Vol.987-2/3 R巻頭-99。歴史(観て歩き)レポ-県都編:15<田村神社> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.987-1/3に続けてご覧ください。

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-2

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-3

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-4

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-5

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-6

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-7

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻った、聖代寺を振り返る

 

 

▼聖代寺を後にして高橋(相引川)へ向かう(約0.6km)、聖代寺の参道を下る-1

 

▼聖代寺の参道を下る-2

 

▼右側に藤目高地区給水所、東北方向に五剣山

 

▼聖代寺の参道を下る-3

 

▼聖代寺の参道を下る-6(右奥に「成田山聖代寺の参道➡」の案内板)、聖代寺の参道を振り返る

 

 

▼高橋(相引川)に進む-1

 

▼県道150号線との交差点を東へ横断、四国のみち「➡八十四番-屋島寺」の道標と「義経弓流し」の説明板

▼四国のみち「⇦八十五番-八栗寺」、「義経弓流し」の説明板

源平合戦(1185年)の際、この付近一帯は遠浅な海岸であり、義経は勝に乗じて海中に打ち入って戦っていました。
その時、脇下にはさめていた弓を落としてしまい、平家方の越中次郎兵衛盛嗣に熊手をかけられ危うく落ちかかりましたが、義経は太刀で熊手をあしらい左手のムチで弓をかき寄せ引きあげました。危険を冒してまで弓を拾ったのは、平家に拾われて「源氏の大将ともあろう者がこんな弱い弓を使っているのか」ともの笑いになるのをおそれたものだといわれています。(義経弓流し現地説明板)

 

▼交差点を東へ横断(前方に源平合戦史跡石標)、源平合戦史跡石標

 

▼源平合戦史跡石標(⇦菊王丸の墓・安徳天皇社)、源平合戦史跡石標(洲崎寺・祈り岩➡)

 

▼高橋(相引川)に進む-2

 

▼高橋(相引川)に着いた、高橋(相引川)

 

▼高橋(相引川)の左(北)方向、右(南)方向

 

 

▼相引川の西沿いに明神橋北詰まで進む(約0.6km)、相引川の西沿いに進む-1

 

▼奥に五剣山、相引川の西沿いに進む-2

▼相引川の西沿いに進む-3

 

▼相引川の西沿いに進む-4、左奥に牟礼川の水門

 

▼相引川の西沿いに進む-5

 

▼牟礼川の水門、相引川の西沿いに進む-6(明神橋が見えて来た)

▼相引川の西沿いに進む-7

 

▼相引川の西沿いに進む-8、右奥に屋島南嶺

 

▼相引川の西沿いに進む-9

 

▼県道150号線沿いに聖代寺の案内板、明神橋(相引川)北詰に着いた

 

 

▼帰路のことでん八栗駅へ向かう(約0.5km)、相引川の西側を振り返る

 

▼八栗駅へ進む-1(次の交点を左折)、八栗駅へ進む-2

 

▼八栗駅へ進む-3

 

▼八栗駅へ進む-4

 

▼八栗駅へ進む-5、牟礼川歩道橋を渡る

 

▼八栗駅へ進む-6(右は琴電の新牟礼川橋梁)、右は琴電志度線路

 

▼かつはし(牟礼川)を渡る、八栗駅へ進む-7

 

▼八栗駅へ進む-8、右に八栗駅

 

▼ことでん八栗駅のモニュメント、ことでん八栗駅に着き帰宅の途に就いた

 

 

引き続き、Vol.987-3/3をご覧ください。