旧官庁街である新民大街を後にして、向かうは
旧大同広場、現人民広場、新京の骨格となる中心部である。
バスで移動。。
↑なぜか長春のバスの車内はこのように幼稚園の
お遊戯のような雰囲気で飾ってある。なんか
意味があるのか。
それから、長春はバスの車体に広告が入っておりません。
おそらくこれは街の景観を大事にするための
市の方針。昨年から青島が同じくこの方針を導入。
それだけ、長春も街の景観に力を入れているという証。
その街の景観も旧新京時代の都市計画がもとになっている。
なんだか嬉しい話しである。
人民広場に到着する。長春で一番大きな広場である人民広場。
外周で1.5キロもあり、歩くと15分くらいかかる。
ところで、大連や瀋陽、長春、ハルピンなどでよく見かける
この円形状の広場。
↑写真は大連の中山広場であるが。
友好広場、三八広場など、このような円形広場を
なぜか、中国東北地区でよくみかける。
上海や北京、天津ではみかけたことがなく
このような都市づくりが気になってはいたが、
実はこれも旧満州国時代、いやそれ以前から
関係がある。
このような都市の中に、複数の広場を設け
それを見通しの良い、大きな通りで結ぶ手法は
19世紀のヨーロッパの都市計画の主流であったとか。
バロック的都市計画と後には呼ばれたそうで
これはヨーロッパの都市がいずれも
中世以来の城壁都市であり、
城壁の中に狭い道路が迷路のように走っている状況を
打開しまた、都市を飾る手法として有効なものであったから
だそうである。
長春ではそのヨーロッパスタイルを当時の満鉄などの人間が
取り入れて都市計画を行った。
ハルピンは、帝政ロシアが都市を作っており、
大連はロシアが途中まで手がけており、日露戦争後
日本がてがけたそうで。
このような経緯で、中国東北地区にこのような円形広場
が多くあり、
また長春の場合は、このバロック的都市計画の延長線上に
あるものだが、複数の広場と見通しのよい大きな通りをに加えて
格子状の街路を組み合わせたところに、斬新さがあったと
言われている。
そういう意味では、この東北地方は、日本とロシア、そして
ヨーロッパが混じり合ったと都市と言える。
話を長春の人民広場に戻し、、
↑人民広場にいって、すぐに目に飛び込んでくるのはこの
旧満州国中央銀行である。(現在は中国人民銀行吉林省分行)
正面に並ぶ10本の柱は圧巻で、
このよな柱をヨーロッパではコロネード、日本語では列柱という。
これを見た時に、ふと大阪の中之島にある、旧日本銀行大阪支店
の建物を思い出した。
私は小さい時から私を含めた4人の兄弟と、この父にあんまり興味もないのに
よく無理やりこれらの近代建物を連れて見せられたものである。
作りは違うが、なんとななく同じ匂いがする。
父にそういうと、旧日銀を設計した人は、東京駅や中之島公会堂を
作った、明治時代の日本を代表する建築家辰野金吾であり、そして
この満洲国中央銀行を設計したのは中村與資平という辰野金吾の
弟子というかその系統の人であると。父から聞きました。(間違っていたらごめんなさい)
なるほどそれゆえ、大阪の中之島と、この長春が
その時代の設計者の関係でつながるとは、
なんとも不思議な話である。
↑↓中もちゃんと保存され使われている。
↑偽満州国電信電話株式会社旧址
これも人民広場にあります。
↑その後二人で昼食に火鍋を食べながら、父の
熱い建築の話が続きます。満足そうなのは、、
建築がしっかり保存されていることと、火鍋の美味しさに。。
こんな中国の東北地方の田舎に、日本でもなかなか
おめにかかれない、明治大正時代の、しかも日本人が
手がけた建築残っているとは。
しっかり保存してつかっていることに
私も父もなぜか中国吉林省政府へ感謝の念がこみあげてきます。
本当にありがたいと。もちろんそこには国恥を忘れぬようにとの
意味もあるのだが、それでもそれらが保存されていることに
多くの意味があり、また多くの受け止め方がある。
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↑父からもらった、満州国都市物語。大変参考になり
勉強になります。著者の西澤泰彦さん。よくぞここまで
調べ上げたなと感心しております。
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