はこの地の里人の力を借りて、宝蔵寺を建てた。1357年、細川頼之(よりゆき)が厚く保護・尊崇し京都石清水八幡宮の冠纓を奉納した。このことから冠尾(かむりお、またはかむろ)八幡宮と呼ばれるようになり、後に冠纓神社となる。現在も地元の人は「かむろ」と呼んでいる。以後も細川氏による信仰・保護を受け、細川氏が衰えた後も由佐氏がこれを引き継いだ。後に讃岐国を支配した生駒親正や松平頼重も社領の寄進をするなど当社を保護している。

 

明治に入ると郷社に列格し、1907年、神饌幣帛料供進神社にも指定されている。1918年には県社に昇格した。1970年、獅子舞に使用される大獅子が県の有形民俗文化財に指定される。1977年、古来よりの自然が残る鎮守の森が香川県自然記念物に指定された。1982年、万葉集天治本が発見され、重要文化財に指定された。

2001年4月、香川郡香南町(後に高松市と合併)が境内を横断する配水管埋設工事を神社に無断で行い、高松地方裁判所は香南町に対し、配水管撤去命令を出した、ということがあった。     (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

▼冠櫻神社-高松市香南町由佐1409

▼冠櫻神社-2頭の大獅子が舞う、細川頼之ゆかりの神社

 

 

由佐城跡から東に戻り、三差交点を右折して県道13号線を西へ約1km行くと、こんもりとした小山と石段が見えてくる。神社下の交点で左(南)に曲がると、「冠纓神社」の表参道口へて進むが、私は由佐天神バス停で降車して、裏参道より参詣した。

 

<概 要><歴史遺産>

▼由佐天神バス停で下車、県道44号線の次の交差点を右折

 

▼県道13号線の北側の一般道を西進、高根通りとの交差点を左折

 

▼高根通りを南下、県道13号線との交差点を直進横断して更に南下

 

▼冠櫻神社の裏参道口に着いた、裏参道の鳥居

 

 

平安・鎌倉時代には宝蔵寺という寺と一体の祠であったものを、室町時代になって守護細川頼之が岡館(天福寺のある丘陵地が遺跡とされる)にいた時、日頃から信仰する京都石清水八幡宮の冠を請うて納め、自ら供奉(ぐぶ)する代わりとした。

 

▼冠櫻神社-裏参道1、境内案内図

 

▼冠櫻神社-裏参道2、随神門

 

▼冠櫻神社-境内

 

▼冠櫻神社-注連柱と拝殿、拝殿1

 

▼冠櫻神社-拝殿2、本殿

 

▼冠櫻神社-大楠、安倍晴明神社

 

▼冠櫻神社-表参道の階段方向、表参道の階段

 

1363(貞治2)年、頼之が将軍足利義詮(よしあきら)の命により伊予(現、愛媛県)の河野(こうの)氏を討った時、冠尾八幡宮に戦勝を祈願して大いに勝ったので、社殿を壮麗にしたと云う。

江戸時代になり、高松石清尾八幡宮の祀官上野刑部の子孫が神主になった事で、田舎にはあっても格の高い神社とされるようになった。戦国時代の冠纓神社を崇敬したのは由佐氏であり、今に伝わる冠纓神社の祭事は、ほとんど由佐氏によって定められたものと言われている。

 

中世においては細川氏との、近世においては高松藩との繋がりが有った事から、冠纓神社には貴重な文化財が伝えられている。

その1つが、1124(天治元)年に書写された「天治本万葉集巻第十五残巻」(国重文)である。

「万葉集」巻15のほぼ4分1にあたる58首分が書かれている。「万葉集」(天治本)は、平安時代書写五大万葉集の1つとして「万葉集」の研究上、価値が高かったが、その一部が新たにこの冠纓神社から発見されたのである。

 

▼天治本万葉集巻第十五残巻(web引用-水彩画風変換)

 

冠纓神社でもう1つ良く知られているのは、秋祭りで繰り広げられる2頭の「大獅子」(県民俗)の競演である。

 

▼大獅子(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

27.岩部八幡神社 <撮影:2015.11.16>

岩部(いわぶ)八幡神社の創始は養老年間(717~724)あるいは天平年間(729~749)と言われている。古くは現社地の北方に鎮座していたが、後に現社地の北西山麓に遷座したと伝わり、その旧跡と考えられる礎石が素婆倶羅社前に見られる。その後、山上に遷座し明徳3年(1392)には細川頼之によって社殿の修築がなされた。イチョウはその頃に植えられたと伝えられている。イチョウは東側を雄木、西側を雌木と呼ぶが、いずれも雌株で、実(ギンナン)をつける。樹高は33mで、幹周は東側が9m、西側が6mである。秋には美しく黄葉し、遠くからもその雄大な姿を見ることができる。なお、幹から多数の気根が垂れ下がっており、乳房に似ていることから産婦の信仰が厚く、乳を授かるよう祈願する者も多い。(高松市HP)

 

<所在地・外観>

▼岩部八幡神社-高松市塩江町安原上692-1

▼岩部八幡神社-2本とも雌株の「おんめんイチョウ」

 

 

冠纓神社から東へ進み、国道193号線を南下して塩江町安原上に入り、岩部橋(香東川)を渡ると岩部バス停がある。バス停から東へ入ると、八幡神社の参道がある。

 

▼ことでん岩部バス停で下車(標示は岩部)、国道193号線を直進(南へ)

 

▼国道193号線を左折、岩部八幡神社の参道を進む

 

▼岩部八幡神社に着いた、石段をのぼる

 

 

岩部八幡神社」の正面に立つと、「岩部八幡神社のイチョウ」(県天然)は、参道の左右に2本肩を並べるように立っている。

 

<概 要><歴史遺産>

▼岩部八幡神社のイチョウの全容

 

 

樹高はどちらも30m以上あり、向かって右側の大きい方は幹囲9m、左側の小さい方は6mである。

 

▼岩部八幡神社のイチョウ-右側の木

 

 

岩部八幡神社は、現在地の西北の山麓に有ったのを現在地に遷したと云うが、その年代ははっきりしない。

 

▼岩部八幡神社-1

 

▼岩部八幡神社-2

 

▼岩部八幡神社-3

 

▼岩部八幡神社-4

 

▼岩部八幡神社-5

 

阿波国麻植郡川田郷(現、徳島県吉野川市山川町川田)から讃岐国香東郡安原山大蔭に来住した川田景安は、岩部八幡神社に阿波の川田八幡神社を1481(文明13)年に合祀したと伝える(香川県神社誌)。大きなイチョウの木は、この川田氏による合祀の時期を示しているのかも知れない。

 

▼川田八幡神社(web引用-水彩画風変換)

 

 

<関連遺産>

木田郡三木町の「熊野神社の二本杉」(県天然)へは、岩部八幡神社から国道193号線を津柳口まで行き、県道263号線を北上する方法でも行く事が出来るが、私は三木町コミバス「奥山・鹿庭コース」で「合戦田(かっせんだ)」という地名の古戦場まで行き、熊野神社を訪れた。(現在はコミバスの運行は無い)

 

▼熊野神社の二本杉-1

 

▼熊野神社の二本杉-2

 

▼熊野神社の二本杉-3

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

引き続き、Vol.990-4/4をご覧ください。