東京ウォーク2015第3回大会 ~その④~
~2015.9.5~
その③のつづき~
-------前回その③の末節{ 前出の土方歳三ら新選組についてウォーキングをまじえながら各種文献、資料を基に調査,研究してみたい。
然し長くなりそうなので新選組関連は次回に繰り越す。 }で幕でしたが、今回はいよいよ佳境に踏み込みます。おのおの方、ここからが本戦ですぞ。こころせられい!
前回、昔の人(福沢諭吉)を例にとって現代人(時速4.5km)と比較してみると流石に江戸時代の人(時速5.5km)はいかに足腰が強かったかが漠然と読み取れましたが、それでは今度は江戸から京まで連日連続ウォーキングはどうだったのでしょう。
-------そこで上記新選組に登場してもらいましょう
ここで私が言ってるのは、つくりもののドラマではなく実際の残存する証拠(主に古文書や当時の本人の日記、書付など)の状況証拠を積み重ねて、自他ともに信じられる時空を共有するという、主に言語によるタイムマシン的発想です。
かといって当時の土方歳三がそのまま現代に現存していることはありえないので、当時直接本人と対面した者の日記や、現存している当時の肖像画などのかけらを参考にして思いを馳せその時代に飛んでいきます。
-------先ず状況説明から。
時は今からたった161年前の安政元年(1854年)、ペリー再来航で外敵に屈辱の不平等条約を結ばされた幕府の弱腰外交に発奮した勤王佐幕志士連中が憤然と入り乱れた尊王攘夷といわれるカオス、主義主張の為に論戦でなく斬り合いで決着を図ろうとし合う騒然とした世情のなか、万延元年(1860年)三月三日の朝、幕府大老井伊直弼一行が登城せんと小雨混じりの淡雪の中、松平大隅守屋敷と桜田門外辻番所の中間辺りにさしかかった五ツ刻、大獄や密勅返納問題などをめぐり煽られ待ち構えていた関鉄之介以下の水戸浪士に薩摩藩士有村治左衛門を加えた十八人の壮士たちが抜刀し一つの駕籠に殺到した。それを阻止せんとする井伊家供人らと死闘攻防戦の末、遂に井伊大老を刺殺して首を挙げるという凶行の桜田門外の変を機に、幕閣は幕府権力の巻き返しを計らんが為、天皇御所のある京に公家や不逞浪士が暗躍している政情不安を払拭制圧せんと、江戸で傭兵を募り、思惑乱れる中それに応召した浪士組の内には天然理心流江戸試衛館道場の近藤勇(武州北多摩郡、農家の三子出身、のち新選組局長)や土方歳三(武州日野石田、四子出身、のち新選組副長)や沖田総司らがいた。
農家出身ゆえの武家コンプレックスも発条となり、武士よりも武士らしく、局中法度などで隊の規律を極度に戒めて、同時に柔軟性に欠けるとは言え池田屋騒動などで幕府体制側にひたすら忠誠を傾注し、幕末の世を文字通り真剣に駆け抜けた彼らの生きざまは幕末デカダンスと共にその時代の史実として現代人にも共感できる人間的な側面さえ漂わせつつ彗星群のごとく後の世にまで語り継がれた。(吟史朗)
概ねこのようなシチュエーションだが、今度は当時直接本人(近藤、土方)に対面し、日記録として残している「譚海」の筆者・佐倉藩江戸留守居役、依田学海の近藤、土方対面記の書付や文献及び下の土方歳三の銅像写真も見ながら、検証してみたい。
(下手背景に華やかな稚児の楽しそうな風情が対照的で平和な時代を感じさせる)
既存のイメージとはまた違う近藤勇や土方歳三の当時の肖像画などが載っている「新選組資料大全」(中経出版)とも較べながらそれぞれの臨場感、空気を読み取って各自の胸に漠然とでも立体像を浮かび上がらせていただければ充分です。
--------さて、そうしたところで本題のウォーキングに歩を進めて参ります。
時は文久三年(1863年)騒然とした世情の中、応召した近藤勇、土方歳三らを含む浪士組二百数十名の一団は、第14代将軍・徳川家茂公上洛警固に先駆けて中山道139里(六十七次・555km)を十五日かけて京に入り、紆余曲折を経て京都守護職(第九代会津藩主)松平容保(まつだいらかたもり)公預かりとなり、京の市中見廻り警固につとめる。
とするとここでポイントとなるのが1日歩行距離が約37kmとなる。
TOKYOウォーク2015のAコースは20~21kmと較べてみればいかに壮健だったかが推し測れようというもの。
ちなみに、東海道コースを辿った浪士組の日記もあるので、二手に分かれて京に上ったとするのが無理のない見解だ。以下当時本人の日記。
-------その江戸から京まで随行の当時日記録があるので紹介しておこう。(カタカナ混じりなので読みにくいとは思うが原文のニュアンスを味わって戴く為に敢えてそのままにした。)
「新選組資料大全」(中経出版)のなかで、井上松五郎・著「文久三年御上洛御供旅記録」にこうある。
二月七日朝雨天昼より天気
一、江戸表出立、府中宿へ。中飯、夫より江戸着。大先生宅罷出、近藤氏へ暇乞いたし、土方・馬場・中村ニ逢、馬場・源三郎へ餞別差遣し、夫より講武所へ止宿、御手当ニ預り。
---中略---
二月十三日 天気
一、御発駕。講武所より馬荷才領ニ而川崎宿迄夜の内参り、品川宿昼飯、東海道ニ而三河屋申人中飯ほとこし、わらし丸山氏より頂。
品川宿百文、川崎宿ニ而二百文、-----云々。
三月四日 天気
一、朝七ッ時、大津御郡代御出立、御行列移敷、山科江出、此処ニ山科御坊申候て石行燈ニ有、夫より道二丁計歩行、同常夜灯二ヵ所共中々大きくて有之候。夫より三条通大橋へ出、三条通西へ上ル町。
一、夫より三条通旅籠町上江上ル町、二条通二条之御城江御旅館被遊、御城内殊之外御行列、其外拝礼者山之如し。夫より旅宿二条通上ル町「御幸町通竹や町」達磨町松やと申処泊り。
八王子へ便り故、手紙差出ス。
---中略---
十三日、昼前昼より降
一、嶋原へ行、買いものいたし、せい願寺ニ而浄留リ聞帰る。近藤、土方、井上参、酒宴。
-------とある。また別の者の手記(同書)では彼ら一行は中山道を十四泊して一月十七日に京に到着し------云々。とある。
また信頼できる別の資料では二月八日朝五ツ半(午前九時)浪士組は処静院を発って板橋から、蕨、本庄、倉賀野と中仙道を経て二月二十三日京都四条通大宮西入ルにある壬生に着到。とある。
どうしてこうもまちまちな記述なのか。ウラを取ろうにも、手がかりが見えては消える。そこが歴史の曲者と云われる所以であって、まさに我々を惹きつける歴史のロマンともいえよう。
いかんせん当時共通のカレンダーも時計も普及していたとは言えず、一刻(2時間)ごとのお寺の鐘の音か、もしくはおなか腹時計が頼りの時代ゆえ当然勘違いもあったろう。
また逆に云えば文明の利器がないだけ想像も豊かで、そこに現代とは違う生活様式を見つけ時代研究やドラマ創作の新たな発見の余地があるとも言えよう。
そうしてそれらを統合すると見えてくる筋がある。どちらが正しいのかではなく、どちらも正しいのだ。両方あったのではないか。と考えられる。
つまり、中山道グループと東海道グループに分かれて上京行動したのではないか。だから、日付、地名が異なるがいずれも江戸から京への浪士の隊列行動。
理由①清河八郎に攘夷を吹き込まれた幕臣・山岡鉄舟が松平上総介、鵜飼鳩翁に説いた一石二鳥の募集は当初五十名前後の予定であったが、蓋を開けると三百五十名も志士が集まり、老中板倉勝静も周章狼狽し、選抜後も二、三百の素性も知れない隊列を秩序よく京に届けるには、管理面でも別働隊の編成が好ましい。
理由②そして、天皇家ならずとも社員旅行は航空機に分乗するのが慣わしの如く、中山道と東海道の分隊行動も無きにしも非ず。もっとも浪士組は当時それほど優待されていた訳もないが、催行者側が幕末限られた予算で別派分宿すればそれだけ眼も行き届けよう。員数増大しようが束ねればアウトオブコントロールにはならない。
理由③前述文献資料、文書や本人の当時の日記などから観られるように日付や地名がまちまちであることから、これらを総合すると、どうやら中仙道と東海道ルートで浪士組は京に上ったと視るのが自然の解釈のように思える。
いずれにしても江戸から京まで123~139里(500km前後)前後の連日ウォーキング。武士の足で2、3週間かけて徒歩行進(1日37km)とは当時の人々の健脚に脱帽するのみ。
TOKYOウォーク2014、同2015がなかったら、私の脚はもっと退化していただろう。
早期発見、早期鍛錬。もっと歩きこみ、読み込みの必要性を認識した次第。
これからも健康な人間生活を続けていくために。
以上、今昔ウォーキング温故知新ものがたりでした。
それでは本日はこれにて。
お疲れ様。