Vol.984-3/4 R巻頭-96。歴史(観て歩き)レポ-県都編12<根香寺・鷲峰寺・正花寺> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.984-2/4に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:12根香寺・鷲峰寺・正花寺

18.根香寺 <撮影:2012.11.19>

根香寺(ねごろじ)は、五色台の青峰山中にある天台宗単立の寺院。本尊は千手観音。四国八十八箇所霊場の第八十二番札所。寺伝によれば、空海(弘法大師)が弘仁年間(810年-824年)にこの地を訪れ五色台の五つの峰に金剛界の五智如来を感得し密教の修行にふさわしい台地であるとし、その一つである青峰に一宇を建立し五大明王を祀り「花蔵院」と称し、衆生の末代済度を祈願する護摩供を修法したと伝えられている。

その後、円珍(智証大師)が天長9年(832年)に訪れたさい、山の鎮守である市之瀬明神の化身の老翁に、蓮華谷の霊木で観音像を造り観音霊場の道場をつくるよう告げられた。すぐさま円珍は、千手観音像を彫像し「千手院」を建てて安置した。この霊木は香木で切り株から芳香を放ち続けたことから、この2院を総称して根香寺と呼ばれるようになったという。

後白河天皇から勅願所として帰依も厚く繁栄したが、戦国時代には兵火にあい衰微した。しかし、慶長年間に高松城主・生駒一正が復興、さらに寛文4年(1664年)高松藩初代藩主松平頼重が再興した。

なお、このとき真言宗から天台宗に改宗された。

江戸時代の初め頃、この地には牛鬼がいて人や家畜に危害を加えていた。そこで弓の名手であった山田蔵人高清に退治を依頼した。高清は3本の弓で見事に牛鬼を退治した。高清は退治した牛鬼の角を切り取り、根香寺に奉納し菩提を弔ったと伝えられている。現在、根香寺にはその牛鬼の角と呼ばれるものと、牛鬼の姿が描かれた掛け軸が伝わっている。 (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

▼根香寺-高松市垂水町1412-2

▼根香寺-千手観音を本尊とする、五色台の山岳仏教寺院

 

五色台の地名は、山岳仏教の陰陽五行(いんようごぎょう)の考え方に由来する。

根香寺はその内の西峰にある。

 

 

 

根香寺へは県道16号線の下笠居支所前交差点を南へ曲がって、備讃瀬戸の海を一望しながら舗装された坂道を上り、標識に従って左に折れ、入って行くと山門に着く方法が一般的ではあるが、私はJR鬼無駅から、遍路道を通り、赤子谷を経由して「根香寺」まで行った。

 

▼JR鬼無駅をスタート、標高と距離(時間)

 

▼左折して山麗へ、遠くに青峰が顔を出している

 

▼坂道を上る、誠陵中高校を右にみながら直進

 

▼Organic farm角を左折、盆栽通り角を右折

 

▼眼下に高松西高・神高池・袋山と奥に高松クレーター5座が見える、遍路道を通る

 

▼再び車道へ出る、青峰が迫ってくる

 

▼赤子谷の三叉路を直進-左前方奥が串ノ山、右折して桑崎池へ

 

▼見えて来た桑崎池と下笠居の街並みと紅峰、桑崎池と串ノ山

 

▼右方に瀬戸内海と屋島、左折して四国のみち(遍路道)へ

 

▼遍路道に入る、休憩所の様子と奥に勝賀山

 

▼休憩所から見る串ノ山・紅峰と瀬戸内海、遍路道の入口の柵

 

▼遍路道-1

 

▼遍路道-2

 

▼遍路道のベンチで一息のakijii、根香寺の駐車場の指導標

 

 

<概 要><歴史遺産>

山門まで来ると根香寺全体が木々に囲まれ、静寂な雰囲気になる。

 

▼根香寺-山門

 

▼根香寺-参道

 

▼根香寺-水かけ地蔵、手水場

 

▼根香寺-延命地蔵尊、梵鐘

 

▼根香寺-本堂、大師堂

 

▼根香寺-千手観音堂、五大堂

 

▼根香寺-白猴欅(はっこうけやき)樹齢1600年、役の行者像

 

▼根香寺-牛鬼

 

 

初め円珍が刻んだ千手観音を本尊にしていたと云うが、1585(天正13)年兵火にかかって焼けた。

今の本尊は、末寺の吉水寺(よしみずでら)から移した、同じく円珍作と伝える「木造千手観音立像」(国重文)である。高さ163cm、サクラの一木造で頭上に十一面が表され、手は全部で42ある。全身重厚で裳には翻波(ほんば)式の襞(ひだ)が見られ、一見したところ貞観(じょうがん)彫刻のようである。しかし、この仏像はひび割れを防ぐため、荒堀りした後、前後に割って内刳(うちぐ)りをし、再び矧ぎ合わせる割矧ぎ法という作り方をしているので、平安時代初期の一木造から中期(藤原時代)の寄木造へと発展していく過渡期の物とみる事が出来る。

 

また護摩堂には、不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の「木造五大尊像」(県文化)が祀られ、いずれも険しい形相で、密教の厳しさを示している。

 

▼木造千手観音立像、木造五大尊像(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.984-4/4をご覧ください。