akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記 -22ページ目

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.985-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:13<楠尾神社>

21.楠尾神社 <撮影:2016.10.16>

<由緒>古代讃岐の忌部の祖、手置帆負命が当国の国造であった時、国の平和を祈る鎮護神として小祠を祀り、命の次子、手置日下大人道長を宮仕えと定め、楠尾の宮と崇め奉った。そのころ社辺に楠大木数多繁茂し、朝廷の造船用木に献上したとも伝えられている。別名「甲朕の宮」の号がある。

仁徳帝の御宇、霊異があり、さらに欽明天皇の御宇には光り物が飛来して楠枝に留まり、三日三夜光り輝いたので、人々大いに驚き社殿を造営し、後に八幡神を合祀してこの地の氏神になったともいう。仁和二年(西暦八八六年)に社が再建され讃岐の国司菅原道真が奥谷に庵居を置いて当社を尊崇、境内に<池ノ房庵>を建てた。このころ、南の下乗石を再建し、当社は大社になっていたようである。鳥羽帝の保安年中、讃岐守藤中納言家成が一女に宮仕えさせて尊崇した。天正十年(一五八二年)長宗我部軍の来襲によって当社もその戦火に遭い、社殿・宝物記録等を焼失し、神宮・諸役の社人・社僧のほとんどが離散した。その上、社領の田地は、国主尾藤氏に没収されて大半を失った。生駒家の代となり、一正は家老安芸肥後に命じて社殿を修造し、社領を付し市立ての広場まで開発したことが「全讃史」に記されている。

天和元年(一六八一年)八月に大洪水あり五間四面の本殿と社殿は風雨のために倒壊したので再建した(社記)。

 

<所在地・外観>

▼楠尾神社(くすおじんじゃ)-高松市国分寺町新居3372

▼楠尾神社-鎌倉時代の経塚がみつかる新居郷の中心

 

 

袋山(ふくろやま)から東西に延びる丘陵の先端で、標高約53mの所に「楠尾神社」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼袋山と楠尾神社

 

 

JR端岡駅前から県道33号線を東北方向へ約500m行き、三差交点を左折すると、北に延びる楠尾神社の参道口に着く。

 

▼楠尾神社の参道-1

 

▼楠尾神社の参道-2

 

▼楠尾神社の参道-3

▼楠尾神社の参道-4

 

▼楠尾神社の参道-5

 

▼楠尾神社-境内

 

▼楠尾神社-拝殿

 

▼楠尾神社-本殿

 

 

神社まで上がると見晴らしが良く、国分寺町東南部を見渡せる。

 

▼楠尾神社-境内からの眺望、参道石段途中からの眺望

 

 

社記によれば、上古、忌部日下大人(くさかのうし)と呼ばれる人物が、玉依姫命を祀って当社を建立したと云う。古くからの阿野(あや)郡新居(にいのみ)郷(「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」)の産土神であった。付近には倉内(くらうち)・宝庫(たからだて)・散楽田(さるがくでん)などの地名があり、大社だった頃を偲ばせる。

 

▼楠尾神社-田村社、地神社

 

▼楠尾神社-恵比須社、三神社

 

▼楠尾神社-畝尾社、龍田社

 

▼楠尾神社-南の鳥居、北の鳥居

 

 

楠尾神社経塚出土遺物は、明治23年(1890)の楠尾神社の社殿拡張時に、現在の本殿の裏山から出土したもので、その内容は、銅板製経筒7口、陶製容器6個、和鏡1面、直刀残欠2片である。

経塚自体は既に失われており、構造は不明であるが、銅製の蓋付の経筒を1口あるいは2口ずつ陶製の外容器に入れて埋納したものと考えられる。外容器の組み合わせから複数回に亘って経塚造営が行われた事が想定されている。記年銘などの年代を設定する資料が無いものの、近畿地方の事例などからおよそ12世紀後葉から13世紀前葉ごろに経塚が造られたものと考えられている。「讃岐国名勝図会」の「楠尾八幡宮」の挿絵には、本殿裏山に「宝塚(たからづか)」と記されており、江戸時代末期に既にその存在が知られていたようであるが、現在は完全に消滅している。

 

▼楠尾神社-経塚遺物(web引用-水彩画風変換)

 

<関連遺産>

楠尾神社の南東約150mにある大善寺(だいぜんじ)の東に立つ「摩尼輪塔」は、月輪の中に胎蔵(たいぞう)界大日如来の種字(しゅじ)が薬研(やげん)彫りされ、方柱部分には「下乗」の文字が刻まれる。

 

▼大善寺

 

▼摩尼輪塔-1

▼摩尼輪塔-2

 

▼摩尼輪塔-3

 

 

白峯寺参道の下乗石(県文化)との関連が伺われる。中世下乗石の例としては貴重なものである。

地元では月輪の形から、「たいこ神さん」と呼ばれている。

 

▼白峯寺参道の摩尼輪塔と下乗石(県文化)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

遊歩道の南東端から見る国分台・猪尻山・大平山と宮池水上展望台の日替わり4景。

 

 

パーゴラから見る宮池水上展望台。

 

 

 Akijii-blog巻頭言Repeat-096   Orignal掲載日:Vol.166 (2013.01.30)

驕る平家は…。

 

温厚な二代目といわれた徳川秀忠の織田信長評は、「織田信長は、人が自分に従うことを好んだが、自分が人に従うことは好まなかった」。--- 近き世にて織田信長ほど勝れて勇猛なるはなし。されど、ただ、人の己れに従ふことのみを好みて、人に事(つか)ふることを好まず、故に思ひの外の禍も出来たり--- これは豊臣秀吉の信長評にも似ている。そして信長だけではなく、現代でもこういう上司は沢山いる。

 

地位が高まるにつれて、自分の方からお辞儀をする人は少なくなる。頭を下げる人間ばかり増えるからだ。そうなると錯覚を起こす。そしてそれが当たり前になる。

本当は、「この世の中には、自分に頭を下げる人間だけではなく、自分の方から頭を下げなければいけない人間も沢山いるのだ」という事実があるにも関わらず、次第に後者の方の神経が摩滅していく。

 

これは単に本人の責任だけではなく、周りにいる者が諌言をしないとそうなる。「あなたほどエライ人はおりません」などとおべんちゃらばかり言うから、本人はいよいよその気になって、頭を下げない。

それが大きな禍に発展していく。場合によっては、本人だけではなく組織そのものも崩壊する恐れがある。

 

まあいずれにしても、「驕る平家は久しからず」という言葉は真理なのである。

……そうですよねぇ、何事も「原因があるから結果がある」のだ。

 

 

<高くがる空間>

ウォーキングコースの新居新池の堤防から見る火ノ山・十瓶山・鷲ノ山の上空。

熊野神社(松縄町)の上空。

松縄流石中央公園(松縄町)の上空。

伏石北地下道の入口(伏石町)の上空。

野田池(松縄町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇国道30号線沿い(玉藻町)の花壇の

 

◇高松駅前広場のスベリヒユ

 

◇ウォーキングコースのルリマツリ

 

◇ウォーキングコース脇に咲くトケイソウ

◇ウォーキングコースのショウジョウソウ

 

 

 

Akijii気ままniフォトsketch<妙本寺・今橋毘沙門天堂・新開西/東公園>  

法華経・妙本寺

妙本寺の寺院葬は、仏教徒の供養を重んじた厳粛なご葬儀ができる場所です。ご葬儀の大小にかかわらず、直送から家族葬まで規模に応じて執り行うことができます。ご葬儀では本堂でお唱えを頂くことにより、故人様、ご先祖様と一緒に供養することができます。寺院葬の特長としては、各宗派の本義に基づいた格式のあるご葬儀を執り行います。また、一般の公営斎場と比較しても、祭壇上の飾り付けが不要のため、低価格でご利用頂けます。寺院によっては初七日法要もご利用でき、移動時間の短縮になります。

 

今橋毘沙門天堂

特に観光名所的なものではありません。

 

新開西公園

高松刑務所の北西にある公園。刑務所の外周道路に面している大きな公園。往来からは見つけにくい場所になる。

高松刑務所は市街地にあるのだが、往来に面しておらず周囲360度を宅地に囲まれた場所にある。

刑務所の外周は道路があるが、往来には直接つながっていない。まるで城のなわばりのような道路になっている。

L字型のアーチデッキ台があった。

 

新開東公園

高松刑務所の北東にある公園で、コンクリ山があった。ヘの字型の山だが、両側ともホールドのある斜面で、滑降はできない。園内には他に、ブランコ、クローバー型ラダー、シーソー、太鼓雲梯、滑り台がある。

滑り台はかなりユニーク。一見すると開放デッキ型滑り台と太鼓雲梯が合体した複合台にみえるのだが。

西公園と東公園はわずか150mほどしか離れていないが、町内会は別のようでそれぞれに公民館が建てられている。

 

▼所在地、妙本寺

高松市松福町:〒760-0067

 

▼今橋毘沙門天堂、新開西公園

 

▼高松刑務所の外壁、新開東公園

 

 

▼福岡町から松福町へ入る、妙本寺へ進む-1(約0.1km)

 

▼妙本寺へ進む-2

 

 

▼妙本寺に着いた、妙本寺-1

 

▼妙本寺-2

 

▼妙本寺-3

 

▼妙本寺-4

 

 

▼妙本寺を後にして今橋毘沙門天堂へ向かう(約0.4km)、杣場川(せんばがわ)緑道へ入る

 

▼杣場川緑道を南へ進む-1

 

▼左奥に四国ガス㈱高松支店、杣場川緑道を南へ進む-2

 

▼左側に南海プライウッド㈱、杣場川緑道を南へ進む-3

 

▼次の交点を左折、松福町を東方向に進む

 

▼左側の南海プライウッド㈱、前方左の四国ガス㈱高松支店

 

▼松福町を東南方向へ進む、東南方向にアルファパーク高松

 

▼前方左に特老ナウラテラス、GIT高松の看板

 

▼特老ナウラテラス

 

▼今橋毘沙門天堂へ進む-1、左はアルファパーク高松

 

▼今橋毘沙門天堂へ進む-2(次のT交点を左折)、次の交点を右折

 

▼今橋毘沙門天堂へ進む-3(正面の右側)、今橋毘沙門天堂に着いた

 

 

▼今橋毘沙門天堂-1

 

▼今橋毘沙門天堂-2

 

▼今橋毘沙門天堂-3

 

▼今橋毘沙門天堂-4

▼今橋毘沙門天堂-5、今橋毘沙門天堂を後にして新開西公園へ向かう(約0.6km)

 

(Vol.983-2/4に続く)

 

 

<akijii展-(541)

スクラッチアート(世界の名所めぐり6点)

今報は「九の街並み」で、所要時間は340Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.984-2/4をご覧ください。

Vol.984-1/4に続けてご覧ください。

 

▼左にアルファパーク高松、松福町を東南方向に進む-1

 

▼松福町を東南方向に進む-2(第2今橋駅構内踏切を渡る)、第2今橋駅構内踏切を渡る

 

▼第2今橋駅構内踏切の右(西-今橋駅)方向、左(東-松島二丁目駅)方向

▼第2今橋駅構内踏切の南方向に高松市こども未来館(高松ミライエ)、高松市こども未来館(高松ミライエ)のズーム景

 

▼ことでん志度線路沿いに東方向に進む、第一松島踏切を渡る

 

▼第一松島踏切の南方向に高松中央高校、松福町を北東方向に進む-1

 

▼松福町を北東方向に進む-2

 

▼左方向左にアルファパーク高松・右奥に南海プライウッド㈱が見える、松福町を北東方向に進む-3(次の交点を右折)

▼松福町を東南方向に進む

 

▼交点を左折、松福町を北東方向に進み次の交点を右折

 

▼新開西公園へ進む-1

 

 

▼新開西公園へ進む-2、新開西公園に着いた

 

▼新開西公園-1

 

▼新開西公園-2

 

▼新開西公園-3

 

▼新開西公園-4

▼新開西公園-5

 

▼新開西公園-6

 

▼新開西公園-7

 

 

▼新開西公園を後にして新開東公園へ向かう(約0.3km)、高松刑務所の外壁

 

▼高松刑務所の北側を東方向に進む-1

 

▼高松刑務所の北側を東方向に進む-2、新開東公園に着いた

 

 

▼新開東公園-1

 

▼新開東公園-2

 

▼新開東公園-3

 

▼新開東公園-4

 

▼新開東公園-5

 

▼新開東公園-6

 

▼新開東公園-7

 

▼新開東公園-8

 

▼新開東公園-9

 

▼新開東公園を後にして帰路のことでん松島二丁目駅へ向かう(約0.5km)、高松刑務所の東側を南方向に進む-1

 

▼高松刑務所の東側を南方向に進む-2

 

▼高松刑務所の東側を南方向に進む-3、突き当たりを右折

 

▼高松刑務所の南側を西方向に進む-1

 

▼高松刑務所の南側を西方向に進む-2、高松刑務所の正門前を左折

 

▼ことでん松島二丁目駅へ進む-1(踏切の手前を左折)、ことでん松島二丁目駅へ進む-2

 

▼ことでん松島二丁目駅へ進む-3(正面は駅ホーム)、松島二丁目駅に着き帰宅の途に就いた

 

 

引き続き、Vol.984-3/4をご覧ください。

Vol.984-2/4に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:12根香寺・鷲峰寺・正花寺

18.根香寺 <撮影:2012.11.19>

根香寺(ねごろじ)は、五色台の青峰山中にある天台宗単立の寺院。本尊は千手観音。四国八十八箇所霊場の第八十二番札所。寺伝によれば、空海(弘法大師)が弘仁年間(810年-824年)にこの地を訪れ五色台の五つの峰に金剛界の五智如来を感得し密教の修行にふさわしい台地であるとし、その一つである青峰に一宇を建立し五大明王を祀り「花蔵院」と称し、衆生の末代済度を祈願する護摩供を修法したと伝えられている。

その後、円珍(智証大師)が天長9年(832年)に訪れたさい、山の鎮守である市之瀬明神の化身の老翁に、蓮華谷の霊木で観音像を造り観音霊場の道場をつくるよう告げられた。すぐさま円珍は、千手観音像を彫像し「千手院」を建てて安置した。この霊木は香木で切り株から芳香を放ち続けたことから、この2院を総称して根香寺と呼ばれるようになったという。

後白河天皇から勅願所として帰依も厚く繁栄したが、戦国時代には兵火にあい衰微した。しかし、慶長年間に高松城主・生駒一正が復興、さらに寛文4年(1664年)高松藩初代藩主松平頼重が再興した。

なお、このとき真言宗から天台宗に改宗された。

江戸時代の初め頃、この地には牛鬼がいて人や家畜に危害を加えていた。そこで弓の名手であった山田蔵人高清に退治を依頼した。高清は3本の弓で見事に牛鬼を退治した。高清は退治した牛鬼の角を切り取り、根香寺に奉納し菩提を弔ったと伝えられている。現在、根香寺にはその牛鬼の角と呼ばれるものと、牛鬼の姿が描かれた掛け軸が伝わっている。 (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

▼根香寺-高松市垂水町1412-2

▼根香寺-千手観音を本尊とする、五色台の山岳仏教寺院

 

五色台の地名は、山岳仏教の陰陽五行(いんようごぎょう)の考え方に由来する。

根香寺はその内の西峰にある。

 

 

 

根香寺へは県道16号線の下笠居支所前交差点を南へ曲がって、備讃瀬戸の海を一望しながら舗装された坂道を上り、標識に従って左に折れ、入って行くと山門に着く方法が一般的ではあるが、私はJR鬼無駅から、遍路道を通り、赤子谷を経由して「根香寺」まで行った。

 

▼JR鬼無駅をスタート、標高と距離(時間)

 

▼左折して山麗へ、遠くに青峰が顔を出している

 

▼坂道を上る、誠陵中高校を右にみながら直進

 

▼Organic farm角を左折、盆栽通り角を右折

 

▼眼下に高松西高・神高池・袋山と奥に高松クレーター5座が見える、遍路道を通る

 

▼再び車道へ出る、青峰が迫ってくる

 

▼赤子谷の三叉路を直進-左前方奥が串ノ山、右折して桑崎池へ

 

▼見えて来た桑崎池と下笠居の街並みと紅峰、桑崎池と串ノ山

 

▼右方に瀬戸内海と屋島、左折して四国のみち(遍路道)へ

 

▼遍路道に入る、休憩所の様子と奥に勝賀山

 

▼休憩所から見る串ノ山・紅峰と瀬戸内海、遍路道の入口の柵

 

▼遍路道-1

 

▼遍路道-2

 

▼遍路道のベンチで一息のakijii、根香寺の駐車場の指導標

 

 

<概 要><歴史遺産>

山門まで来ると根香寺全体が木々に囲まれ、静寂な雰囲気になる。

 

▼根香寺-山門

 

▼根香寺-参道

 

▼根香寺-水かけ地蔵、手水場

 

▼根香寺-延命地蔵尊、梵鐘

 

▼根香寺-本堂、大師堂

 

▼根香寺-千手観音堂、五大堂

 

▼根香寺-白猴欅(はっこうけやき)樹齢1600年、役の行者像

 

▼根香寺-牛鬼

 

 

初め円珍が刻んだ千手観音を本尊にしていたと云うが、1585(天正13)年兵火にかかって焼けた。

今の本尊は、末寺の吉水寺(よしみずでら)から移した、同じく円珍作と伝える「木造千手観音立像」(国重文)である。高さ163cm、サクラの一木造で頭上に十一面が表され、手は全部で42ある。全身重厚で裳には翻波(ほんば)式の襞(ひだ)が見られ、一見したところ貞観(じょうがん)彫刻のようである。しかし、この仏像はひび割れを防ぐため、荒堀りした後、前後に割って内刳(うちぐ)りをし、再び矧ぎ合わせる割矧ぎ法という作り方をしているので、平安時代初期の一木造から中期(藤原時代)の寄木造へと発展していく過渡期の物とみる事が出来る。

 

また護摩堂には、不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の「木造五大尊像」(県文化)が祀られ、いずれも険しい形相で、密教の厳しさを示している。

 

▼木造千手観音立像、木造五大尊像(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.984-4/4をご覧ください。

Vol.984-3/4に続けてご覧ください。

 

<19.鷲峰寺> <撮影:2011.02.05 and 2015.08.11>

鷲峰寺(じゅうぶじ)は天台宗の寺院。山号は圓通山。本尊は千手千眼観世音菩薩。

四国八十八箇所第八十二番札所根香寺奥の院、新四国曼荼羅霊場第十三番札所。

寺伝によれば、奈良時代の天平勝宝6年(754年)唐僧・鑑真(がんじん)により建立されたという。鑑真は寺院がある山がインドの霊鷲山に似ていることから釈迦如来像を安置し鷲峰寺と名付けたと言われる。平安時代前期の貞観2年(860年)円珍により智証大師十七檀林の一つとして清和天皇の勅願寺となった。戦国時代の天正年間(1573年-1593年)長宗我部元親軍の侵攻により伽藍は火災に遭い焼亡した。その後、寺院は荒廃し仏堂が置かれるのみとなっていた。江戸時代前期の寛文元年(1661年)高松藩主松平頼重が寺院の復興を命じ、三井寺の観慶阿闍梨を中興1世の住持として迎えた。延宝4年(1676年)に伽藍が再建された。  (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

▼鷲峰寺-高松市国分寺町柏原632-3

▼鷲峰寺-大和西大寺末寺柏原堂の発展

 

 

円通山「鷲峰寺」は、JR国分駅の南約1.7kmの所にある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼鷲峰寺-県道183号線沿いの寺標

 

▼鷲峰寺-門前、案内板

 

▼鷲峰寺-山門

 

▼鷲峰寺-参道1、鐘楼

 

▼鷲峰寺-地蔵堂、四天王収蔵庫

 

▼鷲峰寺-参道2、石段

 

▼鷲峰寺-本堂

 

 

持国天・増長天・広目天・多聞天の「木造四天王立像」(国重文)が安置されている。

いずれも玉眼・寄木造で、鎌倉時代末期の優作である。

鎌倉時代には古像を摸す事が行われており、本像もその1例である。

元に成ったのは、奈良興福寺北円堂の四天王像(791年、奈良時代末期)とみられ、よく似ている。

 

▼木造四天王立像-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼木造四天王立像-2(web引用-水彩画風変換)

 

 

鷲峰寺の前身柏原堂の名は、鎌倉時代末期の文献に登場し、1306(嘉元4)年10月には西大寺長老信宮が開山供養のために訪れている。

当時、讃岐国分寺と共に復興された鷲峰寺は、真言律宗として発展した。

 

本堂の左側から裏山(鷲ノ山)に上がって行くと、新四国88カ所の石仏があり、途中の山頂からは瀬戸内海が遠望できる。

 

<関連遺産> 

▼鷲ノ山-登山口、登山道入口(新四国二十四輩道)

 

▼鷲ノ山-登山道、登山道の地蔵(石仏)

 

▼鷲ノ山-休憩中のakijii、鷲峰寺への方向標識

 

▼鷲ノ山-第一ピークの標識、倒木した松

  

▼鷲ノ山-中腹からの府中湖

▼鷲ノ山-西方面の高速道路

▼鷲ノ山-飯野山の望遠景、府中湖の望遠景

 

▼鷲ノ山-第二ピークの標識、六ツ目山他の山々と国分寺町の街並み

 

▼鷲ノ山-赤松、黒松

 

▼鷲ノ山-第三ピークの標識、祠

 

▼鷲ノ山-尾根、頂上が近い

 

 

なお、鷲ノ山の頂上(322m)は、鷲峰寺の南約800mの所にあり、戦国時代の新名氏の居城である。堀切や土橋状の遺構がみられる。鷲山城は、応安元年(1368年)に藤原光業によって築かれたと云われる。藤原氏は後に新名氏(高田氏)を名乗った。天正7年(1579年)長宗我部軍による中讃一帯の攻略が始まり、鷲山城主の新名内膳助も長宗我部氏に降った。天正11年(1583年)新名氏は長宗我部氏に討たれ、入交孫右衛門が鷲山城主となったが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐で土佐に退去した。

 

▼鷲ノ山-いよいよ頂上、頂上標示板と四等三角点

▼鷲ノ山-頂上の西方向、北(瀬戸内海)方向

 

▼鷲ノ山-頂上の東方向、南方向

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

20.正花寺  <撮影:2016.04.22>

正花寺(しようけじ)の木造菩薩立像は、身の丈139センチの木彫り像で、香川県最古の美しい像である。

頭体部と台座の蓮肉まで共木で造り出す方法や、その姿が奈良の唐招提寺の衆宝王菩薩立像に非常に似ている。大ぶりな髪型や腰に石帯と呼ばれる帯を締め、そこにわずかに裳の折り返しを表現している所、衣の襞の意匠や彫り口など極めてよく似ている。しかし、唐招提寺像は大ぶりで唐風が顕著な彫刻であるが、正花寺像はやや和風化され、顔の表情や肉取りが穏やかである。造像は奈良時代末頃と考えられる。奈良時代後期、一木造りというまったく新しい手法による造像が唐招提寺などで始まり、やがて平安時代になると多く造られるようになった。

正花寺像は、木彫時代の草創を飾る仏像としても、彫刻史上意義のある仏像である。 (高松市HP)

 

<所在地・外観>

正花寺-高松市西山崎町1324

▼正花寺-讃岐を代表する菩薩像、唐招提寺)との関連

 

 

高松市内から国道32号線を南西へ進み、県道44号線との交差点を横断し、県道44号線を北西方向に進むと左側に網敷天満神社の御旅所がある。そこを左折して網敷天満神社の一の鳥居を潜り参道を進み、二の鳥居の手前を右折して進むと、「正花寺」(高野山真言宗)が見えて来る。

正花寺は、もと松慶寺の子院であったと云う。

 

<概 要><歴史遺産>

▼網敷天満宮の一の鳥居、左に大石神社「大石さんのムクノキ」

 

▼堂山の全景、網敷天満宮の社標と二の鳥居

 

▼現在地の案内図(堂山登山道ハイキングコース) 、正花寺に着いた

 

 

▼正花寺-1

 

▼正花寺-2

 

▼正花寺-3

▼正花寺-4

 

 

正花寺に所蔵されている「木造菩薩立像」(国重文)は、何菩薩と特定していないのは、腕が後補で姿が解らないためである。

 

▼正花寺-木造菩薩立像(web引用-水彩画風変換)

 

▼正花寺-木造菩薩立像-リビング高松掲載、淡交社刊掲載(web引用-水彩画風変換)

 

 

伝衆宝王(しゅうほうおう)菩薩立像や獅子吼(ししく)菩薩立像とは、酷似している。

 

▼伝獅子吼菩薩立像、伝衆宝王菩薩立像(web引用-水彩画風変換)

 

 

この近似性を考える時、手掛かりになるのは、西山崎町辺りが奈良時代に讃岐国香川郡中間(なかつま)郷であった事である。752(天正勝宝4)年10月20日の造東大寺司牒(ぞうとうだいじちょう)に、東大寺に施入する讃岐の封戸(ふこ)3郷(150戸)の1つとして中間郷の名前があがっている。また779(宝亀10)年には、唐招提寺に封戸が施入されている。これらの事から、奈良の地と中間郷の結び付きが解るので、仏像もその影響を受けたものと考えられる。

 

<関連遺産>

正花寺の北約1kmの所で産業道路の延長に伴う「川原遺跡」の発掘調査が行われた際、東西に走る南海道の跡が出土した。

 

▼川原遺跡-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼川原遺跡-2(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

親水公園から見る新居宮池と火ノ山・十瓶山・鷲ノ山の日替わり4景。

 

 

水上展望台の姿を鮮明に映す穏やかな宮池の水面。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-095  Orignal掲載日:Vol.163 (2013.01.15)

「職人の時代」が戻って…。

 

いま、終身雇用が保証されなくなり、倒産や合併によるリストラも常態化している。

天変地異も含めて、明日何が起こるか解からない。かつての優良企業の消滅、最近まで就職人気の上位だった日本航空の経営破綻(現:再建完了)、安定企業とされてきた東京電力の苦境…、誰が予測できただろうか。

 

歴史を振り返ると江戸時代には、個人経営の職人や商人たちが生き生きと活躍した成熟期があった。しかし、明治の近代化以降、急激な経済成長と生産手段の巨大化によって、労働者のサラリーマン化が進み、組織人の時代が到来した。今後の日本社会は「成長」ではなく再び「成熟」へ向かうだろう。

 

人工減少で経済成長は鈍化する。世界中の労働者と競争しなければならないようなグローバル時代に突入している一方で、ITなどの生産手段は小型化・安価化がますます進み、働き手個人の自由度は増し続ける。一部の企業は国際競争を勝ち抜くべくますます巨大化し、それに押し潰されるように多数の会社は吸収合併や倒産に追い込まれるだろう。

 

他方では、多種多様で細やかで流動的なニーズに応える小規模ビジネスの担い手、フリーランサーたちが増えていく。彼らは、場合によっては巨大企業とも連携しながら、基本的には小回りのきく個人単位で働き続ける。今後、日本に再びフリーランサーという名の「職人の時代」が戻ってくるだろう。厳しくも自由な時代の到来だ。


フリーランサーとは、自分のやりたいこととやるべきことを知っていて、世間的な「生活レベル」にこだわらず、専門能力を発揮して必要な収入を稼ぎ続けている人たちで、マイペースで気ままな生活をしている彼らを呼ぶ。

フリーランサーは、大きく3つに分類できる。

1.フリーランス会社員→よりよい職場と仕事を求めて、職業能力を高めながら、自由に転職ができる会社員。

2.個人事業主→特定の組織に雇われずに、様々なプロジェクトに参加し、自分の専門能力を売る。

3.ミニ企業の経営者→必要に応じて人を雇ったり、仕事を外注するなどして、一人ではできないビジネスをする。

 

普通に勉強して就職さえすれば、長期雇用が保証され、給料は自動的に上がり、結婚して家を買えて子供を育てられる時代は二度とやってこない。だからこそ、今までの暮らし方と働き方を大きく見直し、自衛しなければならない

一度きりの人生を楽しく豊かに過ごすために。

 

20代、30代のうちから心掛ければ誰でもできる生き方の実践で、会社員のままでも構わない。

結果的に何十年も同じ会社で働くとしても、実績と能力さえあれば、会社と対等な大人の関係を築き続ける「フリーランス会社員」になれる

 

フリーランスとは会社組織に属さないで自分が経営者となって仕事を行うことで、フリーターと近いが、フリーターよりも専門性が強く、一つのジャンルの仕事に優れている。例えばカメラマンなどはフリーランスの人が多数いる。

自称フリーランサーの著者(30後半)は、「あした会社がなくなっても生きていく…」でこの考え方を述べているが、明日からの生き方をゆっくりと考えてみては如何だろうか。

 

 

<高くがる空間>

ウォーキングコースから見るだんご山3兄弟と堂山の上空。

ことでん三条駅(上之町)構内の上空。

トキワテニスクラブ(今里町)の上空。

今里中央公園(今里町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースのSi宅の鉢に咲くペチュニア

◇ウォーキングコースのKi宅に咲くタカサゴフヨウ

 

◇ウォーキングコース脇の畑に咲くセロシアシャロン

 

◇ウォーキングコース脇の畑に咲く夾竹桃(キョウチクトウ)

 

◇ウォーキングコース脇の空地の初雪草(ハツユキソウ)

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<県立武道館高松競輪場船の体育館  

高松競輪場

昭和25年に完成した当初は一周333.1mバンクであったが、昭和46年に400mバンクに改修された。
33バンクのなごりか傾斜(カント)をきつく感じる選手も多いが直線距離も長くクセのない走路となっている。
観戦ポイントは特別観覧席の中央あたりがベスト。ゴール際の激戦がクリアに見ることができ、初心者には特におすすめ。

 

香川県立武道館

柔道、剣道、弓道、なぎなた等の利用ができる施設として、昭和41年に竣工しました。各種競技会場に利用されるとともに、初心者のために武道教室を開催したり、土用げいこ、寒げいこを実施したりするなど、武道の普及に努めている。

 

船の体育館(旧県立体育館)

世界的な巨匠建築家・丹下健三の代表作の一つとして有名な「旧香川県立体育館」。1964年に完成し、約60年の時を経て、県が2023年2月に解体の方針を示した。閉館から6年が経った2021年、香川県教育委員会は民間業者の委託や提案を把握する「サウンディング型市場調査」を実施。しかし有効な方策はなく、解体の方針が示された。

建築的な価値が高く、地域のシンボル的存在として、地元の建築家や市民から愛されている旧香川県体育館。

その圧倒的なスケールやデザインは多くの人々を魅了しており、建物の保存を求める声も多く上がっていた。

船の体育館の解体を巡っては、計画を作るための入札が2度にわたり不調に終わり、今回随意契約で高松市の森勝一設計事務所に決まり、策定される計画をもとに解体を実施するための入札が行われる。

そんな中、旧香川県立体育館に代わる施設「新香川県立体育館」は、現在高松市サンポートにて建設中です。2025年3月に開業予定で、単なるスポーツ施設にとどまらず、香川のにぎわい創出の拠点となるように作られている。

(新香川県立体育館=あなぶきアリーナ香川については、Vol.980:24.07.30を参照ください)

 

▼所在地、高松競輪場

高松市福岡町:〒760-0066

 

▼武道館、旧香川県体育館

 

 

▼バス停「城東町」で降車、瀬戸大橋通りを東へ進む-1(旧香川県体育館へ向かう:約0.8km)

 

▼瀬戸大橋通りを東へ進む-2(左奥に県立中央病院と右奥に高松競輪場):福岡町に入った、左奥に四国ドックが見える

 

▼左奥の県立中央病院、右奥の高松競輪場

 

▼高松競輪場のスケッチに寄る、高松競輪場のスケッチ-1

 

▼瀬戸大橋通りを南に横断、高松競輪場のスケッチ-2

 

▼瀬戸大橋通りの南側を東に進む-1

 

▼瀬戸大橋通りの南側を東に進む-2、高松競輪場のスケッチ-3

 

▼瀬戸大橋通りの南側を東に進む-3、高松競輪場のスケッチ-4(駐車場)

 

▼左側の県立中央病院-1、高松競輪場のスケッチ-5

 

▼瀬戸大橋通りの南側を東に進む-4、高松競輪場のスケッチ-6

 

▼左側の県立中央病院-2、瀬戸大橋通りの南側を東に進む-5

 

▼高松競輪場のスケッチ-7、瀬戸大橋通りの南側を東に進む-6

 

▼高松競輪場のスケッチ-8、左側の県立中央病院-3

 

▼瀬戸大橋通りの南側を東に進む-7、右は日本競輪選手会香川支部事務局-奥は武道館

 

▼高松競輪場のスケッチ-9、前方右に武道館

 

▼武道館のスケッチ-1、高松競輪場のスケッチ-10

 

▼武道館のスケッチ-2

 

▼武道館のスケッチ-3、福岡町1丁目(瀬戸大橋通り)交差点を右折

 

▼武道館のスケッチ-4、セトラ高松側へ渡る(奥にホテルパールガーデン)

 

▼セトラ高松とホテルパールガーデン-1

 

▼武道館のスケッチ-5

 

▼武道館のスケッチ-6、セトラ高松とホテルパールガーデン-2

(Vol.983-2/3に続く)

 

 

<akijii展-(540)

スクラッチアート(世界の名所めぐり6点)

今報は「サグラダファミリアで、所要時間は330Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.983-2/3をご覧ください。

Vol.983-1/3に続けてご覧ください。

 

▼セトラ高松とホテルパールガーデン-3、旧香川県体育館へ進む-1(左前方に見えて来た)

 

▼高松競輪場のスケッチ-11(高松競輪場選手宿舎)、セトラ高松とホテルパールガーデン-4

 

▼高松競輪場のスケッチ-12(東入場門-1)、東入場門のズーム景

 

▼高松競輪場のスケッチ-13(タクシー・バスのりば)、バスのりばのズーム景

 

▼高松競輪場のスケッチ-14(東入場門-2)、旧香川県体育館へ進む-2(左側)

 

▼高松競輪場のスケッチ-15、旧香川県体育館の周回スケッチをスタート

 

 

▼旧香川県体育館の周回スケッチ-1、旧香川県体育館の周回スケッチ-2(正面入口)

 

▼旧香川県体育館の南側へ進む、旧香川県体育館の周回スケッチ-3

 

▼旧香川県体育館の周回スケッチ-4

▼高松新浜塩田の説明板、松島地区史跡案内図

 

▼旧香川県体育館の周回スケッチ-5、旧香川県体育館の南から東側へ進む

 

▼旧香川県体育館の周回スケッチ-6

 

▼旧香川県体育館の周回スケッチ-7

 

▼旧香川県体育館の周回スケッチ-8、旧香川県体育館の東から北側へ進む

 

▼旧香川県体育館の周回スケッチ-9

 

▼旧香川県体育館の周回スケッチ-10

 

▼旧香川県体育館の周回スケッチ-11

 

▼旧香川県体育館の周回スケッチ-12、松福町の妙本寺へ向かう(約0.5km)

 

 

▼高松競輪場のスケッチ-16、福岡町を南に進む

 

▼次の交点を右折、福岡町を西に進む-1

 

▼高松競輪場のスケッチ-17、福岡町を西に進む-2

 

▼高松競輪場のスケッチ-18(パノラマ景)

▼福岡町を西に進む-3、高松競輪場のスケッチ-19

 

▼福岡町を西に進む-4

 

▼福岡町を西に進む-5、左側の電柱の角を左折し松福町へ入る

 

(次報Vol.984に続く)

 

引き続き、Vol.983-3/3をご覧ください。

Vol.983-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:11<一神社

17.一瀬神社  <撮影:2018.06.04>

一瀬(いちのせ)神社の社叢には学術上価値の高い植物が多い。この森を構成する樹木は、アラカシ・ヤブニッケイ・ナナメノキ・バクチノキ・クスドイゲ・クスノキ・クロマツ・ヒノキ・クヌギ・ムクロジ・エノキ等である。なかでもバクチノキは、弥谷(いや)山(多度津町・善通寺市・三野町の境界)に数本あるが、この社叢(しゃそう)には数多く、胸高幹周(むねたかみきまわ)り90cmの大樹もある。バクチの木の意味は、この樹皮(じゅひ)が脱落することから、博奕(ばくち)に負けて金銭を失い裸(はだか)になるのに似ているのでこの名が付く。

また、ムクロジは目通り幹周り4.1m、樹高27mと県下最大である。昔、この果実の黒い種子は羽根突きの球となり、果皮は石けんの代用として使っていた。樹木のほか、下草(したくさ)にホソバカナワラビ、イズセンリョウ等もあり、この社叢は高松周辺の古い自然を伝える森として貴重である。     (高松市HP)

 

<所在地・外観>

▼一瀬神社-高松市中山町1202-1

▼一瀬神社-マツが主体となる前の、植物相の原風景

 

 

JR高松駅から「ことでんバス」に乗り、バス停「根香口」で降車し、県道6号線を東に少し進み直ぐに右折、一般道を南下して県道161号線(さぬき浜街道)を南に潜り、住吉川に沿って約700m進むと一瀬神社の入口に着く。

 

▼バス停「根香口」、一般道を南下-前方奥に青峰

 

▼県道161号線との立体交差点地点(左→右へ進む)、一般道を南下

 

▼住吉川沿いに南に進む-1

 

▼住吉川沿いに南に進む-2、右側に一瀬神社の森

 

▼一瀬神社の入口、一瀬神社に着いた

 

 

目の前の鬱蒼とした森が、「一瀬神社社叢」(県天然)である。

 

<概 要><歴史遺産>

▼一瀬神社-天然記念物碑、社叢の説明板

 

 

生えている主な植物の中で、特にバクチノキは県内稀種に属し、薬用として栽培されたとも云う。

ムクロジも、本県最大である。

周囲約1.3m・高さ約25mのフジも有り、社殿北側のクスノキに絡みつき、綺麗な花を付ける。

 

▼一瀬神社-社叢1

 

▼一瀬神社-社叢2

 

▼一瀬神社-社叢3

 

▼一瀬神社-社叢4

 

▼一瀬神社-社叢5

 

▼一瀬神社-社叢6

 

▼一瀬神社-社叢7

 

▼一瀬神社-社叢8

 

 

現在、高松市の辺りは松林が主な樹木と成っているが、かつてはこの社叢のような姿であった事が偲ばれる。また、下草はほとんどホソバカナワラビであって、これほど広く密生する所は珍しい。

 

▼一瀬神社-下草

 

 

「一瀬神社」は、社伝によれば、智証大師(円珍)が根香寺(中山町)を開いた時に建てられたと云う。

 

▼一瀬神社-1

 

▼一瀬神社-2

 

▼一瀬神社-3

 

 

また、円珍は市之瀬明神のお告げに依って根香寺の千手観音を刻んだとも云う。

 

▼根香寺の千手観音(web引用-水彩画風変換)

 

この社叢が今日まで保存された理由は、根香寺と一体の聖域とされた事であろう。

 

▼根香寺-山門

 

▼根香寺-本堂、大師堂

 

 

根香寺周辺を含む青峰(あおみね)が開墾され始めたのは、第二次世界大戦後の事である。

 

▼青峰の山容

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

新居宮池親水公園から見る宮池とだんご山3兄弟9景。

  

  

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-094  Orignal掲載日:Vol.161 (2013.01.05)

開物成務。

 

開物成務(かいぶつせいむ)、易経の言葉であるが、物を開き、務めを成す。

「ものを開発し、すべての仕事を成し遂げさせる」意と解説にある。

 

環境、状況、事柄、人事---自分の周囲にある「物」を開いて、すなわち開発し、あるいは変革し、あるいは打破して、自己の成すべき務めを果たしていく。

さらに、自分の運命を完成させていく。それが人生を生きる秘訣であることを、この四文字熟語は教えている。

 

作者は不明とのことだが、開物成務の心得が説かれた詩を紹介します。

生涯の旅路

私は私の一生の旅路において、今日というこの道を再び通ることはない。

二度と通ることはない。

二度と通らぬ今日というこの道、どうしてうかうか通ってなろう。

笑って通ろう、歌って過ごそう、二度と通らぬ今日というこの道。嘲笑されて、そこで反省するのだよ。叱られて、そこで賢くなるのだよ。叩かれて、そこで強くなるのだよ。

一輪の花でさえ、風雨をしのいでこそ、美しく咲いて薫るのだ。

侮辱されても笑ってうけ流せ。蹴倒されても歯をくいしばって忍べ。

苦しいだろう、くやしいだろう。

しかし君、この道は尊いといわれた人たちが、必ず一度は通った道なんだ。

 

 

<高くがる空間>

ことでん伏石駅(伏石町)の上空。

伏石神社(伏石町)の上空。

伏石中央公園(伏石町)の上空。

蓮池(伏石町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースの各所に咲くタカサゴユリ(高砂百合)

ウォーキングコースの高砂百合

 

台湾を原産としてイギリスに導入され、20世紀初頭に園芸用に移入された帰化植物である。

庭園や切り花用に栽培されてきたが、種子の発芽から6カ月で開花するため、近年各地で野生化して道ばたや堤防法面などで繁殖している。

優美な曲線を描く花弁と、中心から放射状に伸びる花柱が特徴的で見る者を魅了する。

 

開花時期は7月から9月頃までがそのピークとされ、この期間中、山間部や湿地帯を歩くと、ピンクから白にかけての美しい花々を目にする事が出来る。

花言葉は、繊細な花びらが、無垢で高貴なイメージを与え、多くの人々に深い感動をもたらしている事から「純粋な愛」と「高貴」である。

宮池遊歩道の山間の高砂百合

 

 

◇ウォーキングコース脇のNk宅のルドベキア(大きさは1立方m)

 

◇ウォーキングコースの山裾に咲く仙人草(センニンソウ)

 

◇町並巡りで出会ったモミジアオイ白

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<㈱マキタ・四国ドック㈱・県立中央病院  

㈱マキタは、型外航船向けエンジンの市場で世界シェア40%を占めています。
2011年以来、世界No.1のポジションを譲ったことがなく、経済産業省が世界市場で目覚ましい活躍を見せる企業を顕彰する「グローバルニッチトップ企業100選」に選定されています。
船舶用エンジンの設計を行うエンジンライセンサーは世界に3社のみ。当社は、小型外航船向けエンジンの部門でシェア90%を占めるドイツのMAN Energy Solutionsとのサブライセンス契約のもとエンジンを製造しています。(マキタHP)

四国ドック㈱は、昭和2年(1927年)の創業以来、ここ香川の地で約100年間にわたり技術と技能を培ってきました。 また時代を先取る技術革新も積極的に進めており、数多くの優れた高付加価値船舶を世界の海に送り出してきました。2019年には当社の冷凍貨物船が「シップ・オブ・ザ・イヤー2018」の大型貨物船部門賞を受賞しました。技術的・芸術的・社会的に優れた船舶であると、お客様からも高く評価されています。 (四国ドックHP)

香川県立中央病院は、高度急性期に特化した病院であることから、より重篤な患者の方々を多く受け入れ、人的資源や医療資源をより効果的・重点的に投入することが求められます。新病院では、引き続き三次救急医療を行うため、1階に救命救急センターを配置し、エレベーターで直結した3階には手術室、ICU、新たにHCU(ICUに準じた機能を持つ病室)を拡充し、重篤な救急患者を治療します。また、日常的な診療や健康相談などは、お近くに「かかりつけ医」を持っていただくようお願いします。中央病院で治療の必要があれば、かかりつけ医が中央病院に連絡し、診療予約を行います。

この制度を利用すれば、よりスムーズな受診が出来ますので、ご理解とご協力をお願いします。
今後も安全・安心な医療を提供し、県民の皆さんの信頼に応えていきます。(中央病院HP)

 

▼所在地、太陽光発電所と奥に高松シンボルタワー

高松市朝日町:〒760-0065

 

▼㈱マキタ、四国ドック㈱と㈱マキタ

 

▼四国ドック㈱、県立中央病院

 

 

▼朝日新町を後にして朝日町へ進む、朝日町に入った

 

▼朝日町石油基地の入口へ向かう(約0.3km)、朝日町を南に進む-1

 

▼若宮産業㈱、朝日町を南に進む-2

 

▼朝日町を南に進む-3、正面奥に四国ドックとマキタ(次のT交点を右折)

 

▼朝日町石油基地の入口へ進む、若宮産業㈱朝日町山内油槽所

 

▼南奥に四国ドックとマキタ、朝日町石油基地の入口に着いた

 

▼朝日町石油基地配置図、出光興産高松アスファルト基地・四国ガス

 

▼太陽光発電所と奥に高松シンボルタワー、太陽光発電所と奥に高松シンボルタワーのズーム景

 

▼朝日町石油基地入口から見る西南方向のパノラマ景

▼朝日町のメイン南北の道路へ進む-1、右(南)側にマキタと四国ドック-1

 

▼朝日町のメイン南北の道路へ進む-2、右(南)側にマキタと四国ドック-2

 

▼朝日町のメイン南北の道路へ進む-3、次のT交点を右折

 

▼左奥に宮脇カルチャースペースのかさあげ型観覧車が見える、観覧車のズーム景

 

▼右奥にマキタ、T交点を右折しメイン南北の道路に入る

 

(Vol.982-2/に続く)

 

 

<akijii展-(539)

スクラッチアート(世界の名所めぐり6点)

今報は「タマハルで、所要時間は335Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.982-2/3をご覧ください。

Vol.982-1/3に続けてご覧ください。

 

▼朝日町のメイン南北の道路を南に進みマキタと四国ドックをスケッチ、マキタ(東側)のスケッチ-1

 

▼朝日町のメイン南北の道路を南に進む-1、マキタ(西側)のスケッチ-2

 

▼マキタ(西側)のスケッチ-3、朝日町のメイン南北の道路を南に進む-2

 

▼マキタ(西側)のスケッチ-4、マキタ(東側)のスケッチ-5

 

▼朝日町のメイン南北の道路を南に進む-3、四国ドックのスケッチ-1

 

▼四国ドックのスケッチ-2、マキタ(東側の後方)のスケッチ-6

 

▼四国ドックのスケッチ-3、四国ドックとマキタ(西側)のスケッチ-1

▼四国ドックのスケッチ-4、マキタ(東側のスケッチ-7

 

▼四国ドックのスケッチ-5、四国ドックとマキタ(西側)のスケッチ-2

 

▼四国ドックのスケッチ-6

 

▼四国ドックのスケッチ-7、朝日町のメイン南北の道路を南に進む-4

 

▼四国ドックのスケッチ-8

 

▼四国ドックのスケッチ-9

 

▼四国ドックのスケッチ-10

 

▼四国ドックのスケッチ-11、朝日町のメイン南北の道路を南に進む-5

 

▼四国ドックのスケッチ-12

 

 

▼朝日町のメイン南北の道路を南に進む-6(次の交差点右折)、交差点を右折(正面は県立中央病院)

 

▼朝日町を西に進み帰路のバス停「県立中央病院」へ向かう(約0.6km)、朝日町を西に進む-1(右に四国ドック)

 

▼四国ドックのスケッチ-13、四国ドック神社

 

▼朝日町を西に進む-2(右に四国ドック)

 

▼左(南)に県立中央病院、県立中央病院のズーム景

 

▼朝日町を西に進む-3(右に四国ドック)、左へカーブ

 

▼県立中央病院の北西角から見る西東方向のパノラマ景

▼海沿いに南に進む、県立中央病院の緑地へ入る

 

▼県立中央病院の緑地の小径を南方向に進む-1

 

▼県立中央病院の緑地小径から見る東方向のパノラマ景

▼県立中央病院、県立中央病院の緑地の小径を南方向に進む-2

 

▼県立中央病院の緑地小径から見る西(高松市東部漁協)方向、西(城東町)方向

 

▼県立中央病院の外来駐車場入口に着いた、バス停「県立中央病院」へ進む-1

 

▼後方振り返る、バス停「県立中央病院」へ進む-2

 

▼バス停「県立中央病院」へ進む-3

 

▼左(北)は外来駐車場出口と奥に四国ドック、バス停「県立中央病院」へ進む-4

 

▼バス停「県立中央病院」へ進む-5

 

▼バス停「県立中央病院」に着き帰宅の途に就いた、バス停から見る屋島

 

 

引き続き、Vol.982-3/3をご覧ください。