こんにちは。

今回は「神の御意志とキリスト者の意志」と題して書きます。

 

二千二十四年度は、太陽暦四月九日の夕刻より新年を迎えました。この世の常識では、二千二十四年度の新年は、既に太陽暦の一月一日から始まっており、毎年太陽暦の一月が正月だと決められ、多くの人がその常識に従っています。この世の常識とされている太陽暦という暦は、過去にローマ教皇グレゴリウス十三世が命じて作らせた暦であり、それ故に、ローマ教皇グレゴリウス十三世の名にちなんでグレゴリオ暦とも呼ばれていることはご存じである人は多いと思います。太陽暦(グレゴリオ暦)は、日本でも欧米に合わせるためという謎の理由で明治時代から導入されました。しかし、それ以前の日本の暦は、太陰暦、太陰太陽暦を採用していたのです。歴史の教科書では明治維新は文明開化と呼ばれ美化されており、また、そのように義務教育等で教えられますが、大嘘であり、明治維新とは、実は国家転覆行為に他ならなったのです。詳しく知りたい方は、こちらの記事(真の聖書福音と預言「日本乗っ取り計画、日本人抹殺計画」)が参考になります。何故、ローマ教皇やこの世の支配層らは暦をも変える必要があったのでしょうか。それはこの世の神であるサタンの要望であったことは間違いありません。サタンはこの世のすべてを自分の支配下に置き、偽りで満たしたいからだと思われます。それは「時」をも例外ではなく、この世の「時」をも自分の支配下に置き、偽りの時でこの世を支配したいと考えてのことでしょう。まさしく時の支配です。サタンは嘘つきの父ヨハネ八章四十四節 ミカエル氏訳)であり、自分の支配下にあるこの地のすべてを偽りで満たしたいのであり、主なる神の定められた本物の暦を自分の支配下であるこの世界に置く訳がありません。神の秩序を束縛と捉える偽り者のサタンが、主なる神が定められた本物の暦をこの地でいつまでも採用し続けるはずは無いです。今も尚、サタンは神に反逆しているのであり、創世記の蛇(サタン)から始まったように、この地が滅びる時まで、人間に神の御言葉のすべて(神の律法、掟、戒めと神の創造の秩序等)を破るように誘惑して来て、地獄に道連れにしようと企んでおり、サタンの要望によりローマ教皇が定めた偽りの秩序である太陽暦(グレゴリオ暦)にいつまでも従っていたら、人間は滅びます。『あんたの全心で、魂を込めて、理性を尽くして、あんたの神である主を愛するようになる。』これが最も重要で大切な掟や。(マタイ二十二章三十七節~三十八節 ミカエル氏訳 真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」と主イエスが述べられました。当ブログでも何度も述べているように、神を愛することは、神の掟を守ること(ヨハネの手紙一 五章三節 参照)であって、主イエスが述べられた最も重要で大切な掟は、「全心で、魂を込めて、理性を尽くして、神の掟を守るようになる」とも読み替えることが出来ます。それ故に、本来なら各自が、現在は忘れさられてしまった神が定められた本物の暦を聖書から全心で、魂を込めて、理性を尽くして調べ上げ、それに基づき生活しなければいけません。何故なら、神が定められた本物の暦に基づき生活しなければ、神の定められた祝祭日の日付を正確に割り出すことが出来ず、それ故に、神の祝祭日を守ることが出来ないからです。故に、神は人間が聖書を全心で、魂を込めて、理性を尽くして調べれば、神が定められた本物の暦(※以降、聖書暦と記載します。)を特定できるようになさっているはずです。そうでなければ、誰一人この世では、聖書暦に基づいて神の御言葉を守ることが出来ないからです。そんな事情がある中、太陽暦二千二十年九月に、「真の聖書福音と預言」の著者であるミカエル氏が、「太陽暦は悪魔崇拝の暦であり詐欺制度」と題する記事を発表されました。わしは、真の聖書福音と預言のブログで初めて太陽暦(グレゴリオ暦)がローマ教皇の秩序であることを知り、太陰暦が聖書に基づく暦であることを知りましたが、その太陰暦を用いて自分で正しい暦を作成することなど考えることもしませんでしたし、もし作成しようと思い立って調べても自分の力では特定することが出来なかっただろうと思います。しかし、この記事を読むことによって、感謝すべきことに、聖書暦に基づいて生活することの重要性をより知ることが出来ましたし、今では聖書に基づいた聖書暦が自分でも作成出来るようになったのです。これにより、また一つこの世の大きな欺瞞から解放され、神が作られた正しい暦である聖書暦を基に生活出来るようになったのです。サタンの要望によって、サタンの代理人であるローマ教皇の命によって作られた偽りの暦である太陽暦(グレゴリオ暦)の支配から抜け出して、真実の神が定められた聖書暦の支配下で生きることが出来るようになったのです。神を信じて、主イエス・キリストに従うキリスト者であるならば、その生活の基礎として正しい暦を知る必要が絶対にあります。何故なら、この世で天の父なる神の御意志を完全に成し遂げられた主イエス御自身も神の正しい暦を基に生きていた訳ですし、正しい暦を基に生きなければ、神の律法にある祝祭日も守ることが出来ないからです。今が本当はいつなのか、正しい時が

分からなければ、この世で正しい信仰生活を送ることは出来ないことになります。

 

 

 

この世のすべてのものを創造された神は暦も作られた訳ですが、神に反逆するサタンは、その神の秩序を破壊して、偽りの暦をも作り出し、人間を使い言い広めさせて騙し続けています。人間に正しい道を歩ませず、自身と共に地獄行きの道連れにしたいからです。先に述べた通り、明治時代までは日本は太陰暦、太陽太陰暦を採用していましたが、明治維新という国家転覆行為の末に西洋に倣って太陽暦を採用してしまい、道を逸れることになりました。異邦人の道に行ったらあかん。(マタイ十章五節 ミカエル氏訳)と主イエスは警告されており、主の御言葉に逆らうから少しずつ破滅に近付いていくのです。異邦人の道である西洋かぶれを止めなければ、主イエスの御言葉に逆らい続けることになり、悔い改めなければ、誰であれ反キリストなのです。異邦人の道は真理ではない地獄行きの道であるから主イエスは警告されていることに気付き、西洋かぶれを止めて、唯一の真理である聖書を複数回通読して学び、学んだことを少しずつでも実践していくべきです。

 

現在、わしがこの記事を書いているのは、二千二十四年の太陽暦四月三十日ですが、聖書暦では一月二十一日になります。聖書暦では正月であるこの第一の月(旧約聖書 出エジプト記十二章参照)には、過越祭、除酵祭があります。聖書に基づく正月について知りたい方は、こちらの記事(真の聖書福音と預言「正月と日本人の現実」)をご参照ください。過越祭は守り方の変更こそありますが、過越祭、除酵祭は、今も尚、守るべき神の掟です。主イエスが十字架に架けられる前に弟子たちと共に過越祭を祝われた時、種無しパンを取り、祝福して、裂き、「取って、食べなさい。これは我が体である。」と言われ、無発酵のぶどう果汁については、「これは、多くの人のために流される新しい契約のための我が血である。」と言われました。(マルコ十四章二十二節~二十六節 参照)赤字になっている部分は、市販の日本語訳聖書には無い言葉であって、受け入れられた原典(TR底本)には存在する言葉です。市販の日本語訳聖書に無い「食べなさい」「新しい」という言葉は、反キリストによって意図的に削除された言葉だと思われます。この二つの削除された言葉は、新しい過越祭を守る上で非常に重要な言葉であるからです。それ故に、反キリストらが削除したのではないかと推測します。ちなみに、市販の聖書のマタイ二十六章の主の晩餐の箇所では、「食べなさい」という言葉は削除されてはいないものの、「新しい」という言葉は削除されているようです。

個人的には現代の過越祭において、種無しパンと無発酵のぶどう果汁をいただくことは、毎年新しい契約を更新させていただいているようにも感じられて、非常に畏れ多いことと認識しています。主イエスの体である種無しパンを食べることとは、神から出た純粋な御言葉を信じることとも言えるのではないかと思われます。言は神であり(ヨハネ一章一節参照)、種無しパンは、パン種(人間の教え)が入っていない純粋な神の御言葉であり、それを食べるとは信じて内に取り込むことだと考えるからです。主イエスが荒野で悪魔の誘惑を受けられた際に、申命記八章三節の御言葉を引用して、「人はパンだけで生きるものでは無い。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と仰った言葉も想起させられます。また、主イエスが人間と新しい契約を結ぶために流された血であると言われた無発酵のぶどう果汁をいただくことは、神と新しい契約の杯を交わすことであり、非常に畏れ多いことです。無発酵のぶどう果汁をいただいた後に、神との約束を破ることなど出来るはずも無いです。約束を交わしたのに裏切ることは相手が誰であってもあり得ないことですが…。主イエスは、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。」(ルカ九章六十二節参照)と仰りましたし、十二使徒のペトロも自身の書簡で、義の道を知った後で、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためにはよかったからです。(ペトロ二 二章二十節~二十一節参照)と述べています。それ故に、わしは過越祭と除酵祭の時期には、特に気が引き締まり、後ろを振り返ることなく、狭い門と苦しめられる道を最期まで歩いて行くことを決意します。

また、毎年この時期には、分を弁えることについて度々考えさせられます。分を弁えない言動をする人は、場違いな言動をする人とも言え、そのような人は今でいう所の「空気が読めない人」とも言えます。このような人間が持つ問題点とは何でしょうか。たとえば、マタイ二十二章の「婚宴」の例えの中では、婚礼に招かれた客の一人が礼服を着ないで婚宴の場に訪れたので、王からそのふさわしくない行いを咎められて外の暗闇に放り出されるという箇所があります。暗闇に放り出された人のそのふさわしくない行いは、間違いなく場違いな行いであり、空気が読めない人が取る行いだと言えます。何故、場違いな言動は、聖書でも強い警告が為されているのでしょうか。こちらの記事(空気が読めない人の特徴や行動とは?Smartlog)に書いてある「空気が読めない人」の性質をいくつか例示してそれを基に聖書的な視点を交えて考えたいと思います。(※表題と括弧内の言葉は当該記事より引用しています。)

 

(一)  他人のことを気にしない自己中心的な性格

空気が読めない人は視野が狭く、物事の捉え方が一元的です。他の人の立場で見ると、どう変わるのか?といったことには思いが及びません。」

 

物事の捉え方が一元的とは、自分のことばかり考え優先するので、自分視点である主観的な立場でしか物事を見ることが出来ないということだろうと思われます。このような性質の人は、第三者的な視点である客観的な立場で物事を俯瞰して見ることが苦手であるのかもしれません。自分のことよりも隣人が何を求めているのかを常に優先的に考えている人なら、自分目線だけでなく、少なくても一つ以上の他人の目線を持っているので、一元的に物事を捉えるということはありません。このような自分より他人のことを優先して考えるような性質の人は、何事も人に喜んでもらうのが好きな人で、奉仕が好きな人とも言え、キリスト者に向いている性質の人であると思います。しかし、反対に自己中で他人のことを考えず、自分のことばかり考える人は、主イエスの御言葉に沿わない人であり、例を挙げるならば、律法の中で、二番目に重要な掟と主イエスが述べられた、「隣人を自分のように愛すること」(マタイ二十二章三十九節参照)や「それ故、あんた方は、人々が自分たちにすることを望むことは何でも、人々にもそうしなはれ。これが律法と預言者やからや。」(マタイ七章十二節 ミカエル氏訳 「真の聖書福音と預言 日本人の問題点三」)という御言葉が挙げられます。このように空気が読めないことの原因が、自分のことばかりで他人のことを気にしない自己中心的な性質に起因する人は、慈愛が無く、隣人愛に欠ける人であることが明らかであるので、主イエスの御言葉に反している以上、悔い改めが必要であることが分かりました。

 

(二)  自分が一番正しいと思っている王様的な性格

「自分が絶対正しいと思っていて、周囲の人を一段下に見ています。自分の思い通りに行動を取らない人にいらいらし、傍若無人な振る舞いや発言をすることもあります。」

 

「自分が絶対正しいと思っている」人は、高慢の極みであり、絶対に自分が正しいと思っているので自分には常に落ち度が無いと考え、落ち度が無いと思っている以上他人からの指摘は一切受け入れないので、悔い改めに導かれることがなく、それ故に、いつまで経っても自分の悪い品性が改善されることが無いので、極めて致命的な性質であることは間違いありません。また、「周囲の人を一段下に見ているという性質」も悪く、主イエスの御言葉に則っていません。例えば、「しかし、あんた方は『先生』と呼ばれたらあかん。あんた方の師は一人、キリストで、あんた方は皆兄弟やさかい。」(マタイ二十二章八節 ミカエル氏訳 「真の聖書福音と預言 受け身をやめよ、行動せよ」より引用)という主イエスの御言葉のとおり、キリスト以外は皆同じ立場であり、上も下も無く同列です。一段下に見るという思いは、主イエスの御言葉に逆らうことになり、悔い改める必要があることが分かります。また、「自分の思い通りに行動を取らない人にいらいらする」という性質も悪く、悪魔も人間を唆す故にこのような性質は悪魔と同じ性質と言えます。悪魔が主イエスを荒野で誘惑した時(マタイ、ルカ四章、マルコ一章 参照)もそうでしたが、悪魔は唆し、誘惑して、人間に罪を犯させようとします。唆すという言葉の意味は、「早くそうするように勧める。せきたてる。悪い方に誘惑する。」という意味があるとおり、「自分の思い通りに行動を取らない人にいらいらする」という性質は、悪魔の性質であることが分かります。また、下記に示す引用文のとおり、このような思いを心の内に抱いているならば、たとえ言葉や行いに出さなくても問題です。それ故に、他人から指摘を受けた時や自分で気付いた時には直ぐに悔い改める必要があります。

 

他人を羨んだりするねたみ、高慢は表に出る場合も含みますが、表に出なくても心の中で自分だけが正しいとか、正しい助言を聞いた振りをして聞き入れないとか、他人や神をみくびる思いを抱いていることであり、これらは表に出なくても天の国に入る者として相応しくない心の状態、即ち、これらの思いを抱いているようでは神の御国に入ることができないのです。なぜなら、それらの思いを抱く人は、神に属する人間の品性、即ち、イエス・キリストの品性ではないからです。

  (真の聖書福音と預言「罪への正しい認識と愛の重要性」)

 

(三)  他人に認められたい承認欲求の高い性質

「空気が読めない人は人から褒められたい、人より優位に立ち、多くの人の関心を集めたいという気持ちがとても強いです。」

 

 「人より優位に立ちたい」という思いも、心で既に人を一段下に見ており、先述した主イエスが述べられた、「あんた方の師は一人、キリストで、あんた方は皆兄弟やさかい。」という御言葉に反する思いを抱いていることになり、もしその人がキリスト者を自称するなら、主イエスの御言葉が心に刻まれていないと理解して悔い改めなければいけません。また、主イエスは、「我は、人からの誉れを受けない。」(ヨハネ五章四十一節 参照)と述べられており、自分の栄光を一切求めず、神の栄光を求め、神に栄光を帰しました。また、そのような人は真実で不義が無い人である。(ヨハネ七章十八節 参照)という主旨の話をされています。もし多くの人から関心を集めて称賛されたいという思いが自分の心にあるなら、下記引用文にあるとおり、反キリストの行いであるので悔い改める必要があります。

 

動画を自分で撮影したり、他人に撮らせたりして、これ見よがしに奇跡や善行等の行いをネットを使って広く流布する行為は、マタイ6:1のとおり主イエスの教えに反する行為なので、反キリストの行いです。人気や金銭を得ることで、彼ら彼女らは既に報いを受け取っています。それに、聖書について間違った解釈を広めることも悪です。そもそも動画で自分の姿や声を発信するのが、その本人自身の名誉を求めているのが分かります。動画に映って多くの人に見てもらって認知して欲しい、称賛して欲しいという隠れた欲求が見えます。また、YouTubeは収益を生む道具でもあるので金儲けの側面もあります。YouTubeに動画投稿する者たちは、そういう狙いを心に秘めていることに気付くべきです。もし彼ら彼女らにそれらの欲が無ければ、私のように福音伝道で金銭を受け取らず、自分に注目を集めようとせずに主イエスに栄光を帰すはずです。ですから、私は彼ら彼女らがするように、これ見よがしに何も見せつけることはしません。この場においては聖書と同じように、ただ言葉によって、あなたがに宣べ伝え、戒めるのみです。それ以外はあなたがたは知る必要がないからです。

  (真の聖書福音と預言「偽りの霊による働きへの警告 後編」)

 

 以上、何故、聖書で場違いな言動をする人が警告されているのかを三つの事例を挙げて考えてみました。それらの事例からも分かるように、場違いな言動、その場にふさわしくない言動は、その言動を取る人の心の内にある思いが単に表出したに過ぎないことが分かりました。人間の心の中から悪い思いが出て来て、それが行いとして表出するのです。次の主イエスの御言葉の通りです。

更に、彼は言わはった。「人の中から出て来るもの、これが人を汚す。内側から、人間の心の中から悪い考えが出る。姦通、婚外性交、殺人、盗み、貪欲、悪意、欺き、淫らさ、嫉妬、中傷、高慢、愚かさ。これらすべて悪い事が内側から出て、人を汚す。」(マルコ七章二十節~二十三節 ミカエル氏訳 「真の聖書福音と預言」律法の食物規定について より引用)

この主イエスの御言葉の通り、上記の悪い事が心の内にあるなら、それが言葉や行いとして表出して、人を汚します。そして、先述した通り、これらの悪い思いが心の内にあるなら、神に属する者の品性、即ち、イエス・キリストの品性ではないので、神の御国に入ることは出来ません。人は、新たに生まれなければ、神の御国を見ることは出来ない。(ヨハネ三章三節参照)と主イエスが断言されているとおりであり、上記にあるような、生まれたままの悪い肉の欲や肉の思いが心にあるなら、神の御国に入れないことは明らかです。また、善を行い、罪を犯さない正しい人は地上に居ないからだ。(コヘレトの言葉七章二十節参照)とも書いてあるとおり、すべての人間は罪人であるので、新たに生まれなければ、神の御国には入れません。神の御国は罪無き世界で、いつまでも悔い改めることがない罪人は入る余地がないからです。それ故に、主イエスは、完全な者になりなさい(マタイ五章四十八節参照)と述べられ、ルカによる福音書十三章では二度も、「あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びるだろう。」と警告されているのです。当然、これらの警告に人間が従うことは、神の御意志であることは言うまでもありません。「我が天の父の御意志を行う者が(天の国に)入るんや。」(マタイ七章二十一節 ミカエル氏訳 「真の聖書福音と預言」 キリスト者の成長に必要なこと より引用 )と主イエスが述べられているように、天の父の御意志を行う者が、神の御国に入るのです。また、子たちよ。誰にも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。(ヨハネの手紙一 三章七節参照)と使徒ヨハネが警告しているように、「義とは、神の律法、掟、戒めを守って罪を犯さないこと」(真の聖書福音と預言「プロテスタントの致命的な間違い」より引用)であり、キリスト者ならば、主イエスが完全であられたように、その模範に倣い、主イエスへの信仰故に、義を行います。また、「誰にも惑わされてはならない。」との警告は、当然現代人にも向けられており、律法廃止論を吹聴する者たちやその大元である偽使徒パウロの偽福音に注意しなければいけません。主イエスからお墨付きを得ている使徒の言葉を聞くのか、何のお墨付きを得ていない偽使徒パウロの言葉を聞くのかで永遠の運命が決まります。偽預言者たちは世から出ており、それ故、世のことを話し、世は彼らに聞き従います。我等は神から出ています。神を知る人は我等に聞き従いますが、神から出てへん者は我等に聞き従いません。これによって、真理の霊と迷謬の霊とを知る。(ヨハネの手紙一 四章五~六節 ミカエル氏訳 真の聖書福音と預言「主イエスの受肉」と使徒ヨハネが述べているとおりで、使徒たちの言葉に聞き従わない人の内には、聖霊は内在しません。

 

あんた方は明日のことやあんた方の命がどうなるか知らのんや。あんた方は少しの間現れて、すぐ後で消される蒸気や。」(ヤコブ四章十四節拙訳)とあるとおり、ほんまに人間は蒸気のようにすぐに消え失せる儚い存在や。そない短い人間の生涯においてなるべく早期に創造主たる主なる神を見出だし(コヘレトの言葉十二章一節参照)、永遠の命に繋がる神の律法、掟、戒めを有り難く思って神への愛と信仰から守り、悪い世俗社会からなるべく離れ、世の権威者が押し付ける間違うた価値観や知識等を捨て、神の王国と神の義を第一に求めるという具体的行動を起こす者(マタイ六章三十三節参照)にならねば救われへんのや。未だに懲りずに聖書を読まず、神の律法を守らずに罪を犯し続け、神と隣人に奉仕せずに自分勝手な欲求を追い求めてるだけの生活をしてるなら、自分らに対する裁きが益々重くなり、地獄行きという永遠の破滅の刑罰を受けることになることを理解せい。神の律法を守らんという不信仰では、偽使徒パウロの偽福音を信じても無駄で、どうあがいても天国には行けへんよ。

  (真の聖書福音と預言「多数派に属す者は破滅に至る」)

 

上記の引用文のとおり、人間の人生はあまりにも短いです。そして、今は間違いなく終末の時代であり、残りの時間はあまり残されていません。それ故に、主イエスを信じているならば、残りの僅かな時間はすべて、聖書から神の御意志を求めて、行うべきです。ちなみに、上記マタイ七章二十一節で、ミカエル氏が「御意志」と訳されているギリシア語の原語は、θέλημαです。意味は、意志、望む、喜び等あります。故に、神の御意志とは、神が望まれること、神が喜ばれることとも言えると思います。

繰り返しますが、神の御意志を行うことは、神が望まれること、神が喜ばれることであり、神を愛する人なら、自主的に行うことであり、神に認められることとも言えます。また、神の御意志と真のキリスト者の意志は一致するはずです。何故なら、真のキリスト者は、主イエスが仲保者である「新しい契約」を結び、聖霊を受け、聖霊が内在しているからです。父なる神と御子イエスと聖霊は一致します。このことは、市販の日本語訳聖書では、削除されていますが、受け入れられた原典(TR底本)には存在し、欽定訳聖書(KJV)では翻訳されている以下の聖句が根拠です。

For there are three that bear record in heaven, the Father, the Word, and the Holy Ghost: and these three are one.(John5:7)

上記の聖句のとおり、天の父なる神とヨハネの福音書一章で言(ことば)の神と称された御子イエスと聖霊の御三方は一つであるのです。よって、聖霊が内在した真のキリスト者の意志も神の御意志と一致するのは当然の帰結です。また、主イエスは、「我が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、我をお遣わしになった方の御意志を行うためだからだ。」(ヨハネ六章三十八節参照)と述べられました。それ故に、主イエスの生涯は、天の父なる神の御意志そのものであると言えます。主イエスは、御自身に従う人間に天の父なる神の御意志を示すためにもこの地に来てくださったのだろうと考えます。だから、新しい契約を結び、聖霊が内在する真のキリスト者の肉における残りの人生は、主イエスの歩まれた生涯を聖書から学び、実践する人生を送るはずです。それが神の御意志であると知っているからで、自分を捨てているなら、最早そのようにしか生きることが出来ないからです。肉の思いではなく、霊の思いで生きているからです。使徒ペトロは、キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなた方も同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御意志に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。(ペトロの手紙一 四章一~二節参照)とキリスト者として生きる者たちに向けて述べられました。彼の言葉からも分かるように、キリスト者としての残りの人生は、キリストと同じ心構えで武装し、残りの人生を肉の欲ではなく、神の御意志に従って生きるように勧めています。当然ながら、当該使徒ペトロの言葉は、先に引用した主イエスの御言葉と一致しており、神の御意志と真のキリスト者の意志の一致が見られます。このように、使徒ペトロのような聖霊を受けた真のキリスト者ならば、自分の意志が自然と神の御意志と一致します。自分を捨てて、神に従っているので、肉の思いではなく、霊の思いで生きているからです。そして、肉における残りの生涯は、主イエスが耐え忍ばれたように、最期まで耐え忍ぶはずです。神の御意志を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要だからです。(ヘブライ人への手紙十章三十六節参照)という御言葉を知っているからです。また、主イエスは、「最期まで耐え忍ぶ者は救われるだろう。」(マタイ十章二十二節ミカエル氏訳「真の聖書福音と預言」偽使徒パウロの反キリスト教義五より引用)と仰りましたし、御自身がそれを体現されて復活され、それがキリスト者の希望となっています。また、世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御意志を行う人は永遠に生き続けます。(ヨハネの手紙一 二章十七節参照)と使徒ヨハネも述べているとおり、神の御意志を死まで忠実に行われた主イエスが復活されて天に居られるように、神の御意志を死まで忠実に行う人も復活して、その後、神の御国で永遠に生き続けます。ヨハネによる福音書の六章三十九節と四十節に重ねて主イエスは、「天の父なる神の御意志は、御自身を信じる者を終わりの日に復活させることである」と述べられました。二度も同じ主旨の御言葉をお話になったのは、この事が神の御意志であることを強調されたのでしょう。それは主イエスを信じる人は、復活に望みをおきなさいということだと思います。復活が神の確実な約束に基づいているからこそ、安心して死まで忠実に耐え忍ぶことが出来ます。携挙に望みをおくようにという神の御言葉は聖書にはありません。それは神の御意志ではないからで、携挙に望みをおくことは最期まで耐え忍ぶことに繋がらないからです。また、先に引用した使徒ペトロの言葉である「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなた方も同じ心構えで武装しなさい。」という言葉にも反します。聖書の御言葉に矛盾する考えは、自分勝手な考えです。携挙に望みをおく人が、そのことに気付き、一日も早く軌道修正されることを願っています。

 

最後になりましたが、この地で、すべて神の御意志を行われた主イエスは、「兄弟で互いに愛し合いなさい。」と御命令され、これを新しい掟とされました。この掟を守るためという側面もありますが、人は完全では無い故に過ちを犯しますし、一人で居てはそれを指摘し合う事も出来ません。また、他人に奉仕することも、隣人愛を育むことも出来ません。それ故に、こちらの記事(真の聖書福音と預言「兄弟の集いの場に関する告知 再掲」)をよく読んでいただき、納得されましたら、兄弟の集いの場の参加申請を管理人のミカエル氏にしてみて下さい。残された時間は非常に少ないと思われます。お互い後悔することが無いように頑張りましょう。また、共に最期まで歩くことが出来る兄弟姉妹が一人でも現れることを願っています。最後まで読んでいただきありがとうございました。