謝罪の言葉というのは、「(自分が悪かったので)これから責任を取ります」という意思表示にすぎない。

「ゴメンチャイ」と言っておきながら責任を取らないテレビ局や政治家、芸能人がいかに多いことか。まずかったなあとは思うだろうが、本当に悪かったなあとは思っていないのだろう。

 責任を取るということは、基本的に原状回復プラス慰謝料(精神的苦痛と原状回復に至るまでに発生した損害)のことである。原状回復が不可能な事案については、それに見合う代わりの補償をすることになる。見合う代わりの補償とは金銭になるだろうが、その金額は加害者を含め多くの人がこの金額ならその被害を今から受けてもよいと思える金額が妥当であろう(それ以上の金額であればいくらでもよいが、それ以下の金額ではいけない)。 

 少なくとも、謝罪の言葉を述べておきながら「(逃げることなく)仕事を続けることで責任を果たしていく所存です」などと、訳の分からないことを言って相手を思考停止にする(混乱させる)作戦だけはやめてもらいたい。ここまでくると狡猾な真の悪人になってしまう。これなら謝罪の言葉も言わないほうがまだよいだろう。

 

 医者(特に病院の勤務医)と政治家、どちらが傲慢だろうか。

 どちらも態度を改め、誠実に仕事をしている姿を、頭の中に描けないのである。皆さんは想像できるだろうか。考えると、コントになってしまいそうだ。

 最低限、目上の患者さんにため口で話す、患者さんの話を聞かずに診断するといったことは、社会人として今すぐやめてもらいたいが、無理だろうなあ・・・。

 どちらにも、直接監督指導を行う権限を持った事実上の上司が現場にいないことが原因であろう。いなければ、次第に傲慢になり、やりたい放題になるのは当然である。この点を、しくみとして国が何とか改善できないものだろうか。そうすることが、患者や国益、国民生活のためになるのだが。

 

 ※傲慢(ごうまん)ー「思い上がり、他人を見下して高圧的な態度をとること」

「あきらめた所が、その人のゴール」

「言葉は こだま」(「遊ぼう」と言えば「遊ぼう」と返ってくる。「死ね」と言えば「死ね」と返ってくる)

「うざい、きもい、むかつくー禁句三語」

「鉄のような心」(悪や怠けなどに、すぐなびくなということ)

「うばい合えばたらぬ わけ合えばあまる」(あいだみつを氏の言葉)

「ほめられるためにやるのか」

「家庭の仕事を分担することを、「お手伝い」と言わない」

「相手の気持ちを考えずに思った通りにやることを、「自分勝手」という」

「毎日わずかに昨日の自分を超える」

「気づき 考え 行動する」(青少年赤十字の目標の変形)

「あいさつで 作る笑顔は 太陽だ」

「時を守り 場を清め 礼を正す」(ある哲学者の言葉)

「教師の言う通りにするのが一番の近道」

「つまらぬと 思うは小さき 知恵袋」

「掃除は、心を磨く学習」(「気づく」「やり抜く」「人の役に立つ」の練習をしている)

「あいさつは、遊びではない(心と心の握手)」(朝の挨拶で、ハイタッチをしたり叫んだりしない。教師もやらせない)

「喜びをつくる」

「正しさは、人数の多さで決まるのではない(たった一人でも正義を貫けということ)」

「楽しい学校とは」(ゲームやテレビ番組、自由などと同じ楽しさか)

「違いを良さとみる」

 

 

 自民党総裁選に立候補している人達の主張を聞いていると、2つの共通した特徴があることに気づく。

 1つは、ある政策を推進したい理由として良い面だけを話し、大きな負の面はあえて話さない。

 もう1つは、司会者等にこれまでの自分の不適切な行動について指摘をされると、不適切なことをやった自己理由を話し正当化しようとする。「それがよくなかったのでは」と司会者に繰り返し質問されると、同じことを何度でも繰り返し答え続ける。会話が成立しないようにして、自己の不適切な行動の謝罪を防いでいる。見ていて、幼稚で恥ずかしい。

 このような能力、このような性格の人を、私は信用できない。というか、目の前で現在ごまかしているのだから、信用する人はおかしいだろう。国や国民の生活、命をあずけられない(戦争に参加し最後は徴兵制にする。もちろん議員は戦争には行かない)。

 これは、総裁選立候補者だからというわけではなく、ほとんどすべての政治家は、このような言動をする(長年、国会議員の言動やそれを支持する投票行動などを見てきての評価)。先輩の背中を見て学ぶしかないから、仕方のないことである。では、だれに国や国民の生活を任せられるのか。信頼できて総理の能力がある人はいるが、如何せん、このような国会議員たちから支持を得られないと総裁になれない仕組みになっている。うまくできている。首相だけは国民による直接選挙にするという方法も考えられるが、それだと地元の人間関係やマスメディアのあおり攻撃(人気投票化する)で国民は投票してしまい、適切な人が首相にならない可能性も十分にある。つまり、このまま今まで通りにやるしかないということなのだろう。すべてを壊す突然変異的な総理が誕生するのは、いつになるだろうか。

 短期的には、首相になってから、唯一の(最大)派閥の長である麻生氏に何か強く依頼されても、しっかりと断われる人が自民党総裁にいいだろう(選挙まではねこをかぶっていても)。

  日本テレビの24時間テレビが始まった。最初から、児童養護施設で育ったやす子氏の葛藤などを長々とやっていた。

 私は、とくに養護施設について何も思うところがなく、そこで育った子ども達のこともなんとも思ったことがなかったのだが、今日の24時間テレビを見て、「養護施設で育った子供は可哀そうな子ども達なんだなあ」、「子ども達はつらい思いをしているんだなあ」、「なんか特別な所なんだなあ」という感想を持った。また、今後児童養護施設で育った大人と接する場合でも、遠慮というか、はれ物に触るようになってしまい、関係がギクシャクしてしまいそうである。悪気がなくても相手が気に障るようなことを言って迷惑をかけてしまう可能性もあるので、友達にはならないほうが無難ではあるなとも思った。素朴に率直に思った。24時間テレビを見るのではなかった。

 小・中学生や若者の中には、この番組を見て、児童養護施設で育った子供は一般の子ども達とは何か違う子どもたちなんだと理解し、いじめをする(からかいや喧嘩をした時に養護施設に関する悪口をいう)人も大勢出てしまうと私は思う。いまどき、親のいない子どもなんてたくさんいる。親がいないからといって不幸とか、かわいそうということはないと私は思っている。施設にいる時や施設を出て社会で働くようになってから、自分が幸せかどうかは自分の心が決めるのである。

「養護施設=かわいそう、大変な所」という誤った一方的な概念を植え付けるような番組は、テレビ局以外の誰にとってもプラスにならない(誤った偏見を国民に定着させたり、いじめや差別が起きて加害者と被害者をつくったり等)。

 少し話の趣旨から逸れるが、「差別」の始まりはエセ差別反対論者が無意識のうちに作ってしまっている場合がとても多いと思う。アメリカにおける黒人差別もそうである。アメリカでは、学校やマスコミが「黒人差別はいけない」と繰り返し言うから、「差別の対象なんだ」(あるいは、「差別の対象だったんだ」)と認識し、差別が生まれるのである。日本では、学校でもマスコミでも、あえて「黒人差別はいけない」と教えたりしないので(当たり前のことだから)、基本的には黒人に対して差別意識がない(テレビでアメリカの情報などを何度も見聞きした人には差別意識は生まれるだろうが)。「赤ちゃんは、蛇を怖がらない」のである。ケースは違うが、日本テレビも無自覚のうちに、養護施設への偏見を生むような番組作りをしていないだろうか。もちろん、そう思わない人も多いだろうが、もし数十万人、数百万人単位で偏見を持つ人を生み出す可能性があるのであれば、やはり不適切な番組内容と言わざるを得ない。正義や道徳が広がるのは、不可能か非常に時間がかかるのだが、(たとえ数十万人であったとしても)悪が広がるのはあっという間なのである。

 日本テレビは、あえて何かわだかまりのあるやす子氏の負のケースのみを取り上げ、児童養護施設で楽しく幸せに育ち、社会に出てから立派に仕事をしている多くの人々を同じ分量だけ紹介しなかったのは、公平・公正の点から誤りだったと思う。新たないじめを生み(主に小中学生)、国民の心の奥底に「かわいそう、自分達とは違うんだ」という意識(これはとっさの時に差別として逆に表現される)を植え付けた日本テレビは、いったいどうするのだろう。もう消すことはできない。

 エッフェル塔の周りは、エッフェル塔が高く美しく見えるように整備されている。

 もしエッフェル塔の高さと美しさを台無しにしてみてくださいと言われたら、塔のすぐ横にほどほどの高さの高層ビルでも建てるだろう。

 日本は、それを自ら進んでやってしまう。例えば、スカイツリー、六本木ヒルズの森タワーなど高くて美しく見事なデザインの高層建築物を作っても、その高さや美しさを壊すかのように、すぐ横に低めの高層ビルを1、2本付属で建てる。美しさや景観、文化などよりも、都市機能や利益といった経済面を最優先にするから、平気でできるのだろう。

 経済をすべてに優先させるのは、余裕のない発展途上国だけである。アジアの中の先進国と言っても、欧米に比べると日本は精神面においてはまだまだ発展途上にある。

 

 話は逸れるが、日本には木材さえ使えばよいと思っている建築家もいる。だから、ビルの壁に無造作に木材をたくさん張り付けたような幼稚で見た目が悪く残念なデザインの建物もある。何らかの信念でどの建物にも木材を使っているのだろうが、建築は個人の願いや理屈よりも、まずは見た目のデザインが最優先で、次が機能性、次に周囲とのバランス、そしてその次あたりに建築士の願いが来る程度にしておいたほうがよい。どのような理由をつけても、単純に見た目が悪ければ話にならないだろう。

 他の国に対し、「我が国は(自国の)法に基づいて行動している(だから正しい)」、「我が国は法治国家だ」、あるいは「歴史を反省しろ」などと言う国がある。しかしそのような国に限って、独裁者が立場を利用して都合よく法を決めて自己中にふるまったり、嘘や願望で歴史を創作したりしている。

「法律」や「歴史」という言葉を使えば、世界の国々は自分たちの言うことを信じるだろうと思ってやりたい放題の国と、仲良くしようと努力することは馬鹿げていると思う。いや、むしろ日本がしたてに出ているから、相手はもっと強気になって危険な行動や無茶苦茶な説明を展開してくるのだと思う。

 人というのは、基本的に弱い相手を見ると嫌に感じ、徹底的にいじめたくなる。そう思わない人は、後天的な学習や理性で抑え込んでいるか消してしまった立派な人達なのだと思う。

 法や歴史がおかしな国もある。しかし、世界の多くの国々はそんなことは信じられずに、真に受けてしまう。だから日本は、その説明に苦労する。

 日本と中国や韓国が敵対していても、若い人(一般市民)の交流は大事だという発言をよく聞く。しかし、それによって若い人同士が本当に親友になったり、ましてや国同士の関係が改善するということは、これまではなかった(若い人同士は、何か起きるまでは形式的には笑顔で交流するが)。

 卓球の早田選手も中国選手といくら仲良くしても、五輪後に「特攻資料館に行ってみたい」と自身のSNSに書き込んだら、中国選手達がフォローを外したという。中国や韓国の人は、個人的な付き合いより政府のプロパガンダを優先させる。

 市民レベルでいくら交流しても、技術や文化を盗まれることはあっても、国家間の外交においてわだかまりが無くなるとか協力し合えるようになるということは100パーセント無く、全く別の問題であると私は思うのであるが、間違っているだろうか。

 朝にコンビニへ行くと、現場に向かう前の土木作業員風の人たちが店の客の半分以上を占めている場面に遭遇することがある。駐車場には泥で汚れたトラックが何台も止まっているので、土木作業員ということがわかる。その人々の服が驚くほど汚く、見るのも嫌だし、すれ違って触れたりしないために店内移動に気を付けることになる。もちろん、マスクなどはつけていない。不快に感じている一般客は多いのではないだろうか。

 仕事で服(仕事着)が汚れるのは当然だが、その汚い服のままで仕事現場以外の施設や、歩行者天国やお祭り会場のような大勢の市民がいる所には来ないでもらいたいと思うのである。

 土木作業員など、服が汚れる仕事の人たちは、現場に更衣室があるのであればそこに着いてから着替えてほしいし、更衣室が無ければ前日の夜に日常着でコンビニかスーパーに行き、翌日の食事を買えばよい。

 周囲の人々のことを考えずに行動するのは、やめたほうがよい。しかし、そのようなことができるということは、当の本人たちは考えてもわからないのかもしれない。

 反捕鯨団体「シー・シェパード」の創設者であるポール・ワトソン容疑者の弁護人が、「日本では公正な裁判が期待できない」と主張している。

 これは人種差別から来ている発言だと思う。日本は、もしかしたら世界の人々から、心の奥底ではアジアの小国の野蛮人とバカにされているのかなあと、一瞬思ってしまった。

 このような本心の発言を聞くと、当たらずとも遠からずの可能性も低くはない感じがする。