Vol.989-2/3に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-県都編:17<由佐城跡>
<25.由佐城跡 > <撮影:2013.07.01 and 2015.09.22 and 2019.05.15>
由佐城(ゆさ)は由佐氏の居城で、東は香東川、西に沼地の多い自然を巧みに利用した要塞です。天正11年(1583)長宗我部元親軍が攻め入ったが容易に落城しなかったと伝えられる堅城でした。由佐家にのこる由佐家文書のなかに「由佐城絵図」があり、それによりますと香東川の西岸に柳並木があり、それに接して「下之城」があり、その西に内堀を隔てて「上之城」が設けられていました。上之城を中心に周囲16町ばかりの中を外堀、内掘によって仕切り、各地区は橋で結ばれ、外との連絡も南、北、西に設けられた橋によって行われていたことがわかります。城内には土塁が築かれ、櫓もあったそうです。由佐家の居宅とした屋敷内には内堀、土塁跡を見ることができたそうです。今でも香南歴史民俗郷土館の敷地内、庭園西側には土塁の跡が残されています。周囲には南門という地名も伝えられています。
由佐氏は俵藤太藤原秀郷の末裔で、もとは下野国益子(今の栃木県芳賀郡益子町)に住み「益子」を姓としていました。秀郷の子孫に益子下野守顕助というものがいましたが、彼は足利尊氏の部下となり新田義貞と京都東寺で戦い建武3年(1336)討死しました。顕助の子弥次郎秀助は父の手柄により、尊氏から讃岐国に井原郷(今の香南町、香川町川東、香川町川内原)を賜り、ときの讃岐守護細川頼春に従ってこの地に移りました。秀助は由佐に屋敷を構え、地名をとって姓を由佐と改め、今の鮎滝に鳥屋城を築いて守りの要塞としました。これが讃岐由佐氏の始まりです。 (高松市HP)
<所在地・外観>
▼由佐城跡-高松市香南町由佐253-1
▼由佐城鳥瞰図(出典元:余湖くんのHP)-戦国武将由佐氏の居館跡、郷土館で歴史を知る
高松市内から国道11-193号線を南に向かい、香川町川東下交差点で右(西)に曲がり県道13号線を進み、城渡(しろわたり)橋(香東川)を渡ると、右前方に天守閣を模した建物が見えてくる。
この建物が「高松市香南歴史民俗郷土館」で、敷地が「お城」と呼ばれる「由佐城跡」である。
土塁が保存され、堀は江戸時代初期に埋められた。
<概 要><歴史遺産>
▼城渡橋(香東川)の西方向に由佐城跡、県道44号線から北東方向に見る歴史民俗郷土館
▼由佐城跡-全景、城址標
▼由佐城跡-土塁
由佐の地は、阿波(現、徳島県)から讃岐に入る道筋にあたり、また讃岐の各地への分岐点でも有るので、この地を押さえる意味が有ったものと考えられる。
「由佐家文書」に依れば、1351(観応2)年、讃岐守護細川勝元から「香川郡之(の)内井原庄・安原山・大野村」を領知として安堵されている。
▼由佐家文書(web引用-水彩画風変換)
1578(天正6)~82年頃、由佐氏は阿波三好氏に従い、1582年には長宗我部氏の配下に入った。
郷土館では、由佐氏を始め、香南地方の歴史が解る資料が展示されている。また、香東川の水を利用した水車などの民俗資料や、冠纓(かんえい)神社の大獅子(県民俗)の獅子頭の1つが展示されている。
▼高松市香南歴史民俗郷土館-庭園
▼高松市香南歴史民俗郷土館-民俗展示室、獅子頭
▼高松市香南歴史民俗郷土館-町民ギャラリー、図書室
郷土館から南へ約1km行った香南町岡(おか)に、天福寺(てんぷくじ)(真言宗御室派)が有る。
<関連遺産>
この天福寺を含む丘陵地が「岡城(岡館やかた)跡」と考えられている。
▼ことでんバス停「岡」、天福寺への石段-1
▼天福寺への石段-2
▼天福寺の赤塀沿いの参道
▼天福寺-1、2:説明板
▼天福寺-2:本堂
▼天福寺-3:大師堂、鐘楼
▼天福寺-4:手水舎、5
▼天福寺-5:安倍晴明之墓、6
▼天福寺-7、8:山門
▼天福寺-9
▼天福寺-10
▼岡城(館)跡-天福寺の左に土塁状の高まり-ミニ88箇所(web引用-水彩画風変換)
▼岡城(館)跡-空堀(web引用-水彩画風変換)
▼岡城(館)跡-池、この辺りは水がある(web引用-水彩画風変換)
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
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