最近は仕事が忙してくなかなか思うようにブログが
更新できておらず、父との旧満州国旅行も遠い昔の
ような気がしてきており、はやく書き上げてしまわねばと
焦っております。
今は調度出張で、大連から瀋陽に行く列車の中でこれを
書いており、そう1ヶ月ほど前に、父と二人でこの列車で
行ったなあと思い出しながら。。。
↑長春駅前にて父
この日は、長春駅近辺の建物を見て回った。
長春駅前にあると言われている、旧ヤマトホテルを探しに
ヤマトホテルは、かつて南満州鉄道株式会社が経営していた
高級ホテルブランドであり、1907年から1945年まで満鉄線沿線の
主要都市を中心にホテル網を展開していたそうで
現在この長春、そして大連、瀋陽、旅順、ハルピンに残っている。
調べたら、実はたくさんあり、牡丹江やら撫順やらたくさんあるそうだ。
中でも驚いたのは、私が今住む大連の星海公園付近にもあったそうで
満鉄によって大連郊外の景勝地に開発された海浜リゾートで
当時は星ヶ浦(ほしがうら)と現在の星海公園一帯を
言ったそうで、1909年(明治42年)10月に開業したリゾートホテルで。
星ヶ浦は本格的な長期滞在型リゾートとして開発され、
ホテル周辺一帯には大庭園、テニスコート、星ヶ浦ゴルフリンクス(1915年開業)
などが併設されたそうだ。
また、星ヶ浦海水浴場には脱衣場などの施設が整備され、
貸ボートやヨットでマリンスポーツを楽しむことができた。
夏季にはここに滞在しながら通勤する満鉄社員もいたとか。
私が毎日早朝マラソンしている星海海外付近。
比較的新しいリゾートだと思っていのだが、
なんと明治時代から既に日本がリゾートとして開発をしていたとは
驚きである。
星ヶ浦(現在の星海公園付近)ヤマトホテルは、現在も残っているのだろうか?
調べてみたい。
それにしてもこのヤマトホテルとは一体、なぜこんなにもたくさんあるか。
ウィキペディアから
↓
南満州鉄道(満鉄)は日露戦争によって獲得した鉄道経営権を元に設立されたが、
長春~大連間を縦断する満鉄線を欧亜連絡鉄道に組み込んで上海・香港航路[
へと繋げる一大幹線とするためには、その沿線に西洋人が快適に滞在できるホテルを
確保することが必須であったそうで、
明治末期のそんな昔の時代から、なんとスケールの大きな構想であろうかと
感激した。その40数年前までみんなチョンマゲで、腰に刀をさしていたとは
思えない。
満鉄初代総裁であった後藤新平が掲げる「文装的武備」の思想の下で
多角経営を進めた満鉄は、ホテル網の展開も率先して進めていったそうだ。
こうしてできたヤマトホテルは西洋人旅客を招致するとともに、
満鉄の迎賓館としても機能する西洋式の高級ホテルとなった。
確かにそのたたずまい、や風貌は100年を経たいまでも重厚に
荘厳に存在している。父はこのあと大連の
ヤマトホテルに泊まるのだが、自分で招待しておいて
なんとも羨ましいホテルでありましたが。
しかし、満鉄はホテルを鉄道事業と満州開発を支える手段と考えて
採算を度外視したため、ホテル事業単体では利益の出ない体質だったと言われており。
1928年(昭和3年)1月1日に旅館事業と食堂車経営を満洲旅館株式会社(資本金800万円)
として独立させたが、1931年(昭和6年)4月1日には再び満鉄直営に戻している[
満鉄は1945年(昭和20年)の敗戦に伴い解体されたが、
一部の旧ヤマトホテルは現在もホテルとして営業を続けているのである。
1909年(明治42年)に帝政ロシア(東清鉄道)や
清国高官との交渉の場に充てるべく、南満州鉄道と東清鉄道との接続点だった
長春駅前に新築された。
建物の内外装はアール・ヌーヴォー(セセッション)様式で装飾された。
東清鉄道が本拠地ハルビンにアール・ヌーヴォー様式の建物を多数建てており、
これに対抗したものと推定される。客室数は25室。満州国の成立後は新京
ヤマトホテルに改称している。
現在は春誼賓館旧館として営業中。食堂などの内装にアール・ヌーヴォー様式の装飾が残されていたが、
1987年の改装で大部分が失われた。
- 設計 - 市田菊治朗(南満州鉄道技師)
- 構造 - 煉瓦造2階建
- 着工 - 1907年9月
- 竣工 - 1909年10月
- 現所在地 - 中華人民共和国吉林省長春市人民大街2号
↑現在は改装中で、一瞬これがヤマトホテルかどうかも
わかりづらかったが
↑大和旅館跡と石碑がホテルの前に建っている。
長春ヤマトホテルの従業員をめぐってこんなエピソードが
あるそうだ。
日本経済が日露戦争後の恐慌下にあった1910年(明治43年)、
就職難の中で東京高等商業学校(後の一橋大学)を卒業した犬丸徹三というい人は、
恩師の紹介により長春ヤマトホテルのボーイとして就職した。
当時のホテル支配人・岩下家一子爵という人はは、
スイスに留学して本場のホテル経営を学んだ気鋭のホテルマンだった。
1913年(大正2年)、経営方針に不満を抱いていた岩下は上層部に
経営改善策を拒絶されて辞職を決意、共感した犬丸もまた辞表を提出した[。
後に岩下は丸ノ内ホテルの設立に参画。犬丸は帝国ホテル社長となるなど、
日本のホテル業界に大きな足跡を残したそうだ。
そういうエピソードを交えて、見るヤマトホテルもまた格別だ。
このホテルで、ボーイとして働いて人が、後の帝国ホテルの
社長になったのだと思ったら。。。。。
今となってはこんな中国東北地方の隅っこで、
その昔、壮大なドラマが繰り広げられていた。
満鉄経営のホテル、ヤマトホテル。。。
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