今年の夏休み読書感想文は、瀬名秀明氏の「パラサイト・イヴ」にしようかと思ったが、……いや、医学に関心を持っていただくいい本ではあるが、時期が時期だけにやや生々しい点もあり、やはり無難な文学小説ということで藤沢周平さんの「蝉しぐれ」を挙げてみたい。
これは舞台や映画「蝉しぐれ」にもなった長編時代小説で、日本人の魂の故郷ともいえる礼節の士道に文学で帰省し、また毅然とした凛々しい日本女性とのときめきを、”蝉しぐれ”に模して人情のきめ細やかさを文学で表現した名作である。
あらすじなどはウイキでざっと目を通せばわかるが、長編だけにじっくり腰を据えてかかれば読むごとに新鮮で人生の光がみえてくる。
というのも藤沢周平さんは師範学校卒で中学校の教師をしていただけあって、人を育てる暖かい眼差しでヒューマニズムに溢れた人間観察をしているし、きめ細やかに人間の業、人の憂いを描いているからでもあろう。
特に女性の描き方は”いい女”のリアリティがあって現代にも通じる大人の女を感じさせる。
読書感想文と言うからには一人一人違った解釈でなければ意味がない。まして来年は東京五輪、多様性の時代オリジナリティな表現が彩りを添える。
そんなことから今年は第二、第三の藤沢周平や時代小説家がわんさと世に出んことを願って、「蝉しぐれ」の原文を的を絞って3シーンだけ例題として謹んでここに抜粋紹介させて戴くので、藤沢文学の文章エッセンスをしっかり吸収してコロナに負けない豊かな感性をはぐくんでもらえればと思う。
藤沢周平の「蝉しぐれ」紹介
海坂藩普請組の組屋敷には、裏を小川が流れていて、その組の家族の者たちがこの幅六尺に足りない流れを洗面や洗濯などに使っているのであった。
文四郎は玄関を出ると、手拭いをつかんで家の裏手に回った。
文四郎は川べりに出ると、隣家の娘ふくが物を洗っていた。
「おはよう」
と、文四郎は言った。その声でふくはちらと文四郎を振り向き、ひざを伸ばして頭を下げたが声は出さなかった。今度は文四郎から顔をかくすように身体の向きを変えてうずくまった。ふく の白い顔が見えなくなり、かわりにぷくりと膨らんだ臀がこちらにむいている。
------ふむ。
文四郎は苦笑いした。
色気づいて無口になったか……と思いながら、文四郎は大きな水音を立てて顔を洗った。ついでに濡らした手拭いで汗ばんだ躰をぬぐった。
快い解放感に満たされながら、文四郎は小川の向こう側に広がる色づいた田んぼを見た。
頭上の欅の葉かげのあたりでにいにい蝉が鳴いている。快さに文四郎は、ほんの束の間放心していたようである。そして突然の悲鳴にそのやすらぎは破られた。
悲鳴をあげたのは先ほどのふくである。とっさに文四郎は間の垣根をとび越えた。そして隣の庭に入ったときには、立ちすくんだふくの足元から身をくねらせて逃げる蛇を見つけていた。体長二尺四、五寸ほどのやまかがしのようである。
青い顔をして、ふくが指を押さえている。
「どうした?噛まれたか」
「はい」
「どれ」
手をとってみると、ふくの右手の中指の先がぽつりと赤くなっている。ほんの少しだが血が出ているようだった。
文四郎はためらわずにその指を口に含むと、傷口を強く吸った。口の中にかすかに血の匂いがひろがった。ぼうぜんと手を文四郎にゆだねていたふくが、このとき小さな泣き声をたてた。蛇の毒を思って、恐怖がこみ上げて来たのだろう。
ペッ「泣くな」
唾を吐き捨てて、文四郎は叱った。唾は赤くなっていた。
「やまかがしはまむしのようにこわい蛇ではない。心配するな。それに武家の子はこのぐらいのことで泣いてはならん」
ふくの指が白っぽくなるほど傷口の血を吸いつくしてから、文四郎はふくを放した。ふくは無言で頭を下げ、小走りに家の方に戻って行った。まだ気が動転しているように見えた。
そんな事があってしばらくして今度は文四郎の家に不幸があった。
文四郎の父は海坂藩の政道を正そうとして非業の死をとげた。
まだ少年と言っていい文四郎が父の遺体を引き取り、それを大八車に乗せて家へ運んだ。途中、藩の人間が文四郎を嘲笑した。四面楚歌のなか、文四郎は暑さと重さ、それに疎ましいセミの鳴き声に喘ぎながらも独りで父の遺体を乗せた車を引いた。疲れた。倒れそうになった。
そのとき、一人の少女が文四郎のところに駆けつけてきて助けようとした。幼馴染のふくだった。
「喘いでいる文四郎の眼に、組屋敷の方から小走りに駆けてくる少女の姿が映った。たしかめるまでもなく、ふくだとわかった」
「ふくはそばまで来ると、車の上の遺体に手を合わせ、それから歩き出した文四郎によりそって大八車の梶棒をつかんだ。無言のままの目から涙がこぼれるのをそのままに、ふくは一心な力をこめて梶棒をひいていた」
優しいという字は人の憂いを知っているという字である。
こうして青春の想い出を抱き続け二人は成長した。やがてふくは女中見習いで城中奥に上がり、そこで藩主のお手が付き一躍お福の方と称される側室となって奥向きから藩政に関わり、そして文四郎は文武両道に励み、宿敵、政敵とも対峙し危険な目にあいながら、またお家騒動の時は、お福さまのお子を守り抜き、やがて郡奉行、牧助左衛門となって領民の安寧を願うご政道に滅私奉公するのであった。
その後お二人はどうなったか……。
蝉しぐれ (成熟編)
お福さまは白蓮院の尼となるために髪をおろすことになった。俗世に未練があるとすれば……
そう、あの日もこうして蝉が必死に泣き叫んでいましたわね。いっときの生きとし生けるものの謳歌を全力で奏でるべく……。
一方、助左衛門は郷内に植え付けた杉林を見回って臨時宿所にしている代官所に帰ると、「お奉行っ」と代官手代の中山茂十郎が近寄ってきて、今朝客がありましたと言った。「客?わしにか?」
「はい、箕浦の三国屋の番頭がこれを持って参りました」
中山は奉行に、上書きには牧助左衛門様とあるだけで署名が無い一通の封書を渡した。
ほかに伝言は?と聞いたが何もないようであった。首をひねりながら助左衛門は自分の部屋に入った。机の前に座って封書をひらいたが、簡単な文言を読みくだすとともに、助左衛門は顔から血の気がひくのを感じた。
「このたび白蓮院の尼になると心を決め、この秋に髪を下すことにした。しかしながら今生に残るいささかの未練に動かされてあなたさまにお目にかかる折もがなと、箕浦まで来ている。お目にかかれればこの上の喜びはないが、無理にとねがうものではない。明日には城にもどる心づもりに候」という文句をじっと見つめた。
助左衛門の安寧は揺らいだ。それは何十年も前、ふたりが青春の頃、ふくが蛇に噛まれたときの、そして父の遺骸を運ぶ時、ふくがそっと手伝ってくれたあの情景が甦ってきたのである。
耳の奥で熱く、蝉しぐれのように早鐘が鳴っている……。行かなければ……。
助左衛門は立ち上がって着替え、馬を飛ばして、海が見える潮風の浜を二里ほど駆け抜け箕浦に着いた。
湯の宿三国屋の二階に駆け上がると、身なりを正しながら奥へと進む。
そこには切り髪姿のお福さまとお供と思われる少女が一人いた。
「ひさしく御無音仕り……」
助左衛門が挨拶をのべると、城奥の支配者となったお福さまは微かに笑って優雅な気品でうなずき、お供に用意のものをはこぶようにと言った。
「あの者は万事心得ていて気遣いは要りません。ところで、お昼はもうお済みですか」
「山から戻ったばかりで昼飯はまだ食しておりません」
「それはさぞ、お腹が空いたことでしょう」
お福さまはゆったりと言った。
「番頭の話では、今日まで山に行っておいでだったそうですね」
「そうです」
「ここにはおいでになれないかと思いましたよ」
「どうにか間に合いました」
助左衛門は言ったが、実際にはお福さまがなぜ山視察とわかっている助左衛門の様子も確かめず、しかも城に帰るぎりぎりの時刻にあの手紙を差しむけて来たのかがわかっていた。間に合わなければ、それはそれでかまわないとお福さまは考えていたのではなかろうか。
お福さまもやはり、助左衛門に会うのがこわかったはずである。事情はどうあれ、それで喪に服している元側室が忍んで男に会う事実が変わるわけはないのだ。ぎりぎりの時刻に手紙をよこしたのは、揺れる女心もあろうが、その刻限に二人の運を賭ける気持ちもあったようである。間に合うも間に合わぬも運命だと。
しかしお福さまは、少なくとも今はその恐れを顔に出してはいなかった。注意深くその顔いろを眺めながら、助左衛門が山の話をしていると、足音がして膳の物と銚子、盃がはこばれてきた。
「御酒を少し召し上がれ。私も一杯いただきます」
女たちが去ると、お福さまはそう言って銚子を取り上げ、助左衛門に酒をついだ。助左衛門も黙ってお福さまの盃に酒を満たしてやった。
「遠慮なくくつろいでください」
「さようですな」
「文四郎さんの御子が私の子で、私の子供が文四郎さんの御子であるような道はなかったのでしょうか」
いきなり、お福さまがそう言った。だが顔はおだやかに微笑して、あり得たかもしれないその光景を夢見ているように見えた。助左衛門も微笑した。そしてはっきりと言った。
「それが出来なかった事を、それがし、生涯の悔いとしております」
「ほんとうに?」
「……」
「うれしい。でも、きっとこういうふうに終わるのですね。この世に悔いを持たぬ人などいないでしょうから。はかない世の中……」
お福さまの白い顔に放心した表情が現れた。お福さまは藩主に先立たれ、産んだ子ははやく大身旗本の養子となり、実家はあるものの両親はもういなかった。孤独な身の上である。
「この指を、おぼえていますか」
お福さまは右手の中指を示しながら、助左衛門ににじり寄った。かぐわしい肌の香が、文四郎の鼻にふれた。
「蛇に噛まれた指です」
「さよう。それがしが血を吸ってさし上げた」
お福さまはうつむくと、盃の酒を吸った。そして身体をすべらせると、助左衛門の腕に身を投げかけてきた。二人は抱き合った。助左衛門が唇を求めると、お福さまはそれにもはげしく応えてきた。愛憐の心が助左衛門の胸にあふれた。
(--間--)
どれくらいの時がたったのだろう。お福さまがそっと助左衛門の身体を押しのけた。乱れた襟を掻きあつめて助左衛門に背を向けると、お福さまはしばらく声をしのんで泣いた。……が、やがて顔を上げて振り向いた時には微笑していた。
ありがとう文四郎さん、とお福は湿った声で言った。
「これで、思い残すことはありません」
以上はほんのさわりの一部で、文庫本464頁だが、本作は情景描写が巧みで自然とそこに入って行けるのも特徴的。これをきっかけにして本作の全文を読んで、各人各様な「蝉しぐれ」の感想をきけたらと思う。
そして、藤沢周平ファンならずとも名作を生んだ土壌など肌感覚的に古き良き時代を探りたくば、山形県鶴岡市の藤沢周平記念館など訪ねてみるのも、風土から読む文学と言う心の襞を深めるきっかけにもなるでしょう。 (吟)