暑さ対策の今昔

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ボランティアの語源は、古くは義勇兵とか志願兵、或いは篤志奉仕家、つまりノーブレス・オブリージュの精神に則って、社会や国民、経世済民を願って無償奉仕する伝統が欧米や我が国の武家社会にもありました。

フランスの画家ミレーが1857年描いた油彩画「落穂拾い」にみられるように領主や貴族は貧しい民の為に少し残しておく習慣がありました。

 

 そういう積徳豊心の考え方は、1860年以降尊皇攘夷派でもあった渋沢栄一にしてもそうです。今度1万円札になる彼は埼玉の深谷農民の出ながら、商才を見込まれ一橋家、徳川慶喜公に仕え、幕末から維新にかけて、慶喜公の名誉の為に、また遅れている日本を近代国家にするため、慶喜公に代わって奔走し、民間事業や教育など幅広く実業にうち込み、日本の近代化の一翼を担った篤志家、慈善家でもありました。

 

 またそれより以前の17世紀、オランダ画壇、写実主義で有名なレンブラントの「夜警」という絵画をご存知のお方もおいでかと思いますが、あの絵の群像にあるように、あの頃は名誉職として自警団や市民隊など、わが町は吾々の手で守るという意識があり、写真もない時代、当時の自警団が画家レンブラントに依頼して、多少の誇張は在れど、身なりや当時の風潮など写実的に描かせた名画の逸品からも、彼らの気概が伝わって来るではありませんか。

 

 それと似たようなことがここ日本でもありました。

 

 

1267年 蒙古王クビライの命により高麗の使者来る。1271年 元の使者が国書を持ち来たる。1273年、元の使い、大宰府に来る。

1274年(文永11年)元軍、対馬より九州に攻め寄る。(蒙古襲来、文永の役)

そして文永11年(1274年)103日、約4万の兵を約九百艘の船に積み込んで朝鮮半島の合浦を出港。単純計算だと1艘に約44人積み込めるからそんなに小さくはないし武器や食料も詰める。

 

同年105日 元寇は宋資国らの治める対馬に猛然と襲いかかってきた。

宋資国以下島民たちは果敢に戦った。が何しろ多勢に無勢。島民に残虐非道な仕打ちをしたあと蒙古軍は次に1014日壱岐に侵攻、そうして元寇が九州北部へ上陸。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/93/M%C5%8Dko_Sh%C5%ABrai_Ekotoba4.JPGhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/93/M%C5%8Dko_Sh%C5%ABrai_Ekotoba4.JPGMōko Shūrai Ekotoba.jpg

 

多分皆さん上の絵図一度は教科書等でご覧になっている筈の「蒙古襲来絵詞(えことば)」で二度従軍した武家の竹崎季長が、体験図を絵師に細かく指導して書かせた第一級の歴史史料で、当時鎌倉時代に火薬「てつはう」(鉄砲)が初めて登場している図が描かれている。1543年ポルトガル人が種子島に鉄砲伝来するより250年も前だ。

これを書かせた竹崎季長の蒙古軍と対戦した命懸けの驚きは到底言語に尽くせず、思わず私財をはたいてその興奮をビジュアルで残させた気持ちも分からなくもない。

 

 

昔ベトナム戦争を扱ったマイケル・チミノ監督の「ディアハンター」とかジョン・ボイトの「帰郷」とか戦争の恐怖体験を映像に納めた映画に劣るものではない。

絵を見ていただきたい。中央付近左側に着物に長靴のような蒙古兵が弓を射ているその右に花火玉のような砲丸が破裂しているのが見えるでしょう。

中国の年表では1069年 羅針盤、火薬の発明、木版印刷とある。だから鉄砲或いは大砲の可能性もある。

 

またこの頃の馬は打ち上げ花火のような爆破音に馴らされていないのか怯み、中央右の馬首が下に垂れ下がって騎馬武者を振り落しているのか空馬が描かれている。

それだけ火薬の強烈な戦争体験を本土防衛参考記録として残しておきたかった防人の使命さえうかがえる。

 

しかし、そんな勝手が違うような戦さで怯むような日本武士道ではない。埋伏の計など織り交ぜながら後退するが、元寇は進撃してこない。騎馬軍団の馬が積載されていなかったのだ。

そして夜間になると海岸近くに戻って野営する。そこに夜襲をかける。元軍が船に戻ったところを小舟で夜討ちをかける。これを絶え間なく繰り返すうちに。夜の酒盛りをする蒙古軍の戦意は次第に勢いが失せていった。

 

1281年(弘安4年)蒙古・高麗軍再度侵攻に及ぶが退却。(蒙古襲来・弘安の役)

④この時の天皇は即位したばかりの後宇多天皇。当時鎌倉幕府の最高権力者は第8代執権の北条時宗で、その後度重なる元からの使者をことごとく死者にしてしまう剛腕ぶり。

 

このように古今東西、武勇を示す、或いは衝撃を受けたら、何らかの形で後世に繋ごうとするのが動物の学習効果である。

 

そういう歴史的な事実に興味が無い方には、黒沢明監督の映画「七人の侍」を思い出して戴ければ想像がつくと思うが、農村が野武士に毎年襲われるので困って、村の長が侍らしき者たちを用心棒として雇って野武士軍団を撃退することにした。

そして、村民を訓練し、野武士の襲来に備える。

襲われたら食料から娘などすべてが奪われてしまう。

 そしてとうとう野武士軍団がやってきた。

村に緊張が走る。手に汗握る雨中の戦闘シーンが続く。

 

七人の雇われ侍と農民の連繋プレーで、戦闘のアマチュアがプロ盗賊に打ち勝つ醍醐味を、スリルをもって描き出したエネルギッシュな邦画でもある。

 

さて、ここでちょっと考えてみてください。今はどこでもエアコンがあるのが普通だが、それでは、江戸時代の人たちはどうしていたのか?

文化人類学的に歴史を遡って、今度は記録にも残っている江戸時代にスポットを当ててみよう。

 その当時の日本はエアコンもなく無為自然に暮らしていた。ただ、徳川幕府が幕藩体制を布いていて、天下は比較的安泰していたと言える。それはプチカーストの士農工商制度で武家が政を把握する“一朝ことあれば”や“いざ鎌倉”の自治、中央集権体制であった。

各藩の藩校にしても文武両道、文芸(学問)と尚武(武芸)を鍛えるのが務めとばかりうち込んでいた時代もあった。

この伝統は元寇の役以来の武家の習わしとも云えよう。

 

 で、そのエアコンも冷蔵庫もなかった時代、どうやって過ごしていたか?

調べてみましたよ。

 庶民は打ち水をしたり、庭でたらいに水浴びなど勝手放題だが、武士はそうはいかない、世間体もある。

 そこでどうしたか、下級武士の子弟らは五間川などで神伝流泳法の稽古などと称し川浴びもできようが、藩の重役や上士の家臣ともなれば、人前で肌を晒すなどもってのほか。

 海などに面していない藩、たとえば群馬県の安中藩。これは碓氷峠近辺なのだが、今はSLが走っていて、高低差が激しい山中である。

しかし武士とは辛いもの。甘ったれんじゃねーよーと一喝され、じゃ、遠足と書いてとおあしをやって根性を鍛えようじゃないかと言うことになり、今でも安中マラソンとして後世に名を残していることは周知の事実。

 

しかし、ここでも藩の重役や上士の家臣は何里も走らない。他藩から使いが来たり、一揆が起きたりしたら即対応ができないという理由からである。

 

では、どうやってエアコンもなく暑さを乗り切るのかと言えば、当時の対策はこうであった。

「左様、先ずは漢詩や禅語に逆療法といふのがあり、暑い暑いと思ふから暑いのであって、心頭滅却すれば火もまた涼し」。

(漢詩「安禅は必ずしも山水を須ゐず、心頭を滅却すれば火も亦た涼し」~)

という何やら訳も分からない禅問答のようなことをもったいぶって曰くのであった。

それで、「あっ、左様か、しからば拙者もそうやって悟りをひらくべし」

とその気になって精神集中していると何だかそのような気もしてくる……。

これが、いわゆる薫陶という授業の一端である。

 

 エアコンもアイスもない江戸時代の夏、いくら木造住宅だから風通しはいいといっても扇風機すらもない屋敷内で、できる暑さ防止対策といえば、暑気払いか、我慢較べである。

 今の時代、我慢較べと言えば、暑さ日本一で知られる熊谷の41.1度を体験してみるとかだろうが、その頃の暑さ我慢較べは命がけであったようだ。なにせ、武士のメンツ、お家の一大事がかかっておる。

 左様、障子や襖を締め切った真夏のある日、藩恒例の我慢大会は始まった。

六畳間にぎっしり十数人ひしめきあって、皆着衣は「吾輩は十二単重でござる」「いやいや吾輩は、ほれご覧通り火事装束でござる」と羽織を脱いで分厚いどてらなど重ね着を自慢し合うのである。

しかもその部屋の中央や隅にはガンガン燃えている火鉢が、鉄瓶がチュンチュン湯気をたてて熱気がもうもうと……。

やがて、アツアツの煮込みうどんが部屋中に配られ、「わっはっは、寒くてかなわんところじゃった。これで少しはあったまる」と言って、汗だくでズズー、チュルチュルと、なかには涙交じりですする者もあった。

命懸けで見栄を張る……武士とはなんとも辛い商売か。      (吟)