スーパーに行くと、カステラをパンの間に挟んだ菓子パンが売られている。今も、テレビでカステラサンドの情報をやっていた。カステラの味は決して強くないので、それをパンの間に挟んでも味はわからないし、食感もパンと似ているので、私はまだ買ったことがない。

 最近パン売り場で、「牛乳パン」なるものを見つけた。形はカステラパン同様に直方体であるが、中央部分にカステラが挟まっていないので黄色い部分は無く全て白色である。真っ白いただのパンであるはずがないと思い、よくみると中央あたりに目に見える程度のクリームが挟まっている。おいしいクリーム味のパンかと思い買ってみたらクリームの味が結構強く感じられてとてもおいしく、その後何度かリピートしている。

 カステラパンも、もしかしたらパンとカステラの間にクリームが結構塗られていて、牛乳パンと同じような味なのかもしれないが、そうだとしたらネーミングによって買うのをためらっている人も結構いるのではないだろうか。「カステラパン」と聞くと、パンの間に同じ食感、似たような味のカステラがサンドされていて、味がしないだろうなあという印象を受ける。販売戦略的にどうなのだろうか。

 一度試しに買ってみたいとも思うのだが、パン売り場に行くと、あまり味がしなかったらもったいないなあという気持ちが先に立ってしまい、いまだに躊躇してしまう。

 氷川きよし氏が活動を再開し、ネットニュースなどで目にすることが多くなった。

 キーナという名前や外見に拒否反応を示す人がいる。また、それがいいという熱狂的なファンもいる。外見や性格が嫌いだという人は、彼が出演する番組やネット記事を目にしたくないだろうし、それがいいという人は、彼が出演する番組や記事を見たいだろう。

 人には好き嫌いがあって当然である。その素直な気持ちを法律の範囲内で表現することは、誹謗中傷ではない。本人の気持ちを害する表現はすべて禁止とするならば、それを書き込むツイッターやインスタ、ブログ、個人のHP等、ネットニュースなどのコメント欄、掲示板等々の「場」そのものを無くさなければいけない。

 人それぞれ好みも基準も感性も趣味も性格もすべてが異なる以上、誰かに対する不満や文句、悪口を無くすることはできない。世界中の全ての人が、日々友人や同僚、家族、芸能人等々誰かについて自分と合わない内容のことを話している。これは人間として当たり前のことである。これを無くすることは不可能でありナンセンスなことである。仮にそれをSNS上だけは禁止にしたいというのであれば、そのようなことを発言したり書き込んだりできる「場」を無くするしかない。

 話を戻すと、歌番組やネットニュース担当の人にお願いしたいのは、氷川氏を嫌いな人と好きな人のおよその割合に即し、量的に公平・公正に取り扱ってもらいたいということである。

 かつて、NKHの「うたコン」は、氷川氏と純烈と山内惠介氏の3人をほぼローテーションで出演させていた時期がある。もちろん、NHKにも癒着まがいの不公平な人選をやめるよう投書をした。彼らを嫌いな人にとっては地獄であろうし、彼らを好きな人がいることも事実である。だから、公共性の高いテレビでは、好き嫌いの人数のおよその割合(量的人気度)を分析・考慮して、出演者を決めたほうが公平・公正だと思うのである。間違っているだろうか。

 事務所との関係や過去の個人的人間関係などの忖度は、もうやめる時代である。

「(もらったんですかと問われ)お願いはした(「そうしたら勝手によこした」と強調したいのか)、「話し合ったが、議論はしていない」等、終始ごまかすことで必死に見えた。

 質問する議員たちのレベルも低かった。せっかく宣誓において「何事も付け加えず」と言わせておいたが、知事は聞かれたことだけに答えず、主に自己を正当化するための理由(確かめるすべはないが、後から作った嘘と思われるような理由ばかり)を話していた。議員たちは、なぜ止めて注意しなかったのだろうか。確認できない理由などではなく、「行為の有無」について聞いているのに、言い訳が中心だった。

 また、不都合な質問に対しては「記憶が定かでない」で逃げ続けた。何年も前のことではない。わずか数か月前のことであり、しかも自分のことであり、記憶力は良い東大出身なのだから、記憶が定かであるはずがない。道義的責任を問われると、道義的責任が何かわからないと嘘を言って答弁拒否をする場面もあった。法的な責任ではなく、道徳的(義務教育において知事が教科以外の道徳の時間(現在は教科となった)や教師からの指導で知事が学んだこと。例えば公平・正義、正直、素直な心等々)な責任であることは、誰にでもわかることである。知事でさえ、百条委員会後の囲み取材で、自分に多くの直す点があったので今後ルール作りをしていきたいと話していた。この言葉こそ、道義的責任の意味が分かり、道義的責任は自分にあることを自覚している証拠である。答弁を拒まない旨を宣誓しているので、これらの「記憶にない」「わからない」といった答弁拒否についても罪に問われる可能性があるのではないだろうか。

 言葉の言い換えやあやによる「ごまかし」、「記憶にない」、「わからない、しらない」などによる「とぼけ」が、官僚の論理、ひいては東大の論理なのだと感じた。本当にレベルが低い。反抗期の中学生並みだった。これまで私は、官僚やいくつかの県の職員と話すことがあったが、話の内容(論理展開)と自信に満ちた話しぶりにいつもおかしな印象を持っていた。官僚や県庁職員などによる、人を言いくるめる鉄壁そうな論理の実態は、「ごまかし」と「とぼけ」に過ぎないことが今回はっきりとし、これまでの疑問がとても腑に落ちた。

 以上のような感想をもったが、今回の一番の問題点は、パワハラ疑惑の当事者である知事が中心となって、県庁内で処理が進められてしまったということだ。出発点から間違っている。告発者を守りながら、専属弁護士も含め知事や県の関係者は一切加わらない完全な第三者による調査をするべきだった。最初に告発を受けたマスコミの対応や、パワハラの当事者であり権力者のトップでもある、握りつぶす立場の知事に情報を伝えた人物など、まだまだ解明しなければいけない点もある。

 韓国や中国は、「日本に大恥をかかせてやった」などと言う。この「恥をかかせる」という言葉が、個人的にピンとこない。なぜだろう。誰かに「恥をかかせる」というのは、日本(日本人同士)では一度も聞いたことがない表現である。

 恥ずかしい思いをするのは嫌なことである。そのような思いを対象者にさせるために意図的に働きかけ、うまくいったということなのだと思われる。つまり、嫌がらせができてうれしいということなのだろうか。

 自分が恥ずかしい思いをさせてやったということは、むしろ隠そうとするのではないだろうか。自国の民度を世界中に宣伝することになってしまうと思うのだが・・・。あるいは、世界各国は、韓国や中国のこのような発言を聞いて、「韓国や中国はすごい、すばらしい」と思うということなのだろうか。どうもよくわからない。

「元気なあいさつ」というのは、あらん限りの声で叫ぶ挨拶ではない。

 小学校教師は、このことを理解しているだろうか。仮に理解しているとしたら、それを子ども達に教えているだろうか。

 比較的小さな声で、おとなしく、優しい子どもの挨拶は、校門で叫んで挨拶をしている教師たちの目には、どのように映っているのだろうか。

 大声や活発な動きが良いのではない。何が適切で、何が良いのかは、時や場所、目的、個々人による。挨拶は、「心と心の握手」でありたい。

 

 兵庫県知事のパワハラが表ざたになったのは、元県民局長が一部のマスコミに告発文を送ったことから始まった。この人は、県に報告しても握りつぶされ自分が悪者になってしまうと思い、最後の手段としてマスコミに訴えたのだろう。

 告発文を受けたマスコミがどこかわからないが、次にこの元県民局長が人事課から聴取されてしまったことから、このマスコミは県に問い合わせたのだと思われる。敵に情報を与えたら、犯人探しが行われ、最終的にこの局長が標的になってしまうではないか。

 こうなることも想像して、受け取ったマスコミは告発文を無視するか、あるいは本当に取りかかるのであれば責任をもって弁護士や専門家のチームを作って、この局長を守り兵庫県庁内の取り組みや知事の動きを監視しながら全国に状況を広めたり県会議員などに依頼して調査をしたりするべきだった。マスコミによる中途半端な動きによって、元県民局長が悪者達に囲まれてしまい、自殺に追い込まれた可能性は無かっただろうか。

 告発文を受け取ったマスコミは、こうなることも考えて、慎重に行動しなければいけなかった。

 兵庫県知事がパワハラで問題になっている。百条委員会では、パワハラ(本人は謝罪はするがパワハラとは認めず、「委員会に判断を任せる」と話している)をした理由を話していたが、理由があれば「それなら違法行為をしてもいいよ」とはならない。

 プーチンは、ウクライナの街にミサイルを撃ち込んだり領土を奪ったりしているが、そのようにする理由を話していたが、理由があれば「それなら違法行為をしてもいいよ」とはならない。

 泥棒にでも「だって、欲しかったんだもん」、「生活に苦しかったんだもん」などという理由があるだろう。どんな犯罪行為にも、理由がないということは無い。被害者側にとっても、また別の理由や立場、考え方があるので、理由というものには客観性や公平性などはない(自分の視点にすぎない)。したがって加害者側に理由を話させる必要もなく、事実の確認のみを裁判なり委員会なりで行い、あとは法律に従って「行為」を判断するのみである。

 国連でも裁判でも、一方的な理由をいちいち聞いていたら、言ったもの勝ちになったり、ずる賢い者が有利になったり、あるいは判断がつかなかったりする。違法行為かどうかは、行為のみをみて行為が法律に適合するかどうかを判断することにしなければ、様々な不都合が起きてしまうだろう。

 自民党の裏金問題について自己調査をした時、弁護士などの第三者を入れておこなった(だから客観性があり結論は適切だ)。

 テレビ局も、ジャニタレ問題やドラマ原作者を死に追いやった問題でも社内検証にこだわり、弁護士などの第三者を入れておこなった(だから客観性があり結論は適切だ)。

 大勢の加害者側のメンバーの中に、調査メンバーの責任者でも議長でもない弁護士が1,2人参加したとしても、加害者メンバーたちの話し合いに何ら影響を及ぼすことなどできない。最後の取りまとめの文書も弁護士ではなく、加害者側のグループの責任者が都合よく書くのだろう。

 政治家とテレビ局が自己調査(社内検証)をやる時、なぜ何の影響力もないわずかな人数の第三者をわざわざ調査メンバーの中に入れるのだろうか。なぜ完全な第三者チームに依頼しないのだろうか。加害者が調査チームに参加しないと、調査や話し合い、結論を操作できないからなのだろうか。本当に客観性、正当性のある結論を得たいのであれば、加害者も被害者も調査メンバーに入らないほうがよいに決まっている。茶番劇で国民をだまして逃げ切ろうとするくらいなら、何もしないほうがまだ誠実さが感じられる。

 静岡福祉大の小田部氏は、「将来の天皇に求められるものは「徳」であり、「学歴」ではない」と指摘する。

 私も、教科を必死に学ぶよりもボランティア活動や福祉活動、ボーイスカウト活動、社会常識、道徳的な心情や判断力、一般市民の生活実態(非正規雇用や年金生活の実態、社会保障等)、海外情勢などといった教科以外の体験や学習が求められると思う。

 教科のみの東大出身者(18歳まで多くのことを犠牲にして教科学習に時間を費やしてきた人)に、「〇〇することを希望します」と言われても、国民は「そうしよう」などとは思わない。ましてや、そのような人のために命をかけて戦うなどありえない。信頼とは、人格や人間性によって得られるものであり、決して教科による高い偏差値で得られるものではない。

 人間性を豊かに育てるために、やはり学習院大学が最適だと私は思う。皇室の方々の教育に関しては、経験と伝統がある。秋篠宮家のお二人を見てもわかる通り、ICUなど東大以外でも高偏差値大学はいけない。家族の段階で難しいのに、国をまとめることができるはずもない。ICUにさえいかなければ、お二人の性格や人生も違ったものになったことだろう。

「あのような立派な人になりたい」、「言った通りにしよう」と国民が思うようになるためには、どうすればよいのか、どこの大学で学ぶのがよいのか、よく考えていただきたい。東大生のような人格(多様な経験や幅広い知識を犠牲にしてできあがった人格)、官僚のような人格では、あのようになりたいとだれも思わないし、言うことも聞いてくれないだろう。

 天皇とは、自由にふるまえない大変なお立場だと思う。もし思ったように生きていきたいのであれば皇室を離れるしかないが、それでは実力のみで行きたい大学を目指すことになるし、その後の人生はさらに厳しいものになる。自分しかなれない環境に感謝し、それにふさわしい人物になるためにはどこで何を学ぶのが最適か、適切な判断に期待したい。

 自民党総裁選立候補予定者たちが、小学生を大臣室に集めて楽しそうに話をしたり、子供を抱っこして振り回したりなど、日常ではやらないことを始めた。

 これまでの国政選挙活動で立候補者が何度も何度も頭を下げ、汗をかき走りながら握手をして回り、声をからして「お願いします」を連呼する場面や、都知事選である候補者が裸になり銭湯に入ってお客さんの背中を流している場面などが思い出された。

 政治家(立候補者)は、国民がどのような基準で国会議員や知事を選んでいると思っているのだろうか。あまりにも国民をバカにしすぎていると思う。

 とはいうものの、国民は過去の不正や業績、言動で判断せず(すでに忘れている)、選挙活動の時に誠実に見えた人や頑張っていた人に投票してしまう。したがって、政治家のそのような国民をバカにした行動は、適切であると言わざるを得ない。国民は、バカということか?