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のん気夫婦の中国・天津・大連生活ブログ

ご訪問、ありがとうございます!!夫&嫁で更新♪
ken(夫)は、中国でのビジネスは中国での出産(天津ローカル病院にて出産)・育児話をメインに♪

今日で最終回にしようと思う、父の旧満州国を旅するブログ!!

80年前の戦争を、思いながら、植民地建築を観て周り


大連⇒長春⇒旅順⇒瀋陽⇒丹東と最後の地にやってきた。


北朝鮮との国境である丹東市。父にとって遠い遠いとなりのとなりの

北朝鮮が、目の前30メートルに広がる。


そんな戦争時代をずっとひきづっていたこの北朝鮮の国境の

ブログを書こうととしている、さなか北朝鮮の金正日総書記の

死亡の一報が飛び込んできた。


この国は、ずっとずっとあの植民地時代を今でもひきづっている

のだと思う。時はとまったままの。。


その国の対岸から父一緒に訪れるため。


瀋陽から列車で、向かったのである。





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↑丹東駅到着。到着と同時に周りを見渡す父は

それらしい、建築群をみつけようと鼻をきかせていた。



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↑例によって、駅前広場には毛さんの像が。




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↑トゥクトゥクの3輪車でホテルへ。ゴキゲンの父。



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↑例によって、私も今回で4回目の北朝鮮と

中国を挟む鴨緑江の断橋の付近にある


平壌高麗飯店へ。



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↑北朝鮮料理に大喜びの父。



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↑歌って踊れる、服務員の北朝鮮人の美しい

女性たちに、父またもや大満足。



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↑翌日は船で、この鴨緑江を船で遊覧


私は今回で3回目ですが、いつきても思うのは

この景色は優雅であると。


韓国側の国境は、銃をもった兵士たちがうろうろしている

はずなんだろうけど、この中国側の国境のゆるいこと。


観光客がこんなに近くまで近寄れるどころか、

中国人は1万円くらいのツアーで、入国できる。


外国人はその10倍だとか。


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↑対岸の建物は、北朝鮮の領土内で

こんなに近くまでちかよれます。
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↑こちらは、中国側の街で、河を挟んで

兄弟国の貧富はこんなに。。

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↑中国の国旗に奥の北朝鮮の風景に。。


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丹東は1泊2日で、丹東から大連へは長距離バスで

帰らなければならいないのだが、切符が売り切れで

とれず。


仕方ないから白タクと交渉して、乗用車で5時間かけて

大連にもどりました。


狭い車に何人も詰め込んでの白タク。それでも

切符がうりきれだったので助かりました。


大連にもどり、この2週間の長旅の疲れがでた父は

下痢に。それもひどい。。。


夜中に病院に駆け込み、3時間ちかくも点滴の前に横たわり


なんでも生まれて初めての点滴だとか。。


それはそれは。。大変お疲れさまでございました。


翌日は家でゆっくりとくつろぎ、その翌日父は日本に帰って行きました。


今回の2週間の父の旅は、おそらく生まれて初めてのもの。


小さい時から怖くて近寄りがたく、二人っきりでいると

緊張するあの厳格な父と、


おそらくはじめてこんなに長い時間を接したことはなかったでしょう。


そんな父と、父の生まれ故郷であり、私が小さい時からいつかは訪れたいと

言っていたその地を、一緒に訪れることができ、つれていくことがで


とてもよかったと思う。


中国に来た目標というか夢というそういうもののうちの一つだったので。


まだまだ父も若いので、まだまだ体力あるので、

次回は一緒にハルピンの地を訪れ、一緒に731部隊を見に行こうと約束しました。


その約束が果たされる日を楽しみにしております。


父!!大変お疲れさまでございました。もうすでに12月だけど。



おしまい。。




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人気がなくてアクセス数がどんどんさがっていき


友達からもおもろないでと、言われながらも


父との思い出つづることできてよかった。



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ずっとほったらかしのブログ。


仕事が忙しく、父の旧満州旅行記もまだまだ途中でここで一気に瀋陽と丹東で

帰国までを書いて終わりにしたいと思います。


本当は9月に来た父ですが、既に今は12月で

長々とほったらかしで。。


今は12月長春も-25度以下とそれはそれは極寒の地で

当初は12月にこのツアーを企画する予定だったのですが

前倒して9月にしてよかった。


この気温のなか、これらを旅するのは大変だったろうで。。


長春から大連に戻り、その後列車で瀋陽へそして

そのまま丹東市で、北朝鮮を船で30㍍ぎりぎりまで

近づいてみてきました。


瀋陽では、1泊2日でしたがここでも父にたくさんの

建築を教えてもらいました。


瀋陽も中山広場がありこの円形広場の周りにも

たくさんの名建築がきっちり保存されておりました。



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駅からすぐにtaxiで中山広場へと。。そして目にとびこんできた

この建物。父は見て直ぐにわかりました。


旧ヤマトホテルだと。今は遼寧賓館。


なんと私は情けないことに、このホテルのサイドにある


日本料理屋甲子園というところで、毎回瀋陽に出張するたびに

食事をしておったのですが、この日本食やトイレが階段をあがって

2階にあり、なんだか豪華なホテルとつながっており

そこで用を足しながら、なんだかこの建物はすごいと

気づいていながら、今の今までここが旧ヤマトホテルだったなんて

知らなかった。


情けないですが、こうやって父が来ることで今まで気づかなかった

瀋陽を知ることができて。。


今も出張の旅に、いろんな建物を気にしながら。。歩くようになりました。



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↑旧ヤマトホテルのなか
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↑↓中山広場の真ん中にある毛沢東の像と父

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瀋陽の中山広場の周りには、大連同様

多くの老建築が建ち並ぶ



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午後からは、満州事変博物館に。ちょうど1年前

私も一人で、ここを訪れ、知人が来るたびに

また訪れるので、今回で4回目である。


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父もずっと訪れたかった場所の一つでもあったとか。

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↑瀋陽駅の前で撮影

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それから最近瀋陽駅の向かいに老建築をきれいにして

ホテルに改造してオープンさせた建物があり

前から気になっておりましたが、飛び込んでみると

やはり100年近く前に建てられた日本人設計の建物で

まだホテルとしてオープンしていいないとか。



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↑ホテルのロビーには80年近く前の瀋陽駅付近の

写真が飾られておりました。



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↑夜は、瀋陽の朝鮮街である、西塔にある


日式韓国料理へ。そこで瀋陽の社員たちが

私の父を迎えてくれた。しかもみんなでご馳走してくれた。

みんなめっちゃ熱い社員たちで、酒もすごい。

ちなみに瀋陽社員は40名以上いるのだが、

すごいの誰一人として酒が飲めない社員はいない。

女性も。いつも私がいくと、それはそれはがんがん

飲みます。さすが東北人。そんな魅力ある社員達に

囲まれながら

父もすごく喜んでおりました。いい思い出です。

1泊2日の瀋陽を後にして、翌日丹東へ向かう。



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ロシア語で遠方という意味をもつ『ダーリニ-』それが漢語化して

大連になったというこの街の歴史は、ブログをかきながらだんだんと

引きこまれていく。


当時イギリスである大英帝国の欧亜政策は上海、香港、シンガポールの

の都市を国際商業都市として築きあげ、それに成功し、欧亜の航路をも

牛耳りアジアを制そうという力であったのに対抗して


帝政ロシアが、ウラジオストックから東清鉄道を敷き、シベリア鉄道と

連結させ、アジアとロシアをつなが、大連と旅順近郊に港をつくり

商業都市にそだてあげるという、壮大な帝政ロシアの世界戦略の

南下政策のなかで、創り上げられつつあった大連!!


そんななか、日露戦争で勝利した日本が、その都市づくりを

ひきつぎ、街にはロシア建築と日本建築が混じり合う!!


私が大連で一番好きな場所!!それが大連市内の中山広場である。


中山広場は10本の放射線道路の中心に位置し、

周囲には当時の行政機関や銀行が集められていた。


建築様式は歴史主義建築の影響が強く、


ゴシック建築やルネサンス建築を基調とした建物が並んでいる。


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↑1940年代の中山広場である。


以前のブログで紹介した旧ヤマトホテルをはじめ


様々な日本人設計者による近代建築が立ち並ぶ。


しかも、当時からさほど、いらわれることなく

そのままに残されている!!


大連中山広場の真ん中は公園になっており


そこの中心にたち、360度を見渡せば


それらの名建築をみることができる。


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↑現在の中山広場!!



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↑まず旧ヤマトホテル!!!


そこから時計回りに、紹介!!


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↑旧大連警察署(大連民政署)

今はシティーバンクの看板がついております


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↑旧朝鮮銀行大連支店

設計者はやはり、長春の時と同じ中村與資平!!

現在は中国工商銀行!!


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↑旧関東逓信局!!現在は郵政局



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↑旧横浜正金銀行!!現在は中国銀行




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↑旧中国銀行!!現在は中信実業銀行

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↑旧東洋拓殖大連支店!!現在は中国交通銀行



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↑旧大連市役所!!現在は中国工商銀行!!


ぐるっと一周すると8つの、これらの近代建築を

見ることができます。


私個人的には、いつもここにくるとなぜだかドキドキ

します。


実はこのあと、父と二人で大連の新聞社に2社ほど

乗り込みます。


前回ブログで書いた、これらの建築や戦争遺構の

世界遺産として登録するための、意見を聞きに!!


1社は相手にされなかったですが、

もう1社は、それなりには、話を聞いてはくれましたが。


何故、中国の東北地方ではここまで徹底して

あの苦い戦争の時代の建物を徹底的に再利用しているのか!!


そんな質問をすると!!答えは2つ!!


1つは、はやりあの時代の国恥を忘れないため!!


そしてもう一つは、やはりこれらの建築価値が非常に高い

ということ。


当時の日本人の設計者の欧米留学組やその弟子たちの

設計した建築であり、80年~100年たった今でも

しっかりと衰えること無く、使われている。


そのように言っておりました。


いつまでも、いつまでもここにこれらの

老建築が存在し続けること。


それはとても、いいことだと思います。




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父の生まれ故郷長春を後にし、昼過ぎには飛行機で


大連に戻ってきた私達。


突然だが、大連という街は私は大好きだ。ある意味

中国で一番好きなところといえるかもしれない。


そんなことを言うと、天津の社員に怒られるかもしれないが

もちろん天津も大好きであるが。


そんな大連も、実は旧満州国の一部である。


今でこそ、大連は中国の広州、上海、天津と並ぶ

中国屈指の国際貿易港であるが、その昔は、ただの漁村で

あった。


1989年に、帝政ロシアは寒村にすぎなかった大連を

含むこの遼東半島の南部を、清国から租借した。


当時帝政ロシアはウラジオストックという港をもち

そこはシベリア鉄道の起点ともなっていたが

港としては流氷に時々閉ざされることもあり

この寒村であったが大連に目をつけて

一部、都市建設をすすめた。


もともとロシア語で、遠い地、遠方を意味する言葉を

『ダーリニ-』といい、それが漢語読みになって

だーれん、だいれん、大連となっとなだそうだ。


ということは、大連の起源はロシアであったと言える。


大連という地名が命名されたのは、日露戦争中の

1905年のことで、


少し前にNHK大河ドラマであった、『坂の上の雲』の時代と

同じ頃である。


日露戦争で、日本軍は大連の直ぐ近くにある

旅順にて勝利し、戦後経営をにらんで

都市建設に着手することになった。


その際につけられた新しい名前が都市名としての大連の

最初である。


そんなロシアと日本の間の、激しい歴史の中での

起源をもちながらも、親日的な雰囲気をもつこの街を

私は、すごく好きだ。


いつも走る早朝の海岸を走りながらながめながら

こんなところで老後をすごせたらいいなあとさえ、

日本人の私が思う。


そんな落ち着き、そしてなんだか自分のルーツ的な

感じもするこの街。


大連は、海が綺麗で、海鮮が美味しくて、女性が美しい

などいろいろと中国の中でも、よく言われますが、


私が最もすきなのは、やはりその老建築の数々。

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↑空港から自宅に戻り、そしてその夜は父に

大連の旧ヤマトホテルを予約していたのである。


今は名称は大連賓館といい、1泊680元(8160円)でちょい

グレードの高い部屋でした。確か400元代の部屋も会ったと思います。


旧ヤマトホテルの旗艦店であり、4つくらいのヤマトホテルを

見てきたが、個人的には大連が一番好き



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↑父の予約した部屋

大連は欧亜連絡鉄道と上海航路との接続点であり、

日本から満州 への玄関口であり、

そして満鉄が本社を置いた最重要拠点で、


それ故に大連ヤマトホテルには欧米の一流ホテルに

匹敵できるような、格式が求められた。



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↑1階の通路、突き当りは日本料理岡田。





1914年(大正3年)3月に大連中心部の大広場(現中山広場)前に

旧ダーリニ-ホテルの新館として建てられる。旧館は旧満鉄本社跡

(旧ダーリニ-市庁舎)があったところらしい。


その昔、大連の中山広場から北の方に行った

港あたりが旧官庁街であったとか。旧館はそのあたりにあったらしい。

新館として中山広場に建てられたのだが


ちなみにダーリニ-ホテルとは帝政ロシアの鉄道会社が建てたホテル



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↑着工が1909年となんと、明治42年である。


明治時代の建築を、またまたこの大連で見ることができる。


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建物の外観はイオニア式でジャイアント・オーダーが8本並ぶ

ルネサンス様式


正面玄関には鉄製のキャノピーが設けられており、


設計者は満鉄技師の太田毅と推定されている。


欧米人の宿泊客を想定して館内設備は充実しており、

蒸気暖房やエレベーターも備えていた。屋上には庭園が作られ、

夏季には夜間営業を行う屋上レストラン「ルーフガーデン」が設置されていた。


そのほか理髪所や洗濯部、車馬部(後に自動車部)

などのサービス部門が併設されていたといわれている。


現在は3つ星ホテル大連賓館として、

当時の建物のまま営業されてのである。

そんなホテルを予約していたので、実は私も

一緒に父同じ部屋で泊まる予定だったのだが、


長春からずっと共に行動してきたので

疲れていると思い、

この日は1人でゆっくり寝てもらいました。


9月18日という満州事変が起こったその日に

何の因果か、満鉄が経営していた

旧ヤマトホテルに泊まれるなんてと。。


つぶやている父を見て、


なかなか俺もいい演出をするよなとか

思いながら、偶然なのですが。。


ここは良いホテルチョイスだったなあと。

いやあ、親孝行できたと思えるホテルであった。



大連旧ヤマトホテル!!ぜひお勧め致します。




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図説 「満洲」都市物語―ハルビン・大連・瀋陽・長春/西沢 泰彦
¥1,835
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↑本ブログの内容は、一部この本からとウィキから抜粋しております。

植民地建築分野の第一人者である著者の本を片手に、大連の街を

回ると大変ドキドキさせられます。

ぜひおすすめ。





朝起きて、昨日の新聞社へ乗り込むという熱い話は冗談かなと

思い、そのままやりすごして、今日はどこに行こうかと

問うと、やはり長春日報にいきたいと言う。


父は言う、案ずるより産むが易しと。


私も腹を決めて。。。


長春日報の場所は、新民大街で昨日まわった

旧満州国八大部の建物がある通り。。


さあ、腹をくっていざ建物に入っていく。。。


誰もいない!!!保安のおっちゃんが出てきて

何のよう!!


今日は土曜日!!お休み!!!


保安のおっちゃんは、丁寧に話を聞いてくれてたが、


今日はとにかく誰もいないですよと。


拍子抜けと言うか、少しほっとしたような。


諦めない父は、今度は長春日報の向かいにあった


長春電視台(TV)に行くと言い出す。


私も観念して、そのまま道路をわたって長春TVへ


ここでは、既に門で追い返された。


まあ当たり前の結果であるが、


中国でのメディアに乗り込むには、それ相応の人脈がいるのだが。


私はほっとしていたが、父はまだ諦めない。


今度は大連に戻ってまた探すと。


実は泊まったホテル横が、吉林省共産党委員会だったので

朝出る時にここにもよったのだが、ここも武装警察が完全カードで

入ることも許されない。当たり前だが。


しかも、我々は恐ろしいことにあとから気づいたのだが


この乗り込んだ日は、9月18日であった。



9月18日そう918事件といわれる、満州事変が起こった日で


確か80周年か何かで、大規模な活動が行われている

さなかであった。


だから偽満州国溥儀の博物館にも多くの人民解放軍が訪れて

いたんだと後で気づきました。


今考えればぞっとしますが、父はなんだか更に燃えているようで。


まあ拘束されたりすことはなく、ほどなく無視されたということで

よかったかなと。


その後大連に戻り、大連の新聞社に乗り込んだ時は、

ちゃんと話を聞いてくれて、その担当者も個人的には大変興味深いと

言ってくれたが、なにぶん戦争絡みはセンセぃティブな問題で

簡単に一担当者個人でどうこうできる問題ではないとかで。。。


最後は父も、手応えがあったにしろなかったにしろ

なにやら満足な様子でしたが、日本に帰ったら諦めずに

日本の文化庁を通して、ユネスコに申請するとかしないとかで。。


私としては、一息子として、父の願いをかなえることができたかなと

満足ではありましたが。。


たった2泊3日の長春旅行でしたが、父としては60数年ぶりに

訪れた自分の生まれ故郷。長春、旧新京、旧満州国首都。


大変満足そうに、空港を後にします。

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↑↓もしかしたらこれが最初で最後の長春だったのかもと

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旧満州国を旅するシリーズ、第一幕が終わる。


これからまだまだ大連、旅順、瀋陽、丹東と旧満州国を

回るのだが、まだまだ元気いっぱいの父。


たくさん歩いたがつかれること無く、身体を壊すこともなく

大連に一旦もどります。


お疲れ様です。

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たった3日間の長春滞在であったが、父とのいい思い出である。


以前にも書いたが、私の父は高校の教師をしながら、

古い建物の保存運動を明治建築研究会という、組織で行なっていた。

組織と言っても、父一人だけであったが。


定年後は、戦争遺構研究会という名称にして、古い遺構でしかも

戦争に関わりのあるものを保存していこうという取り組みである。


そういった意味で、今回の旧満州国めぐりで目にした、数々の老建築は

すべて戦争遺構であるとも言える。


そんな父であるから、日本でも数々の批判を受けている。

歩く保存再生運動人間であり、なんでもかんでも保存要望の声を

あげるひとで、それはそれは煙たがられている存在でもある。


そんな父が、長春滞在の第一日目の夜につぶやいた。


明日、長春の新聞社にいきたいんやけどなあ。。


飛行機の中で、もらった長春日報という新聞をもらってな


ここにいきたいんやけど。


それか、市政府の前にいったら、記者クラブとかあるかなと。


はあ???と私。一瞬耳を疑ったが。。


何するつもりなん?


いやこれらの旧満州の建築物を世界遺産にできないかなあと

思って、新聞社をたずねていろいろ相談してみようと

思ってなあ。。


そんなん聞いてないで??


いやちょっと言ってみるだけでいいから。。と。。


私は中国の事情を延々と説明する。


こっちのメディアは、国に属する機関であり


相手にされるわけもないし、またこっちではコネが

なければなんにもできないし。。


相手にされへんか、下手したら拘束されるで。。。と。。


だいたいこれらの建物は、今でも十分、市政府の重要文化財として

保存されているやん。十分やん。と言い聞かすのだが。


一度言い出したら聞かない父。


ここは中国、日本とは勝手も状況も違う。。。


散々説得するが、その昔父は、韓国の朝鮮総督府の建物の

保全再生の要望をだし、国内外から強い批判を浴びたのだが


こりてはいないし、あの時もそうだったという。


結局、総督府は壊されたが、今でもあれは壊すべきではなかったという

意見あるようだが。。


旧満州国の建物を?


世界遺産に?ユネスコに?


広島原爆ドームも世界遺産にするのに、いろんな反発があったんやと

語る父。。


何を言っても聞かない。


俺の中国語じゃ伝えきられへんし、変に誤解される可能性もあるし


俺自身中国での立場もあるし。国際問題に発展したらどうするの?


と言っても聞かない。


私も最後は、俺は行かないの一点ばりだった。

だいたい、そんなことをして何になるのか。誰に利点があり誰が不利

なのかも私にはわからないし、、


私は、行かないと言ったのだが。。


最後に父は、こういった。


KEN!!俺にはもうそんなに残された時間もないし、せっかくここまで


きたんだからやるだけのことはやりたいんや。泣き落としである。


そこまで言われたら、行かないわけにもいかない。


私は父の次男であるが、、次男頑張りますと言い聞かせて。


条件は2つ。私はあくまでただの通訳であること。あなたの息子とは言わないでと

もう1つは、無理だったらすぐあきらめて、深追いはしないこと。


それだけ約束して、、



翌日乗り込むのである、長春日報へ



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長春駅前の旧ヤマトホテルを見た後、父がこの近辺の

建物を見てみたいといいだし、長春駅の東側をブラブラと

散歩してみた。


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↑路地裏に入ったり。。。


この界隈には、ガイドブックや旧満州国の日本人設計

建築のの専門の本には出ていないような、隠された

日本人が当時に設計した建築が多く残っていると

思われる。


父は、街を歩きながら、建物を一つ一つ眺めて

それを確かめていた。


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↑長春駅の東側の道にそれていくと、それらしき

建物がいくつもある。




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↑道路の向かいに、2つ大きなそれらしき建物が

あり、その真ん中に小さな建物もある。


開業したばかりのワインショップで、中に入ると

アルバイトらしき綺麗な女性がいて、この建物はと

聞くと、そうです日本人が大昔に設計してたてた

建物だと聞いております。と言われた。


アルバイトの女性がそれをしっているということは

それなりに、言い聞かされている名のあるものだったのだろうか。


さらに足を東側に向けて歩き出した

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↑今度はボロボロの建物がたくさんみかけた。


父は、これも戦前の建物じゃないのかというが

住民に聞くと、これらは70年代の建物だそうで



何人の人にも聞いたが、やはり70年代、古くて60年代で

あった。


父曰くは、これだけ多くの人に聞いてそういうんなら

間違いないだろうが、


しかし建築といのは、結構伝聞でその歴史が

伝わるもので、意外に意外に実はということが

往々にしてあると。。。

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多くの今にも壊されそうな建物がたくさんあり

それでもその中に多くの住民がいて、ちゃんと

生活をしている。


日本も戦後多くのこのような住居が壊されて

ニュータウンとなり、変貌を遂げたが、ここ長春では

まさにこれから、その変貌が始まろうとしてる。


父は、今の風景をノスタルジックに感じながら

眺めている。時々道端に座り込んでは


街を眺めている。


街をぶらぶら歩きながら、日もくれてきた。

少し冷え込んできて、私も腰がいたくなった。


タクシーをひろおうにも拾えず、ブラブラと

歩いていると、とある円形広場にでてきた。


そこに、大きなサウナがあった。


父にここで、ひとっ風呂あびて帰ろうかと。



父はそのサウナの建物を見て、これもひょっとして

昔の建築なのでは。。白い外観は綺麗にされていて

一見は、よくある最近造られたレプリカのような建物に

見える。


私は父に、まさかそんなただのサウナでしょうと。


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↑外観はこんな感じであった。


中に入り、ロッカーのキーをもらい、タオルをうけとり

お風呂に入る。


古いお風呂屋さんで、中ではアカスリマッサージを

してもらった。


上にいって、マッサージをしてもらおうと、30分くらい

湯船に浸かり、二人で上への階段を上がった。


父は階段をあがりながら、その手すりなどを見て

いやこれは、昔の日本人が作った建物だよとかブツブツ言いながら

階段をあがってくる。私は、まさかこんなお風呂屋さんが。。


階段を上がると、10人くらいの女性がソファーに座っている。


そう、ここは売春宿である。


通常中国のサウナは、中国語で洗浴中心というのだが、


中心とはセンターという意味である。サウナセンターみたいな意味だが


中国ではだいたい90%以上の、サウナはこのような売春宿を兼ねている。


特に中国東北地方は盛んな一大産業である。


ある人に聞いたら、上海は金融中心、北京は文化中心、瀋陽は洗浴中心

と揶揄されるほどである。


階段を上り、それらの女性たちが、いらっしゃいませと言う。


私は2人ですが、マッサージをお願いします。と言う。


くれぐれも、普通のマッサージでお願いしますと。


後ろからヨレヨレとあるていくる父をみて


彼女たちは、あの老爺(らおいえ)はまさか

あなたの父??と言われたので


そうです。と答える、、みんな流石に親子で

こんな所に来るんだから、普通のマッサージなのだろうと

察したようだが。。。


私と父が、ソファに腰掛け、マッサージを頼むと


何人かの女性が私のところにやってきて、


あなたは若いんだからやりなさいよと


誘いに来る。私は、いやいや父と一緒なので勘弁してくださいと。。



『くれぐれもaiaiに誤解されないように言っておくが

私は外で、そんなことをしませんので、、家族思いのパパなので(笑)』


父とソファーに腰掛け仰向けに寝ながら

マッサージをしてくれる人を待つ。


ふと天井を見上げて、思った。


親父!!やっぱりこの建物は日本人が設計したのでは。。


父も見上げて、頷いた。だからいったろうと。


天井がアーチ状になっており、昼間に回った

旧満州銀行のように白い円柱の柱があり、


おそらく一階のサウナやお風呂は完全に改装しているが

2階からはその内装が残っている。


先ほどの階段の内装も残っている。


マッサージのおばちゃんが来たので、聞いてみた。


この建物はまさか。。日本人が設計した建物では??と言うと。。


おばちゃんは。。


そうだよ。。ここはおそらく、80年90年前に立てられた

建物だよ。日本人が設計していたと聞いている。


銀行だったらしいと。


市政府はこれらの建物を壊すことを禁止しているから

かならず利用しなければならないと。。


何あんたたち、日本人なの?と言われ。。


私はおばちゃんに、この長春に来た経緯などを話した。


たいそうめずらしがって、いろんなことを教えてくれた。


おばちゃんと話している間も、何人かの女性が

私を誘いに来る。。のだが。。


父と一緒に、なんか複雑な気持ちだけど、

それでもちゃんと、あの時代の建物をこうやって

サウナになっても、売春宿であっても使って

もらえているということに、なんだうれしさと感謝の念を覚えた。


見方を変えればそんな建築物をサウナで売春宿に使うなんて

とおもわれるかもしれないが、それでも残っているというだけで

ありがたい話である。


先ほどの洗浴中心といわれる地域であるがゆえに

このサウナという場所での再利用は普通のことなのかもしれない。


ここは2階で、3階が売春の部屋であり、内装もそのまま残っている

そうなのだが、さすがに3階までには足を伸ばさなかったが。


薄暗いフロアーを眺めながら、ソファーに座る女性たち。。


部屋の間隔ごとに白い丸い柱があり、なんとも不思議な光景であり


ミスマッチなのだが、でもなんともいい雰囲気であると私は感じた。

父もなんだか不思議な体験だと言う。


誰が設計したのだろうか、前回書いた、中村與資平であろうか。。


いろいろなことを想像する。


マッサージのおばちゃんが私達を気に入ったらしく、マッサージが

終わってもいろいろと話しをしていた。


2時間ほど上のフロアにいて、下に降りて、もうひとっ風呂あびて

着替えていると、下のフロアでは日本人がきていると広まったのだろうか

色々な従業員が話しかけてくる。


まあこんな所に、日本人はこないだろう。。


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↑長春駅から南東に走る勝利大街を通って

徒歩20分くらいにある南広場の円形広場にある。

浴渓隆洗浴中心



外に出て、もう一度建物を見上げる。。

よくよく見ると、綺麗に壁は塗りなおしているが、昔の銀行のような

気もしてくる。


まあよく見ぬいたなあと、父の眼力に感心した。


まだ晩御飯はたべていなかったので、近くの韓国料理で冷麺を

食べてホテルに戻った。


まだまだ知られていない多くの建物がある。

おそらく大連にも、瀋陽にも。。。


しかもそれらを壊さずちゃんと保存して使っている。


サウナになってまで。。まだまだ掘り起こし見たい気がする。


さあ明日は大連に戻る日だ。。。






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最近は仕事が忙してくなかなか思うようにブログが

更新できておらず、父との旧満州国旅行も遠い昔の

ような気がしてきており、はやく書き上げてしまわねばと

焦っております。


今は調度出張で、大連から瀋陽に行く列車の中でこれを

書いており、そう1ヶ月ほど前に、父と二人でこの列車で

行ったなあと思い出しながら。。。


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↑長春駅前にて父



この日は、長春駅近辺の建物を見て回った。


長春駅前にあると言われている、旧ヤマトホテルを探しに


ヤマトホテルは、かつて南満州鉄株式会社が経営していた

高級ホテルブランドであり、1907年から1945年まで満鉄線沿線の

主要都市を中心にホテル網を展開していたそうで


現在この長春、そして大連、瀋陽、旅順、ハルピンに残っている。


調べたら、実はたくさんあり、牡丹江やら撫順やらたくさんあるそうだ。


中でも驚いたのは、私が今住む大連の星海公園付近にもあったそうで


満鉄によって大連郊外の景勝地に開発された海浜リゾートで

当時は星ヶ浦(ほしがうら)と現在の星海公園一帯を

言ったそうで、1909年(明治42年)10月に開業したリゾートホテルで。


星ヶ浦は本格的な長期滞在型リゾートとして開発され、

ホテル周辺一帯には大庭園、テニスコート、星ヶ浦ゴルフリンクス(1915年開業)

などが併設されたそうだ。


また、星ヶ浦海水浴場には脱衣場などの施設が整備され、

貸ボートやヨットでマリンスポーツを楽しむことができた。

夏季にはここに滞在しながら通勤する満鉄社員もいたとか。



私が毎日早朝マラソンしている星海海外付近。


比較的新しいリゾートだと思っていのだが、

なんと明治時代から既に日本がリゾートとして開発をしていたとは

驚きである。


星ヶ浦(現在の星海公園付近)ヤマトホテルは、現在も残っているのだろうか?

調べてみたい。


それにしてもこのヤマトホテルとは一体、なぜこんなにもたくさんあるか。


ウィキペディアから

南満州鉄道(満鉄)は日露戦争によって獲得した鉄道経営権を元に設立されたが、


長春大連間を縦断する満鉄線を欧亜連絡鉄道に組み込んで上海・香港航路[

へと繋げる一大幹線とするためには、その沿線に西洋人が快適に滞在できるホテルを

確保することが必須であったそうで、


明治末期のそんな昔の時代から、なんとスケールの大きな構想であろうかと

感激した。その40数年前までみんなチョンマゲで、腰に刀をさしていたとは

思えない。


満鉄初代総裁であった後藤新平が掲げる「文装的武備」の思想の下で

多角経営を進めた満鉄は、ホテル網の展開も率先して進めていったそうだ。


こうしてできたヤマトホテルは西洋人旅客を招致するとともに、

満鉄の迎賓館としても機能する西洋式の高級ホテルとなった。


確かにそのたたずまい、や風貌は100年を経たいまでも重厚に

荘厳に存在している。父はこのあと大連の

ヤマトホテルに泊まるのだが、自分で招待しておいて

なんとも羨ましいホテルでありましたが。


しかし、満鉄はホテルを鉄道事業と満州開発を支える手段と考えて

採算を度外視したため、ホテル事業単体では利益の出ない体質だったと言われており


1928年(昭和3年)1月1日に旅館事業と食堂車経営を満洲旅館株式会社(資本金800万円)

として独立させたが、1931年(昭和6年)4月1日には再び満鉄直営に戻している[


満鉄は1945年(昭和20年)の敗戦に伴い解体されたが、

一部の旧ヤマトホテルは現在もホテルとして営業を続けているのである。



1909年(明治42年)に帝政ロシア(東清鉄道)や

清国高官との交渉の場に充てるべく、南満州鉄道と東清鉄道との接続点だった


長春駅前に新築された。

建物の内外装はアール・ヌーヴォー(セセッション)様式で装飾された。

東清鉄道が本拠地ハルビンにアール・ヌーヴォー様式の建物を多数建てており、

これに対抗したものと推定される。客室数は25室。満州国の成立後は新京

ヤマトホテルに改称している。


現在は春誼賓館旧館として営業中。食堂などの内装にアール・ヌーヴォー様式の装飾が残されていたが、

1987年の改装で大部分が失われた。

  • 設計 - 市田菊治朗(南満州鉄道技師)
  • 構造 - 煉瓦造2階建
  • 着工 - 1907年9月
  • 竣工 - 1909年10月
  • 現所在地 - 中華人民共和国吉林省長春市人民大街2号

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↑現在は改装中で、一瞬これがヤマトホテルかどうかも

わかりづらかったが


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↑中はこのように改装中であったが。。。

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↑大和旅館跡と石碑がホテルの前に建っている。


長春ヤマトホテルの従業員をめぐってこんなエピソードが

あるそうだ。


日本経済が日露戦争後の恐慌下にあった1910年(明治43年)、

就職難の中で東京高等商業学校(後の一橋大学)を卒業した犬丸徹三というい人は、

恩師の紹介により長春ヤマトホテルのボーイとして就職した。


当時のホテル支配人・岩下家一子爵という人はは、

スイスに留学して本場のホテル経営を学んだ気鋭のホテルマンだった。

1913年(大正2年)、経営方針に不満を抱いていた岩下は上層部に

経営改善策を拒絶されて辞職を決意、共感した犬丸もまた辞表を提出した[


後に岩下は丸ノ内ホテルの設立に参画。犬丸は帝国ホテル社長となるなど、

日本のホテル業界に大きな足跡を残したそうだ。


そういうエピソードを交えて、見るヤマトホテルもまた格別だ。


このホテルで、ボーイとして働いて人が、後の帝国ホテルの

社長になったのだと思ったら。。。。。


今となってはこんな中国東北地方の隅っこで、 

その昔、壮大なドラマが繰り広げられていた。


満鉄経営のホテル、ヤマトホテル。。。



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この日は、朝から儀満皇宮博物院に行ってきました。


中国のラストエンペラー溥儀が満州国の皇帝に即位したとき

新宮殿(通称地質宮)の完成前に、仮の宮殿として造られたのが

この場所である。


結局工事は中止となり、その後満州国の崩壊で

新宮殿にいけることは、なかった溥儀の仮の住まいである。

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↑長春市光復路5号 入場料は80元。


長春市の北東に位置し、少し市街からはなれます。


多くの観光客が訪れており、バスがたくさんと

まっていました。

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↑興運門-門の上にある紋章は満州国王家の紋章


この紋章の裏側の門は時計になっており

満州国が崩壊して、溥儀達が逃げるた時の時間のまま

とまっているとか。↓



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↑満州国成立から1938年まで溥儀が執務した

満州国執政府、宮内府勤民楼↓




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↑1636年の清国初代皇帝のヌルハチに始まり、

最後の皇帝溥儀までを記した

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↑ラストエンペラーこと、愛新覚羅溥儀は

なんと3歳で即位している。


今の翔世と同じ年で、皇帝に即位。

清国皇帝、満州国皇帝、その後ソ連への抑留と

動乱の中のその人生。


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偽満州国では傀儡政権と言われたが、戦後は

ソ連への抑留、東京裁判でも証人として尋問され


ソ連への有利発言を強要されたとか。



わが半生―「満州国」皇帝の自伝〈上〉 (ちくま文庫)/溥儀
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わが半生―「満州国」皇帝の自伝〈下〉 (ちくま文庫)/溥儀
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後に認めた自叙伝『わが半生』では、

「今日、あの時の証言を思い返すと、私は非常に残念に思う。

私は、当時(東京裁判の時)自分が将来祖国の処罰を受ける事を恐れ」、

「自分の罪業を隠蔽し、同時に自分の罪業と関係のある歴史の真相について隠蔽した」

と記している

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↑1959年に特赦され、その後満洲族の代表として

中国人民政治協商会議全国委員に選出。

文化大革命のまっただなか、がんを患い

1967年に死去した。

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↑↓918を忘れるな。江沢民。


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この日は、なぜか軍隊の訪問者が多く、その理由は

後に知るのだが。



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旧官庁街である新民大街を後にして、向かうは

旧大同広場、現人民広場、新京の骨格となる中心部である。


バスで移動。。


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↑なぜか長春のバスの車内はこのように幼稚園の

お遊戯のような雰囲気で飾ってある。なんか

意味があるのか。


それから、長春はバスの車体に広告が入っておりません。

おそらくこれは街の景観を大事にするための

市の方針。昨年から青島が同じくこの方針を導入。


それだけ、長春も街の景観に力を入れているという証。

その街の景観も旧新京時代の都市計画がもとになっている。

なんだか嬉しい話しである。


人民広場に到着する。長春で一番大きな広場である人民広場。

外周で1.5キロもあり、歩くと15分くらいかかる。


ところで、大連や瀋陽、長春、ハルピンなどでよく見かける

この円形状の広場。

私の住む大連でもよく見かける。


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↑写真は大連の中山広場であるが。


友好広場、三八広場など、このような円形広場を

なぜか、中国東北地区でよくみかける。


上海や北京、天津ではみかけたことがなく

このような都市づくりが気になってはいたが、

実はこれも旧満州国時代、いやそれ以前から

関係がある。


このような都市の中に、複数の広場を設け

それを見通しの良い、大きな通りで結ぶ手法は

19世紀のヨーロッパの都市計画の主流であったとか。


バロック的都市計画と後には呼ばれたそうで

これはヨーロッパの都市がいずれも

中世以来の城壁都市であり、

城壁の中に狭い道路が迷路のように走っている状況を

打開しまた、都市を飾る手法として有効なものであったから

だそうである。


長春ではそのヨーロッパスタイルを当時の満鉄などの人間が

取り入れて都市計画を行った。


ハルピンは、帝政ロシアが都市を作っており、

大連はロシアが途中まで手がけており、日露戦争後

日本がてがけたそうで。


このような経緯で、中国東北地区にこのような円形広場

が多くあり、

また長春の場合は、このバロック的都市計画の延長線上に

あるものだが、複数の広場と見通しのよい大きな通りをに加えて

格子状の街路を組み合わせたところに、斬新さがあったと

言われている。


そういう意味では、この東北地方は、日本とロシア、そして

ヨーロッパが混じり合ったと都市と言える。


話を長春の人民広場に戻し、、




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↑人民広場にいって、すぐに目に飛び込んでくるのはこの

旧満州国中央銀行である。(現在は中国人民銀行吉林省分行)


正面に並ぶ10本の柱は圧巻で、


このよな柱をヨーロッパではコロネード、日本語では列柱という。

これを見た時に、ふと大阪の中之島にある、旧日本銀行大阪支店

の建物を思い出した。


私は小さい時から私を含めた4人の兄弟と、この父にあんまり興味もないのに

よく無理やりこれらの近代建物を連れて見せられたものである。


作りは違うが、なんとななく同じ匂いがする。


父にそういうと、旧日銀を設計した人は、東京駅や中之島公会堂を

作った、明治時代の日本を代表する建築家辰野金吾であり、そして


この満洲国中央銀行を設計したのは中村與資平という辰野金吾の

弟子というかその系統の人であると。父から聞きました。(間違っていたらごめんなさい)


なるほどそれゆえ、大阪の中之島と、この長春が

その時代の設計者の関係でつながるとは、


なんとも不思議な話である。




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↑↓中もちゃんと保存され使われている。


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↑偽満州国電信電話株式会社旧址


これも人民広場にあります。


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↑その後二人で昼食に火鍋を食べながら、父の

熱い建築の話が続きます。満足そうなのは、、

建築がしっかり保存されていることと、火鍋の美味しさに。。


こんな中国の東北地方の田舎に、日本でもなかなか

おめにかかれない、明治大正時代の、しかも日本人が

手がけた建築残っているとは。


しっかり保存してつかっていることに

私も父もなぜか中国吉林省政府へ感謝の念がこみあげてきます。


本当にありがたいと。もちろんそこには国恥を忘れぬようにとの

意味もあるのだが、それでもそれらが保存されていることに

多くの意味があり、また多くの受け止め方がある。




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図説 「満洲」都市物語―ハルビン・大連・瀋陽・長春/西沢 泰彦
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↑父からもらった、満州国都市物語。大変参考になり

勉強になります。著者の西澤泰彦さん。よくぞここまで

調べ上げたなと感心しております。

大連、瀋陽、ハルピン、長春の植民地建築を網羅しております。


ぜひおすすめ!!