1863年(文久3年)7月21日、奇兵隊が高杉晋作らの発案によって
組織された。この諸隊の編制や訓練には
高杉らが学んだ松下村塾の塾主・吉田松陰の『西洋歩兵
論』などの影響がある。当初は外国艦隊からの防備が主目的で、
本拠地は廻船問屋の白石正一郎邸に置かれた。本拠地はのちに
赤間神宮へ移る。奇兵隊が結成されると数多くの藩士以外の者か
らなる部隊が編制され、長州藩諸隊と総称される。
長州藩が第一次長州征伐に敗北した後に、亡命してい
た高杉は帰藩。高杉らが藩政の主導権を握り藩の保守勢
力を一掃すると、長州藩の方針は倒幕に定まる。翌1865年
(元治2年)には幕府によって再び第二次長州征伐(四境戦
争)が行われ、奇兵隊ほか諸隊も戦った。
1866年(慶応2年)に長州藩は薩摩藩と倒幕で一致して軍事
同盟を結び(薩長同盟)、1867年11月(慶応3年10月)の大政
奉還を経て、1868年1月(慶応3年12月)に薩長が主導した
王政復古が行われた。奇兵隊ほか長州藩諸隊は新政府軍
の一部となり、旧幕府軍との戊辰戦争で戦った。この頃、
周防地区では第二奇兵隊(南奇兵隊)も作られている。
奇兵隊は身分制度にとらわれない武士階級と農民や町人
が混合された構成であるが、袖印による階級区別はされていた。
隊士には藩庁から給与が支給され、隊士は隊舎で起居し、蘭学
兵学者・大村益次郎の下で訓練に励んだ。[1]このため、いわゆ
る民兵組織ではなく長州藩の正規常備軍である。奇兵隊は総督
を頂点に、銃隊や砲隊などが体系的に組織された。高杉は泰平
の世で堕落した武士よりも志をもった彼らの方が戦力になると考
えていたとされる。隊士らは西洋式の兵法をよく吸収し、ミニエー銃
や当時最新の兵器・スナイドル銃を取り扱い、戦果を上げた。