クリスチャンと真正クリスチャン | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。



今日の記事は聖書の記述に疑問を抱いているクリスチャンや
私の理解者と一般の方が読んでくれれば良いと思います。


気分を悪くしそうなクリスチャンは読まないでください。


明日あたりにでも又、
組織的犯罪被害関係の記事をだすかもしれません。


私を挑発し続けている人間がいるのでお礼をさせていただきます。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10989130280.html
真訳聖書VOL1
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10986067358.html
真訳聖書VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10990855048.html
真訳聖書VOL3
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10990856380.html
真訳聖書VOL4
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10990857361.html
真訳聖書VOL5
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11018722428.html
真訳聖書VOL6
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11003163305.html
真訳聖書 番外編 聖書は科学力に解釈できる
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11027399873.html
原罪とイエスの救いと知恵の実と命の実
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11059663896.html
皆がイエスとヨハネの継承者
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11057574383.html
キリストが仇敵ユダヤ教パリサイ派


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私はキリスト教徒ではありません。


しかしながらイエスキリストの本当の教え(普遍的真理)を
心から信奉する人間です。


そして自称は真正クリスチャンです。


今日引用するこのような信仰が、イエスキリストの真の教えを誤らせ
キリスト教自体の信頼をも失わせていると思います。


大体、イエスキリスト本人は
キリスト教を作って自分を奉れなどとは語っては居ません。


自分が語って見せた神の教えを実践しろと言っていた筈です。


それがイエス亡き後、その教えと言う事で
いつの間にかイエスキリストから離れて一人歩きをはじめ
宗教となって今に至るのだと思います。


釈迦の教えもイエスの教えも共に道徳に通じるものであり
それは他の惑星の人間達が実践していた”宇宙の法則”に繋がる物です。


それを捻じ曲げて解釈したのは
イエスや釈迦の死後それを誤って解釈した弟子や
(12人の弟子ではなくて教えを信仰する人間の意味)


内容を改ざんしたり付け加えてきたような人間達であり、
その教えを利用してきた人間達や
宗教で金儲けをしてきた人間達だと思います。


聖書の記述が大昔から延々と語り継がれている事であるからと言って、
それが正しく伝承されたと言う確信は
一体どこから来るものなのでしょうか?


聖書は間違いなく改ざんされています。
仏典に釈迦の言葉が殆ど存在していないのと同じようにです。
(釈迦にこう聞いたと言う話ばかりが仏典に収まっているそうです)


誤った解釈をされるのであれば
聖人は例え話も注意深くやらねばならなくなりますし、


ブラザーズのような人間達も、
私達地球の人間に例え話のような余計な話は出来なくなります。


宗教家達は聖典に改竄や偽りが混ざりこんでいる可能性を
何故に考慮しないのでしょうか。


人づての話を更に人伝に伝承し、
翻訳だってその度に主張にずれが出て、


その上に、歴代の王達が都合に併せて内容を変えた可能性すらあるのに
全てを鵜呑みにしては盲信するのは正しくないと思います。

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掲示板で見かけた書き込みですが
このような内容がかえって人々をキリストの教えから
遠ざける事になるのではないかと危惧してみていました。

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333 :神も仏も名無しさん:2011/09/27(火) 12:06:13.78 ID:+8Voldx0


イエス様はあなたを喜びあふれる天の御国に招いておられます。
しかし、罪をすべて清めなければそこには入れません。


①人はみな罪びとです。旧約聖書にあるとおり義人はひとりもいない。


②キリストを拒否すれば、神から裁かれ、このままでは地獄の滅びに向かう。


③あなたは救いを必要としている。


④あなたを救うためにイエス・キリストは身代わりの生贄になって十字架にかかり、血を流され死んでくださいました。
⑤そして3日目によみがえられました。


☆イエス・キリストはあなたの罪の代価をすべて支払ってくださったのです。


この部分を軽く扱う、聖書をそのまま信じない全てのキリスト教会は、


パウロが「われわれの伝える福音と違うことを伝える者は呪われよ」
と手紙に記されている、自分勝手に聖書を解釈する、呪われるべき哀れな人たち。


パウロの教えから離れた、福音と違うことを伝える者は呪われよ!!


礼拝対象のキリスト教の神の目から、無駄な行動とみられるどころか、
神に呪われたい方は、ぜひ聖書をそのままは信じないキリスト教会へおいで下さい。
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ここまでです。


まず、考えてみたいのは罪の概念についてです。


罪とは一体何なのでしょうか?


それは人間が作った法律や戒律を破る行為なのでしょうか?


聖書の記述の教えを破る事でしょうか?


罪かどうかの判断基準となる決め事の全てが
聖書に列挙されていない事を考えると、
罪かどうかを判断する基準は当然、別にも設けられる事になります。


かと言って法律は人間が作り上げたものです。


そして法律は真理や道徳に沿った物であるとは言えません。


では自分が罪を犯したとか、何が罪であるかを
一体どのような尺度で判断すれば良いのかと言う疑問が出てきます。


そして恐らくは心の持ち方、行動の動機がその基準となると思います。


マスターはその行動がエゴから出たものではなくて
人を高めようという意識に基づくものであるなら
その行動は正しいと触れていました。


例えば、同じ様に親が子供を叱る行為にしても
それが親の苛つきや怒りがその動機である場合はそれはエゴであり


それが純粋に子供の事を考えた場合であればそれは正しいと
いう事になると思います。


動機の大切さをマスターは触れていましたが
その動機がエゴに元ずくものであり
その結果、万物に対して悪影響を齎すものは罪であり、そうでないものは正しい。


例えばですが、ここでもそのような基準なのかもしれません。


そしてその行為は、良い”結果”を齎そうとして”精神”を使用して
”原因”なる行動を引き起こした事に他なりません。


しかし罪と言っても本人はその自覚は無く、
他人から見た時に罪だと感じる行為もあれば、
他人は平気でも自分では罪悪感を感じる行動もあると思います。


罪と言う概念自体がとても曖昧なのです。


結局はそれは、私達の良心に関わってくる意識の問題だと思います。


そしてその良心は私達の精神を感じる強弱にも
関わってくる事になりそうです。


つまり、強く精神を感じる人間にとっては罪であると感じる行為の種類は
多い事になりますし、一方精神を感じない人間にとっては
罪であると感じる行為の種類は少ない事になると思います。


エゴをエゴと意識できるのは精神の働きだからです。


そして其れが日々の行動にも直結するのだと思います。


罪を清めなければ天国へはいけないと言いますが、
では今度は、罪は一体どうやったら
清める事が出来るのかという話にもなります。


教会に出向いて神父に懺悔すれば清められるものなのでしょうか?


法律に則って裁きを受ければ清められるものなのでしょうか?


それとも免罪符の代わりに沢山の献金をすれば清められるのでしょうか?


人間は日々の生活の中で、絶対に罪を犯す存在だと思います。


誰もが罪からは逃れる事は出来ないと思います。
恐らく罪というのは私達の心の中の神の意識である
精神にそぐわない行動だからです。


それは小さい事から大きな事まで沢山あって、
小さすぎて気にも留めることなく時間が経てば容易に忘れているようなものから、
罪悪感が大きくて忘れられないような物までです。
(勿論私も色々あります)


その全てを清めているような人間など一人もいないと思いますし、
それでは救われる人間などこの世には一人も居ない事になります。


罪と言う概念も曖昧で、しかもそれを全て清めると言う
そんな曖昧な基準が救いの有無を決める事になる。


これが既に間違いであると思います。


ブラザーズであっても間違う事はあるそうです。
もしかしたらそれは時には罪なのかもしれません。


聖書の中では両替商を教会から追い出した行為自体は
誤りであったとイエスは認めてざんげしています。


イエスキリストでさえ罪を犯すのです。


しかしブラザーズ達の場合は同じ過ちを繰りかえさない事で
自分の過ちを良き経験とするそうです。


そして勿論ブラザーズの正しいとか正しくないと言う基準は
神の摂理、宇宙の法則に基づくものです。


だとすれば私達が罪を判断する基準とすべきものも、
やはり宇宙の法則に照らした時に
それが正しいのか正しくないのかいう判断と重なる事になるかと思います。


そしてその中心はやはり”道徳”に他なりません。


その基準は神の意識である私達の精神に掛かってくるのだと思います。


そしてその罪を心底反省することの出来る精神状態になっていれば
罪なる物自体は消えはしませんが、私達の中で昇華され、
精神の進化に役立つ事になるのかもしれません。


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この引用をしたクリスチャンの発想で
私に限らず、一般市民には理解できない意識を取り上げて触れてみます。

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②キリストを拒否すれば、神から裁かれ、このままでは地獄の滅びに向かう。
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これだって、イエスキリスト本人に会っていない人間が聖書を読んで、
その信者だと言われる人間達を見ただけで
キリスト教を信じろと言われても、それは通常は難しい事だと思います。


少なくとも私は聖書と信者の姿を見てキリスト教を挫折し
クリスチャンとなる事をやめた人間です。


まして、このコメントのような信者の言葉を聞けば
イエスキリストを信仰している人間は皆カルト信者であると
勘違いされかねないと思います。


大体が、イエスキリストは自分自身を受け入れろと言っていたのではなくて
自分が語っていた思想全般を理解して実践しろと言っていたのです。


神の裁きを受ける事で行く事になるとされた天国と地獄と言う概念は
元々が人々に宇宙の法則の教えに興味を持たせるために
彼らブラザーズが地球の人間のために作り上げた概念であり


それをきっかけに神の教え、宇宙の法則へと
私達を導こうとしたのであって、


元々が神の裁きも、聖書の言うような最後の審判も
更には天国も地獄も実際には存在しては居ません。


神が裁くのではなくて、
神の摂理、人間としてあるべき姿からかけ離れた人間の魂が


神のエネルギー、宇宙のエネルギーを受け取る事が出来なくなり
勝手に滅んで行くと言うのが正しいと思います。


私達の魂は神のエネルギーであり意識そのものです。


法則に乗っ取っている人間の魂は
神の意識から充分ににエネルギーを受け続ける事も出来るわけですから


心身共に健康で居られる事でしょうし
魂が消えて無くなる事もないわけです。


私達は無自覚なだけで、宇宙空間から
大きなエネルギーを受けて暮らしているのだと思います。


その大元は神の実態に他ならない。。


ここまでくるとオカルトっぽくて
理解できなくなりそうなのでこの辺で止めておきます。
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④あなたを救うためにイエス・キリストは
身代わりの生贄になって十字架にかかり、
血を流され死んでくださいました。

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スペースブラザーズは


「イエスキリストは地球の人間に
”魂の永遠の転生”と言う名の救いを齎しに地球に行ったのに
その救うべき人間達の手によって殺された」


と話しています。


つまりは、イエスキリストの十字架の死には
特別な意味は無いのです。


イエスキリストが自分が殺されると判っていながら
そこから逃げなかったと言うのは恐らくは正しい記述で、


例え誤った裁きや法律でも
地球ではそれがまかり通っているのですから、
自らもそれに従って見せたのだと思います。


そして普遍的真理を解いていた人間を殺してしまうような
当時の法律や慣習を間接的に批判して見せた事にもなると思います。


つまり、イエスキリストの十字架の死には
一般市民の罪を消すとか、
それ自体が私達の救済であると言う意味など無いのです。


イエスキリストが私達の罪を消すために
私達を救うために十字架にかかったと言うのは誤りで


私達を救う手助けをしていたイエスが心無い人間達の手によって
殺されてしまったと言うだけの話です。


あくまで”天は自ら助くるものを助く”


正しくは
”神は、神の意思を行おうとして自ら助ける者を助ける”

(と言うことであるとアダムスキーは話していました。)


つまりは”精神”の意識に基づいた行動を行おうとして
努力するものを神は見捨てはしないと言うことだと思います。


私達は自分の魂を救いたければ自分の行動によって
それを実現する事になるのです。


イエスの死によって私達の原罪が消えて
救われる事になったと言う解釈はあまりにも都合の良いものです。


そこには精神の成長を伴う行為はありません。


単にイエスキリストを神様であると信じ
聖書の記述を信じ込むだけで精神が成長をするわけもないのです。


イエスキリストが自らの死を持って私達に示したのは


「自分は正しい教えを伝えていたのだから
逃げも隠れもすることなく最後までその意志を貫く」


と言う強い意思を持った姿だと思います。


”強い意志”は宇宙の法則に繋がる意識だそうです。


その姿を見てイエスキリストの教えをより深く実践しようと
言う人間も出てくるでしょうし、
イエスの教えだって信憑性を増したはずです。


そして神に救われる(永遠の転生へと進めるかどうか)
かどうかは結局は本人しだい。


イエスキリストを尊敬しても信奉しても
その教えを実践していない人間は神の意思に従って居ないのですから
永遠の転生へと進む事はありません。


天国になどいけないのです。


イエスの教えを実践している人間や、
イエスの教えを知らなくても元々が道徳的に生きている人間は
神の教えを実践している事になりますから


記憶を失う転生を繰り返すのを止めて、
尚且つ魂が消えることなく
記憶をもった状態での永遠の転生へと進んでいく。


これがイエスの語っていた”真の命””永遠の命”を得る事の意味ですし
私達はそう理解すべきだと思います。


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☆イエス・キリストはあなたの罪の代価をすべて支払ってくださったのです。

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自分の罪の対価は自分で支払うことになる。。


散々魂を汚し続けてきた人間が、
死ぬ間際になって急にイエスキリストを信じたからと言って救われるのであれば、
世界中で天国にいけない人間は誰もいない事になってしまいます。


イエスを信じれば救われると言うのはイエスキリストが
神であると言うことを信じれば救われると言うことでしょうか?


死刑囚がその直前に神父によって天国へと導かれるような場面を
映画で頻繁に見ますが
当然その”殆ど”は救われるわけが無いのです。


キリストは言ってました。


”正しい道は狭く、正しい道から正しい門に入る人間はとても少ない”と。


つまりは誰もが安易に進める道では無いと言う事を
イエスは語っていたのです。


「イエスと聖書を信じました」
「はい、あなたは救われます」


などと都合良く救われるわけがないと思いませんか?


イエスの教えは道徳の実践です。
それを横に放って置いて、


「信じることで救われる」と
誤った解釈がまかり通るのは一体なぜなのでしょうね。


この地球社会には”地球の法則”が存在しています。


それを崇拝する人間達が正しいイエスの教えを妨害し、
正しい教えを知らせるような人間を
迫害し、たぶらかしてきた歴史があります。


今の社会、神の国への道は限りなく狭くなっていると思います。


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パウロが「われわれの伝える福音と違うことを伝える者は呪われよ」
と手紙に記されている、
自分勝手に聖書を解釈する、呪われるべき哀れな人たち。

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パウロが本当にそう語っていたとしたら
それは極端な例え話をして”改ざんするな”
と脅かして見せただけだと思います。


”呪う”と言う意識が元々ブラザーズの宇宙の法則には
存在し無いからです。


それどころか呪いなる意識はアダムスキーが
最悪の想念であると触れていました。


他人に悪影響を及ぼすし、本人の心を更に精神から
遠ざける事になるものだと思います。


神なる意識は人間を個別に罰したりはしないはずです。


しかし神の法則を知っている人間は理解しています。


呪われる事は無くても
その行為は魂にその行動や精神は反映されるという事をです。


その結果、魂の消滅を齎すことになるのですから、
呪いなどが神から人間に齎される事は有り得ません。


勿論イエスの教えを実践して頂きたいという意識は、
私達も同じでしょうが、それは決して実践しないからと言って
呪われる様な物では有り得ないということ。


人間を呪うのは神ではなく同じ人間だと思います。


しかも聖書の言葉をそのまま信じることの愚かさは
クリスチャンでも感じているものだと思います。


元々が日本語で書かれたもので無い物を
翻訳により転記を重ね日本語にしてあるのですから
言葉の解釈が誤っていたり、


時の支配者達に改ざんされていたり、

時には例えが例えとして理解できない状況になっていたりと
元々の教えを誤らせる多くの要因だってあります。


其れをそのまま受け止めると言う事自体無理があるのです。


そして気の毒なのは、このような意識を持って
誤った信仰をしている人間達だと思います。


社会不安が増大すればするほど
日本の中に増え続ける新興宗教とその信者。


一方では従来のキリスト教徒も誤った教えと
意図的な誤った誘導により、
どんどんと良くない方向へと意識を誘導されているようですし


地球は本当の意味で末期症状であるとも言えます。


でも、その殆どの人間が魂の消滅へと誘導されているとしたら、
そんな事を意図的に続けている人間たちの行為は
断じて許されるものではないと思います。


そんな誤った道へと進もうとしている人間達を、
広くて皆が進んでいる道から
大きく広き門へと入ろうとしている人間たちを、


私達覚醒した人間が正しい道へと誘導しなければならない。


地球の法則から彼らを開放する事が出来るのは
私達のような人間だけだと思います。

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P.S.


最近クリスチャン系のスレッドで
とても道徳的な書き込みをしている方が居て
嬉しく思いました。


既存のキリスト教に疑問を抱いているクリスチャンも多いようですし
そんな方にも是非宇宙の法則を知って貰いたいです。


恐らくは即効で覚醒してくれるのではないかと思います。


宇宙の法則は、この凄まじい社会で暮らしていても
思い込みではない本当の希望を持って生きる事の出来る
素晴らしい教えだと思います。


そしてこれは宗教ではなく普遍的真理なのです。