Vol.984-3/4に続けてご覧ください。
<19.鷲峰寺> <撮影:2011.02.05 and 2015.08.11>
鷲峰寺(じゅうぶじ)は天台宗の寺院。山号は圓通山。本尊は千手千眼観世音菩薩。
四国八十八箇所第八十二番札所根香寺奥の院、新四国曼荼羅霊場第十三番札所。
寺伝によれば、奈良時代の天平勝宝6年(754年)唐僧・鑑真(がんじん)により建立されたという。鑑真は寺院がある山がインドの霊鷲山に似ていることから釈迦如来像を安置し鷲峰寺と名付けたと言われる。平安時代前期の貞観2年(860年)円珍により智証大師十七檀林の一つとして清和天皇の勅願寺となった。戦国時代の天正年間(1573年-1593年)長宗我部元親軍の侵攻により伽藍は火災に遭い焼亡した。その後、寺院は荒廃し仏堂が置かれるのみとなっていた。江戸時代前期の寛文元年(1661年)高松藩主松平頼重が寺院の復興を命じ、三井寺の観慶阿闍梨を中興1世の住持として迎えた。延宝4年(1676年)に伽藍が再建された。 (Wikipediaより)
<所在地・外観>
▼鷲峰寺-高松市国分寺町柏原632-3
▼鷲峰寺-大和西大寺末寺柏原堂の発展
円通山「鷲峰寺」は、JR国分駅の南約1.7kmの所にある。
<概 要><歴史遺産>
▼鷲峰寺-県道183号線沿いの寺標
▼鷲峰寺-門前、案内板
▼鷲峰寺-山門
▼鷲峰寺-参道1、鐘楼
▼鷲峰寺-地蔵堂、四天王収蔵庫
▼鷲峰寺-参道2、石段
▼鷲峰寺-本堂
持国天・増長天・広目天・多聞天の「木造四天王立像」(国重文)が安置されている。
いずれも玉眼・寄木造で、鎌倉時代末期の優作である。
鎌倉時代には古像を摸す事が行われており、本像もその1例である。
元に成ったのは、奈良興福寺北円堂の四天王像(791年、奈良時代末期)とみられ、よく似ている。
▼木造四天王立像-1(web引用-水彩画風変換)
▼木造四天王立像-2(web引用-水彩画風変換)
鷲峰寺の前身柏原堂の名は、鎌倉時代末期の文献に登場し、1306(嘉元4)年10月には西大寺長老信宮が開山供養のために訪れている。
当時、讃岐国分寺と共に復興された鷲峰寺は、真言律宗として発展した。
本堂の左側から裏山(鷲ノ山)に上がって行くと、新四国88カ所の石仏があり、途中の山頂からは瀬戸内海が遠望できる。
<関連遺産>
▼鷲ノ山-登山口、登山道入口(新四国二十四輩道)
▼鷲ノ山-登山道、登山道の地蔵(石仏)
▼鷲ノ山-休憩中のakijii、鷲峰寺への方向標識
▼鷲ノ山-第一ピークの標識、倒木した松
▼鷲ノ山-中腹からの府中湖
▼鷲ノ山-西方面の高速道路
▼鷲ノ山-飯野山の望遠景、府中湖の望遠景
▼鷲ノ山-第二ピークの標識、六ツ目山他の山々と国分寺町の街並み
▼鷲ノ山-赤松、黒松
▼鷲ノ山-第三ピークの標識、祠
▼鷲ノ山-尾根、頂上が近い
なお、鷲ノ山の頂上(322m)は、鷲峰寺の南約800mの所にあり、戦国時代の新名氏の居城である。堀切や土橋状の遺構がみられる。鷲山城は、応安元年(1368年)に藤原光業によって築かれたと云われる。藤原氏は後に新名氏(高田氏)を名乗った。天正7年(1579年)長宗我部軍による中讃一帯の攻略が始まり、鷲山城主の新名内膳助も長宗我部氏に降った。天正11年(1583年)新名氏は長宗我部氏に討たれ、入交孫右衛門が鷲山城主となったが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐で土佐に退去した。
▼鷲ノ山-いよいよ頂上、頂上標示板と四等三角点
▼鷲ノ山-頂上の西方向、北(瀬戸内海)方向
▼鷲ノ山-頂上の東方向、南方向
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
<20.正花寺> <撮影:2016.04.22>
正花寺(しようけじ)の木造菩薩立像は、身の丈139センチの木彫り像で、香川県最古の美しい像である。
頭体部と台座の蓮肉まで共木で造り出す方法や、その姿が奈良の唐招提寺の衆宝王菩薩立像に非常に似ている。大ぶりな髪型や腰に石帯と呼ばれる帯を締め、そこにわずかに裳の折り返しを表現している所、衣の襞の意匠や彫り口など極めてよく似ている。しかし、唐招提寺像は大ぶりで唐風が顕著な彫刻であるが、正花寺像はやや和風化され、顔の表情や肉取りが穏やかである。造像は奈良時代末頃と考えられる。奈良時代後期、一木造りというまったく新しい手法による造像が唐招提寺などで始まり、やがて平安時代になると多く造られるようになった。
正花寺像は、木彫時代の草創を飾る仏像としても、彫刻史上意義のある仏像である。 (高松市HP)
<所在地・外観>
▼正花寺-高松市西山崎町1324
▼正花寺-讃岐を代表する菩薩像、唐招提寺)との関連
高松市内から国道32号線を南西へ進み、県道44号線との交差点を横断し、県道44号線を北西方向に進むと左側に網敷天満神社の御旅所がある。そこを左折して網敷天満神社の一の鳥居を潜り参道を進み、二の鳥居の手前を右折して進むと、「正花寺」(高野山真言宗)が見えて来る。
正花寺は、もと松慶寺の子院であったと云う。
<概 要><歴史遺産>
▼網敷天満宮の一の鳥居、左に大石神社「大石さんのムクノキ」
▼堂山の全景、網敷天満宮の社標と二の鳥居
▼現在地の案内図(堂山登山道ハイキングコース) 、正花寺に着いた
▼正花寺-1
▼正花寺-2
▼正花寺-3
▼正花寺-4
正花寺に所蔵されている「木造菩薩立像」(国重文)は、何菩薩と特定していないのは、腕が後補で姿が解らないためである。
▼正花寺-木造菩薩立像(web引用-水彩画風変換)
▼正花寺-木造菩薩立像-リビング高松掲載、淡交社刊掲載(web引用-水彩画風変換)
伝衆宝王(しゅうほうおう)菩薩立像や獅子吼(ししく)菩薩立像とは、酷似している。
▼伝獅子吼菩薩立像、伝衆宝王菩薩立像(web引用-水彩画風変換)
この近似性を考える時、手掛かりになるのは、西山崎町辺りが奈良時代に讃岐国香川郡中間(なかつま)郷であった事である。752(天正勝宝4)年10月20日の造東大寺司牒(ぞうとうだいじちょう)に、東大寺に施入する讃岐の封戸(ふこ)3郷(150戸)の1つとして中間郷の名前があがっている。また779(宝亀10)年には、唐招提寺に封戸が施入されている。これらの事から、奈良の地と中間郷の結び付きが解るので、仏像もその影響を受けたものと考えられる。
<関連遺産>
正花寺の北約1kmの所で産業道路の延長に伴う「川原遺跡」の発掘調査が行われた際、東西に走る南海道の跡が出土した。
▼川原遺跡-1(web引用-水彩画風変換)
▼川原遺跡-2(web引用-水彩画風変換)
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀