TVドラマの撮影現場で監督が新人によくつかうダメ出しは「今のセリフ、ホン通りでなくいつもの自分の言い方でしゃべってみて」と。

これは子どもが教科書を読まされてダラダラと無機質に本を読むような味気ないしゃべり方で、ドラマの流れにそぐわない、つまりドラマツルギーを構成する情念的口語話法でない単なる覚えたセリフを無感情に吐くだけの意味。

主体的に役になりきっているか、ただやらされているかの違い。

 

ちったあ、見せられる観客の身になって身を入れて演じろ!と怒鳴りたくなる。

そうすると覚えたセリフ間違わないようにと一生懸命になって、セリフが滑って噛みあってないからお互い余計苦痛な時間となる。

 

冒頭なぜこのことを述べたかというと、ゲキブ(高校演劇)に学芸会のようなセリフとも言えないただの早口練習みたいな、劇ともいえない学芸会がいまだに存在する現実を目の当たりにしたからで、まだまだ全国的にゲキブの水準を向上させることは可能だと感じた。

 

どうしてそうなったか。それはどこが間違っているかというと、最初から間違っている。

皆が感動する模範的演劇の具体像イメージが教師や生徒にないからである。読み合わせの段階で安易な表現に妥協したからといってもそれはプロではないのだから仕方のない事ではあるが、上等な演劇や映画を観たりしてじっくりイメージを膨らませながら何度も読み込んだ末の読み合わせならもうちょっと違ったはず。

 

新劇なら当然だが台本の読み込みは、違う考え方で違う言い方で何度も読み込んで台本を平面から立体に組み立てるドリルも劇団員が研究生に仕込んでいく。

 

そして自分の役のシチュエーションを深く丁寧にイメージを掘り下げて、生理的に自然と発するセリフになるようにパズルを当てはめていく。その為には喜怒哀楽エクササイズでセリフを発しながら台本のテーマを掴むこともあるだろうし、また自分のセリフの前の相手役のセリフを受けて、五感で受けて深いところで忖度し、瞬時に最適な表現法を使って目で、口で、身振りでリアルな感情を観客に伝える。つまり役を活きるということ。

そうすると自然と役作りが楽しくなってきていろいろとああしようとかこうしようという演技プランも湧き上がってくる。

 

多くの高校演劇の根底にあるのは人材教育で、ボランティアに見られるようなヒューマニズムが主流テーマで台本とテーマと役どころをしっかりわきまえて、もっと高レベルの人格とか文学性、演技性を練るには相手役とのキャッチボール、深く考えてセリフを吐くと無駄な説明台詞は邪魔。それを目で表情で表す。余計なしゃべりは要らない。例えばお互い目を見つめ合うだけで愛の深さも分かる。

ただ表現技術を研鑽、練習してないとテーマに沿ったいかな演技プランも実を結ばず画餅に終始してしまいかねないので、上手い人の演技法を日頃観ておくことも大事。

 

イタにのって実際に観客を前にした本番でこうしたいと瞬間的に思ってもそれが即実行できるかというとそれが問題だ。主役だと多少の微調整はできるが脇に回ると打ち合わせをしていないと難しい。だから何度も何度も違うパターン練習が必要なのである。

演劇の神様を信じてインスピレーションが湧くということは進歩する過程で重要な事だ。

総じて良質な高校演劇はピュアでアグレッシブでエネルギッシュだ。

 

そんななか5月5日専修大学松戸高校演劇部の発表会。

メインは「ハブレット」。

前回観た時よりも全体的に安定感が出てきた。ま、多少のセリフ噛んだりはご愛嬌だが、それが却って本人の必死力を呼び覚ましたのではないかな。背水の陣にナイスリカバリー。

そして館内一体となって感動に湧く万雷の拍手。

 

よかった。 皆さん おつかれさま。

 

(写真はイメージであり、記事とは無関係です)

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