akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記 -21ページ目

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.988-1/3に続けてご覧ください。

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-14、「ARIRANG」朴賛甲-1

 

▼「ARIRANG」朴賛甲-2

▼「ARIRANG」朴賛甲-3

 

▼「潮風の積層」佐光庸行-1

 

▼「潮風の積層」佐光庸行-2

▼「十六日月の下に」佐々木至-1

▼「十六日月の下に」佐々木至-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-15(前方に「我、浮上する者」が見える)、「我、浮上する者」近藤隆

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-16(前方に「ふれ愛」が見える)、「ふれ愛」製作協力-庵治石工団地協同組合青年部-1

 

▼「ふれ愛」製作協力-庵治石工団地協同組合青年部-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-17、「古にはひとつ、これからもひとつ」全國光-1

 

▼「古にはひとつ、これからもひとつ」全國光-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-18、「SPATLAL CONSTRUCTURE」エホニオ・イオンミ-1

 

▼「SPATLAL CONSTRUCTURE」エホニオ・イオンミ-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-19

 

▼「生きる」空充秋-1

▼「生きる」空充秋-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-20、「空間のメビウス」牛尾敬三-1

 

▼「空間のメビウス」牛尾敬三-2

▼「空間のメビウス」牛尾敬三-3

 

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を後にして城岬公園へ進む、純愛ロードに着いた

▼純愛ロードを進む-1

 

▼純愛ロードを進む-2(奥に屋島の北嶺)、純愛ロードを進む-3

 

▼純愛ロードを進む-4(左-庵治田中城跡・中央-魚見台・奥が屋島北嶺)、純愛ロードを進む-5(右に進む)

▼純愛ロード西詰から見る北方向、庵治田中城跡

 

▼純愛ロード西詰から見る西方向のパノラマ景

▼純愛ロード西詰から見る船隠し、純愛ロードを引き返し城岬公園へ

 

▼純愛ロードを引き返し

 

▼城岬公園に着いた、城岬公園-1

 

▼城岬公園-2

 

▼城岬公園-3、太陰歴№3-岩崎幸之助

 

▼城岬公園-3、古跡香-雀招東

 

▼城岬公園-4(公衆トイレ1)

 

▼城岬公園-5(公衆トイレ2)

 

▼城岬公園-6

▼城岬公園-7

 

▼城岬公園-8

 

▼城岬公園-9

 

▼城岬公園-10

 

▼城岬公園-11

 

▼遺石一億万年の海の底から、城岬公園-12

 

▼城岬公園-13

 

▼城岬公園-14

 

▼城岬公園-15

 

▼城岬公園-16

 

▼城岬公園を後にして帰路のバス停「新開」へ向かう(約0.3km)、城岬公園を後にする-1

 

▼城岬公園を後にする-2

 

▼城岬公園を後にする-3

 

 

▼帰路のバス停「新開」へ進む-1

 

▼左方向のやすらぎのみち(庵治緑道公園)、帰路のバス停「新開」へ進む-2(左へ進む)

 

▼帰路のバス停「新開」へ進む-3(次の交点を左折)、帰路のバス停「新開」へ進む-4

 

▼帰路のバス停「新開」へ進む-5

 

▼帰路のバス停「新開」へ進む-6、次の交点を右折

 

▼バス停「新開」が見えて来た、帰路のバス停「新開」に着き帰宅の途に就いた

 

 

引き続き、Vol.988-3/3をご覧ください。

Vol.988-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:16<法然寺>

24.法然寺 <撮影:2014.05.22 and 2018.05.25>

高松市にある浄土宗の寺院。山号は仏生山。詳しくは、仏生山来迎院法然寺(ほうねんじ)と称する。

本尊は法然作と伝わる阿弥陀如来立像。法然上人二十五霊場第二番札所、さぬき七福神の大黒天。

鎌倉時代前期の建永2年(1207年)に讃岐に配流された浄土宗開祖の法然が立ち寄った那珂郡小松荘(現まんのう町)に生福寺が建立される。

江戸時代前期の寛文8年(1668年)に徳川光圀の実兄にあたる高松藩初代藩主松平頼重が、戦乱で荒れ果てていた生福寺を法然寺と改名して、香川郡百相郷(現在地)に3年の歳月を要し移転・建立した。寺院背後の仏生山丘陵上を削平し「般若台」と呼ばれる松平家の墓所を設けて当寺院を高松松平家の菩提寺とした。

本堂(明治40年(1907年)に再建)・三仏堂(別名:涅槃堂)・二尊堂・来迎堂・十王堂など現在も当時の建物が多く残っていたが、平成26年(2014年)1月13日に二尊堂が全焼で初の火災となった。  (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

▼法然寺-高松市仏生山町甲3215

▼法然寺-松平氏歴代の墓がある、春の涅槃会は賑わう

 

 

藩主が参詣する法然寺への道を「御成(おなり)街道」という。ことでん仏生山駅から東方向に400mほど進み、県道166号線(仏生山街道)との交点を右折し南東へ行く。

 

▼琴電仏生山駅、御成街道入口

 

 

御成街道には、幕府の朱印地としての扱いを受けていた門前町の面影が残っている。

 

▼御成(仏生山)街道-街道、アオイ堂

 

▼御成(仏生山)街道-香川座跡、円光寺

 

▼御成(仏生山)街道-うだち

▼御成(仏生山)街道-生目さん、町家(中二階・本瓦葺き)

 

▼御成(仏生山)街道-水神さん、出張所・役場

 

▼御成(仏生山)街道-街道、高徳寺

 

▼御成(仏生山)街道-懸魚(げぎょ) 、門前町

 

 

突き当りにある「ちきり神社」の下を、道なりに坂を上って行くと、右側に「法然寺」の総門に出会う。

 

<概 要><歴史遺産>

▼ちきり神社階段前を右折、階段前の法然寺0.2km道標

 

 

ちきり神社へ上がって戻って来る。

 

▼ちきり神社-1

 

▼ちきり神社-2

 

 

▼前山坂道

 

▼法然寺-総門前に到着、総門

 

 

法然が讃岐に流された時の遺跡である小松荘生福寺(しょうふくじ)(現、まんのう町)を、3年の裁月をかけて1671(寛文11)年、高松藩初代藩主松平頼重が仏生山の地に移して復興し、菩提寺としたものである。

 

▼西念寺-1

この寺は法然上人が滞在された生福寺の跡に再建された寺で、上人にゆかりの遺品や遺跡を見る事が出来る。山門脇に小高い山があり、参道が続いているが、その参道に25ほどの石仏が置かれている。これは現在の法然上人二十五霊場のご本尊を模した石仏で、1つ1つ拝して歩けばミニ霊場巡りが出来る。またこの参道途中に竹囲いされた小さな井戸がある。法然上人が当時村人から貰った豆腐を冷やしたと云われる井戸で、今も美しい水が湧き出している。

▼西念寺-2

 

▼西念寺-3

 

▼西念寺-4

 

 

般若台(はんにゃだい)と呼ばれる寺の後の山には、法然と歴代藩主の墓が立っている。

総門から般若台に至る建物の配置と参道は、由緒ある寺の雰囲気を醸し出している。

 

▼法然寺-十王堂(じゅうおうどう)、十王堂(閻魔王)

 

▼法然寺-十王

 

▼法然寺-二河白道(にがひゃくどう) 、黒門(くろもん)

 

▼法然寺-黒門を潜り広庭、境内案内図

▼法然寺-涅槃門と仁王門、五重塔

 

▼法然寺-三仏堂(涅槃堂)、忠学上人堂

 

▼法然寺-本堂

 

 

▼法然寺-極楽浄土への参道、来迎堂まで137段の階段

 

▼法然寺-文殊楼、来迎堂-1

 

▼法然寺-来迎堂-2

 

▼法然寺-般若台

 

 

墓地から眼下の平野部を眺めると、この場所が戦時などには砦の役目を果たすものであった事が伺われる。

 

▼墓地から眼下の平野部を眺望

 

 

法然寺には、寝(ね)釈迦とよばれる4.8mの涅槃仏(ねはんぶつ)があり、毎年2月15日前後に行われる涅槃会(え)はおおいに賑わい、昔の門前町が蘇る。

 

▼法然寺-涅槃仏、涅槃会(web引用-水彩画風変換)

 

 

由緒ある寺に相応しく、法然寺には絵や書などの文化財が多い。

絵では「絹本著色十王像(じゅうおうぞう)・絹本著色観世音功徳図(かんぜおんくどくず)・紙本金地(きんじ)著色源氏物語図」があり、いずれも国重文である。

十王は閻魔王ら死者を裁く10人の王のことであり、観世音は人びとを救う観音菩薩のことである。

 

▼法然寺-絹本著色十王像、絹本著色観世音功徳図(web引用-水彩画風変換)

 

▼法然寺-紙本金地著色源氏物語図(web引用-水彩画風変換)

 

書では「後深草(ごふかくさ)天皇宸翰(しんかん)御消息」(国重文)がある。

 

▼法然寺-後深草天皇宸翰御消(web引用-水彩画風変換)

 

寺の南西にある平池(へいいけ)の堤から眺めると、法然寺は山のように見える。

平池には人柱伝説があり、それに因む乙女の像が立っている。

 

▼いわざらこざら伝説、伝説の由諸と乙女の像(2012.08.12撮影)

 

▼いわざらこざら伝説、伝説の由諸と乙女の像(2020.07.30撮影)

 

 

平池は、もと堤の下の位置にあったという伝えがある。一段高い場所に揚げたのは、遠くまで水を流すためで、江戸時代初期における大きな池水計画の一環と考えられる。

 

▼平池の説明板、高松クレーターの説明板

 

▼平池

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

親水公園から見る新居宮池とだんご山3兄弟。

3日間の空模様の変化が伺えるだろうか?

 

親水公園から見る新居宮池と火ノ山・十瓶山・鷲ノ山。

 

夕陽を受ける穏やかな宮池の水面と水上展望台。

遊歩道の南東端から見る国分台・猪尻山・大平山と宮池水上展望台。

 

パーゴラから見る宮池水上展望台。

遊歩道の西北端から見る袋山の丘陵の先端(楠生神社が鎮座)と宮池水上展望台。

 

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-099  Orignal掲載日:Vol.188 (2013.05.25)

「責任」を教える責任が…。

 

メール一つ書く場合でも、前者は「相手が見えないから、気を遣わなければ…」と考える。

一方、後者は「相手が見えないのだから…」、何を書いても構わないと考え、書いた事に責任を取ろうとしない風潮に想うが、心理学的にもこのような意識を持ちがちであると証明されている。

 

パソコンが普及し、一人ひとりが使う事が当たり前になったのは、ここ十数年である。大人になってから使っている世代と、物心つくころから自由に扱っている若者世代とでは、パソコンに対する意識にかなりの差があるようだ。

人間共通の心理ではあるが、育ち方が違っているからだが、一言で言えば、想像力があるかどうかだという。

見えない相手の姿を想像する事が出来れば、相手を傷つけることなどできない

携帯電話を使ったいじめが、対面でのいじめよりも陰湿で残酷なものになっているのも、現実の体験が少なく、それをしたらどうなるのかの想像力が欠如しているからだと…。

 

こうした想像力の欠如は、人を無責任な行動に走らせる。

例えば、ボタン一つで戦争を開始できる機械を人は手に入れている。そこに想像力が欠如していたらどうなるかは明らかである。このボタンを押す事で、どのような地獄絵が繰り広げられるか、人間がどれほどの赤い血を流す事になるのかが見えないのだ。自分のやった事の結果が見えなければ、その結果に責任をとらなくなる。

 

そういう意味で、私たち年配者に出来る事があると思う。それは、過去の体験を沢山語る事で若者の想像力を養う事だ。そうすれば、自分の言動には責任が伴うのだという事を理解することになろう。

年配者には、若い人に「責任」を教える責任があると思う。

 

 

<高くがる空間>

ウォーキングコースの城山への導入坂道の上空。

高松大学(春日町)のグラウンドと校舎の上空。

春日神社の神門(春日町)の上空。

本三交差点(県道10号線)(春日町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースの空地に咲く屁糞蔓(へくそかずら)

開花時期は7月中旬~9月中旬頃で、つる状でどんどん伸びてくる。

 

道端のフェンスなどで夏によく見かける。筒状のこげ茶色の花で、すごい名前だが枝や葉をもむと悪臭があるからこの名前になったとのこと。秋に茶色いパチンコ玉のような丸い実をつける。

別名は、「灸花(やいとばな)」。灸(やいと)とは”おきゅう”の事で花の内側の茶色い部分を、お灸をした跡に見立てたことから。

 

また、「馬食わず(うまくわず)」悪臭があるため?馬が食べないところから名が付いた。

 

◇ウォーキングコースの畑に咲くジュランタタカラヅカ

 

◇Mi氏の畑に咲く

 

◇ウォーキングコースに咲く仙人草(センニンソウ)

◇ウォーキングコースの畑に咲くムラサキシキブ

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<聖代寺・相引川

聖代寺(しょうだいじ)

当山は、近隣では「成田山聖代寺」と愛称されております。
不動明王を本尊とし、厄除け・交通安全をはじめ、さまざまな御祈願をお受けしております。

広い境内では、春は桜が咲き誇り、参拝者の目を和ませます。

お大師様ゆかりの四国路に、祈り、願う、すべての人々にお不動様のご加護がいただかれ、幸せの道を歩まれることを念願して開創されたのが四国三十六不動霊場です。成田山聖代寺は四国三十六不動霊場において第36番目、結願所にあたります。どうか不動霊場巡拝を通じて、一人でも多くの方々が、お不動さまと有難い勝縁を結ばれ、お加護を受けられますよう、心よりお祈り致します。

不動明王とは、大日如来の化身(教令輪身)であります。燃えさかる火焔を背に、右手には悟りを開くための智慧を表す利剣を持ち、左手には仏教の教えに背く人をも自分の膝元に引き付け、正しい教えの道に導くため索(なわ)を持っておられます。火焔の中に住まう姿は、 ”火生三昧”といって、衆生の煩悩を大智慧の火で焼きつくして、悟りに導く本誓をあらわしています。また、どんな所へでも出向き、すべての人を救済するため、奴僕(ぬぼく)の姿をされております。

目を怒らせた忿怒の相は、恐ろしくも見えますが、この忿怒の相は、我が子を見つめる父親…外面は厳しくても内心で慈しむ父愛の姿を表現したものであるとも言われています。不動明王のご誓願は広大無辺であって、その功徳は五穀豊穣、万民豊楽、鎮護国家をはじめ、自然の猛威を鎮めたり、人々の心のすき間に入り込む邪念や怨霊も退散させる 厄除けの守護尊としてあがめられております。さらには、交通安全をはじめ商売繁盛、家内安全、息災延命、良縁成就、安産満足など、私たち衆生のさまざまな祈りや願いを成就して下さる有り難い仏様なのです。

三十六童子は不動明王の眷属です。使者として、まず両童子…矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制多迦童子(せいたかどうじ)の二童子を従え、そして八大童子、三十六童子となっています。成田山聖代寺には鳥婆計童子が祀られています。

(成田山聖代寺HP)

 

相引川(あいびきがわ)

屋島の南を巡り、河道の両端に河口を持つ特異な河川である。西は新川の河口、東は牟礼川の河口で合流し、瀬戸内海に注ぐ。相引川は、四国本土と屋島を分離する河川で、本土側とは大小13本の橋で結ばれている。

相引川の両岸は、江戸時代に開発された塩田と干拓された水田であったが、後の時代の埋め立てにともない陸続きのようになる。埋立地は住宅地や市街地に改変され、多くの人々が集住する。

江戸時代初めの縁起物の「源平屋島檀浦合戦縁起」には、「・・・義経、赤牛が屋島に渡るのを見て浅瀬のあることを知る。」と記述され、その地は赤牛崎(あかばざき)とされている。源氏50余騎が渡海したとされる北岸の赤牛崎には、案内板が設置されている。

相引川の名前の由来は、川の両端がともに海に繋がっているため、潮の満ち引き時には川の水が東西両方向から満ち、両方向へ向かって引いていくことから、相引川と呼ばれるようになったとする説、また東側の河口付近に位置する檀ノ浦で行われた屋島の戦いの際に、源氏・平氏の双方が互いに譲らず引き分けたことを由来とする説もある。

 

▼所在地、明神橋(相引川)と屋島南嶺

高松市屋島東町:〒760-0111

 

▼聖代寺と屋島南嶺、聖代寺-本堂

 

▼聖代寺-三十六童子、相引川の西岸

 

 

▼ことでん八栗駅で下車、八栗駅-構内

 

▼八栗駅-源平屋島合戦史跡案内図、入口のモニュメント

 

▼屋島東町へ向かう(約0.7km)、牟礼町牟礼の交差点を西に横断

 

▼牟礼川沿いに西北方向に進む-1、右側に金光教牟礼教会

 

▼牟礼川沿いに西北方向に進む-2

 

▼牟礼川沿いに西北方向に進む-3(左折して橋を渡る)、橋(牟礼川)の北(河口)方向に水門が見える

 

▼高松町に入る、高松町を西南方向に進む-1

 

▼高松町を西南方向に進む-2、県道150号線交点を右折

 

▼県道150号線を北西方向に進む、明神橋の左に石碑

 

▼四国のみち石標(⇦第八十四番-屋島寺)、明神橋(相引川)を渡る

 

▼明神橋の左(南西-牟礼川の河口)方向、右(北東-新川の河口)方向

 

▼県道150号線との交差点を直進横断、交差点を北詰に聖代寺案内板(⇑車での参道入口案内)

 

▼成田山聖代寺へ向かう(約0.7km)、高松町を北西方向に進む

 

▼屋島東町に入った、西北方向に屋島南嶺

 

▼屋島東町を北西から北東方向に進む、屋島東町を北東方向に進む-1

 

▼屋島東町を北東方向に進む-2(次の交点-標高5m地点を左折)、左折して聖代寺(標高50m)へ進む

 

▼聖代寺へ上る-1

 

▼聖代寺へ上る-2

 

▼聖代寺へ上る-3

 

▼聖代寺へ上る-4、次の交点を左折

 

▼前方に五剣山、聖代寺へ上る-5

 

▼聖代寺へ上る-6

 

 

▼聖代寺の寺標の地点に到着、聖代寺の寺標と駐車場

▼聖代寺入口から見る五剣山と牟礼町のパノラマ景

▼聖代寺の駐車場

 

▼聖代寺-1

 

▼聖代寺-2

 

▼42段の厄除け坂を上がる、聖代寺-3

 

▼聖代寺-4、境内に到着

 

▼お迎え童子、聖代寺-5(本堂)

 

▼聖代寺-6

 

▼十二支守本尊、三十六童子像

 

▼聖代寺-7

 

▼聖代寺-8、七福神-1

 

▼七福神-2

 

▼聖代寺-9

 

▼聖代寺-10、経塚

 

▼源平屋島合戦戦死者霊位、聖代寺の寺標の地点に戻る-1

 

(Vol.987-2/に続く)

 

 

<akijii展-(544)

今報からは「美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03」です。

今報は「熊&ウサギ」で、所要時間は225Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.987-2/3をご覧ください。

Vol.987-1/3に続けてご覧ください。

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-2

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-3

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-4

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-5

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-6

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-7

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻った、聖代寺を振り返る

 

 

▼聖代寺を後にして高橋(相引川)へ向かう(約0.6km)、聖代寺の参道を下る-1

 

▼聖代寺の参道を下る-2

 

▼右側に藤目高地区給水所、東北方向に五剣山

 

▼聖代寺の参道を下る-3

 

▼聖代寺の参道を下る-6(右奥に「成田山聖代寺の参道➡」の案内板)、聖代寺の参道を振り返る

 

 

▼高橋(相引川)に進む-1

 

▼県道150号線との交差点を東へ横断、四国のみち「➡八十四番-屋島寺」の道標と「義経弓流し」の説明板

▼四国のみち「⇦八十五番-八栗寺」、「義経弓流し」の説明板

源平合戦(1185年)の際、この付近一帯は遠浅な海岸であり、義経は勝に乗じて海中に打ち入って戦っていました。
その時、脇下にはさめていた弓を落としてしまい、平家方の越中次郎兵衛盛嗣に熊手をかけられ危うく落ちかかりましたが、義経は太刀で熊手をあしらい左手のムチで弓をかき寄せ引きあげました。危険を冒してまで弓を拾ったのは、平家に拾われて「源氏の大将ともあろう者がこんな弱い弓を使っているのか」ともの笑いになるのをおそれたものだといわれています。(義経弓流し現地説明板)

 

▼交差点を東へ横断(前方に源平合戦史跡石標)、源平合戦史跡石標

 

▼源平合戦史跡石標(⇦菊王丸の墓・安徳天皇社)、源平合戦史跡石標(洲崎寺・祈り岩➡)

 

▼高橋(相引川)に進む-2

 

▼高橋(相引川)に着いた、高橋(相引川)

 

▼高橋(相引川)の左(北)方向、右(南)方向

 

 

▼相引川の西沿いに明神橋北詰まで進む(約0.6km)、相引川の西沿いに進む-1

 

▼奥に五剣山、相引川の西沿いに進む-2

▼相引川の西沿いに進む-3

 

▼相引川の西沿いに進む-4、左奥に牟礼川の水門

 

▼相引川の西沿いに進む-5

 

▼牟礼川の水門、相引川の西沿いに進む-6(明神橋が見えて来た)

▼相引川の西沿いに進む-7

 

▼相引川の西沿いに進む-8、右奥に屋島南嶺

 

▼相引川の西沿いに進む-9

 

▼県道150号線沿いに聖代寺の案内板、明神橋(相引川)北詰に着いた

 

 

▼帰路のことでん八栗駅へ向かう(約0.5km)、相引川の西側を振り返る

 

▼八栗駅へ進む-1(次の交点を左折)、八栗駅へ進む-2

 

▼八栗駅へ進む-3

 

▼八栗駅へ進む-4

 

▼八栗駅へ進む-5、牟礼川歩道橋を渡る

 

▼八栗駅へ進む-6(右は琴電の新牟礼川橋梁)、右は琴電志度線路

 

▼かつはし(牟礼川)を渡る、八栗駅へ進む-7

 

▼八栗駅へ進む-8、右に八栗駅

 

▼ことでん八栗駅のモニュメント、ことでん八栗駅に着き帰宅の途に就いた

 

 

引き続き、Vol.987-3/3をご覧ください。

Vol.987-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:15<田村神社>

23.田村神社  <撮影:12.08.12 and 16.04.22 and 17.06.01>

田村神社は、式内社(名神大社)、讃岐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

別称として「田村大社」「一宮神社」「定水(さだみず)大明神」「一宮大明神」「田村大明神」とも。

社伝によれば、古くは「定水井(さだみずのい)」という井戸にいかだを浮かべて、その上に神を祀っていたという。その後、和銅2年(709年)に行基によって社殿が設けられたのが創建とする。

この「定水井」は現在も奥殿の下にある。なお、当初は義淵僧正によって大宝年間(701年-704年)に開基された一宮寺と同一視(建物も同じ)されていた。

 

朝廷の当社に対する信仰は篤く、平安時代には度々神階の授与が行われている。また延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では「讃岐国香川郡 田村神社」と記載され名神大社に列したほか、讃岐国一宮として信仰された。建仁元年(1201年)には正一位の昇叙があったとされ、弘安7年(1284年)7月日の銘を有する「正一位田村大明神」の扁額が残っている。また武家からも崇敬・統制を受け、長禄4年(1460年)には細川勝元により、社殿造営や寄進のほか「讃岐国一宮田村大社壁書」(高松市指定文化財)が定められた。これは当社の関係者に対し、守るべき事項を26箇条で記したものである。

 

天正年間(1573年-1592年)には兵火により一切経蔵を焼失したが、仙石秀久から社領100石を寄進された。その後も社領の寄進を受け、藩主が松平大膳家に代わった後も祈願所として崇敬された。

延宝7年(1679年)、高松藩主であった松平氏に依り一宮寺が分割され、後に一宮寺は別の地に移された。

明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列した。  (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

▼田村神社-高松市一宮町286

▼田村神社-讃岐の一宮、社殿は湧き水の上に立つ水の神

 

 

高松市内から国道11号・193号線を南に向かい、高松市三名町交差点で右(西)折し、県道12号線を400mほど行くと一宮町交差点に出る。南西方向に「田村神社」の大きな鳥居が見えるので、鳥居に向かって進んで行く。

 

<概 要><歴史遺産>

▼田村神社-北参道口の大鳥居、お迎え布袋尊

 

▼田村神社-鐘楼門、祓への輪

 

▼田村神社-桃太郎伝説、満豪開拓の碑

 

▼田村神社-境内図、宇都伎社と龍神

 

▼田村神社-宇都伎社、龍神

 

▼田村神社-一宮天満宮、素婆俱羅社

 

▼田村神社-宮島社、安産子宝犬

 

▼田村神社-子育て布袋尊、微笑童七福神

 

 

別の日に、ことでん一宮駅から東へ進み、踏切を渡り南側からも参詣した。

 

▼田村神社-参道に入った、参道を進む-1

 

▼田村神社-御旅所と大楠、参道を進む-2:一の鳥居

 

▼田村神社-参道を進む-3

 

▼田村神社-参道を進む-4、神明鳥居が近いが一旦道路で分断

▼田村神社-社号標

 

▼田村神社-表参道入口、入口の神明鳥居

 

▼田村神社-表参道、随神門

 

▼田村神社-参道と本殿前の鳥居、本殿前の大鳥居

▼田村神社-本殿

 

▼田村神社-奥殿

 

 

田村神社の社殿の下に湧水が有ると云うが、見る事は出来ない。

境内には、ほかにも袂井(たもとい)(田本井、神社会館辺り)・花泉(はなのい)(境内西の端)という2つの湧水があると云うが、どちらも倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命の伝説に結びついている。

 

日本三代実録によると、861(貞観3)年、讃岐国田村の神を官社に列したとあり、923(延長元)年完成の「延喜式」にも、大社として載せられている。そして、古墳時代後期から平安時代初期に至る当社確立期の歴史を物語るのが、「田村神社古神宝(こしんぽう)類」(国重文)である。その中で、最も古さを示しているのは、金または銀の象嵌(ぞうがん)痕が残る鉄鉾(てつほこ)であり、ほかに奈良時代から平安時代初期の鏡、中国の唐代・宋代の鏡がある。

 

▼田村神社古神宝類-銀の象嵌痕が残る鉄鉾、奈良時代から平安時代初期の鏡

(web引用-水彩画風変換)

 

 

また、細川勝元が応仁の乱の7年前にあたる1460(長禄4・寛正元)年にかけた讃岐国一宮田村大社壁書(かべかき)も伝えられており、大乱に備えて勝元が領国讃岐を固めるために掲げたものと考えられる。それだけに、讃岐国一宮としての田村神社の権威は大きかったと云えるであろう。

 

▼岐国一宮田村大社壁書(web引用-水彩画風変換)

 

<関連遺産>

田村神社のすぐ西側には、四国八十八個所霊場83番札所の「一宮寺」(真言宗御室派)があり、遍路の参詣で賑わっている。元は、田村神社の別当寺であった。

 

▼一宮寺-西門、鐘楼

 

▼一宮寺-本堂、大師堂

 

▼一宮寺-護摩堂と創作石燈籠、菩薩堂

 

▼一宮寺-薬師如来、一宮御陵

 

▼一宮寺-仁王門

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

強烈な夕陽を受ける宮池の水面と水上展望台。

歩道の西北端から見る袋山の丘陵の先端(楠尾神社が鎮座)と宮池水上展望台日替わり4景。

 

 

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-098  Orignal掲載日:Vol.178 (2013.04.05)

人生は他動的。

 

トヨタ自動車元会長の奥田碩氏は、大学卒業の1955年、景気がドン底で「卒業生の2/3は就職できずに留年」するような状態、選り好みなどできない状況で、採ってくれるというトヨタ入社を決めたという。

氏は、自動車が好きだったわけでも、企業としての成長性を見込んだわけでもなく、たまたま自分に用意された環境のなかで勝負していったケースだ。 


セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文会長は、大学に入るときには政治家に憧れていたが、やがて政治に興味を感じなくなり、ジャーナリストになろうかと考えて、新聞社を受けたが面接で落ちて、父親のつてで家の光協会に入ることになった。当時、農家向けの雑誌「家の光」は百万部以上の大雑誌だった。

ところが突然、新卒は採らないことになり、いわば内定取り消しのようなことになってしまい、結局、出版流通会社の東京出版販売(現トーハン)に入社したという。
やがて東販を辞めてイトーヨーカ堂に入ってという転身の決断の一つひとつは自分でされたに違いないが、ビジネスキャリアの始まりは、やはりたまたま与えられた状況のなかで自分は何をしたらいいかを見極めて、精一杯の努力をすることだった。


自己中心性を脱して、流れにまかせるということが、いまの若い人たちには、むしろ必要な要素ではないだろうか。

WBC「侍ジャパン」の監督も務めた原辰徳監督が座右の銘とするのは、「人生他動的」という言葉だそうだ。

西鉄ライオンズの黄金期の名監督であった三原脩氏の言葉で、それを巨人コーチ時代の中西太氏から教えてもらって、この言葉を噛み締めるようになったそうだ。

他動的な要素に柔軟に対応して、過去の経験を活かして実力を出していくことで、仕事のスケールがどんどん大きくなる。

 

小生は、何ごともすべて自分の意思で判断・決断して動くのだと考えるのではなく、自分に振り向けられたことを受け入れていくなかで、可能性は拓かれていくものだ、と…このように是非とも意識し実践して欲しいと願う一人である。

 

 

<高くがる空間>

新居宮池の遊歩道から見る火ノ山・十瓶山・鷲ノ山の上空。

熊野神社(元山町)の上空。

県営住宅高松元山団地(元山町)の上空。

高松自動車道(協和中学通踏切の右南方向)(元山町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースのMi氏の畑に実を付けたバナナの木

収穫は9月中旬頃との事です。

 

 

◇ウォーキングコースの畑に種を付けたオキシペタラムブルスタ

 

◇町並巡りで出会ったニオイバンマツリ

 

◇ウォーキングコースのYa宅の千日紅(センニチコウ)

 

◇ウォーキングコースのⅠt宅垣根のフウセンカズラ

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch大宮八幡宮・屋島ケーブル登山口駅・屋島神社  

大宮八幡宮

西暦八五九年(貞観元年)豊前の国(大分県)宇佐神宮より御船にて京都石清水八幡宮に御遷宮のおり屋島沖の海上ではげしい風波に遭遇し壇ノ浦の入り江に避難され御輿を陸地に遷御して奉り、三日間御鎮座される間に、風波も穏やかになり御船を出御の際、御鎮座の跡に神幣三振りを残されたのを里人等が氏神として奉祀することになりその場所に一間半四面の板葺の社を建立して三振の神幣を奉ることになったが、人家も少なく、氏子も乏しく、奉祀するのが困難となり、現在の場所に新宮を築き遷し奉られ鎮座されたのが西暦一一六○年頃と伝えられ、この地名を新馬場と称され、又、旧跡地は現在「宮の窪」と伝えられている。(境内由緒書より)

 

旧屋島ケーブル/屋島登山口駅

屋島山上へ登るケーブルカーで、屋島寺や獅子の霊巌への足となっていた。建設に当たっては地域住民の反対もあったが、屋島ドライブウェイが開通する1961年(昭和36年)までは、唯一の動力登山手段であり、徒歩で1時間を要する距離を5分で結んだことから開通後は賑わいを見せた。

2004年、屋島登山鉄道は自己破産を申請した。負債総額は約9億円。直接的な原因は屋島観光の衰退に伴う利用客の減少で収支が悪化し、資金繰りが困難になった事であったが、その背景には親会社の高松琴平電気鉄道(ことでん)本体が2001年末に民事再生法の適用を申請したため、以降同社はグループの支援を受けられず完全な単独経営を余儀なくされた事があった。2004年10月16日から休止する旨を四国運輸局に届け、2005年7月1日には「鉄道事業の廃止届出」を行い、その中で事業廃止日を1年後の2006年7月1日とした。

しかし、廃止届出から約1か月半後の2005年8月22日には「事業廃止の日の繰上の届出」をし、当初予定していた廃止日を一年近く繰り上げる事を決定。その届出通り同年8月31日に廃止された。

運営会社は破産手続きを進めながら、譲渡先を探すなどケーブルカーの存続の道を模索したが、施設の老朽化などが障害となって譲渡先は見つからなかった。

屋島ケーブル廃止後は、乗合タクシーによる代行輸送が行われていた。また2006年12月の新屋島水族館開館に併せ、土日祝日と一部の学校休業日にはことでんバスにより琴電屋島駅-屋島山上間のシャトルバスの運転が開始された。

このバスは好評のため2007年(平成19年)4月1日から毎日運転となり、同時にJR屋島駅への乗り入れも開始され、屋島への公共交通機関が完全復活した。

廃止後、1号車「義経号」が屋島登山口駅、2号車「辨慶号」が屋島山上駅にそれぞれ留置されていたが、災害時等に滑落する懸念から、辨慶号は2013年1月に山麓の屋島登山口駅まで引き下ろされた。

屋島登山口駅については、2014年-2015年頃に解体され、2016年に地元新馬場自治会の自治会館「新馬場会堂」が落成したが、駅のホームは撤去されず、車両1両が留置された状態で存置している。

 

讃岐東照宮 屋島神社

当神社は慶安五年(1652年)高松藩主松平頼重公が香川郡宮脇村の本門寿院境内に社殿を建立し東照宮の神霊ほ奉斎したのにはじまる。以来山王社として歴代藩主は崇敬してきたが文化元年(1804年)当時の高松藩主第八代松平頼儀公は、この風光明媚な屋島山麓に社殿の造営に着手し、文化十二年(1815年)に完成した。その造営費は当時の金額で約十四万余金と言われている。その後明治四年には冠獄神社と改称しさらに明治七年屋島神社と改称同年県社に列せられ明治十五年藩祖松平頼重公を合祀して崇敬していたが、昭和四十八年二月十二日思わぬ不慮の災害に会い、本殿、拝殿等を全焼したが辛うじて唐門は火災から免がれ無事であったことは不幸中の幸いであった。翌年十一月には再建現在に至っている。彫刻等は、唐門が三分のニを占めており、江戸時代の粋を極めた美術工芸品は見事なものばかりで、中でも正面上部にある鳳凰の鳥、御門の両側の柱にある上り龍、下り龍等は格別のできばえである。棟梁は、左甚五郎の六世、五代目の左利平忠能が父の名跡を継いで高松藩松平家の客分棟梁となり、文化十二年四月に藩命を受けて讃岐東照宮の彫刻彫金等を棟梁し、完成したものである。(由緒書より)

 

▼所在地、屋島

高松市屋島中町:〒760-0112

 

▼大宮八幡宮、旧屋島ケーブル屋島登山口駅

 

▼屋島神社社殿、SHIKOKUMURA

 

 

▼琴電屋島駅で下車、琴電屋島駅前から見る屋島

 

▼四国のみち-屋島の案内板、屋島山上シャトルバスのりば

 

▼琴電屋島駅舎、大宮八幡宮へ向かう(一の鳥居まで約0.3km)

 

▼屋島中町を西方向へ進む-1、左側に屋島中学校

 

▼島中町を西方向へ進む-2(次の交差点を右折)、左側は琴電志度線の屋島中学校前踏切

 

▼大宮八幡宮へ進む-1、左に御旅所

 

▼大宮八幡宮御旅所

 

▼大宮八幡宮へ進む-2(一の鳥居が見えて来た)、大宮八幡宮へ進む-3

 

 

▼大宮八幡宮に着いた、大宮八幡宮-1:全体像スケッチ

 

▼大宮八幡宮-2:一の鳥居、案内図

 

▼大宮八幡宮-3:参拝者駐車場、御守所・宮司宅

 

▼大宮八幡宮-4

 

▼大宮八幡宮-5

 

▼大宮八幡宮-6

 

▼大宮八幡宮-7

 

▼社務所、大宮八幡宮-8

 

▼大宮八幡宮-9:随神門、古札納所

 

▼後方を振り返る-1、大宮八幡宮-10

▼左に由来碑・右は神馬、大宮八幡宮-11

 

▼後方を振り返る-2、大宮八幡宮-12

 

▼大宮八幡宮-13

 

▼大宮八幡宮-14:拝殿、扁額

 

▼大宮八幡宮-15:御輿殿・御札所、御饌殿

 

▼大宮八幡宮-16:天満宮、本殿

 

▼大宮八幡宮-17:屋島レグサムフィールドからサンポートのパノラマ景

▼大宮八幡宮-18:屋島レグサムフィールドズーム景、高松シンボルタワーのズーム景

 

 

▼大宮八幡宮を後にして旧屋島ケーブル屋島登山口駅へ向かう(約0.2Km)、旧屋島ケーブル屋島登山口駅へ進む-1

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅へ進む-2

 

▼左奥に屋島山上中区配水池、旧屋島ケーブル屋島登山口駅へ進む-3

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅へ進む-4

 

 

▼正面は旧登山口駅舎跡(新馬場会堂):左奥に見えて来た、旧屋島ケーブル屋島登山口駅へ進む-5

 

▼新馬場会堂、旧屋島ケーブル屋島登山口駅に着いた

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-1:屋島山上0.8Kmの看板、変電所跡

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-2:車内1

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-3:車内2、旧屋島ケーブル屋島登山口駅-4

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-5

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-6

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-7

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-8

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-9

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-10、線路並階段進行禁止札

▼引き返す、旧屋島ケーブル屋島登山口駅-11

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-12

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-13、旧屋島ケーブル屋島登山口駅を後にして屋島神社へ向かう(約0.2Km)

 

(Vol.986-2に続く)

 

 

<akijii展-(543)

スクラッチアート(世界の名所めぐり6点)

今報は「マッタホルンのある風景で、所要時間は未測定でした。

◇完成作品

今報で「スクラッチアート(世界の名所めぐり)」を終え、

次報からは「美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03」です。

 

引き続き、Vol.986-2/3をご覧ください。

引き続き、Vol.986-2/3をご覧ください。

▼屋島神社社殿へ進む-1

 

▼屋島神社社殿へ進む-2

 

▼屋島神社社殿へ進む-3

 

▼屋島神社社殿へ進む-4

 

▼屋島神社社殿へ進む-5

 

▼右に葵亭、屋島神社社殿へ進む-7

 

▼右方向は屋島神社の参道口、屋島神社社殿へ進む-8

▼屋島神社社殿へ進む-9

 

▼左に神庫、右側に社務所・お札所

  

▼屋島神社社殿へ進む-10、屋島神社社殿に着いた

 

 

▼屋島神社社殿-1

 

▼屋島神社社殿-2、神門-1

▼屋島神社社殿-3:神門-2

 

▼屋島神社社殿-4:神門-3

 

▼屋島神社社殿-5

 

▼屋島神社社殿から南方向の眺望

▼屋島神社社殿-6

 

 

▼屋島神社社殿の周回スケッチ-1

 

屋島神社社殿の周回スケッチ-2

 

▼屋島神社社殿の周回スケッチ-3

 

▼屋島神社社殿の周回スケッチ-4

 

▼屋島神社社殿の周回スケッチ-5

 

▼屋島神社社殿の周回スケッチ-6

 

▼屋島神社社殿の周回スケッチ-7

 

▼屋島神社社殿の周回スケッチ-8

 

▼屋島神社社殿の周回スケッチ-9

 

▼屋島神社社殿の周回スケッチ-10

 

▼屋島神社社殿の周回スケッチ-11

 

 

▼右折して車道を下る、左側は屋島神社の神門方向

 

▼車道を下る-1

 

▼車道を下る-2

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅から上がって来た駐車場に着いた、屋島神社の鳥居が見える

 

▼屋島神社の参道へ進む、屋島神社の参道に戻った

 

▼左方向は屋島神社社殿、参道階段を下りる-1

▼右に葵亭、参道階段を下りる-2

 

▼参道階段を下りる-3

 

▼讃岐東照宮「屋島神社」の標識と「SHIKOKUMURA・わら家➡」に寄る、SHIKOKUMURA・わら家のスケッチ-1

 

 

▼SHIKOKUMURA・わら家のスケッチ-2

 

▼SHIKOKUMURA・わら家のスケッチ-3

 

▼SHIKOKUMURA・わら家のスケッチ-4

 

 

▼屋島神社の参道に戻る、屋島神社の参道を進む-1

 

▼屋島神社の参道を進む-2

 

▼屋島神社の参道を進む-3、屋島神社碑

 

 

▼帰路の琴電屋島駅へ向かう(約0.6Km)、後方を振り返る

 

▼屋島スカイウェイを南に進む-1

 

▼右に石碑、屋島神社碑を振り返る

 

▼屋島スカイウェイを南に進む-2、次の交点を右折

 

▼琴電屋島駅へ進む、琴電屋島駅に着き帰宅の途に就いた

 

 

引き続き、Vol.986-3/3をご覧ください。

Vol.986-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:14分寺跡

<22.讃岐国分寺跡> <撮影:2015.06.24 and 2016.11.09>

奈良時代の天平13年(741年)、当時の日本を脅かしていた天災、疫病、内乱などの様々な情勢不安から人々を救うため、聖武天皇は各国に一寺ずつ、国分寺と国分尼寺を建てよという「国分寺建立の詔」を発した。

讃岐国分寺もまた、その際に建立された国分寺のうちの一つで、奈良の高僧である行基(ぎょうき)によって開基されたと伝えられている。

 

平安時代初期の弘仁年間(810~824年)には、四国を巡錫していた弘法大師空海が讃岐国分寺を訪れ、痛んでいた本尊や堂宇の修理を行ったとされる。時代が進み、朝廷の力が弱まり、その財政的支援によって支えられていた全国の国分寺と国分尼寺は、瞬く間に衰退してしまう。讃岐国分寺もまたその例に漏れず、廃れていったのだが、真言宗の開祖である空海に縁のある霊場として信仰を得ていた為か、鎌倉時代には創建時の講堂跡に残っていた礎石を利用して、立派な本堂が再建され今もなお現存し、重要文化財に指定されている。その後、四国遍路が盛んになると、讃岐国分寺は四国八十番札所の第80番札所として、現在に至るまで数多くの参詣者によって賑わってきた。

 

創建当時の讃岐国分寺は、東西約220m、南北約240mという広大な寺域を有し、その周囲は築地塀によって囲われていた。現在もかつての寺域の西端と北端に、築地塀の跡である土塁が残されている。現在、創建当時の建造物は存在しないが、かつての主要建造物の礎石がほぼ完全な状態で現存しており、創建当時における建物の規模を推測する事が可能である。寺の中心を担う金堂(仏像を安置する建物)は、基壇の規模が横幅34.9mで奥行きは21.3m、建物は桁行七間に梁間四間である。金堂の背後に建つ講堂(僧侶が学習したり、説法を説く建物)は、現在の本堂とほぼ同じサイズであったと推測されている。

 

讃岐国分寺に残る他の遺構としては、講堂の裏手より僧坊跡が発見されている。その規模は、基壇の横幅が87.9m、奥行きは16m、建物は桁行が83.9mで、梁間は12mである。これは、全国の国分寺に見られる僧坊跡の中で、最大規模のものだ。また、伽藍の西側からは掘立柱の建造物跡が、伽藍の東側からは鐘楼跡も発見されている。現在、境内に建つ鐘楼に吊るされている銅鐘は、奈良時代の特徴を残しつつ、平安時代の特徴も見られるもので、平安時代の初期に鋳造されたものと考えられ、香川県最古の梵鐘として、重要文化財の指定を受けている。

 

<所在地・外観>

讃岐国分寺跡-高松市国分寺町国分

▼讃岐国分寺跡-復元された僧坊跡

 

 

讃岐国分寺跡」は、JR国分駅の北東300mほどの所にある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼特別史跡-讃岐国分寺跡

 

 

讃岐国分寺は天平宝字(ほうじ)年間(757~765)に完成した。中門・金堂・講堂・僧坊が一直線に並び、中門と金堂の中間東側に塔が配置される大官大寺式に整備された国分寺境内には、現在も32個の礎石が残る金堂跡と15個の礎石と心礎が残る塔跡を見る事が出来る。

 

▼讃岐国分寺-仁王門(中門跡)-1

 

▼讃岐国分寺-仁王門(中門跡)-2

 

▼讃岐国分寺-塔跡15個の礎石と心礎

 

▼讃岐国分寺-金堂跡32個の礎石

 

 

現、讃岐国分寺の「本堂」(国重文)は旧講堂跡に建てられ、鎌倉時代中頃のものと考えられている。

 

▼讃岐国分寺本全景、本瓦葺き

 

▼讃岐国分寺本堂-単層入母屋造

 

塔跡心礎に立つ高さ3.15mの凝灰岩製七重塔も、その頃のものである。

 

▼讃岐国分寺-凝灰岩製七重塔

 

本堂には、像高約5mの本尊「木造千手観音立像」(国重文)が安置されている。

平安時代後期(11世紀末頃)のものであるが、秘仏となっている。

また同寺には、平安時代前期の造立とされる「銅鍾」(国重文)が伝わる。

 

▼讃岐国分寺-木造千手観音立像(web引用-水彩画風変換)

▼讃岐国分寺-鐘楼、銅鍾

 

▼讃岐国分寺-千体地蔵、北向地蔵

 

▼讃岐国分寺-閻魔堂、毘沙門天堂

 

▼讃岐国分寺-中門、大師堂

▼讃岐国分寺-弁財天、願かけ金箔大師

 

▼讃岐国分寺-成満大師・願かけ不動明王、延命地蔵尊

 

▼讃岐国分寺-ミニ八十八カ所巡り(阿波の国-発心道場)、(土佐の国-修行道場)

 

▼讃岐国分寺-ミニ八十八カ所巡り(伊予の国-菩提道場)、(讃岐の国-涅槃道場)

 

 

1952(昭和27)年に東西330m・南北227mの範囲が国特別史跡に指定され、1983年からの発掘調査を踏まえ、僧坊や築地(ついじ)塀などの復元・整備が行われた。

 

また史跡内には、10分1の石製伽藍配置模型が設置され、史跡の東には「讃岐国分寺跡資料館」があり、発掘調査で出土した瓦や土器などを展示している。

 

▼讃岐国分寺跡-よみがえる天平の甍(いらか)

 

▼讃岐国分寺跡-伽藍配置模型

 

▼讃岐国分寺跡-築地塀(ついじべい)復元、鐘楼跡

 

▼讃岐国分寺跡-僧房跡覆屋(おおいや)

 

▼讃岐国分寺跡-堀立柱(ほったてばしら)建物跡、西から東方向の景

 

 

▼讃岐国分寺跡資料館-案内板、正面全景

 

▼讃岐国分寺跡資料館-館内

 

▼讃岐国分寺跡資料館-展示物

八葉複弁蓮華文軒丸瓦、均正唐草文軒平瓦、七要複弁蓮華文軒丸瓦、均正唐草文軒平瓦。

 

 

讃岐国分寺跡から南西1km強の坂出市府中町には、「府中山内瓦窯(がよう)跡」(国史跡)が保存されている。

 

<関連遺産-1>

瓦窯跡は全長約3mで、窯跡付近からは、国分寺跡や国分尼寺跡で見つかっている七葉複弁蓮華文軒丸瓦や八葉複弁蓮華文軒丸瓦、均正唐草文軒平瓦が出土しており、国分寺などの造営にあたって築造されたと考えられている。

 

▼府中・山内瓦窯跡-1

 

▼府中・山内瓦窯跡-2

 

 

讃岐国分寺跡から北東約2kmに、「讃岐国分尼寺跡」(国史跡)とされる法華寺(ほっけじ)がある。

 

<関連遺産-2>

境内には金堂跡の十数個の礎石が残っているが、1982(昭和57)年に周辺部の発掘調査によって、東の列の南北5個の礎石は動いていないとみられ、奥行4間の建物が推定でき、1町半(約160m)四方の敷地であったことが推定されている。

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)-全景

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)- 寺標、山門

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)- 讃岐国分尼寺跡石碑、本堂

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)-史跡指定地石柱、「無量壽」親鸞

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)-「吾唯足知」(われただたるをしる)

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)-国府犀東の漢詩碑、伽藍配置及び基壇造成範囲(web引用-水彩画風変換)

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)-讃岐国分尼寺金堂跡礎石、礎石-1

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)-礎石-2

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)-礎石-3、尼坊跡調査風景(web引用-水彩画風変換)

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)-菅原道真-白牡丹の漢詩碑

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

新居宮池親水公園と宮池水上展望台。

遊歩道の南西端から見る袋山と宮池水上展望台の日替わり4景。

 

 

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-097  Orignal掲載日:Vol.170 (2013.02.20)

「機会」は平等・公平…。

 

戦後の日本人は「平等・公平」ということを叩き込まれて育った。だが、現実の世の中は、平等でもなければ公平でもない。建て前としてはそうなっているが、不平等と不公平がまかり通っているのが現実というものであるが、平等と公平は日本が進んでいるかも知れない。

 

民主主義を標榜する先進国の英・仏・独・米国のどこの国をとっても、我々の目から見たら「すさましい」と思えるほどに不平等・不公平な社会である。だが、それを憤るのは可笑しいと思う。

これでも奴隷制が当たり前だった昔に比べれば、近代は多くの人間にとって、かなり生きやすい社会に変わってきた。これは、民主主義が定着したからだと思う。

 

民主主義は「人間性」というものを考慮すると、人類がこれまでに考え出したベストの社会体制であると思う。

理想はいくらでも言えるが、人間性がそれを阻むからこれ以上のものは無理だと思うのだ。

だが民主主義には素晴らしいシステムがある。そのシステムとは「機会」の平等・公平である。

上述した不平等・不公平は「結果」である。

この一点があるから民主主義は多くの人から支持されているのだろう。

であるからベストと私は思うのだが、こういう考え方を不満に思う人もいるだろうが…。

 

 

<高くがる空間>

新居新池の堤防道から見るウォーキングコースの上空(城山と奥に大禿山・蓮光寺山)。

木太中央公園(木太町)の上空。

木太宮前公園(木太町)から見る木太中学校の上空。

大池(木太町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースの畑に咲くサルスベリ-1(奥はだんご山3兄弟)

◇ウォーキングコースの畑に咲くサルスベリ-2(奥は火ノ山・と十瓶山・鷲ノ山)

◇Tu宅のサルスべリ-3

 

◇Ka宅の畑に咲く(名称?)

◇Ma宅のネムノキ

◇我が家の庭に咲く

  

◇ウォーキングコースのヤマハギ

 

◇ウォーキングコースの畑に咲くヒマワリ(奥は袋山)

 

 

Akijiiままniフォトsketch<波切不動明王・浦生漁港・屋島中央公園

波切不動明王

この不動明王は北向きに鎮座する縁起の良い事は申す迄もなく交通安全・病気等諸々の厄拂をして呉れる霊験あらたかな不動明王です。日頃から真心を込めてお祈りすれば必ずや一切の悩みを解消して呉れます。(現地案内板)

 

浦生(うろ)漁港

高松市東部の屋島山麓にあり、漁民が利用する唯一の漁港として古くからあり、昭和5年県費補助を受けて、修築工事がなされた。昭和15年高松市と合併、昭和25年災害を受け国庫負担金を得て昭和26年工事に着手。昭和28年工事完了。平成4年局部改良、平成6年第9次漁港整備長期計画に基づき整備に着手し、平成16年度に地域水産物供給基盤整備事業が完了しております。(高松市HP)

 

屋島中央公園

大きな木がたくさんあるね。広場が広い公園だよ。(高松市HP)

この地区は、梶原景山翁が宝暦三年に塩田を築き、幾多の変遷を経て二百年余りの長らく続いてきた所であり、昭和四十六年十二月の塩業整備により廃田となった。この跡地を共同開発するため、有志が協議会を作り慎重に審議したところ、 土地区画整理事業により健全な市街地の造成を図ることとし、香川県知事の認可を得て、高松市屋島土地区画整理組合を設立し、組合員の和と協力により困難を乗り越え五年の歳月を費やして、昭和五十三年三月工事を完成した。

 

▼所在地、波切不動明王

高松市屋島西町:〒760-0113

 

▼アルファシティ屋島、浦生漁港防波堤赤灯台と防波堤白灯台

 

▼屋島のホテル望海荘・獅子の霊厳展望台・屋島山上交流施設「やしまーる」、屋島中央公園

 

 

▼バス停「浜北」で降車、波切不動明王へ向かう(約0.2km)

 

▼県道150号線を北方向に進む-1

 

▼県道150号線を北方向に進む-2(左奥に見えて来た)、波切不動明王へ進む

 

 

▼波切不動明王に着いた、波切不動明王-1

▼波切不動明王-2

 

▼波切不動明王-3

 

 

▼対岸の結婚式場「弓絃葉(ゆずるは)」、波切不動明王を後にして浜北第3防波堤へ向かう(約0.4Km)

 

▼浜北橋(県道150号線)を北へ進む、浜北橋の東方向に北浜水門が見える

 

▼弓絃葉の南東角を左折、弓絃葉沿いに西に進む-1

 

▼弓絃葉-1

 

▼弓絃葉-2

 

▼弓絃葉-3、弓絃葉と対岸の波切不動明王

 

▼弓絃葉沿いに西に進む-2

 

▼浜北第3防波堤へ進む-1、右側にアルファシティ屋島四番館

 

▼浜北第3防波堤へ進む-2、対岸にテラビーチリゾート屋島とケアハウス屋島

 

▼浜北第3防波堤へ進む-3、正面はアルファシティ屋島参番館

 

▼左(西)は浜北港、浜北第3防波堤へ進む-4

 

 

▼浜北第3防波堤に着いた、浜北第3防波堤から見るテラビーチリゾート屋島とケアハウス屋島

 

▼浜北第3防波堤から見る西方向のパノラマ景

▼浜北第3防波堤から見る西南方向の高松シンボルタワー、高松シンボルタワーのズーム景

 

 

▼アルファシティ屋島の巡回スケッチへ進む

 

 

▼アルファシティ屋島の巡回スケッチ-1

▼アルファシティ屋島の巡回スケッチ-2

 

▼アルファシティ屋島の巡回スケッチ-3

 

▼アルファシティ屋島の巡回スケッチ-4

 

▼アルファシティ屋島の巡回スケッチ-5

 

▼アルファシティ屋島の巡回スケッチ-6

 

▼アルファシティ屋島の巡回スケッチ-7

 

▼アルファシティ屋島の巡回スケッチ-8

 

▼アルファシティ屋島の巡回スケッチ-9、アルファシティ屋島の巡回スケッチ-10(サンライスガーデン) 

 

▼アルファシティ屋島の巡回スケッチ-11(サンライスガーデン)

 

▼アルファシティ屋島の巡回スケッチ-12(サンライスガーデン)

 

▼アルファシティ屋島の巡回スケッチ-13

 

 

▼県道150号線を北方向に進み浦生(うろ)漁港へ向かう(約0.6Km)、県道150号線を北方向へ進む-1

 

▼左側は「やしま第一健康ランド」跡、県道150号線を北方向へ進む-2

 

▼県道150号線を北方向へ進む-3、次の交点を左折

 

▼浦生漁港へ進む-1

 

▼浦生漁港へ進む-2

 

▼浦生漁港へ進む-3、浦生漁港に着いた

 

(Vol.985-2に続く)

 

 

<akijii展-(542)

スクラッチアート(世界の名所めぐり6点)

今報は「ヴェネツィアの運河」で、所要時間は340Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.985-2/3をご覧ください。

Vol.985-1/3に続けてご覧ください。

 

▼浦生漁港防波堤接続地点へ進む、浦生漁港防波堤接続地点に着いた

 

▼防波堤接続地点から見る女木島、浦生漁港-1

 

▼防波堤接続地点から見る防波堤赤灯台と防波堤白灯台、防波堤赤灯台と防波堤白灯台のズーム景

 

▼防波堤接続地点から見る浦生漁港-2(パノラマ景)

▼防波堤接続地点から見る西南方向(アルファシティ屋島~高松港コンテナターミナル)のパノラマ景

▼防波堤接続地点から見る高松港コンテナターミナルのズーム景、香川県庁舎~高松シンボルタワーのズーム景

 

▼防波堤接続地点から見る屋島、屋島のホテル望海荘・獅子の霊厳展望台・屋島山上交流施設「やしまーる」のズーム景-1

 

 

▼浦生漁港を後にして屋島中央公園へ向かう(約1.8km)、県道150号線交点へ進む-1

 

▼県道150号線交点へ進む-2、県道150号線交点が見えて来た(交点を右折)

 

▼県道150号線を南方向に進む

 

▼右奥にアルファシティ屋島が見えて来た、右にバス停「健康ランド前」

 

▼県道150号線を南方向に進み次の三叉交点を左進、右奥にアルファシティ屋島(サンライスガーデン)

 

▼屋島西嶺の車道を南方向に進む-1

 

▼屋島西嶺の車道を南方向に進む-2、右側に浜北水門

 

▼汐入川の東沿いを南方向に進む-1

 

▼汐入川の東沿いを南方向に進む-2、次の交点を右折

 

▼汐入川を渡り汐入川西側の車道交点を左折、汐入川の西側を南方向に進む-1

 

▼左(東)方向の屋島、屋島のホテル望海荘・獅子の霊厳展望台・屋島山上交流施設「やしまーる」のズーム景-2

 

▼汐入川の西側を南方向に進む-2

 

▼県道150号線を横直進断、亥の浜公園に寄る

 

▼亥の浜公園へ進む-1

 

▼亥の浜公園へ進む-2、亥の浜公園に着いた

 

▼亥の浜公園-1

 

▼亥の浜公園-2、亥の浜公園を後にして屋島中央公園へ進む

 

▼屋島西町を西方向に進む-1

 

▼屋島西町を西方向に進む-2

 

▼屋島西町を西方向に進む-3

 

▼左奥に屋島中央公園が見えて来た、屋島中央公園に進む-1

 

▼屋島中央公園に進む-2

 

 

▼屋島中央公園に着いた、屋島中央公園-1

 

▼屋島中央公園-2

▼屋島中央公園-3

 

▼屋島中央公園-4

 

▼屋島中央公園-5

 

▼屋島中央公園-6

 

▼屋島中央公園-7

 

▼屋島中央公園-8

 

▼屋島中央公園-9

 

▼屋島中央公園-10

 

▼屋島中央公園-11

 

▼屋島中央公園-12

 

▼屋島中央公園-13、屋島中央公園を後にして帰路のバス停「屋島西小学校前」へ向かう(約0.3km)

 

 

▼屋島緑道を東へ進む-1

 

▼屋島緑道を東へ進む-2

 

▼屋島緑道を東へ進む-3

 

▼屋島緑道を東へ進む-4

 

▼バス停が見えて来た、バス停「屋島西小学校前」に着き帰宅の途に就いた

 

▼バス停の標示板、バス停「屋島西小学校前」から見る屋島のホテル望海荘・獅子の霊厳展望台・屋島山上交流施設「やしまーる」のズーム景

 

 

引き続き、Vol.985-3/3をご覧ください。