自民党党首はだれでもよいが、首相の決め方は国民投票にしてもらいたい。そうでないと、仲良しごっこや実質的な派閥闘争で国の首相が決められてしまう。

 ○○議員が首相になったら、アメリカとの交渉を対等にできるのだろうか、北方領土交渉や北朝鮮による拉致問題などを進展させることができるのだろうか、年金などの社会制度や非正規雇用問題は解決できるのだろうか、このまま軍事費を増大させ最後は巻き込まれて意図せずどこかの国と戦わざるを得なくなるのではないだろうか等々想像してみると、どの立候補者が首相になっても私は良いイメージが持てない。

 重要な決定は、政治家ではなく国民による直接投票にしないと民意が反映されないだろう。政治家は国民が選んだ人であり国民の代表だから、政治家が投票すれば民主主義となると議員たちは言うが、現実は政治家たちは国民の願いや考えで動く(人や法案に投票する)のではなく、派閥の長やお世話になった先輩議員、仲良し議員の言う通りに動いてきた。実質的には民主主義とはなっていないのである。おかしなしくみだと思うが、そうなっている以上は重要な決定に関しては、国民による直接選挙、直接投票(保険証番号などを利用した電子処理)にしてもらいたい。

 兵庫県知事が、「自分の道は自分で決める」と言って、辞職を拒否している。

 悪いことがばれた政治家に対し、首相や自民党幹部たちは、「政治家の出処進退は自分で判断する(だからこちらからやめるようには言わない)ものだ」という。

 いやいや、悪いことをしてきた本人に責任の取り方や量刑を自由に決めさせてはいけない。そうなったら、責任を取ったり刑務所に行ったりする人は一人もいなくなる。

 全ての人が、政治家やテレビ局(ジャニーズ問題でも原作者の自殺でも自分たちで自分たちを調査し、誰も責任を取らずいまだに平然と仕事を続けている)のように責任を取ることなくとぼけてそのまま仕事を続けることをOKにしたら、なんでもありの無法地帯国家となる。

 今回の兵庫県の問題は、単なるパワハラ問題や辞職して終わりなどと言った話ではなく、組織的に行われた間接的殺人(権力によって違法行為の犯人探しをしたり降格処分や副知事による長時間の取り調べ、脅し文句等によって自殺に追い込む行為)による刑事事件にあたらないのだろうか。森友学園の時も同じようなことが起き、誰も逮捕されることは無かった。正直者がバカをみる(死に追い込まれる)社会で、本当にいいのだろうか。

 高市早苗氏も総裁選挙に立候補した。

 記者会見や情報番組で彼女の発言を聞いたら、「国家の主権と名誉を守る」という発言をする時には、いつでもパブロフの犬のようにマック店員以上の笑顔を作っていた。その部分の前後は全く笑っていない。それを見て安倍元首相が思い出された。何という言葉だったか忘れたが、彼もあるお決まりのセリフを口にする時だけは、必ず満面の笑みを作っていた(「○○を全国津々浦々に届ける」だったか)。当時それを見て、あまりにもわざとらしく国民を洗脳する幼稚な技法のように個人的には感じられ、私は彼に不信感や不快感を覚えたものだった。

 その他の高市氏の説明を聞いていると、自分にとってまずいことを質問されて論点外しの回答をしているなあと感じられる時には、パッと表情を変えて必ず彼女はものすごい笑顔を作っていた。「ああ、彼女は適切ではない政策をやってきたと自分でわかっているなあ」と思った。

 個人的には、信用できないし、能力的にも総理大臣はどうなのだろうか。

 兵庫県知事のパワハラや王様ぶりが問題になっているが、県庁内では知事以外の職員(副知事や人事課、各部長等)たちも実行役としてパワハラを行っていたことや、幹部同士の話し合いで告発者に対する悪人扱いの制裁的な発言が明らかになっている。そして、百条委員会では責任のなすり合いを行っている。ということは、その部下たち(全職員)も同じになっている(命令する、強制する、詭弁を言う、自分の感情を押し付ける、不誠実な傲慢対応、不都合なことは「しらない」「わからない」で逃げるなど)ことが想像される。先輩を見て学び、同じようになってしまうのは、政治家同様にほぼ避けられない。

 今回のことで、腑に落ちたことがあった。私はこれまで、数か所の県庁や省庁を訪れて職員と話をしたことがあるが、いつも彼らの話す内容や論理(話の筋)、そして態度(説明する姿勢)にも疑問を感じていた。しかし、今回兵庫県庁内の実態が少し暴かれたことで、官庁職員のレベルや体質はこうなんだなあと納得できたのである。

 今朝テレビ番組で元大阪府知事の橋下氏が、現在全国の知事や職員がおとなしくなり、態度を変えていると発言していた。県職員たちは、自分たちの日常の言動がどういうものなのか、自覚だけはあったのかと吹き出してしまった。しかし、認識しておきながらやっていたのであれば確信犯である。人としての善悪の問題にもなる。

 最近はデカ盛りが多く値段も数千円とるようになった。

 かき氷が驚くほど山盛りにして1900円とか、山盛りパフェが2800円、オムライスも食べられない程大きくて1700円など、量と値段が半端なくなってきた。海鮮丼や天ぷら丼でも通常の3倍くらいの量になって3800円位とる所もある(大盛り表示ではない)。

 標準的な体型の人が非常に大盛りの食べ物を出されると、「おいしそう」とか「嬉しい」という気持ちではなく、「うわあ~」、「食べられるかなあ」など、不安に感じたり嫌な気持ちになる。食べ始めてから3分後には、もはや味覚は無くなり食べきることだけに専念しているだろう。このような思いをするために、コース並みの高額な料金を支払う。誰が喜んで注文するだろうか。

 日本人は、幼い時から出されたものは残さずに食べるよう教わってきている。残り物は捨てるしかないので、もったいないことは絶対にやらない。だから、苦しくても嫌でも腹が限界でも残さず食べる。もはや使命感や責任感、いや義務で動いている。2回目に訪れる客はまずいないだろう。

 店側は、「お客さんには腹いっぱい食べて満足してもらいたい」といって出しているようだが、今まで通り大柄の体型やスポーツ選手などたくさん食べる人が「大盛り」で注文すればよい。外食産業が、すべての人に大量に出してお金を多くとるという悪い流れになってきた。お金が欲しいのであれば(単価を数千円にしたいのであれば)、お客さんに犠牲になってもらうのではなく(とんでもない量を出すのではなく)、質やサービスなど他の事で勝負してもらいたい。

 自民党総裁選や立憲民主党代表選において、立候補者がやりたいことを話している。

 政策の発表内容や討論内容は、実効性において保証されるのだろうか。それとも言いたい放題、言ったもの勝ちなのだろうか。

 立候補者が、選挙前に国民や国にとって悪いことを言うわけがない。どれでもいいから、やってくれるといい。

 重要なことは、実際にやるか、実際にできるかということであろう。誰が総裁になっても、権力や金を欲しがる派閥や多くの議員たちが足を引っ張る。そのような人たちがいる限り、いくら派閥を解消しても裏金の問題を解決しても、別の方法で目的を達成しよう(権力や金を得よう)としてくるだろう。きりがない。

 だから、国政選挙の投票が最重要なのである。国民は選挙活動の際に、立候補者から満面の笑みを見せられて「いい人」と思い込まされ、汗をかきながら走って握手をして回る姿を見せられて「頑張って誠実な人」と思い込まされ、実効性において何の担保も保証もない当たり前の理想論を聞かされて「素晴らしいことをやってくれる人」と思い込まされ、ここぞとばかりに保育園にいって赤ちゃんを抱っこしている姿などを見せられて「優しく庶民的な人」と思い込まされ、その結果国民はところてんのように投票所にいってその人に投票する。国政選挙は、私には国を挙げての壮大な洗脳イベントに見えてしまう。そうして当選した人達が、国の運命や国民の生活と命を握るが公約が守れるわけもなく、権力と金に猛進する。それらを隠したり成立させたりするために、不正や嘘、詭弁、証拠隠し、責任逃れが始まる。これの繰り返しである。政治におけるすべてのしくみを変えたい。

 立憲民主党代表選挙が告示され、立候補者が出そろった。

 中には、当選1回の女性新人議員がいるようだ。立憲民主党の中には、彼女が日本の総理大臣にふさわしいと思っている人がいるのだろうか。立憲民主党は、端(はな)か与党になろうとは思っていないことが伝わってくる。

 推測であるが、他の3人の立候補者だけだと毎回同じ顔触れで国民の関心も集められず批判も多く出そうなので、立憲民主党は「世代交代を目指して若手を起用しようとしている」、「女性を起用しようとしている」ということを世間にアピールするために彼女を利用したのだろうが、ちょっと度が過ぎた。

 立憲民主党にしても野党全体にしても、いかんせん議員数が少なく、全ての行動が無に帰する。誰が代表になろうと、どんな政策や法案を出そうと、何の意味もない。最後は多数決なのだから。野党は野党間の政策一致が重要という考えを捨て、まずは数を集結することである。そうしないと、話にもならない。存在意義がない。

 パリパラリンピックが終わる。「障害者が必死に戦う姿を見て感動した」、「涙が出た」などという人がいる。人をバカにするのもいい加減にしろと思う。

 全ての人は、身体的にも精神的(頭脳的)にも違いがあり、自分に与えられた体や才能を使って全力で取り組んだりたたかったりしている。当たり前のことだ。

 偏差値の高い大学に通学している人が、比較的偏差値の低い大学に通学している人が授業や難しい試験などに頑張って取り組んでいる姿を見て、「頭が悪いのに必死になって、感動する」、「可哀そう、頑張れ!」と涙するようなものである。

 人は、無意識のうちに差別をしていることが多々ある。おそらく、様々な場面で覚えてきた形式的表現(文言)が、自分の心を構成するのだろう。言葉を使って人は物事を考える。知らない分野(言葉)については、考えようがない。人の思考は、言葉によって支配される。覚える言葉、使う言葉など、言葉というものをもっと大切にしたほうがよいだろう。

 自民党総裁選立候補者が、自分の政策を発表している。

 重要なことは、首相になったらそれらを本当に達成するのか、達成できるのかということである。その確約、保証無しに選ばれ、後に「○○が原因で、できなかった。でも頑張ったことだけはご理解を・・・」では、やるやる詐欺である。だから、政策発表や討論会など茶番劇だと私は思うのである。やりたいこととできることは違う。

 私の予想では、マリオネット以外の人が首相になってもおそらく派閥の長や重鎮たちの協力が得られずに、あるいは能力の限界で、ほとんどが達成されない、というよりも首相になったら目の前のことでいっぱいになり、当時に急いで作った政策など頭に無くなるだろうと、過去の政治家達の言動を見ていると思えてくるのだが、間違っているだろうか。

 野党は政策が異なるということで、1~2の政党にまとまろうとしてこなかった。ここに、野党の大きな勘違い、ミスがあり、自民党にとっては非常にラッキーなことになっている。

 政権奪取はもちろん、国会での法案成立、憲法改正など、全ては国会議員の数で決まる。だから、最も優先させなければいけないことは政策の一致ではなく、「数を集める」ということである。これが一番重要なことであり、大前提である。数がなければ何もできないのだから、話にならないのである。政策の一致などは二の次である。政策の一致などずっと後の話というか、自民党内のように一致などしなくていいのである。様々な意見が出てよいのであり、時々の状況でベターを求めて話し合いや多数決でまとめればよいだけの話である。

 政策が一致しなければ、いくつもある野党が1つにまとまることができないという態度は捨てたほうがよい。(自民党による)一党独裁では、今の自民党のように必ず徐々に慢心やよどみが生じ、与党が不正や腐敗の温床となってしまう。だから二大政党制にすることが、何にもまして優先されなければいけない。このことを野党は認識できないのだろうか。もしかしたら、認識できているが、楽をしたいから、あえて万年野党になるような行動をとっているのだろうか。